編集室から

kaneko20240505

==========<金子 明>==========(2024年5月5日)

ゴールデンウィークも残すところあと2日。いつもこの時期に諸行無常を強く感じるのはつぶやき子だけかしらん。そんなアンニュイの中から炎のごとく立ち上がり(メラメラ)、今回は「天声人語」を参考に人のふんどしで相撲をとろう。題して、最近の言葉より。

【大型連休が始まりました】
最近エアチェックを怠っているので今もそうか定かではないが、NHKというけったいでぼうだいな会社に潜りこみ稼いでいたとき、「うちではゴールデンウィークでなく大型連休と言います」(きっぱり)と言われた。

これほど人口に膾炙した呼び名を、たかだか出自が映画界の宣伝文句だったことにこだわり、勝手に別名で呼びならわすとは何だかねえ。旧聞ではあるが、例の「サティアン」もこの方々のみ「サティアンと呼ばれる建物」とこだわっていた。それなら金権まみれ(←きらいでしょ)のオリンピックも「世界大運動会」と呼びなさい。

【何ごとも楽しまないとね】
イーグルアフガン明徳カレッジ(以下EAMC)の託児班には、さまざまな方々が参加してくださる。前回4月27日は、理事長夫人が加わった。ありがたや、ありがたや。そこで早速やってもらったのがボールプールのボール清掃。実は利用しているリズム室の壁際に以前からでっかいボールプールが立てかけられていたのだ。

それを見て「これは使える」と判断した北村先生(つぶやき子のボスにして千葉明徳学園の女性理事)が、この日10時前にやってきたアフガンっ子たちとウェットティッシュでボールをフキフキしていた。長く使われず薄汚れたボールを袋から取り出し、1個ずつ丁寧に汚れを落とし、プールに戻す。「ほーらポーン! 投げ入れて終わりよ」などとうまく子どもを乗せている。そこに加勢していただいたのだ。

「ポーン」に喜ぶのは子どもだけ。なんとも辛気くさい仕事を続けつつ、理事長夫人がふと漏らしたのがこの言葉だ。その後、早稲田の学生(5人!)も加わり10時過ぎには無事プールがオープンした。学生たちもさぞや「水をくむ仕事」の楽しさを味わってくれたことだろう。

理事長夫人と子どもたち(誰だ?潜水しているのは!)

【結婚したのは16歳のときですよ】
(「シリーズ入学式で語られた言葉」第2弾にかえて)
これはEAMCを主催するNPOイーグル・アフガン復興協会の新職員ロキアさんの言葉。彼女は5月から始まるアフガン女性向け「生活・医療相談」の中心人物だ。アフガニスタンと日本では大きく事情が異なる。16歳で結婚した後、彼女は医師を目差した。カーブル陥落時(2021年8月)には研修医として陸軍病院に勤めていたという。ターリバーンから逃れ世界に散らばったアフガン人の1人である。

入学式では日本語教師と一緒に前に出て上のように自己紹介した。続けて「17歳をあたまに3兄弟の母親です。歳は聞かないで。」計算すると・・・はさておき、この方の医学に関する経験と知識はとても有用だ。異国の地で、慣れない言語で体の不調を訴えるのは難しい。EAMCの新たなフェーズを担う人物として期待は大きい。

そのうえ彼女は腰が低い。前述のボール掃除だが、プールがオープンした後もいくつか汚れたボールが残っていた。それをつぶやき子がリズム室の入り口で拭いていると、ティッシュを取り上げ代わってくれた。黙々と。欲しいのはこうしたフットワークなんだよねえ。

民族衣装のアフガン娘

最後に、つぶやき子が新たにマスターしたダリ語を2つ。毎回ものの名前などを子どもたちから教わり「覚えた!」と喜ぶのだが、数分後には忘れている。必要なのは、単語帳かあきらめか。とにかく以前紹介した「ニーニー」(赤ちゃん)につぐ私的新単語である。

【キリンロール】
27日の放課後、千葉明徳短大の学食を借りてEAMCのランチパーティーが開かれた。総勢60名。賑やかな限りだ。上の写真にある衣装もそのハレの日を祝う出で立ちのようだ。そして、料理がすごい。詳しくはコチラでご確認を。何人かはスーツケースの中に料理を詰め込んで持ってきていた。

酒好きの甘党たるつぶやき子が中でも注目したのが、下の巻いたお菓子。撮影しようとすると、自分が撮られるのはほぼほぼ遠慮する彼女たちが、「ほりゃほりゃ」と手を入れてくる。撮影自体はほんま好きなのね。本邦初公開?これがキリンロールだ。

絶品のキリンロール

何だか国際的コンフェクショナリーがすでに発売している菓子にも似ているが、これが原種なんだろうか。やつら企業は永谷園よろしく、世界を駆けずり回って商品化のネタを探しているんだろうね。他にもジューシーなクッキーとか、ワイルドなカステラがあって大いに楽しめた。参加した理事長が「またやってもいいね」とつぶやいたのもむべなるかな。

【バカ】
前回の宿題(Mちゃんのペット)がこれだ。バカ!なんと「カエル」のこと。鳴き声から来たのかな。そこで、バカを持ち帰った(とおぼしき)Mちゃんに聞いてみた、「あのバカどうした? まだ生きている?」この質問への小4アフガン女児の返答は・・・(CMのあと)

な、訳はないが、とても興味深かった。つまり、ノーコメントなのだ。考えられるのは、
①持ち帰ったが逃げられた
②母親に即座に廃棄を命じられた
くらいかな。つまり彼女にとっては悲しい記憶なのだろう。アフガン文化では「そういった事への詮索」はしないが花なのか。そして子どもにすら、返答しない権利と選択肢があるとお見受けした。Mちゃんの目がそれを雄弁に訴えていた。

さすがは、文明の十字路ではぐくまれた文化だ(バカくらいで大げさではあるが)と納得した次第である。

noguchi20240505

==========<野口壽一>==========(2024年5月5日)

★ 数年前から三浦半島探索に凝ってます。
最初は主に徒歩とバスで観光地探索。つぎにハイキング。三浦アルプスやら鎌倉アルプス、三浦富士にも登りました。最近はサイクリングをはじめてジョギングする友人の伴走などを何度かやってます。

★ 司馬遼太郎の「三浦半島記」は読んだけれど、貴族社会から武家社会への革命の舞台になった歴史探求はぼちぼちというところ。健康とレジャーとちょっとした勉強が目的と言うところです。勉強と言えばかっこいいですが、ま、遊ぶための「口実」みたいなところ。ベンチャー支援とか地域おこしなどに興味があったのでその延長線上でもあります。

★ 例えば、戦前はさておき、戦後も三浦半島は関東圏に近く、経済社会あらゆる面で豊かだったと思いますが、近年、地盤沈下が激しいと聞きます。日本全体が失われた〇〇年なんて言われてるくらいですから仕方ないのかもしれません。それにしてもかつてはマグロ漁で栄えた三崎港など、昔の面影もないそうです。一大観光地だった城ケ島もさびれています。

★ 以前、鎌倉旅行をしていたときに、神奈川県の観光客へのアンケートに引っかかったことがありました。「神奈川県の観光業についてどう思いますか?」という趣旨でした。その時はもうなんども三浦半島を訪れていたので自分の意見を言いました。「三浦半島の根元の鎌倉や逗子・葉山、それに東海岸はにぎやかだけど、西海岸やとったんはさびしい。そこに力を入れてほしい」と。

★ 僕の好きな三浦市は市として神奈川県唯一の「消滅可能性都市」とされているほど。

★ そうしたら今年の2月6日、日経新聞に〝三浦半島を「イタリア」に 産官、リゾートで地域再生〟という記事が載りました。お、オレの意見を取り入れてくれたのか?とうれしくなったのを覚えています。

★ 今回、このつぶやきを書くにあたって「三浦半島イタリア化プロジェクト」の検索語でgoogleしてみました。その結果、「三浦半島をイタリアのようにしよう」という動きは数年前からあったのがわかりましたが、そのほとんどは食材関係で、飲食業関連がほとんどです。しかも情報密度がうすく、本気度を疑うようなサイトづくり。人為的にはなかなかうまくいかないのかなぁ、と奮起を期待せざるをえない状況でした。

★ というのは、今回、鎌倉から葉山や逗子を経由して立石公園までの28キロを往復したのですが、葉山で意外な発見をしました。そもそも、逗子や葉山というと僕などからすればあまりにもセレブっぽく、かつ、高校生のころの田舎のイモ高校生からは「太陽の季節」の都市いかれボンボンたちの聖地みたいなイメージがあって敬遠していたのです。実際、逗子海岸を走っていたら砂浜に「太陽の季節記念碑」と金文字の大きな碑が立ってました。わざわざつぶやきに書こうと思ったのは、そんな僕の妬みを吹っ飛ばすような発見を葉山アリーナでしたからでした。

★ 葉山アリーナといえば、金持ちボンボンたちがかっこいいヨット遊びをする別荘地、その中心となるハーバーです。そこに、道路越しに見渡すひろーい駐車場のずーっと先っぽにビルの壁に面して背中を見せている銅像の影が見えました。いったん通り過ぎたのですがそこは自転車。思い直して空っぽの駐車場を横切りその銅像と対面しました。まったく知らない人でしたが、銅像脇の銘板をみて納得。そしてそれまでの葉山に対する印象が一変しました。

★ 銅像の主は鈴木三郎助というひとで、葉山アリーナ創業者、とありました。氏は味の素株式会社創業者の孫で同社の三代目社長と書いてあります。そこまではよくあるセレブ一族のファミリー譚で僕の第一妬みを強化こそすれ感心するものではありません。しかし、彼の父二代目鈴木三郎助は「葉山の海岸に打ち上げられるカジメから薬品の原料となるヨードを採取する事業を始め、1893(明治26)年に鈴木製薬所として現在の葉山マリーナが建つ場所に工場を建設」した、とあります。

★ 味の素の正体はアミノ酸の一種グルタミン酸で、日本人の池田菊苗博士が発見し事業化し世界にひろく普及した純粋に日本生まれの調味料、というくらいの知識しかなかった。しかし、ベンチャー支援事業にかかわってから、自分的にも、日本を冠する自慢の商品のひとつでした。しかしその大本を調べてみると、もともとは海岸に打ち寄せられる海藻をもとにヨード事業をはじめた鈴木一族の、浮き沈みの大きい運不運にももまれた努力の賜物であったことを、帰ってからネットで調べて知りました。

★ 海っぱたで育てば分かるでしょうが、海岸にはさまざまな海藻が打ち上げられます。カジメは知らなかったがワカメやホンダワラ、ヒジキ、アオノリなどたくさんあります。先月三浦海岸を走った時など、ヒジキが道路上に広げて干されていました。食品なのに砂まみれにならないかな、と心配しましたがひょっとしたらあれは食用ではないのかもしれない。話がそれましたが、鈴木氏の話で感動したのは、明治という時代に、海岸で拾った海藻からヨードをつくる事業をはじめ、さらにその事業をベースに、グルタミン酸を発見した池田博士と組んで味の素というそれまで世界のどこにもなかった商品を生み出し、ビジネス化した、というそのベンチャー性と精神です。戦後の本田やソニーや松下のベンチャーの実例は知っていましたが、味の素と葉山アリーナの関係は知りませんでした。

★ 調べてみると、三浦半島には興味ある史実がたくさん埋もれていることを発見しました。まだまだ三浦半島探索はつづきそうです。

kaneko20240425

==========<金子 明>==========(2024年4月25日)

先日、仕事で世話をしているピカピカの1年生ほのちゃんに聞かれた。

「先生って泣いたことあるの?」

「あるよ。お酒を飲んだときとか。」

そうそう。他にも本を読んだり、映画を見たり、ヤフーニュースでも迂闊に泣く。歳だなあ。この前のイーグルアフガン明徳カレッジ(以下EAMC)の入学式でも危うく落涙しそうになった。だが、司会だったし、語られていたダリ語の意味が分からなくて、泣かずに済んだ。それなのに・・・

公式ビデオを撮影した私市(きさいち)さんが、登壇者のスピーチを翻訳して送ってくれた。タマネギ的に涙腺を刺激するかどうかは皆さんにお任せだが、「ふむふむ、こんなことを言ってたのね」とお読み頂こう。題して「シリーズ、入学式で語られた言葉」。第1弾は生徒代表のお2人:

【これまで皆勤のMさん】

皆さん、おめでとうございます。私はEAMCに来るようになって、たくさんの言葉を覚えました。それは私にとって大きな事で、実際にお店や駅、病院などでその言葉を使い、自分の生活の中の問題を解決できるようになってきました。人が話していることも理解できるようになってきました。先生方、皆様に感謝いたします。

【いやいや引っ張り出された常連のI.Mさん】

私自身とっても嬉しく思っています。私が初めてEAMCに来たときは日本語を何も知らない状態でした。だから「ラッキー、日本語を学べるわ」ととっても楽しみでした。また別の思いもありました。私はこれまで勉強自体を十分にやったことがなかったのです。「もっと学びたい」と幼い頃から強く思っていました。再び学びたいと思っていました。先生方や運営に携わっている皆様がその夢をかなえてくださったことに深くお礼を申し上げます。

****

さて、パルワナという源氏名(?)の日本人女性がこの日おとずれ、入学式を見学していた。彼女はあのファウジア・クーフィアフガニスタン北辺のバダフシャーン州で学校を立ち上げ運営したという人道支援家である。そのブログに面白い表現があったので引用する:

<もうびっくり! 堂々と皆を見ながら話してる! 恥ずかしがって、顔を背けて一言二言話して逃げるように席に戻るなんてイメージとは程遠い。堂々と自信持った話しっぷり。皆の顔を見ながらしっかり話している。>

