Deze Afghaanse vrouwen vluchtten voor de Taliban. ‘Binnenblijven was een marteling’

タリバンは3年前にアフガニスタンを乗っ取った。アフガニスタンの女性は街路やメディアから姿を消した。外を歩くこと自体が抵抗とされる国に住むのはどんな感じだろうか? 現在オランダに住む女性たちがそのことについて語る。(Trouw

(注:第1回は「ソマイア・ラミシュの場合」
  第2回は「ズッセン姉妹とラヒメ・ハミリの場合」

 

(WAJ:ターリバーンの政権奪取から満3年が過ぎ、各国メディアで特集記事が組まれている。日本の新聞もその例に漏れず重厚なリポートを出しているが、いかんせん有料記事でハードルが高い。そこへ、オランダでナチスへのレジスタンス期(1943年)に地下新聞として創刊された骨太紙「Trouw(誠実)」がアフガン女性に焦点を当てたロング記事を発表した。各分野で活躍するオランダ在住の女性たちの声である。気前よく全文読めるので、ここに邦訳しシリーズ化して掲載する。今回は女性運動家と教師。)


ファラー・ビカラーン(44歳)、起業家・女性の人権活動家

私はイランで生まれ育ったアフガンのハザラ女性です。祖国は知りませんが、ずっと強い思いを持っています。ハザラ人はアフガニスタンで最も差別されている民族です。大半がスンナ派の国で私たちはシーア派です。

よりよい暮らしを探して両親はイランに向かいましたが、そこではアフガン出身故に何度も何度も差別されるだけでした。私にはよくわかりませんでしたが、差別は小さな出来事の積み重なりでした。教室で手を上げて、当てられたことはありません。

2年生のとき、宿題を忘れると倉庫に閉じ込められました。イラン人の級友は注意されるだけ。両親になぜ自分だけより厳しく罰せられるのか聞きました。私たちがイランでは外国人だからと説明されました。また、アフガニスタンにいることの危険と差別についても教わりました。世界は安全な場所と思えませんでした。

”私は逮捕され45日間投獄されました”

15歳のとき、近所のアフガン児童は書類がなく通学できていないことに気づきました。兄と私は小グループを教える家庭学校を開きました。ほかの学生も手伝って、アフガン人口の多い近隣に家庭学校のネットワークを興しました。2、3年はうまく行きました。

しかし、あるときイラン警察が戸口に来ました。私は逮捕され45日間投獄されました、17歳の兄は6か月投獄され、その後アフガニスタンに送り返されました。

私は2017年に学問を終えてアフガニスタンに帰りました。国境を越えるやいなや、祖国だと感じました。

美容院を開きました。まずヘラートに。後にカーブルに引っ越しました。ヘラートでは女性がブルカを着ないで外出するのを男は許しませんでした。私のサロンではブルカが脱がれ、女性はファッショナブルで綺麗に手入れされた姿を見せました。

カーブルの女性はもっと自由でした。外出し、街中を楽しげに歩き、頭のスカーフを脱ぐ者もいました。私のサロンはヒットし、ビジネスとして成功でした。何時間も何時間も私は女性に囲まれていました。

”こうした女性はときどき無学の女性を蔑みました”

私たちが暮らす国の社会についてよい観察が出来ました。社会がゆっくりだが確実に良い方向に変わっているのを感じました。顧客のほとんどは生まれが良く、教育を受けていました。話の中で、こうした女性はときどき無学の女性を蔑みました。そんなとき私は、女性の権利を求める闘争はみなに共通だと指摘しました。

成功した未婚のビジネスウーマン、しかもハザラの出とあって。男性にしょっちゅう仕事の邪魔をされました。スンナ派にとってハザラの女性はいつもしとやかさに欠けて見え、そのこと自体が脅威でした。

サロンのためにより広い場所を借りようとしましたが、役人たちは新たな許可証を出しませんでした。理由は「君がどんな商売をしているのか、窓から見て確認できないとまずい。なのにこの建物には通りに面した窓が無い。」彼らの言い分は行間を読むまでもなく、明らかでした。

”美容院は女性が働き、出会い、支え合うことができる数少ない場所の一つでした”

ターリバーンが権力を得てすぐ後に、サロンのオーナーは女性の顔が描かれたポスターを剥がすよう命じられました。去年すべての美容院が閉鎖され、6万の女性が職を失いました。美容院は女性が働き、出会い、支え合うことができる数少ない場所の一つでした。

カーブルでは閉鎖に対し大きな反対運動が起こりましたが、ターリバーンはそれを弾圧しました。元従業員たちは家で不法サロンを開いています。リスクは大きいのですが、家族を食べさせる唯一の道です。