もちろん、来日できた、おおかたが都会っ子だったろうわれらが生徒たちと、辺境の女性たちとの文化の差はあるだろう。とはいえ、世界中の難民キャンプを駆け巡り、われわれの思いも寄らない世界を見続けているパルワナもビックリとは、逆にこっちが驚いた。つまり、この事業は「はっとするほどユニーク」なのである。

さらに入学式の日以来、早稲田のボランティア学生が託児グループに参加しようと、ここに来るようになった。つぶやき子は特に女学生とはよしなにお話がしたいのだが、いかんせん現場は忙し過ぎる。ほっとする間もなく、「アキラ先生〜!」「のどかわいた」「カメムシがいる」「ウンテイするから見て」と声がかかる。落ち着いて聞き取りをするいとまなしである。

それを補完するのが、引率する由井先生のご指導で毎回あがってくる彼らのリポート。わがメンターたる二神(ニュースタート事務局)能基に言わせると「金子よ、遠足に行った小学3年生ですら、きょうびリポートを書かしたら大人をうならせる完璧なのを上げてくる」らしい。そんなもんではあるだろうが、フィードバックは至極ありがたい。

それを読み驚いたのが、日本語教育に対する彼らの関心の高さ。年間40回も開くとなると、先生の数はいくら多くても多すぎることはない。また現場でのアシスタントや教材準備など、頻繁に来てくれるならお願いしたい仕事はごまんとある。

実はとあるアフガン女子高生が2年生クラスで通訳してくれているが、これも大助かり。彼女からは「高校に出すボランティア証明書をください」と言われている。大学進学時の内申などに関わるのかな。ならばWin-Winの関係だ。

ほかにも早稲田グループにはバイトで塾講師をしている方がいるらしい。こうした才能の活用についてもEAMCにぜひお任せあれ。5月から本校はグレードアップし学習支援に乗り出すことになったのだ(その内容は「日本語学校」のページに詳しい。または、EAMCのFacebookをご覧あれ。)おっと。勉強好きな読者のあ・な・た!「生涯学習、リスキリング」など○そくらえ。いまこそ「教える」ときですぞ。

園庭に吹く風

最後にいつもの託児ワールドからひとネタ。20日は久しぶりに、お隣の幼稚園園庭に出て遊んだ(前2回は雨天と幼稚園入学式で使えず)。春の日差しには子どもたちの声が似合うねえ。剪定バサミを持った福中理事長も現れたぞ。新学期から来はじめた小4のMちゃんは生き物が大好き。ケロケロケロと声はするが、どこにいるのかしら?

するとしばらくして理事長が彼女にアマガエルを差し出した。いわく「園庭の水たまりにカエルが毎年卵を産む。干上がってくると園児が畑の方に転居させる。」牧歌的な幼稚園だねえ。
さて、もらったMちゃんはカエルを大事につまんで放さない。

「観察したら逃がしてやりな。」

「連れてかえる。」

砂漠の国アフガニスタンでは珍しいのか。しょうがないので紙コップに濡れたティッシュを入れ、「何かで蓋をして持って帰りな、ママも喜ぶよ」と説得をあきらめた。ロング・リブ・ザ・フロッグ!

蛇足にカエル小話:

ある日つぶやき子が散歩していると、下の方から声がした。
「ねえ、わたしこう見えても、実はお姫様なの。キスしてくれたら元の美女に戻るわ。」
なるほど、カエルがいる。そこで拾い上げてズボンのポケットに入れた。
「ねえねえ、わたしの言うことおわかり? ポケットに入れるんじゃなくてキスをするの!」
「うん。でもお姫様や美女は間に合っているが、しゃべるカエルは初物なんだ。」
お後がよろしいようで。

noguchi20240425

==========<野口壽一>==========(2024年4月25日)

★ 4月22日の「詩と歌で、イスラエルのガザ攻撃に抗議」が開かれたのは大久保駅すぐよこの「音楽と珈琲 ひかりのうま」というちいさなライブバー。初めてだったので見つけるのに苦労した。お店に電話して迎えに来てもらい入店した時は通路までぎっしり。主催者によれば40名の予約だそうだが、最終的には50名を超えたのではないか。完全に消防法違反だろう(笑)。主催者に言わせれば詩の朗読会でこんなことは珍しいとのこと。コロナ開けで人出が戻ったこともあるが、ガザの現状をみてやむに已まれぬ感情が集まったといえる。
★ 具体的には「<世界の声>詩と歌で、イスラエルのガザ攻撃に抗議」を見てほしい。ぎゅうぎゅう詰めの立ちっぱなしはつらかったが、事前にパフォーマーの作品が掲載された小冊子が配られ、リハーサルもしっかりされているのが感じられる、感動的で衝撃的な時間空間だった。いずれ作品は書籍化されるとのこと。充実したものになる予感。
★ 衝撃的なパフォーマンスのひとつは黒川純さんのビデオ作品。2月25日午後、ワシントンのイスラエル大使館前でガザ大量虐殺に抗議して焼身自殺したアメリカ空軍の現役兵の焼身自殺がテーマだった。死亡したのは25歳のアーロン・ブッシュネルさん。マサチューセッツ州で育ち、テキサス州サンアントニオで暮らしていた上級空兵だったという。BBCは「今日、私はパレスチナ人の大虐殺に対する究極の抗議行動を計画している」との彼のメールを明らかにしている
★ 私が学生の時、佐藤首相のアメリカ訪問に抗議して焼身自殺した人がいた。その訪問は翌日に予定されていた。由比忠之進と言う人だった。そのニュースを聞いて翌日の羽田空港に向けた反対デモに参加した。前月の10月8日には佐藤首相の南ベトナム訪問反対闘争の過程で京都大学の山﨑博昭君が殺されていた。文字通り、戦争に反対し平和を求める闘いは命懸けだ。
★ 由比忠之進さんは、実は野口と同窓だ。東京工業大学の前進の東京高等工業学校の出身だ。そのため、彼の焼身自殺のニュースはとりわけショックだった。それが翌日の11.12佐藤訪米阻止闘争に参加する気持ちを後押しした。デモのあと、大岡山のキャンパスで、学生自治会や教職員で由比さんの追悼集会を挙行した。反戦平和運動には痛ましい話がついて回る。気持ちを強く持って生きていかないと折れてしまう。
★ 工業大学だったから、戦争での科学技術の悪用はいつもメインのテーマだった。最大のテーマは原子力の兵器利用。ちょうど今『オッペンハイマー』が上映されているが、当時はベトナム戦争でアメリカが使用するのではないか、と切実感があった。ベトナム戦争ではソニー製のカメラを積んだスマート爆弾が話題になった。研究室やサークルのテーマとして、まじめに「科学技術の階級性」といったテーマで口角泡を飛ばしたりもした。本来、科学技術には軍需も民需もない。科学自体に戦争の芽が秘められているわけはないのだが、武器や戦争のために科学技術を直接活用し研究・開発する技術者もいる。そんな技術者にはなりたくない、と議論したものだ。
★ 科学技術そのものに軍需と民需の境はないといっても、ナパーム弾やスマート爆弾に当時の最新の化学技術や電子技術が使われていたように、いまも、それは変わらない。渋谷であった女性が訴えていたのは、イスラエルのドローン製造に使われるロボットを輸出するな、というものだった。日本を代表する企業、ファナックがターゲットにされていた。これなどは分かりやすい例であるし、戦争を取り巻く国際世論は戦争に直接加担する企業への批判を強めている。そんな声はどんどん大きくし、兵器利用をやめさせなければならない。企業の側も自分たちが生産する商品やサービスがどう利用されているか末端まで目を光らせなければならないだろう。
★ もうひとつ、わたしの大学の最近の悲しい事件のひとつに「大川原化工機事件」がある。この会社が製造販売する噴霧乾燥機器が生物兵器の製造に転用可能であり経産省の許可を得ずに輸出した、という虚偽の容疑で立件されていた事件だ。これがひどいでっち上げであったことは捜査に当たった捜査官が「でつ造」と告白するほどひどいものだった。そのひどさに輪をかけたのが、この機器を研究開発したと起訴され拘留中にガンで死亡した技術者が私の同級生だったことだ。亡くなってから知ったのだが、同級生ともども技術者の悲しみに打ちひしがられた。
★ 日本の誇る自動車工業、その中でもトヨタ自動車のランドクルーザーやピックアップトラックが中東やアフリカなどでは立派な「兵器」として「活躍」しているのは世界中の誰でもが知っている事実だ。政治がきちんとして戦争のない社会を作り出さない限り、技術者の悲しみはなくならないだろう。
★ ガザ、パレスチナ、ウクライナの現状があまりにも酷いがゆえに、うつうつとしたつぶやきになってしまった。ソマイアさんではないが「世界はいまどこも夜」。生きている限り必ず夜は明ける。それを信じたい。

kaneko20240415

==========<金子 明>==========(2024年4月15日)

司会業というのがある。葬式の司会者などは、前日もらったデータから真心を込めた言葉を捻り出し、その場の人々の心を鷲づかみにする。で、本人は決して目立つことなく、あとから登場する主人公にさらりとバトンタッチする。なんとも玄人な仕事である。

つぶやき子は友人の結婚式や曲者満載のシンポジウムで司会を仰せつけられることが、これまでに幾たびかあった。で、イベント後のアンケートで「面白かった、司会はうるさかったが・・・」などと批評され、ますます鼻を高くしたものである(は〜い、つけるクスリ募集中)。

去る4月13日のイーグルアフガン明徳カレッジ(以下EAMC)の入学式でも、セデカ校長に式の直前、司会を「やってください」と言われた。11月の開校式でもやったしね。ホントは階下で子どもたちと遊んでいたいのだが、こればっかりはしょんなかよ。

式の様子は「日本語学校」のページに写真付きでリポートされているのでご参照を。新入生のアフガン女性は30人。前から見ると(後ろからだとスカーフ頭のみでしょ)、みんなとっても魅力的。お、特に窓際の前2人はどちらも女優クラス。などとよこしまな目をかっ開きつつ司会させていただいた。

記録用の公式ビデオカメラが回っていたので、登壇者の各発言については後ほど書き起こして、この場でちびちび出させて頂く(10日に1度のこんな駄文だが、「読むは易し書くは面倒」なのよね vice versa)。そこで、今回は印象に残った声をハイライトしてお茶を濁そう。

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●セデカ校長:「日本に来て4X年、いま28歳です。」

●四街道コミュニティの束ね役Aさん:「この学校を多くのアフガン人が注目しています。北海道で開けないかという問い合わせもありました。」

●とある先生:「孫が7人います。」

●とある先生(首にさげた名札を引っ張って指さしつつ):「た、じ、り、で〜す。」

●医療相談スタッフとして新たに加わったアフガン女医:「よろしく(多分)。」

●千葉明徳学園の北村理事(EAMCでは託児を担当):「ダリー語で活発に話される様子を後ろの席から拝見し、『あ〜、アフガンの皆さんが日本語の意味を分からず苦労されているのはこういうことなんだな』と少し理解できた気がします。」

●最重要人物たる学園の福中理事長は隣の附属幼稚園が入園式のため、本校の入学式には登壇できなかった。とはいえ、早朝より気にかけてくれ、「焚き火でもどうぞ」と中庭に穴掘り用のスコップを突き立ててから消えた。「今年は幼稚園の入園式を普段より1週間遅くした。にもかかわらず、まだ桜がほぼ満開。こんなの何年ぶりだろう・・・」

ちなみにこの日、ある雑誌の記者が取材に来て福中理事長にロングインタビューをしていた。この記念すべき日の理事長メッセージはその際きいているはず。雑誌の記事発表をまって後ほどここに書くのでしばしお待ちを。

さて、こうして10時からほぼ50分をかけて無事に入学式は終わった。そのあとは、5人の先生が集まった新入生を習熟度別で3つのクラスに分けて授業が始まる。と同時につぶやき子は、ソフトフリスビーが飛び交うリズム室に降りて、託児にいそしんだ。そして第一声は「お〜い、フリスビーは外でやれ!」

初登場の4年生Mちゃん、九九を書いてご満悦

外は日が高くなり、きのうまでの肌寒さが嘘のような暖かさだった。理事長、焚き火、外したね。でも子どもたちは下手なフリスビーをしたり、サッカーボールを蹴ったり、上ってはいかんらせん階段を上ったり、六地蔵をめでたり・・・いつも通りのわんぱく三昧だった。

実は以前、早稲田大学のボランティアセンターという部署から由井先生という方がEAMCに来たことがあった。するとこの日先生は、なんと6人もの学生を連れてきてくれたのだ。「子どもの世話をしたい」と。聞くと、教育学部(だが教職は取らない)とか商学部とかの主に3年生だった。バイトや就職活動でいそがしかろうに・・・

「ボランティアにセンターがいるのか?」との個人的ヒネクレぼやきはさておき、なんとも有り難い限りだ。安定した将来固めなんかより、大切なことが若いときにはあるんだよ、と徐々に洗脳していく所存なので乞うご期待。さすがに若いので、力仕事への適性や子どもとのシームレスな繋がり力は初日から拝見させていただいた。

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さて大満足で学園から戻るとちゅう、サポートしているサッカーチームの応援に駆けつけ、毎度のごとく声を枯らした。夕方にはほぼ森進一状態である。普段なら妻と酒を飲んで喉を癒やすのだが、この日は飯田橋へ。当サイトで紹介した「RAWAと連帯する会」の帰国報告会が開かれたのだ。

彼らはこの春にバーミヤンやそのさきヤカオランまで脚を伸ばしたらしく、貴重なアフガンの今の様子がビビッドに伝わってきた。また秘密の美容学校や、アート教室のリポートもあって盛りだくさん。かねてより男女を問わず化粧(ルッキズム)嫌いのつぶやき子だが、「彼女たちは抵抗のため化粧する」と聞いて、めからうろこ。そんな戦いもあるんだね。アート教室の生徒作品は展示即売もされた。

女生徒が描いた油絵(額装して1.5万円らしい)