オランダに逃げるフライトの途中、厳密にはパキスタンで乗り継いでいる間に、頭からスカーフが落ちてなくなったのに気づきました。まるで両肩から積年の重荷がとれたように感じました。以来いちどもスカーフをつけていません。

新しい生活を始める機会をもらって感謝しています。生まれて初めて完全な自由を感じ、明るい未来を想像できます。これまでの人生はストレスだらけの旅でした。今、その多くを捨て去りました。それに気づいています。

 


マハタブ・ムハマディ(42歳)、教師

私が生まれると、父は自分の兄にその8歳の息子に嫁がせると約束しました。ロシアの侵攻の間は、家族でアフガニスタンからイランに逃れました。

14歳で売られるように結婚。翌年最初の子どもが生まれました。もう学校へは行けません。私にとって、そこがただ一つの輝ける場所でしたが。先生はいつも私を選んで手伝わせました。彼女の右手だったのです。何か月も泣きました。私自身の教師になるという夢は目の前で蒸発しました。

強制結婚に同意したのは母親です。そのためこんなあり得ない状況になった、と母に迫りました。母は目に涙をためて答えました、「これが私たちの文化なの。どうしようもありません。私が結婚したのも14のときだったわ。」その瞬間に私は、自分の娘にも、どんな子どもにも、こんなことをが絶対起こらぬようにすると決意しました。私の子どもたちには自分の自由意志で結婚するチャンスを持たせます。

“私の夢は延期されたが消されてはいない”

私は主婦になり、自覚しました、「私の夢は延期されたが消されてはいない」と。たくさんの本を読み、夜学に通い始めました。夫は私の教育への追求を助けてくれました。彼は字が読めず教育を受けた女性の有利さを見ていたのです。

2001年にターリバーンが追い出されると、私たちはアフガニスタンのウルーズガーンに戻りました。夫の家族の出身地です。保守的で貧しい州でした。生活はイランにいたときよりとても厳しくなりました。ターリバーンはいなくなりましたが、女性はひきつづきブルカを着て外を歩いていました。通りに女性はほとんどいませんでした。

隣の若い少女に勉強を手伝ってと頼まれました。2、3週間後に彼女は、「学校に来て教えて」と頼みました。夫は反対しました。周りの反応が怖かったのです。

ある日、とにかく行ってみようと決め、ブルカを着てその学校へ。35人の少女がただ校庭にたむろしていました。先生がいないのです。

私はゆっくりと学校を築き上げました。よく教育された母親が少しばかりいたので、彼女たちも先生になりました。家々の戸口に出向き、両親に娘を学校に来させるよう頼みました。どの教室も少女で満たされ始めました。まるで鳥となった少女たちが籠が開けられ校舎に飛び込んだかのようでした。知識への渇望は大きかったのです。

最初の年が終わるとき、学校には150人の少女がいました。その後としを重ねて、学校の卒業生は2000を数えました。その頃に私は修士号を得ていました。そして私たちのマラライ学校の校長になりました。

”私の声は人々に届きました”

少女の教育について私は公に発言しました。私の声はよくラジオでも聞かれました。ブルカを着て、バザールの露天商たちを観察すると、ラジオから流れる私の言葉を聞いていました。私の声は人々に届きました。

比較的自由な20年が過ぎ、ターリバーンが乗っ取る数日前のこと。彼らが学校を襲うかもという噂を私は聞きました。すぐに学校を閉じ、少女たちを家に帰らせました。

私は家族とカーブルで3か月身を隠し、それからカンダハールに逃げました。私たちの学校は再開しましたが、来られるのは12歳以下の少女だけ。私は戻りました。毎日ターリバーンの戦士が門に立って、生徒の年齢を確認しました。何人かの年上の少女は、私が「先生だ」と言って登校させました。

私の息子は学校でいじめられました。他の子どは私たちを異教徒と呼んだのです。シーア派は善きムスリムではなく、お前の母親は外国のNGOとつるむ裏切り者だと。もはや安全ではないと私は悟りました。

“少女たちは牛か羊のように売られます”

私の子どもたちには、ここオランダでよりよい未来があります。でも残された私のかつての生徒、学校に行けない彼女たちを思うとき、私の心は傷みます。少女たちは牛か羊のように売られます。経済も崩壊しました。娘を売るとしばらく家族は食べていけます。家族の安全のためにターリバーンに差し出られる少女もいます。彼らは少女を誘拐して無理やり妻にする必要がなくなりました。私たちが動かし始めた流れは素早く消え去りつつあります。少女と女性は自らの籠に戻らなくてはなりません。

(つづく)

原文(オランダ語)を読む