この会合に参加するのはこれで3度目。夜の部にもすんなりと誘われた。12人ほどでわいわいしたのだが、さすがにここの参加者はえぐい。「ゆきゆきて、神軍」の冒頭、結婚式の招待客みたいと表現すると言い過ぎか。「この方が天皇にパチンコを・・・」ってな具合だった。

11時前にお開きとなった。家路に就こうとメトロの飯田橋駅へ。利用する東西線のホームへは半キロほども歩かされた。しかも輪をかけてトイレは遠く、さらに見つけにくい。これぞアウェーの洗礼か。あの駅をこんご利用する読者の皆様のためにこの「飯田橋東西線あるある」を最後に申し添えておく。

noguchi20240415

==========<野口壽一>==========(2024年4月15日)

★ 13日、イーグルアフガン明徳カレッジの正式オープン始業式を無事終えて、 「アフガニスタン文化研究所」の総会と記念講演会に行きました。千葉から市ヶ谷への移動、本サイトの「書籍/批評/提言」コーナーで紹介した『蝶と人と 美しかったアフガニスタン』著者の尾本恵市先生の講演。遅れるわけにいかないといつもは途中で息ハーハーで一休みする防衛省裏の佐内坂も一気に上り切り会場へ。

★尾本先生は90過ぎとは思えない力強い講演で質疑もよどみがない。60年も昔の蝶に関する学術的な講演とアフガニスタンの人と街角のお話を楽しそうに語ってくださった。話以上に驚いたのは、写真の鮮やかさ。当時のカメラとカラーフィルムの性能を最大限引き出した写真の鮮やかさは素晴らしかった。講演を聞き逃した方はぜひ著書を購入されることをお勧めします。

★講演会と総会の後は、隣の飯田橋で開かれた、RAWAのアフガニスタンからの帰国報告会。こちらの方は金子編集委員が詳細を報告しているから割愛するが、2次会まで出た。朝6時起きで千葉まで行き4つの行事をこなして帰宅したのは午前様。昨日まで38歳を自称していた身であればどうってことはないのだが、家族からは呆れられた。

★14、15はこのサイトの仕上げ。なんとしても15日中にニュースメールを発行したい。読者の方々からいただいた原稿や情報を整理し、海外情報に目を通して記事をピックアップしたり、自分自身でも原稿を書く。最後に形になった原稿を見返すと、あれっと思う分量だがそこまでに処理した情報は相当なものだ。我ながら大したものだと一休みの時にお茶をすすって悦にいる。自画自賛。

★読者の友人から「日米が、安保体制を強化することによって、中・露・北朝も、軍備・防衛体制の強化を加速させているようで、世界の分断が一段と進んでいくように見え、注意が必要と思われます。日本は、血が流れる・犠牲者が出るまで、動こうとしない傾向を感じます。実害が出る前に、対策を講じられないものでしょうか?」と深刻な危惧の念が寄せられる。

★まったく同感。しかし、与党・野党、言論界の現状をみるとこの国には独自外交を展開する能力も矜持もないと感じます。血が流れる・犠牲者が出るところまでいかないと変革の機運は出てこないでしょうが、その機運も内からではなく外からしか来ないでしょうね。それまで国家主義に犯されることなく自分の身の回りでできることを地道にやっていくしかない、と個人的には思っています、と書いたけれど課題、大きすぎ。

★するとまたまた、イスラエルのイラン領事館爆撃へのイランの反撃をめぐって「チキンゲームのスタイルは果たさねばならぬノルマとしてあるのでしょうが、イランはイスラエルと開戦しないというメッセージ花火をしましたね。とにもかくにも花火を打ち上げざるを得ない発火広告でした。見事に息があった空爆になるとは。アンポンタンな私の予想を遥かに越えていました。ネタニヤフはガザ南部ラファを攻撃する口実をイランに貰い、イランはチキンであること自国民に見透かされない誤魔化しを、米英の戦争扇動に因って偽装できました。出来レースだと思います(dizzy eyes)」と本質をつくメール。

★「まったくの出来レースじゃないですか?ISはコマ。米露イランもこれ以上戦火を拡大できない。常時戦争状態を維持したいのが米軍産複合体の目論見。常時感染病状態も同じ。そしてそれが世界国家主義者の利権。違う?」と返事したけれど、世界がどんどんきな臭くなってくる状況をひしひしと感じる。

★自分ではどうすることもできない世界情勢ばかり気にしていると気分が滅入るので外に出て一息つくことにしました。昨日、一昨日に引き続き、真っ青な空、ぽかぽか陽気の夏日じゃないですか。ソメイヨシノは散ったけど、うちの近くは桜新町の八重桜。ちょっと足を延ばしたら満開です。口直し(目なおし?)に麗しい花々をめでてください。

kaneko20240405

==========<金子 明>==========(2024年4月5日)

何かと、リニューアルの春が来た。JRの発車時間が微妙に遅くなったり、よく食べるチャーシュー麺が千円を超えたり(祝!デフレ脱却)、世話する児童の顔ぶれが変わったり。半死の白髪じいさんではないが、「年々歳々人同じからず」が身にしみる昨今である。その流れに乗ってか、われらがウェッブ・アフガンにもこの4月「日本語学校」のページが新設された。ぜひ訪れていただきたい。

ここで言う日本語学校とは、「イーグル・アフガン明徳カレッジ」(以下EAMC)のことを指している。野口編集長に言わせると「EAMCをきっかけに発展形として今後ほかにも(東京あたりで)日本語学校が誕生するかも」とのこと。ジャンクの中古カメラを修理して「これでオイラもヨドバシカメラ!」と騒いだつげ義春ばりのでっかい夢である。

さて、この年度替わりを機にEAMCは2度休講し、いまは正式開校(4月13日)に向けての準備期間である。と言うと聞こえはいいが、突っ走って来たボランティアスタッフの骨休めの2週間というのが本音かな。そこで今回は、「女人の世界」とつぶやき子自身が「門外漢」という二重堀のためこれまで焦点を当てずらかったEAMCの本丸、つまり授業の中身を紹介しようと思う。但し、情報の元ネタは先生たちが出してくれたリポート。加えていつものように「思いつくまま」な点はお許し頂きたい。

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外国語の習得というと、40年以上前にシドニーで通った英語学校を思い出す。「行けば何かが得られる」というのが率直な感想である。たとえばこんな問題があった:
Q. 次の文のうち、仲間はずれは?
A. He eats a lot.
B. He will eat a lot.
C. He may eat a lot.
なかなか日本の英語教育では出てこない設問だろう。答えはC。AとBは「確定」で、Cは「不確定」と言うのがその理由だ。eatsは現在の確定、そしてwill eatは未来の確定なのだ。だからBは「彼は必ず食べるはずだ」ほどの意味。「食べるだろう」とあいまいに考えると誤解を生む。

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てなマクラはさておき、EAMCではアフガン女性たちにどう日本語を教えているのか?

【大喜利・・・中級クラス】
語学学習は独学でするよりも、みんなでわいわいやるとよっぽど楽しい。誰かを蹴落とす受験勉強ではないので、隣の生徒は敵ではなく、戦友。EAMCの授業では「先に答えを出した生徒が、頭を抱えている生徒にダリー語で教えている姿が微笑ましい」と中級クラスの授業リポートにある。先生いわく「落ちこぼれゼロ」とは頼もしい。

そんな生徒たちが前回体験して大受けだったのは、大喜利ドリル。先生がエプロンやその他の小道具を準備して生徒がペアで反復練習をする。たとえば:

「私は日本料理が好きです。」
「何が一番好きですか?」
「わたしは日本料理の中で、寿司が一番好きです。」
「家族で誰が一番料理をしますか?」etc

その日のリポートは次のようにまとめている、「ここは反復練習のため、とにかくみんなで解いて答えるばかり。そのため、『つまらないかなあ』と思ったのに、嬉々として取り組んでいました。『知識が頭に整頓されてすごく楽しかった』と喜ばれました。『これからも毎回やってね!』と言われました。『笑点』みたいに騒いで恐縮でしたが、みんな喜んでやってくれました。」

あはは。「ファウジア(仮名)くん、座布団1枚!」ってかあ。

【ひらがな46文字・・・初心者クラス】
続いて、初心者クラス。このクラスこそEAMCの本丸中の本丸である。担当する先生の授業リポートにはこんな1文がある。「日本語学習において、『ひらがな46文字をしっかり覚えさえすれば、日常生活に困ることはまず無い』と何度も繰り返し伝えながら学習を進めてきた。」

なるほど。習得が難しいとよく言われる日本語も、プロの教師からこう言われると、拍子抜けするか、ほっとするか・・・文化が大きく異なる日本でいま現在言葉の問題で困っている生徒たちにとってはもちろん後者で、とてつもないグッドニュースではないか。

そう言えば、つぶやき子の顧客たる新小学1年生のごときは、問題文を読むにも絵本を読むにも、ひらがなを懸命に1個1個音読し、理解している。「あ、わ、せ、て、い、く、つ、に、な、る、で、し、ょ、う」てな具合。短気な性格なので聞いているといらつくが、読み終わるとご本人はすんなりと問題の意味が飲み込めている案配だ。

そこへ行くと、英語は真逆。アルファベットは26個と少なく、一見とっつきやすい。が、ONEという文字列を見てすんなり「ワン」とは発音できない。かといって、「オウ、エヌ、イー」とばらして読み上げても意味不明なのである。昨今は小学校でも「英語教育ばやり」だそうで、今時の指導要領はおめでたい限り。「わてホンマによいわんわ」としかコメントのしようが無い。

脱線ゴメン。とは言え、理論では納得しても、ある程度お年を召して約50もの暗号図形を記憶しきるのは難しい。日本語学校と偉そうに言っても、週にたったの2時間だけなのだ。そのうえ仮名にはカタカナもあって、覚える苦労は2倍。たとえば前回、生徒たちに自分や他の生徒の名前を書かせるドリルをやった。結果は、「名札をみて書く事はできるが、伏せてみたらほぼ全員が書けなかった」という惨状だった。

生徒間のレベル差もある。「参加回数の差と、個人の復習意欲の差によって習熟度に違いがあることが鮮明だ」と上記リポートは指摘している。事務局の集計でもEAMCの出席率は5割程度で、お世辞にも「あるべき学習態度」からはほど遠い。そこはそれ「だからこそやる意義がある」わけだが、こと初心者クラスにおいては、先生たちに淡い危機感が漂う。

それを解決する手段が「宿題」だ。リポートによると「特に宿題による復習が大切だ」と言う。そこで前回の授業では最後に「次回まで2週間のブランクがあるので、ひらがな・カタカナのそれぞれ46文字を読めて書ける様にしてくること」という宿題を出した。「その上で、家族の名前を書くことによって読み書きの練習をしてくることも課題にした。」怠け者の立場から言わせてもらうと「オニのごつ宿題」だが、その成果が待たれるところである。

もちろん、宿題に加えて大切なのは各授業においてどう対処すべきか。リポートはこう結んでいる、「こちら側も何度も何度も繰り返し基礎(ひらがな・カタカナ)に時間をかけることの必要性を痛感する。」

このように試行錯誤でプチなる闇を切り開いてきたEAMCが、間もなく次のフェーズに突入する。

noguchi20240405

==========<野口壽一>==========(2024年4月5日)

★ 昨年11月4日に開始して、3月23日に全17回の講座をおえた千葉明徳学園短大の施設をお借りしてはじめた日本語学校。いよいよ4月13日から正式開校。その日は始業式。遅咲きの今年の桜でも恐らくその日は葉桜になっていて残念だろう。だが、アフガン現地で学校に行けなかった女性には週1回2時間の授業であっても、ちゃんとした学校で学生証をもらう嬉しいカレッジ体験の日。おそらく人生はじめてのイベントの女性が多いだろう。

★ 試行期間中に出てきたさまざまな問題はその都度洗い出し次週の講義までにクリア。㋃13日の正式開校始業式までに受講生の確定や学生証の作成、預かる子供たちの管理カード作成などの実務作業。事務局も結構忙しい。これまでの17回の記録は「日本語学校」のコーナーを作って収録した。ここをクリック!してご覧ください。

★ 4月3日は江藤セデカ イーグル・アフガン復興協会理事長を先頭に事務局スタッフ、ボランティア先生総勢5人で、杉並区荻窪にあるネパール人の学校「エベレスト・インターナショナル・スクール・ジャパン(EISJ)」を表敬訪問し見学させていただいた。引率してくれたのは、本サイト「ユーラシア」コーナーで「ネパール今昔ほか、元青年海外協力隊員の諸国訪問記」を投稿している長谷川 隆さん。

★ 学校側からは校長先生のバット ビスヌ パラサドさんと、副理事長のネパール メガラジさん。副理事長は在日30年で日本語が流暢。通訳兼説明をしていただいた。学校のホームページはココをクリック


左手前が校長先生。その奥が副学長。われわれゲストは学校のロゴ入りスカーフをプレゼントされた。

★ EISJは2013年設立で今年は11年目。幼稚園から高校3年生まで各学年平均30人~40人くらい在籍し、総勢440人。9割はネパール人で、1割は日本人他の外国人だという。賃貸ビルからの出発だったが現在は自社ビル。ただし運動場はないので地下の教室でダンスなどで体を動かしているという。教育は基本的にネパールのカリキュラムに従っているネパール政府公認の在外ネパール校である。ネパールの都市部で過半が通うPrivate Schoolと同様、英語が授業の媒体言語になっていて、ネパール語も毎日1時間ほど教えているようだ。ネパールのカリキュラムに従っているため余裕がなく、日本語は週に2時間のみという現状のようだ。日本の学校法人ではなくNPO法人として運営している。だが各種学校としての認定を受けており大学受験資格も取得できるという。

★ EISJの設立の趣旨は在日ネパール人の急速な増加(設立時は2万人以下だったのが現在は17万人強)に対応して子供たちに英語による中等教育を施すため。見学者である野口は、設立趣旨やネパール政府との密接な関係から、本国や諸団体からの支援があったのだろうと思っていた。しかし、設立時に有志があつまり2400万円を開設資金として自弁で拠出し、うまくいかなかったときの整理方法をも最初に合意してスタートしたという。しかし、初年度は赤字だったが2年目にトントンとなりその後黒字をつづけたという。経営手腕と教育にかけるネパール人の情熱を知って感動した。

★ われわれが千葉で開設したアフガン女性のための日本学校とは設立の趣旨も運営スタイルも支持基盤もまったく異なるが、目標として参考にさせてもらえる点も多かった。セデカ理事長はじめ、現在の困難を忘れて未来像を垣間見せてもらった気がした。当日はあいにくの小雨だったが、校舎前に全員そろって記念撮影をさせてもらった。ネパール先輩学校に導かれてイーグル・アフガン明徳カレッジが日本に根づく記念すべき1日になった。

★ イスラミック・ステートISがアフガン、イラン、ロシアなど各地でテロ活動を展開する根拠地にアフガニスタンがされている現実が如実になった。われわれが危惧し警告してきた「第2の9.11」が現実になってしまった。今号では、ロシアのコンサート会場での銃撃と放火事件を予告した論考やアフガニスタンがISやアル=カーイダの安息所となっている現実を暴露・分析する記事を掲載した。現在のアフガニスタンを国家承認しないがターリバーンをデファクト・オーソリティ(実質政府)として認めようとする動きがあるが、ターリバーンへの甘い対応は第2、第3の9.11を生む危険があることを肝に銘じるべきである。

★ ガザやウクライナでは先行きが厳しい状況がつづいている。その状況とアフガニスタン・イラン・パキスタン情勢は連動して動いているのだが、アフガニスタンの厳しい状況のもとで、屈せずに未来を見すえて活動する人々のニュースも届くようになってきた。今号では、カーブル州の山村地区で、長老たちを説き伏せて男女共学の初等教育を行っている活動家の写真つきニュースが配信されてきた。ポリオのワクチン接種や人道支援組織による食糧援助なども継続されている。次号からはそのようなニュースを拾い上げて伝えるようにしたい。

★ アフガニスタンをテロの根拠地にしない闘いと、アフガン社会の近代化の課題は併行して進めなければならない課題だ。千葉でおこなわれている日本語学校の活動は小さいけれどそのような活動のひとつである。これはこれから何十年とかけて取り組むべき課題でもある。

kaneko20240325

==========<金子 明>==========(2024年3月25日)

先の土曜日、3月23日をもって、イーグル・アフガン明徳カレッジ(EAMC)は2023年度の全日程を終えた。11月4日の第1回から数えて計17回。事務局の記録によると、1度でも土曜日の朝、授業に参加してくれたアフガン女性の数は100人を超える。アフガニスタンに詳しい男性スタッフですら「これまでアフガン女性とは、プライベートで一度も話したことがなかった」というのだから、有り難い数字である。

そして母親と同様に、いや彼女たち以上に喜んでくれたのは、もれなく付いてきた子どもたち。最終日はあいにくの雨模様だったが、室内でピアノを弾いたり、長縄を跳んだり、ブロックに興じたり、紙飛行機を飛ばしたり、こけて泣いたり、と大騒ぎだった。

グランドピアノの蓋を開けた

おおかたは1歳から13歳まで。一部にはきょうだい同士、いとこ同士などもいて、和気あいあい。日本語と(たぶん)ダリー語が飛び交う愉快な空間である。この日いた中1のMくんに「国の言葉で『子ども』は何という?」と聞くと、皆で討論した挙げ句、「ばちゃほ」とのこと。男の子は「ばちゃ」で「ほ」が付くと複数形になり男女の子どもを指すらしい。

これを聞いたのは、わが仕事上のボスで託児ボランティアとして何度も足を運んでくれている北村先生が、「『託児』というのも味気ないねえ。何かアフガンの言葉でぐっとその気にさせるネーミングはないかしら?」と指摘したから。なるほど、新年度(正式開校)に向けて意気上がるもっともな意見だ。

「ばちゃほランド」とか「ばちゃほ広場」とか楽しそうだね。それにEAMCの「附属」託児事業は、単なる「託児」に留まらず、必ずやちかぢかアフガンっ子たちの教育サポートも見据えている。名は体を表す。かかる漠然かつキャッチーな名称はいつか人口に膾炙するだろう、と自己満足。ところが、この「ばちゃほ」にセデカ代表が反発した。

いわく「ばちゃは、やっぱり男児のみだ。」そばで聞いていたNHKの私市さん(取材後も通訳で来てくれている)も、ペルシャ語スペシャリストの立場から、「それならクーダカーンね」とおっしゃる。あれま、あのクドカン=官九郎の近似値かよ。彼も人気者なので似ててもいいか。で、「くだかん広場」・・・かの地の(いや日本も含めて)封建社会を「くだかん!」とす。これはこれでいいかも知れない。

今期さいごの授業ということもあり、集まった教師とスタッフ8人がおゆみ野という所にあるとある有名米国発喫茶店でお茶(&一部ランチ)をした。上の「くだかん」との修正案はその席で出たものだ。そのほか、このコーヒー会議でオーソライズされたこと:

●クラスを三つに分ける:1組は「みんなの日本語・初級Ⅰ」というテキストの13章(約半分)まで。2組は同後半部分。3組は「みんなの日本語・初級Ⅱ」。
●1年をかけて各組で学習し春には進級する。つまりEAMCは3年コースとする。
●できる生徒には日本語能力試験(どうやら年に2回あるらしい)に挑戦するようハッパをかける。
●教師陣のさらなる充実に向け、幅広くボランティアを募る。
●主催者たるイーグル・アフガン復興協会は、公の補助金などにひろくアプライし、より円滑なEAMCの運営を目指す。

以上が正式アジェンダだが、加えて始業式のある4月13日は、ラマダン開けのそれはそれはめでたい時季にあたる。またアフガニスタンでは、春分の日から13日目にみなで緑の上に繰り出し、ピクニックを楽しむらしい。日本のお花見に匹敵する行事とのこと。そこで、EAMCでも「その日に生徒もスタッフもみんなでランチ会を(出来れば屋外で)催そう」と決まった。ううむ、ムスリムならぬ身ではあるが、これは楽しみだ(と膏肓にいらはる八百万の神が騒ぐ)。

みなで手料理をもちよるよう告知するとのこと。実はとある生徒さんが、どうやらプロのパティシエらしく、この日「手作りケーキをスタッフに」と差し入れていた。それを喫茶店に持ち込んだセデカ代表が店のナイフで切り分け、みなで食した。「お客さん、持ち込み禁止!」とならなくてサイレンに感謝。

薄切りアーモンドが素敵

このケーキ、甘さが控えめでうまい。実は「いつも子どもがお世話になっています」と、つぶやき子にもまるまる1個をセデカ代表経由でプレゼントしてくれた。上はその写真。大きさ比較のため、パスポートをそえて撮影した。でかいねえ。島田(七人の侍)勘兵衛よろしく「この菓子、おろそかには食わぬぞ」と思いを新たにした。

noguchi20240325

==========<野口壽一>==========(2024年3月25日)

★ 今号はゆとりをもって発行できる、ニュースのレイアウトももっと分かりやすくインパクトのあるものにしよう、と意気込んで準備していたのに、21日になって大変な事件がおきました。言わずと知れたカンダハールとカーブル、そしてモスクワでのコンサート襲撃事件。

★ すぐに思い出したのは、昨年9月、ターリバーンをこのまま放置していたら9.11のような事件がまた起こる!と警告を発してハンガーストライキをしたアフガン女性のこと。彼女はノルウェー・オスロ在住のミナ・ラフィクさん。彼女は「アフガニスタンのための人道、平等、自由のために共に立ち上がりましょう! 私たち市民社会、政治家、芸術家、そしてすべての人が、ターリバーンのテロリスト集団がアフガニスタンにとって危険であり、脅威であるだけでなく、全世界にとって脅威であることを知るべきです!これほど早く9.11を忘れることができるでしょうか?」と呼びかけました。(https://webafghan.jp/another911/

★ また、昨年6月からは、国連安保理の大部のレポート「ターリバーンに関する国連安保理報告」を訳出・連載しました。(https://webafghan.jp/voices-of-the-world/#UN20230601)。このレポートでもターリバーンと対立しているIS-K(ISIL-K、イスラム国ホーラサーン)やTTP(パキスタンのターリバーン)などの危険性を指摘している。さらに、アフガニスタンでは20を超える過激テロ組織が活動していると詳細なデータを提出しています。

★ 加えて、アフガニスタンをかこむ周辺国家による、ヘラート安全保障会議についても毎回それを取り上げてきました。(2022年2023年)。そこでの懸案も、具体的にはパキスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、ウイグルなどにたいするイスラム過激派の活動だった。イスラム主義過激派の活動は所属する各国政府への反対活動だけでなく、世界のイスラム化という戦略にもとづいた国際共同を図る特徴をもっています。

★ ビン・ラーディンが主唱した世界イスラム化戦略は力を落としてはいるが、さまざまな分派組織によって継承され、ターリバーンの支配のもと、この2、3年のあいだに勢力を回復してきていたのです。

★ いきなり血なまぐさい話になってしいましたが、『ウエッブ・アフガン』へは、ユーラシアに春を告げるナウローズの飾りつけを写した写真や美しい文字イラストの挨拶状が届きました。今年はラマダンとナウローズが重なる珍しい年なんだそうです。でもナウローズのような伝統行事もアフガニスタンでは禁止されています。こころから新春を喜べるようになってほしいですね。

★ 最近、在日外国人問題を取り上げてきました。ある読者から、ウトロ平和祈念館を訪問しました、とメールがきました。日本には朝鮮人、中国人にたいする山のような差別の実例があるわけですが、いっぽうでは差別をなくすためにともに闘ってきた歴史もあるわけです。しかし野口は、戦争によって生まれたウトロ地区の問題とそれを解決するために在日コリアンと日本人とが共同して闘った歴史は知りませんでした。記念館までできたというのは素晴らしい。これから日本は否応なく多文化共生社会を迎えます。不幸な歴史をのりこえた実例のひとつとして大切にしたいし、いつかは訪問したいと思います。

kaneko20240315

==========<金子 明>==========(2024年3月15日)

このところ、千葉がよく揺れている。「3分に1度くらいの頻度で震度3規模の地震が起き続けると、エネルギーがたまらず、いつか来る大きな地震を回避できる」という自家籠中のトンデモ「小地震そよかぜ」論はさておき、一般人はふつう気味悪がるものだ。つぶやき子の勤めるこども園でも、しょっちゅう子どもたちの動きを止め、揺れの終わりと人数を確認してから通常保育に戻っている。こうした群発地震は、真剣ドリル体験となり有意義でもある。

イーグル・アフガン明徳カレッジ(EAMC)に通う生徒たちやその家族もさぞや心配しているだろう。すると3.11が近づいた3月9日、以前取材してくれたNHKの方々が大勢で来校してくださり、日本語学習のためのペルシャ語用アプリや、自然災害への備えについてプレゼンをしてくれた。生徒たちはゲームを交えた楽しい課外授業に大いに盛り上がった。ありがとう「皆様のNHK」!

このように取材者と被取材者がつながり続けるのも、メディアの力。さっこんインターネットに押され気味とはいえ、伝統的報道機関の血の通ったストライクバックには大いに期待したい。

実は9日の朝8時20分ころから、われらがEAMCがTBSのラジオ番組「まとめて!土曜日」で紹介された。生で聞いた人はほんの一握りだろうから、内容をかいつまんで紹介しよう。前回EAMCを取材した放送作家・松崎まこと氏のリポートは以下の通り。

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アフガニスタン人の女性向けに無料の日本語講座が毎週土曜日の午前中に開校している。千葉県千葉市中央区にある千葉明徳学園の校舎。

先生「たまご」
生徒たち「あります」
先生「こども」
生徒たち「あります」
先生「え?」
生徒たち「います」
先生「おっと」
生徒たち「います」
先生「家には自転車が1台」
生徒たち「あります」
これは「ある、いる」の違い、合わせて人やモノの数え方を教えている様子。

つぎに主催するNPOイーグル・アフガン復興協会(以下、復興協会)のセデカ代表の話。
「2021年のターリバーンによる政権奪取以降、多くのアフガン人が難民として日本に来た。アフガニスタンでは高学年になると多くの女児は小学校を中退させられ結婚する。そのため来日した方々も女性は学校に通った経験のない人が多い。彼女たちが行ける学校を作りたかった。」

セデカさんは平和だったころのアフガニスタンに育ち、カーブル大学に在学中、留学生の日本人江藤さんと知り合い、江藤さんの帰国後も文通を続けていた。1983年に内戦が激しくなりセデカさんは日本へ。やがて結婚し、子供も授かったが夫とは早くに死別した。子育てをしながら中東物産を扱う会社を運営しつつ、母国に支援物資を送り続けた。その後、2003年に復興協会を設立。去年11月、千葉明徳学園から教室の無償提供を受けて日本語講座をスタートさせた。

アフガニスタンでは2021年にそれまで支えていたアメリカがいなくなり、イスラム原理主義のターリバーンが復活した。彼らは女性の社会進出や教育を受ける権利を認めていない。また伝統的にも教育を受けられない女性が多かった。日本に来て2年、半年ほど日本語を学んでいるという生徒の声。

「漢字はとても難しいです。でも面白いです。まえは学校の先生とかと話したことがない。いま、ここで美しい先生と話します。アフガニスタンで・・・そう、女の人はぜんぜん勉強できないです。学校が・・・ダメです。私の子どもは5人、女の人ですから、今『日本いい』と思います。」

去年6月の時点で日本に長期滞在するアフガン人は5618人。うち千葉県に2327人。特に四街道市や佐倉市が多い。そうした地域からこの講座に90名ほどが登録している。習熟度に合わせて3レベルに分かれていま学習中。始めたときは、「10人くらい集まれば」と思っていた。無料とはいえ、ここまでアフガン女性が集まる背景には「安心感がある」とセデカさんは言う。

「この学校は女性だけの専用として、先生も女性。母親は自分の子どもを複数、夫に預けず学校に連れてきて、学校側やボランティアが子どもの面倒を見る。その安心感があって、家族(夫)から許可をもらって通っている。」

アフガニスタンでは女子学校の先生はみな女性だが、ここのボランティアで教える日本語専門の先生もみな女性。子どもの面倒を見るボランティアには男性もいるが、保育園などの先生が多い。そうした安心感に加えてもうひとつの魅力がある。場所としての環境が生徒を引きつけているとセデカさんは言う。

「『学校』という言葉。ゲートがあって学校の中に入る。その夢が叶うことが一番おおきい。」

セデカさんはいま通っている生徒たちが将来は大学に行けるくらい日本語レベルを上げていきたいと考えている。女性と一緒に来ている子どもたちに関しても、宿題を手伝ったり、英語を教えたりしたいと構想している。子どもたちは日本に幼い頃に来ているか、日本で生まれているため、日本の学校に通っている。すると日本語の方が上手になり、両親が話すアフガニスタンの言葉(ダリー語)が分からなくなることもあるという。そうした母国語教育まで出来るようにしたいとセデカさんは言う。

現在、無料の日本語講座の協力者やボランティアを募集中。
・イーグル・アフガン復興協会への寄付についてはウェッブ・アフガンの<世界の声「イーグル・アフガン明徳カレッジ」開校!>の末尾を参照
・またこの日本語講座にはフェイスブックのページがある(https://www.facebook.com/profile.php/?id=61555418141482 )。講座についての質問などは、その自己紹介欄にあるメールアドレスまで。

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なるほど、さすがは放送作家。コンパクトにまとめてくれたものだ。

こうして、朝8時半ころにラジオを聞き終え、今回のEAMC託児班は動き出した。すると9時15分には第一陣が。「お前たち、早すぎだろう!」とぼやきつつも何だか嬉しい。今回は、めちゃくちゃ大きくなった幼稚園園庭の水たまりで遊んだり、理事長が園舎の裏で焼きいもアゲイン。つぶやき子が上記NHKの活動をみてからリズム室に降りると、子どもたちが何やらタワーを作っていた(写真参照)。聞くと、彼らも翌日から始まるラマザン(断食月、アラビア語ではラマダン)がとっても楽しみらしい。

「学校って、行けなかったから分かる、こんなに愛すべき場所なんだよ」と教えてくれたアフガン女性たちに励まされ、また各方面の皆さんに支えられて、今年度の最後あと2回を突っ走ろう。

noguchi20240315

==========<野口壽一>==========(2024年3月15日)

★ ターリバーンの悪政ばかりか自然災害にも苦しむアフガニスタン。「アフガニスタン、寒波による雪と雨で少なくとも60人死亡」。そのなかにあって勇気づけられるニュースがあった。トピックス欄で紹介した「アフガニスタンのNGOがアフガニスタンの女子学生を支援するための教育テレビチャンネルを開設」したニュース。われわれは日本在住のアフガニスタン女性と子供たちのためにささやかな学校をつくろうとしているが、フランス発のこのプロジェクトも希望をあたえてくれる。一言で言えば、ターリバーンが禁止している女子教育を衛星放送からの通信教育で実施してしまおうという野心的な計画だ。

★ プロジェクトの実行主体はBEGUM(アフガン女性の声)TVで、アフガニスタンで登録しているNGO。プロジェクトの実際はパリでオペレートされる模様。ミッションはアフガニスタンの女性と女子を無知から救い、公正で、国民が参加し、繁栄した社会を建設するため、としている。平和と統一とジエンダー平等を信じて、絶対にあきらめない、と宣言している。

★ 世界はひとつながりのもの。国民国家が共存する今日の世界にあって、内政干渉は否定されるべきだが、教育や人権、平和や進歩のための闘いに国境があってはならない。なぜならそれは人類の課題だからだ。

★ 今日15日からロシアで大統領選挙が開始される。政敵のナワルヌイ氏を牢獄に監禁しているだけでは不安をぬぐい切れず殺害、またウクライナ侵攻を厳しく批判し注目されていた有力な反対指導者ボリス・ナデジディン氏の立候補を認めていない。選挙自体はプーチンを当選させるための茶番劇。プーチンの政敵抹殺の疑惑については「読者の声」で中楯健二氏が厳しく批判している。「疑わしきは疑う」。ぜひお読みいただきたい。

★ プーチンがなぜ選挙前にナワルヌイ氏を殺害したか。巷ではいろいろと憶測が飛んでいる。その中でももっとも説得力があるのは、反対派あぶりだしだ。各地で挙行された弔問に参加する人々を監視するだけで選挙への圧力になり、活動家つぶしになる。現に何百人もが逮捕されている。ナワリヌイ氏が帰国してからも泳がせて支持者のあぶり出しをした。独裁権力とはそんなものだし、そんなことをしたからといって安泰ではいられない。

★ 今号、先号では、イランとパキスタンの総選挙をとりあげた。この両国でも反対派の立候補を禁止し、活動を妨害し、「選挙で選出された政権」とその統治正当性を証明しようとしている。しかしそのような姑息な手段はいつか必ず大崩落の時を迎える運命にある。「パキスタン総選挙:弱体で不人気な連合を生む混乱」「イラン:国会議員選挙の実施とその意味」がそのことを指摘している。

★ 武力で支配権を維持しているターリバーン。そのターリバーンの統治の根拠はどこにあるのか。今号ではターリバーンの教育イデオロギーの根源がパシュトゥーン族の固陋で中世的な因習である「掟=パシュトゥーンワリ」にあることが解明されている。「ターリバーン教育イデオロギーの起源」。これも必読文献だ。

★ ソ連侵攻後の半世紀に及ぼうとするアフガニスタンの紛争を外部勢力をふくむ「民族と宗教の対立」とする向きが大勢であるが、紛争の本質は「近代化と反近代化」あるいは「進歩と反進歩」の相克である。対立するいずれもが外国勢力と結びついて自己の権力を維持しようとしたための紛争である。ターリバーンはイスラムの教義に関する偏狭で過激な解釈をベースにしているがそれとて外部勢力と結びついたものだ。ターリバーンが唯一の正当性をもつとすればパシュトゥーンワリしかない。

★ しかし世界はつながっている。否応もなく外部からの情報は流れ込んでくる。「反近代」「反進歩」の思想が生き延びていく余地は時とともに狭くなっていく。今号で紹介したターリバーンのふたりのリーダーの発言「女性教育禁止をめぐりターリバーン内部から反論」の背後には、いまは表面に現れていないが、しかしその発言をよしとする多数の存在がある。本サイトの編集主幹・金子明が23年に24回にわたって連載した「ターリバーンと共にある私の人生(アブドル・サラム・ザイーフ自伝)」を1本のpdfにまとめて掲載した。われわれはこの1ターリバーン活動家の軌跡と思想の中に、自らの未来を自らの手で切りひらこうとするアフガニスタンの1知識人の誠実な苦闘を見る。

★ アフガニスタンが変わるためには、内部からの変革が不可欠である。ターリバーンないしパシュトゥーンが変わらなければアフガニスタンは変わらない。われわれはその兆しを見出し、支援し、そのような動きと連帯して、わが日本のためにも奮闘していきたい。

kaneko20240305

==========<金子 明>==========(2024年3月5日)

桃の節句を3月にやるというのはどうもピンとこない。やっぱ4月3日だよね、と言うのが我ら田舎者の「桃的」感覚だろう。とはいえ、我が田舎(松山)でも気がつくと、スーパーで納豆が売られるようになるなど、文化の中央集約化はすさまじい。そう言えば、60年(!)ほど前は、2月の正月を「小正月」などと呼んで餅を(特にうるち米で)ついていたなあ・・・

てな昔話はさておき、いつものごとくイーグル・アフガン明徳カレッジ(EAMC)の最新情報をつぶやこう。そう。このたびの14回目は、ひな祭りの前日だった。「アフガンの子どもたちにも、おひな様をみせたいなあ」と思っていると、千葉明徳短大でいつもお世話になっている方々が探し出してくれた。

「ありました。倉庫に、箱に入れて全部とってあるよ。使ったあとは返さなくていいよ。」

なんともありがたい。前々日の木曜日に短大に出かけ、ひとりで7段飾りを組み上げた。「あーめんど」だったが、姉のひな飾りをみなで騒ぎながら組み立てたのを思い出した。あの小物たちの「うまく手に乗せられない感」は相変わらずだったが、さすがに短大の倉庫における保管。どれひとつとして、姉の奴さん?のように、頭をネズミにかじられてはいなかった。

当日朝。狙い通り、子どもたちは異文化の人形に目を奪われていた。興味を示したのは、とくに女の子たち。もちろん「触るな」と言っても触るので(これは万国共通)、壊さない限りいじくらせた。すると、一番人気は仕丁の掃除道具だったのが笑えた。他には、タンスの扉をパタンパタンと開け閉めして中を確認するのも楽しそうだった。

やんちゃな連中はひな壇の下にもぐり込んで危ないか、と少し心配したが、見慣れぬ伝統玩具の魅力に圧倒されたか、おとなしくめでてくれた(ようだ)。並べていて気づいたのだが、人形の首は引っ張ると抜ける。子どもたちがそんなえぐい場面を楽しんだ、との報告もなかった。よし。ホンチャンは4月だ。すぐに片付けず、しばらくは飾っておこう、と決めた。

寒くなって来たせいか、預かる子どもたちの数はここ数回、20人に満たない。しかも、3人、4人単位のきょうだい集団がいて管理は若干しやすい。それをこの日は5人のボランティアで世話した。つぶやき子はいつも通り、隣の幼稚園園庭に外遊び隊(10人)を連れ出した。あいかわらず「先生がオニね」と勝手なものである。

凍りオニはいつまでも「先生がオニ」であり続けるので、疲れて降参。すると、子どもたちは先日降った雨が窪地に残した水たまりに注目した。「水で遊んでいい?」と。「この前、靴をぬらしてお母さんに怒られた」という子もいたが、つぶやき子が水たまりに木の板を放り込んで橋をかけると、本能には逆らえなかった。でも若干は慎重。

「今度ぬらしたらお母さんに殺される!」
「そんなにしょっちゅう、おたくでは殺人事件が起きるの?」
「うん、目を真っ赤にして怒る。」

ううむ、想像したくないが母親とは怖いものである。こうして、でっかい剪定バサミで園庭の植木をトリミングする理事長に見守られながら、水に浮かんだ島巡りを思いっきり楽しんだ。つぶやき子には「セクハラじじい」などと暴言を吐く子たちも理事長には丁寧に接するのが面白い。

その後、おやつを食べてから砂場で砂料理(これを食すのが「先生」のおつとめ)をこしらえたりして過ごした。するとMちゃんが「前回りするから手伝って」と言う。以前ウンテイにはまって手にまめができた6歳の女の子だ。見ると、それは前回りではなく、逆上がりだった。これね、ワシも子供の頃は苦手だったよ(で、今もたぶん出来ない)と回顧しつつ手を貸した。出来るようになるのはまだだいぶ先とお見受けしたが、その努力とチャレンジ精神は認めよう。

こうして12時前まで外で過ごし、ひな飾りのあるリズム室に戻ると、そこへ母親が日本語の学習を終えて迎えに来る。今回は託児班がやや手薄で、2階の教室をチラ見もできなかったが、みな満足した表情だ。日本語で話しかけると、いぜんは戸惑っていた顔も、徐々に打ち解けてきたとお見受けする。

忘れ物や消灯確認のため、さいご階上の2教室に出向くのがつぶやき子の役割なのだが、いつものように先生たちは授業後も熱心に話し合っていた。またもう一方の教室では、主催者たるイーグル・アフガン復興協会のセデカ代表が、ラジオのインタビューを受けていた。こうした光景はEAMCの今後の発展を大いに期待させる。「セクハラじじい」もなおいっそう精進せねばなるまい。

noguchi20240305

==========<野口壽一>==========(2024年3月5日)

★困ったことがあります。ズバリ、掲載したい記事が多すぎることです。世界は混乱に満ちていて苦闘の声に満ちています。アフガニスタンでは理不尽がまかり通り、それを告発する声がどんどん届きます。

★ そもそも、当サイトが掲げるミッションは「アフガニスタンと世界の平和、進歩、人権のため」。これじゃ、世界から日本国内までほとんどすべての事象が課題になります。そのうえ、目次を見ていただければお分かりのように、「ユーラシア」というインデックスや最近は「森羅万象」なるカテゴリーまでもうけてしまいました。

★ さらに困ったことにデジタルメディアは、紙のメディアと違って、ページ数(ファイル数ですね)が増えても少しもコストに響かないのです。

★ 紙メディアであれば、日刊であれ週刊であれ月刊であれ、分量が限られているので読みやすく簡潔な表現で「楽しくためになる」記事を集めないとページ構成ができません。

★ デジタルメディアはそのような制約がありません。これ読んでほしいな、つぎの企画の呼び水として載せておきたいな、記録としての価値がある、等々という理由でどんどん記事が増えていきます。

★ その結果、読者のみなさんに「とても読み切れない」とのクレームをいただく始末。読者の方々は優しいので、本当は「もっと役立つ記事を精選して載せてよ」と言いたいところをご自分の努力のせいにしてくださるのだと自戒しております。本当は1本でもいいから読んでもらって役に立つ記事があればそれで本望なのです。ウエッブ・マガジンは雑誌。「雑誌は雑な記事の集まりなり」と昔雑誌の仕事していた時に教わりました。

★ わかっているのです。デジタルメディアはコストが安いので、無料を売り物に勝手に送りつけたりします。読者数を増やして広告で稼ごうという腹です。『ウエッブ・アフガン』は広告を載せていないので配信自体には何の価値もありません。

★ それじゃ何のために発行してるんじゃ、自己満足じゃないの? と言われそうです。確かに自分の勉強だったりボケ防止だったりの意図があることは間違いありません。ある読者の方に「続けていることに意味がある」と言ってもらったことがあります。3年近くやっていると続けていることそのものに価値があることもわかってきました。それ以外のことは考えず、とりあえず続けてごらんよ、との励ましと受け止めました。

★ それでもやっぱり中味が良くなければ飽きられるし、迷惑がられることでしょう。

★ メディアとは、媒介、伝達手段の意味ですから何かと何かをつなぐ機能が求められます。読んでくれる人がいてなんぼの世界。アフガニスタンが忘れられないように、さらには世界の平和と進歩と人権のために戦っている人びとがいる限り、その声を伝え、つなぐ活動を続けるのが使命でだと心得ます。読者の皆さんのますますのご支援をお願いする所存であります。あれ? つぶやきでなく演説みたいになっちゃった。でも、ま、いいか。お許しくだされ。

kaneko20240225

==========<金子 明>==========(2024年2月25日)

去年の11月から回を重ねてきた「イーグル・アフガン明徳カレッジ」(EAMC)は、いよいよあとひと月ほどで新年度を迎える。従前より、<2024年4月が正式開校でそれまで様々なデータをとり、カリキュラム・年間予定・行動指針などを策定する>という計画であった。さあもう2月も終わる。正式開校は目前。つまり、尻に火が付いた、煮詰まってきた、と言うべき状態である。

そこで、24日の授業の後、日本語教師、ダリー語通訳、託児担当者、イーグル・アフガン復興協会スタッフの総勢8名が、ロヤジルガよろしく「大会議」を開いた。幕の内弁当をつつきつつ(セデカ代表のみシャケ弁)、そこで何が話され何が決まったのかを、今回は「速報」としてつぶやいてみよう。

まず事務局から、これまでの生徒の出席状況に関するデータが発表された。かいつまむと、出席率は5割前後。感染症におびえる小学校なら学年閉鎖(学校閉鎖?)となる数字だ。これで教室が成り立つのか、が教師の皆さんの心配事ではあるが、これは如何ともしがたい。今後もこの数字が大きく変わることはあるまい。つまりゆるいのである。

それを受けて、生徒の数的裾野について、セデカ代表から嬉しくも恐ろしい報告があった。いわく「200人が来たがっています。」どうだ。このパイの大きさからして、「5割バンザイ」ではないか。この200人とともに歩むのが我々の使命と心得よう。

補足情報。どうやら本国で識字教育すら受けておらず、おしゃべりサロンよろしく学校(ごっこ?)を楽しんでいる生徒たちがいる。ところが、毎回熱心にやってきて、教師に「個人授業を頼めないか」と持ちかける者までいる。このバラエティ、まだらさがEAMCなんだねえ。でも学校は学校。4月には入学式をやり、3月には修了(卒業)式もやろうね、とスタッフも大いに楽しむ算段である。

続いて、メインテーマのひとつ「開校日の確定」。事務局の基本提案は、「月に3回とし、夏休みの8月は皆で休もうね」というゆる〜い内容であったが、これに対してはセデカ代表の鶴の一声が鳴り響いた。「語学は続けなければ効果が出ません。夏休みは一番学べるときです。」だよねえ。結論:土曜日が5回ある月のみ1日休校、それ以外はすべて月4回で年間48日開校する。

みなでカレンダーを見ながら「この日を休もう」と決めた。いずれEAMCのフェイスブックなどで開校日を発表するので、興味のある方はぜひ手帳に印をつけておいてもらいたい。でもって、遊びに、邪魔しに、ひっかき回しに来て欲しい。全48日とあっては、猫の手も借りたい状況なのである。

学校とは学ぶためだけの場所ではない。続いてレクの話へ。いつか生徒や子どもたちとバーベキューをやろうね。アフガニスタン映画祭も企画できるよ。これらは学園に持ちかけて、今後話を進めることにした。こうした実績を踏まえた上で、将来はどこかに出張ってデイキャンプもいいなあ・・・などとホモルーデンスたちの思いは尽きない。

以上がロヤジルガの主な内容だが、今後も大胆に細々とネチネチと進めていくのでお見知りおきを。ちなみに24日の授業には3つの大学から見学者がやってきた。大宣伝はしなくても、徐々に注目を浴びてきている(ようだ)。この場で、いろんな化学反応が起きることに期待したい。

最後に託児をもっぱらとしてきた体験から。4か月もやると、かなり子どもたちとコミュニケーションが取れるようになった。気ごころが知れてきたと言うべきか。お馴染みの連中には、こちらの顔もお馴染みになってきたのだ。生意気だが愉快。つぶやき子が日ごろ相手している日本人小学生たちといい勝負だ。

そんな中、前回(17日)は日本人の女子(小3と小5)が遊びに来てくれた。また今回(24日)は気がつくと二人のアフガン男子(ともに小3)が幼稚園のグランドでサッカーボールを蹴っていた。聞くと「親は来ないけど、遊びに来た」という。新しい動きは、すでに子どもたちの側から始まっているのかも。

余談だが、アフガンっ子の成長は早い。上の二人の9歳男子も日本人ならどうみても5年生以上だ。いつもお馴染みの女子たちもしかり。そこで負けないように彼らを煽るダリー語を今回おぼえた。それは「ニーニー」(赤ちゃん)。こう声かけされると子どもたちの目は一気に捕食者的に輝き出す。違う!と。それは日本もアフガニスタンも共通であると気がついた。

noguchi20240225

==========<野口壽一>==========(2024年2月25日)

★11月4日に開校したイーグル・アフガン明徳カレッジ(EAMC)の土曜学校が昨日で13回を数えた。金子つぶやき子が詳細なレポートをしたごとく、4月正式開校にむけて着々と準備が進んでいる。告知も自然に広がるに任せてやってきたがさまざまな方面からの支援の申し出が届き、手ごたえを感じている。イーグル・アフガン復興協会は、4カ月の試行期間をへて、恒常的な学校運営に自信を持ったようである。『ウエッブ・アフガン』は、自由なネットメディアの特性と軽さをもってこの有意義な活動の伝達者として支援をつづけたい。

★私事になるが、かつて三軒茶屋で株式会社キャラバンを運営しながら「246コミュニティ」というインターネットを駆使した起業家支援コミュニティを創設・運営していたことを思い出している。あのときは、インターネットの勃興期という幸運とインターネットのパブリック性という特性に助けられて、予想以上の社会貢献を果たせた。もっとも大きな貢献は、インターネットを地域や高齢者に広げる活動だった。「世田谷ネット」や「コンピュータおばあちゃんの会」、「組み込みネット」というエンベデッド業界などでささやかだがユニークな貢献を果たしえた。そのさい、行政、この場合は世田谷区だが、と表に出ない協力関係の構築という経験をした。

★例えば、いまでこそインターネットは誰でも使えるが、まだパソコン通信が主流でインターネットの商業利用が開始された1993年ころ、ネットにアクセスするには電話回線を経由するしかなかった。接続する場合も、接続タイムに応じた料金を支払う従量制課金制度が一般的だった。キャラバンはいち早くアメリカの安い定量課金制度と遠隔操作性を利用してシカゴに自社のLinuxサーバーを設置し、格安でホームページの配信ができるサービスを展開した。さらに三軒茶屋のオフィスでも専用線を引いて定量制接続契約で仕事をしていた。いくら接続使用してもプロバイダーに支払う金額は一定である。

★インターネットの商業利用が解禁されて数年、キャラバンのインターネットビジネスが軌道に乗りかかっていたころ、「コンピュータおばあちゃんの会」のサポーターと出会った。おばあちゃんたちがインターネット体験をしたくて行政(世田谷区)に相談しているがラチがあかない、キャラバンでなんとかできないか?ということだった。調べてみると、そのころ区の施設や学校など、インターネット回線を引いているところはなく、すべて電話回線使用。たとえ区民とはいえ、規則上特定の利用者に回線を自由に使わせるわけにいかない、とおばあちゃんたちも、区も、支援者も困り果てていた。話を聞いているうちに、会社は土日は休みで、パソコン(そのころはすべてMac)も回線も使わず眠っている。回線使用料はいくら使っても月額は一定。なら、休みに使ってもらえばいい、と、支援者と社員とで話し合い、会社の休みの日に使ってもらうことにした。もちろん無料。いくら使ってもタダなんだから。

★支援者と会社とで話し合った。結果、パソコンには保険をかけ、必ず社員とパソボラ(パソコンボランティア)の立ち合いのもと、会の人びとにインターネットを楽しんでもらうことになった。ところが、会員はMac所有者は少なくWindowsマシンの方が多い。すると三茶の零細企業が奇特な活動をしていると聞きつけた天下のNTTの知り合い(シリコンバレージャパンの活動家)が、じゃ、WindowマシンはNTTの研修センターで引き受けよう、サポートは寮の社員から有志を募ろう、ということになり、MacとPCの両ユーザーに対するサービス体制が整った。それからのコンピュータおばあちゃんの会の活躍は目覚ましかった。インターネットの普及を図ろうとしていた企業や最後は行政、さらには、半導体を売り込みたいインテルといった巨大企業まで「コンピュータおばあちゃんの会」の活動を自社の宣伝広告に使い始めた。有名な広告で在印象を総なめだ。この間の活躍ぶりはたくさんの書籍や報道でご存じの方もいらっしゃるだろうが、読売新聞の「シリーズ元気」が簡潔でビビッドにまとめている。ついには、コンピュータおばあちゃんの会の活動は、高齢者によるネット利用の実例として、通産省の通信白書に特別ページで紹介されるほどになった。

★この過程で、世田谷区産業振興課の課長さんと知り合いになり、いろいろと会話する機会がふえた。当然、区がやろうとしても規則やその他のさまざまな制限できなかったことをわれわれ民間が補助して実現したことを喜んでもらえた。「区はボトムの引き上げが任務です。インターネットの利用は最先端です。自由にやってください。応援します」。三軒茶屋の小さな民間企業がインターネットの勃興期に分不相応ともいえる支援ができたのには、区との連携があったのである。いま、千葉明徳学園とアフガン女性の日本語教育や生活支援に取り組み始めているが、30年近い昔のことを昨日のことのように思い出して感慨にふけっている。

★失われた30年からやっと抜け出せるかもしれないと曙光が見え始めた日本。かつて、第三セクターの活用とか、民間資金活用事業(PPP/PFI)とか、民間活力の活用が叫ばれ模索されてきた。上から頭の良い官僚がいくら叫んでも「民」が動かなければ政策は成功しない。この国は、国民の信用という点であまり良い点数を上げていない。現下の半導体好況も反中政策を推し進めるうえで台湾や韓国に過度に依存してきている現状をアメリカが危機に感じて日本シフトに動いている影響が大きい。もともと、日本の半導体不況、失われた30年は、アメリカによる2位叩き=日本バッシングが基底にある。90年代の日米半導体協議によって日本は半導体事業を韓国や台湾に譲渡させられたのが実情だ。いまそれが返されようとしているだけ。

★株価バブル超えと浮かれているが、実態はアメリカの手のひらの上で操作されているだけじゃないんでしょうか。

kaneko20240215

==========<金子 明>==========(2024年2月15日)

三連休の初日となった2月10日はイーグル・アフガン明徳カレッジ(EAMC)は休校日だった。毎週末のやすみを潰して、授業に託児に参加してきたボランティアスタッフも、さぞやリフレッシュできたことだろう。そこで今回は、つぶやき子の筆をやや離れて、EAMCに関する文章を二編紹介する。

まずは、お世話になっている千葉明徳学園の福中理事長が「学園ニュース」新年号で、EAMCについて述べてくださったその一部。(全文はコチラ→https://www.chibameitoku.ac.jp/gakuen/gnews/pdf/gnews-280.pdf

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21世紀は1/4が経過
21世紀の始まりのころ言われていたのは、これからの教育は国際化・情報化が大事ということでした。最新のPISAの結果は世界の上位を占めているので成果はあったと言えるでしょう。ただし、国際化は一方通行に終わっているのではないでしょうか。英語を勉強し、外国で活躍するという点では成果があったかもしれません。しかし、外国から日本に入ってくる人への教育は全く不十分です。 特に千葉県は外国人の子供が多いとのことです。 ほとんどは公立の小中学校に通っているけれど、日本語がよく わからない子も多く、苦労しているようです。その親たちは子供よりも日本語がわからず、さらに苦労が大きいことでしょう。一方通行ではない教育の国際化、これが必要です。そう思っているところにその機会が飛び込んできました。

「イーグルアフガン明徳カレッジ」の開校
私が知り合ったNPO法人「イーグルアフガン復興協会」の人たちとともに在日アフガン人の主婦のために日本語講座を開くことになりました。毎週土曜、40人以上の女性が短大に集まってきます。皆、熱心に勉強しています。母国ではタリバン政府の政策で学校に通わせてもらえなかったという人も多く、感動して泣きながら勉強しています。見ている私も感動しました。 私はこの日本語講座を「イーグルアフガン明徳カレッジ」と命名しました。といっても学園は短大の教室を貸すだけ、復興協会がボランティアの日本語講師を募って運営しています。それでも明徳は復興協会からもアフガン女性からも感謝されています。

明徳の建学の精神と共通するもの
なぜ本学園でアフガン人向けの日本語教室を開いたのか、それは、千葉県は在日アフガン人が日本で最も多い県であり、特に四街道に多いからです。家族で住んでいて、男は働きに出るけれど、女(主婦)は外に出てはいけない、というイスラムの習慣を守っている、守らされている、でも日本語を勉強して外に出たいと望む主婦がたくさんいるのです。そこで、私は約100年前に明徳を創立した、その当時の創立者の建学の精神を思い出しました。女学校に入って勉強したい、けれど学校がない、という女子がたくさんいた時代です。千葉県がやらないなら私が作るほかはない、と考えて福中儀之助が学校を作った。これを思い出したのです。

こどももたくさん
毎週土曜、数十人のアフガン人主婦が車に乗り合わせ、あるいは電車で来ます。多くは子連れ、その子達の世話もしなければなりません。もっともこれは明徳の得意仕事で、明徳のこども園・保育園に声を掛けたら保育ボランティアがすぐ集まりました。小学生は私も加わって遊ばせます。算数・数学の勉強もさせたいと思っています。自主的に黒板で算数の勉強をする子もいます。親子ともに勉強熱心です。そこで気が付きました。途上国はみんな教育熱心です。底辺の生活から抜け出すためには教育が必要です、それをみんな知っているのです。知らないのは支配者のタリバンの男だけでしょう。

・・・と広報誌冒頭の4パラグラフを割いて、EAMCのことを紹介してくださった。失礼だが「おー、学園本気だぞ!」と心を新たにした次第である。4月には新年度が始まる。我々はいまカリキュラムの構築に向け邁進中で、その中心が女性日本語教師たちだ。授業が終わるごとに出される教室リポートから、続いて彼女たちの感想を紹介しよう。

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●最初から休まずに授業に出ている二人の生徒がいます。全く読み書きができなかったのですが、今日は前に出て来て「わたしはアフガニスタンからきました◯◯です。どうぞ宜しくお願いします」とあいさつをし、さらに「わたしは◯◯です」と板書しました。帰られるとき、その二人と抱きあって喜びました。

●「今年(2023年)の春に日本に来た」と言って、「あ」も知らず、解らずの中、入学式の日から毎週欠かさず参加され、しかも、一緒に参加していた従姉妹さんがいつの間にか来なくなっても参加し続け、 ふと気付くと、いつも最前列で必死に取り組んでいる生徒がいます。 今日、「私は○○です。アフガニスタンから来ました」と、たどたどしいながらも黒板の前で発表をし、文字も書きました。 あまりに感動したので、その思いを通訳のお嬢さんを通じて伝えていただきましたら、「先生たちのお陰です」との言葉が。でも、「いいえ、貴女の努力の結果そのものです。本当に素晴らしいですね。」と、私達。
はにかみながらも嬉しそうな表情の彼女を目の当たりにした時、この学校の重要性を痛感すると共に、スタッフとしてお声がけをいただきました事に、改めて感謝の思いが湧いて参りました。
「生徒の皆さんのためだけでなく、私自身のためにも頑張ろう!」
そんな思いを固めた今日のひと時でした。

●開校した最初はどうなることかと思っていましたが、一生懸命に学ばれている生徒たちの姿に、いつもこちらが励まされていました。あさ早くから来られる方には、ひらがなの練習のプリントを渡して、自習しながら授業の開始を待ってもらいます。
アフガンの皆さん方が少しずつ、少しずつ日本語を理解されて行くことが私達の何よりの歓びです。

●生徒のほとんどは主婦ですが、会社員や医師、裁判官に歌手まで、いろいろな職業の方がいるのが発見でした。

●日本語の形容詞を使うドリルで、「アフガニスタン」「娘、息子」「ラマダン」などについて質問すると、瞳を輝かせ、活き活きと話してくれました。「ラマダン」は本当に楽しいと口々に話しているのが印象的でした。

・・・ラマダンは楽しいのか。そう言えばもう来月だね。彼女たちが、連れてくる子どもも含めて一家で思いっきり断食を楽しむ。その姿を想像するだけで、なんだかこちらも楽しくなる。人間社会のすったもんだを横目に、春はもうすぐそこだ。

noguchi20240215

==========<野口壽一>==========(2024年2月15日)

★ ウエッブアフガンを始めたのは2021年のはじめ。前年のドーハ合意でアメリカは21年の8月末までに完全撤退すると約束していた。アフガン日本の旧知の友人たちと連絡をとって情報を探った。ターリバーンの勝利だと喜ぶもの、いよいよ連邦制の準備だと分析するもの、いろいろだった。野口としては、アフガンの諸勢力が合議して自分たちの国づくりをしてほしい、できればそのプロセスに関与したい、と考えて日本ならではの情報サイト作ろうと準備サイトをオープンさせていた。

★最初はそれまで続けてきたアフガニスタンウオッチをアフガニスタンの友人たちを情報源にこつこつひとりでやろうと考えていた。ところが、アフガニスタンで一緒に日本アフガニスタン合作記録映画『よみがえれ カレーズ』をつくった外山透さんのブログを見たある知らない人から「外山さんは今どうしていますか? 会いたいんですが」と4月にメールが届いた。外山さんのサイト「善きもの美しきもの 外山透の仕事場」は外山さんと野口が共同で、シルクロードの歴史や建築・芸術の研究をするためにつくったサイトだった。ところが外山さんは19年の9月1日に多くの原稿を未完成のまま残して亡くなっていた。何とかしなくちゃと野口が抱えたままになっていたサイトだった。

★ 「外山さんは亡くなったんですが・・・」とその人に返信した。「それでも渡したいものがあるから」とやってきて会ったのが連休中の5月2日。天気は良く晴れたさわやかな五月晴れ。場所は神田神保町。色黒短パン姿の頭には赤っぽいバンダナを巻いた60過ぎの〝変なおじさん〟が岩波ホール前の交差点からこちらに歩いてきた。それが金子さんだった。初対面ながら喫茶店クラインブルーでかなり長い時間話し込んだ。渡したいものというのは、外山さんから預かりっぱなしになっていた見るからに手作りのペーパーナイフだった。遺品といえば遺品だが、これもまた変なモノだった。

★外山さんの思い出話にはじまって、お互いをさぐりさぐり、これからをどうしたものか、意見交換した。聞けば、映像関係の仕事が本職だが、シドニーに英語留学して翻訳もできる、とのこと。ちょうど、アフガニスタンの友人から紹介されて取り組んでいた、ファテー・サミ氏がペルシャ語から翻訳紹介した英文の論考「いまこそ連邦制を真剣に!」(2021年4月10日執筆)があったので、ふたりで取り組むことにした。ウエッブ・アフガンでは7月4日発表として結実。

★サイトはコンテンツやデザインなども確定させ、連休明けにグランドオープンさせた。野口は、アフガン人が外国軍を追い出してはじめて自分たちで国づくりをはじめる、とのグランドデザインにもとづき、原稿をあつめ、執筆をはじめた。スタートラインは野口が期待を込めて<視点:001>「なぜ今またアフガニスタンなのか?」を書いた。

★ところがそれからの事態はウエッブ・アフガンが暴露してきて多くの人には既知のように、アメリカは共和国軍を実質解体し、ターリバーンに実権を明け渡す無責任な撤退作戦。「第1次ターリバーン政権時のようなことはしない」と共和国軍への恩赦なども口にしていたターリバーンはパキスタン軍と組んでアフガニスタンを武力で実質的に乗っ取ってしまった。そのころはまだコロナのまっさかり。外出もままならず、ターリバーンの蛮行とそれに反対するアフガニスタン国内、国外の動きを追ってアップする情報収集に没頭できた。ほとんどパソコンの前で、ネットとつながりながら、金子さんやファテー・サミ氏との共同作業でウエッブ・アフガンの初期ネットワークづくりと翻訳作業のルーティンワークを構築することができた。

★その時代の作業は 赤を基調としたデザインでのURL: https://afgan.caravan.net/  に収録してある。データの収集と研究、国際的なネットワークづくりと国内での読者の獲得、サイトの認知活動などが中心だった。コロナが逆にチャンスをくれたともいえるが、現地アフガニスタンでは悲惨な状況が日々進行していった。とくに女性が置かれた状況。ウエッブ・アフガンの活動は長期化が予想された。サイトの高度化(可読性の向上など)も課題となった。サイト開設の2年目に、サイトをサーバーごと刷新し、ドメインも独自ドメインを取得し、日本を拠点に、アフガニスタンを見据えた「世界の平和と進歩と人権のための」サイトとして成長させようと決意した。

★23年の活動はわれわれにとって隔世の感があった。アフガニスタンにおけるターリバーン支配の浸透(第1次支配時代への回帰、2021年)、ロシアのウクライナへの侵略(2022年2月24日)、ターリバーンの詩作禁止(2023年1月15日)という外部からの作用と、コロナ5類移行(2023年5月8日)という内部的変化が相まって活動が活発化した。1月からの『詩の檻はない』の活動と、後半のアフガン女性のための日本語学校の開設と運営だ。協働する人々の数が段違いに増えた。活動にかかる時間も飛躍的に増えた。つまり、忙しくなったのである。

★しかしその忙しさはうれしいことであり、活動の目的、ミッションでもある。旬刊で続けてきたアフガンニュースメールは86号を数え、詩の活動ではさまざまな集会やセミナーに呼ばれ、12月にはオランダからソマイアさんの招待活動に参画し、数百人の人びとと接触した。アフガンの学校では毎週数十人の生徒(女性)とその子供たち数十人の世話を続けてきた。

★そのような活動と並行して、本来のジャーナル活動では、情報がどんどん寄せられるようになり、1号当たりのインデックス数が抑えても抑えきれず増える。読者からは「読み切れない」と苦情が来てしまう。編集する側としては外部的な事件も増えるし、内部的な報道すべき活動も増えてくるし、読者からの情報提供の質も量も増えてきた。これらはすべて、ジャーナル活動の目標であるから、うれしいことには違いないのだが、つい泣き言も言いたくなるのである。

★しかし、賢明な読者はすでにお気づきだと思うが、『詩の檻はない』が切り開いたネットワークとその質は、これまでのこの種の活動では考えられなかった国際性と同時代性と連携の質と世代間の広がりを生み出しているのである。海外の詩人たちとのつながりだけではない。編集部が知らないところで、特に若い層に、届いている。今号だけでも3カ所の大学の教室で学生が受け止め、発言をしている。「読者の声」での佐川さんからのレポート「講座『ジェンダーから考える詩と世界』の反響、開志専門職大学村松さんの「日本の廃棄野菜はアフガニスタンの不足食料1年分」、書評欄と『詩の檻はない』の国際朗読会レポート<III>に掲載された東海大学倉井さんの「『詩の檻はない』について」などである。千葉県四街道のアフガン人社会では本国では禁止されている女性が学ぶ社会活動とともに、子供たちへの託児・保育教育が実現されてきている。(本欄、金子編集委員のつぶやき参照

★中立公正を建前として標榜するマスコミや「党のクチバシ」理論を掲げるプロパガンダジャーナルには絶対に出来ない活動を、ネット社会におけるデジタルジャーナルとしてウエッブ・アフガンは着実な成長をつづけている。皆さんのより一層のご支援とご指導をお願いしたい。

kaneko20240205

==========<金子 明>==========(2024年2月5日)

毎度お騒がせのイーグル・アフガン明徳カレッジ(EAMC)だが、1月27日が区切りの10回目だった。いつものようにクラスは初級と中級の2つ。この日は合わせて30人を超える女生徒が、日本語の学習に取り組んだ。預かった子どもは15人ほどで、「大人40弱、子ども20弱」という概数がデフォルト化してきている。(ただし細かい顔ぶれは毎週異なる。)

ボランティアの託児班も充実してきており、ライングループに10名超が登録し、毎週5人は手を上げてくださる。順調だ。ほぼ欠かさず参加している学園の福中理事長は、寒くなってからずっと焚き火に精を出し、「きょうは焼きイモをやります」と言う。聞くと奥様が前日、火の通りやすいよう細めのサツマイモを購入し、キッチンペーパーとアルミホイルで巻いて準備万端とのこと。内助の功きわまれりである。

日本のがきんちょとサザエさんが大好きなソウルフードたる焼きイモに、中央アジアを走り回っていた遺伝子をもつ「アフガンっ子」がどう反応するか、興味津々。ちなみに、普通の幼稚園や小学校に通う彼らだが、全員「給食は食べたことがない」と言う。ハラル認証を受けた自家製お弁当をまいにち持参しているのだ。

10時半に園庭に出ると、端っこで理事長と小宮さんが火起こしをしていた。子どもたちも幾人かは火遊びが大好きと見えて、そこへ飛んでいき何やら小枝や枯れ草を集めてくべている。寒い日だったので暖も取れてご満悦だ。イモを火に投じると、すぐにいい匂いが。みな腹の虫が鳴き出した表情だったが、大人たちによると「焼けるのは11時15分だね。」そこで、いつものように遊んで待つ。

初めての焼きイモ
大型遊具、大ブランコ、砂場で騒げば40分などあっという間。気がつくと大きい子たちが焼き上がったイモをもらっていた。

Q. どうですか?
小3男. まずい。
小3女. まあまあ。

なるほど、この子たちにとって「おやつ」とはスイーツ。あのとても甘いクッキーみたいなやつ(差し入れで母親に頂いたことがある)のことなのかな。上記のような浮かない返事だったが食べ続けたのには、してやったり。もっと小さい子たちはおいしそうに食べて、のこった尻尾をつぶやき子に。素朴でうまかった。

日本で学校に通えば、毎日弁当を持っていけば、横並びが大好きなわが文化では、さぞや好奇の目で見られるだろう。おそらくだが、外国の固有名詞と本国のそれを「別の文字体系」で区別表現するのは日本語だけだ。片仮名のトゥーリオは帰化してはじめて闘莉王になった。ガザは英語で普通に「GAZA」だが(その形容詞はGAZAN)、日本語では「がざ」とも「加沙」とも書かれず、いつも何だか遠くにある「ガザ」である。

余談はさておき、日本とは他者の溶け込みを極力排除する土地である。加えて、ハラルに、女性はあのかぶり物。この子たちは、強くなければ生きて行けまい。その険しからん道の舗装が我らがEAMCの目指すところである。

・・・・

そして11回目の開校日となった2月3日は節分であった。暦上は秋に始まリ、冬を越え、春を迎えた。めでたい事ではないか。個人的事情だが、前日の金曜が職場のこども園の豆まきで、日曜は同こども園が地域に開く豆まきの予定だった。真ん中のこの日は「誰が鬼をやろうか?」そりゃあ、あんた・・・

オニ参上
ピーナッツを投げつけられて、そうそうに逃げ出したが、65歳にして初めてオニになった。しかもアフガンっ子に退治されたとあっては、一翻アップだ。幼少のみぎり、オニは獅子舞ほど怖くなかったが、父親が大声で「オニは〜そと!」と怒鳴るのは恥ずかしかった。そんなことをふと思い出す春の日だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

noguchi20240205

==========<野口壽一>==========(2024年2月5日)

★ウエッブ・アフガンのミッションは、身の程知らずにも「アフガニスタンと世界の平和、進歩、人権のために」と大上段に振りかぶった。「世界の」としたので、視野を否応なく広げなければならない。ウクライナ戦争が膠着化し先が見えなくなっている中、ガザ・イスラエル戦争が勃発。その影響はイスラエル周辺のみならず、イエメンへの英米の爆撃。さらにはシリア・イラクへの米軍の爆撃と広がってきた。中東の不安定化は当然日本にも及び、注視しなければならない範囲は文字通り「世界」。

★アフガニスタンに目を据えて状況を見ているのだが、地域の政治・軍事状況は密接に結びついており、連関も複雑だ。事実を中心にの精神で「トピックス」欄では、アフガニスタン周辺のイラン・パキスタン情勢を拾っている。注視すればするほど、アフガニスタンに存在しているさまざまな過激派集団の安息所としてアフガニスタンが利用されている現実が浮かび上がってくる。マスメディアはパレスチナのハマースをイスラム過激派テロ集団と断定する傾向があるが、アフガニスタンを拠点としているイスラム過激組織といっしょくたに論ずるのは危険だろう。

★今号の「アフガンの声」に掲載した論文「団結から分裂へ: 過激主義の台頭」はアフガニスタンが如何にIS(イスラム国)の拠点となっているか、そしてそれが如何にターリバーンに寄生しつつ対立しているか、極めて具体的に論じている。パレスチナにおけるイスラエルとの対立は、ISなどが展開しているイスラム原理主義、過激主義、復古主義、シャリーア主義とはことなり、イスラエルによるパレスチナへの侵略、植民地化、ジェノサイドであり、決して宗教的な対立ではない。その違いは何百回でも繰り返し確認する必要がある。

★もうひとつの「アフガンの声」の論文「テロ、鉱山、民族:なぜタジク人ターリバーンは権力の座から追放されたのか?」は、ISなどとの宗教的な関係でなく、ターリバーン内部の民族・部族的な対立の現在を詳細に論じていて興味深い。アフガニスタン最北東部の山岳地帯バダフシャーン州は、麻薬と地下資源(鉱物)が豊富な地域であり、ターリバーンの財政基盤となる地域だ。しかしここは、民族的にはパシュトゥーン族と異なるタジク族が多数を占める地域だ。この地域で、パシュトゥーン・ターリバーンとタジク・ターリバーンが主導権争いをしている。というよりもパシュトゥーン・ターリバーンがタジク人の追い出しにかかっている。その手法のひとつとして、ターリバーンがパキスタンのターリバーン(パシュトゥーン人)をバダフシャーンに引き込んでいる。だがそうすると、もともとバダフシャーンにいる原住民のパシュトゥーン人とパシュトゥーン人同士のいさかいが生じる。まことにややこしい事態が生じている。そしてそのような対立にISなど中東のイスラム過激派がからみ、さらにまた複雑な連携が累乗化される。

★そのような状況下で、イランとパキスタン間でのミサイル応射があった。パキスタンでは延期されてきた総選挙が今週8日に実施される。対立野党のリーダー・イムラン・カーンは投票1週間前の31日に汚職罪で禁固14年の有罪判決を受けている。アフガニスタンを拠点とするパキスタン・ターリバーンのテロ攻撃も激増している。総選挙がどう実施されるか、目を離せない。

★『詩の檻はない』の運動は、今号でも引きを切らない。フランス語版発刊記念の、ひと晩で地球をひとまわりする詩によるターリバーン批判のイベントであるグローバル・ポエトリー・ナイト参加者からのメッセージだ。ウエッブ・アフガンもいつのまにかグローバル化して、世界の詩人たちと直接メッセージのやり取りができるようになってきた。これまでのSNSでのつながりに加えて、直接の知り合いでなく、運動を通して新しい芸術家や活動家とやり取りができるようになった。ネットワーク化という点では隔世の感がある。当方の能力を高めていかないと世界に置いていかれそうだ。

★「世界の声」には、ソマイア・ラミシュ氏の『「バームダード – 亡命詩の家」1年間の活動報告!』を掲載できた。昨年1月の、ターリバーンによる詩作禁止措置に対抗する世界詩人の抗議運動をウエッブ・アフガンが日本に広めるうえで重要な仕事をなしえた。そのことがこの総括レポートにしっかり描かれている。ありがたいことである。

★「読者の声」欄は今号も中楯氏の健筆が健在、1月15日号に登場した長島氏の笑い茸も再登場した。うつうつとなる現代世界を笑い飛ばしてやっつけよう。関西の筒井さんからは「アフガニスタンDAY」へのお誘いが届いた。関西地方のかた、必見ですよ。関東で手伝える方も連絡してあげてください。

★「森羅万象」ページには村野謙吉氏の「和をもって貴しとなす ―米中露三大軍事大国に囲まれた和国・日本の世界史的意義―」を掲載させていただいた。これは、リードにも書かせていただいたが、村野氏は、つぶやき子には思い入れ深いジョージ・オーウェルの研究家だ。オーウェルは、スペイン市民戦争に従軍し、ファシズムと戦った。そしてその過程でスターリンの指導する共産主義の堕落と反歴史性を身をもって体験した。つぶやき子は、書物の上でのオーウェルの結論をアフガニスタンでわが身をもって反芻した。ウエッブ・アフガンの原点を照射されている気がする論考だ。さらに、村野氏は「十七条の憲法」に込められた聖徳太子の「和」の精神を現代の日本が置かれた状況に照らして解説される。こちらの方はこれから勉強させていただくつもり。

★最後になってしまったが、千葉の明徳学園で進めているアフガン女性のための日本語学校も軌道に乗ってきた。こちらの方は当初の思惑をありがたい方向へ大きく外れ、各所からの注目や支援の申し出も予想以上で、ありがたいことばかり。進展にともなって、自分たちのやっていることの価値も見えるようになってきた。それらはいくつもあるのだが、つぶやき子にとって最大の予想外ごとは、子供たちとの交流。当初は、女性たちが外出できるように、補助的な活動=子守り、といった発想だった。しかし、成人女性たちが日本社会で生活できる最低限の日本語を習得する側面とは別に、これからの社会、つまり、日本社会を背負うかもしれない世代を育成しているのではないか、との想定外の価値が見えてきたのだ。そこいらを今回の<視点>で書いてみた。書きながら勉強不足を痛感した。もっと掘り下げていきたい。

kaneko20240125sono

==========<金子 明>==========(2024年1月25日)

ははは、誰だ「毎週やろう」などと言ったのは? そうだ、我々だ・・・「アトム」放送開始直後の虫プロのような興奮状態の中、今回も「イーグル・アフガン明徳カレッジ(EAMC)」の託児班を中心に、新着情報をお伝えする。

1月20日(土)の9回目授業には37名のアフガン女性たちが登校した。数的には前回とまったく同じ。やっと顔ぶれが安定してきたと思いたいが、そうでもない。この日いちばんに登校した母親が連れてきたのは小学1年生の双子の姉妹で、まったくの初見であった。新人とは早めに来るものだ。ようこそEAMCへ。

いやあ、「今日も子どもたちがたくさんやって来るねえ」と思いながら、ふと時計を見るとまだ10時前。母親たちの時間厳守(以上)と熱心さにはまいど脱帽する。久しぶりにいましたよ。以前3人のおじさんを手玉にとったRちゃん。松島トモ子とジュリー・アンドリュースを足して2で割ったような美人のお母さんは「よろしくね」と2階に消えた。

託児の場所はいつものリズム室。ダンスの授業などに使われる板張りの広いホールで、グランドピアノまである。そこにマットを引いて子供用の机をおき、小さなすべり台を倉庫から出して組み上げたり、積み木などのオモチャを出して「子どもトラップ」を仕掛ける。小さな連中は気がつくと母親が消えているという作戦である。

もう一人の懐かしい顔は3歳のDちゃん。やんちゃだ。しばらく父親が面倒を見たのかな。で、もう嫌だとアピールしたのだろう(と勘ぐる)。だから久々の登場。この娘、やってくれる。さっそくでっかいコンテナから(中空)ブロックをぜんぶ床にぶちまけた。本当にやんちゃだ。

リズム室風景(かぶりつきの乗客が新人の双子姉妹)

すると7歳前後の子どもたちがやって来て、ブロックではなく空になったコンテナに注目。電車あそびが始まった。実にアバンギャルド。そうこうするうち、今度はDちゃんが騒ぎ出し外に出たがった。そこで手を挙げた6人を連れて、この日はちょっと離れた「山のようちえん」(附属幼稚園・乳幼児版)の園庭へ。

古墳があったらしいこんもり山のアップダウンや、複合遊具(秘密基地)を使って遊んだ。その遊具には離れた2カ所にラッパのような器具があり、どうやら中でパイプが繋がっている。こっちでしゃべると、あっちで聞こえる。小3のMKちゃんがつぶやき子と通話したがったので応じたが、おならの擬音(ですよ)を「プー」と聞かせた。うん、やっぱり子どもの興味は国境を越えるねえ。

そうこうするうち、気がつけばお昼前。母親たちが2階から降りてくる。松島トモ子に「どうでした?」と聞かれた。そう言えばきょうのRちゃん、見る限りでは何も拾い食いをしなかった。以前はぺたりと座ると、手にしたものをすぐ口に入れていたのに。「ママに会いたくてさまよってはいましたが、きょうは何も食べませんでしたよ。成長しましたね。」と告げると、とても嬉しそうだった。

実はこの日も脚の立てないMちゃんはやって来た。学園の職員で託児ボランティアでもある増田さんは、朝の受け入れ時から母親が来るのを待ち構えていた。そして「ちょっと話すから通訳して」と言う。以下は「増田さん⇔つぶやき子(英語)MKちゃんの母⇔Mちゃんの母」と回りくどく3言語で交わされた話の中身である。

増田「障害の内容を知れば、よりよく対応できます。どういう症状だと言われているの?」
M母「脳性麻痺です。」
増田「療育施設には行っている?」
M母「週2回通い、あと1回は担当者が家で診てくれる。」
増田「毎日行った方がいいよ。」
M母「夫の許可がいる。」
増田「この分野、日本は進んでいる。毎日通えば歩けるようになるよ。」
M母「夫を説得する。ありがとう。」

Mちゃんの障害が国境を越えてやって来たが、どうやらそれが「転じて福」となるかも知れない。増田さんのような、おせっかい(失礼)ときめの細かさが何かを動かす。つぶやき子が外でDちゃんたちと格闘しているあいだ、Mちゃんはリズム室のピアノの鍵盤を足で蹴って音を楽しんでいたと聞く。ゴメンね、楽器管理者のみなさん。でも光の見えるエピソードではないか。

きめの細かさと言えば、われらが日本語教師たちも相当なものである。元日の大地震をアフガン女性たちがどう感じたかを案じた先生がいて、言葉の分からない中での不安について生徒たちに聞き取りをした。そして当然ながら、日本人よりも知識に乏しく脆弱なことを再確認した。そこで先生たちは、「今こそ、教えれば身につけてくれるはず」と、急遽「災害時対応」の教材を集め始めた。

言葉が分からなかったので犠牲になった、というのは日本語を教える者としての矜持が許さないのだろう。次回の授業で「特別講座」を組むと言う。何という前向きさ、動きの速さ、柔軟性だろう。そして託児班ともども、この方たちもボランティアなのだ。身近に見てしまった困った人たちを放っておけない彼らの活躍ぶりからは、これからも目が離せない。

noguchi20240125

==========<野口壽一>==========(2024年1月25日)

★ガザの悲劇はいまもつづいている。終わりが見えない。知ってましたか? パレスチナ人とは実はアラブ化したユダヤ人のことだって。「国を追われた可哀そうなユダヤ人が約束の地に帰って国をつくる」という話がどんなにバカげた作り話かってことを。⇒ここ読んで、わんわん。

★ほんとに可哀そうと同情すべきは、「1時間に2人の母親がガザで死亡している」との国連女性機関の発表(トピックス欄1月20日の記事参照)。死者の7割が女性とこどもだともレポートされている。ガザのかげに隠れて報道される機会が少ないが、ヨルダン川西岸地域でのイスラエルの植民活動も衰えることなく、パレスチナ人への土地財産収奪とジェノサイド攻撃が続いている。

★ そんな中、南アフリカは、パレスチナ自治区ガザ地区でイスラエルが行っている「破壊」計画は、「国家の最高レベル」が立案に当たったジェノサイド(集団虐殺)犯罪であると国際司法裁判所(ICJ)に訴えている。その裁判の審理が1月11日に始まった。原告となった南アフリカ政府の弁護団はこの日、オランダ・ハーグの法廷で訴えの内容を説明。裁判所に対し、ガザでの軍事行動の停止をイスラエルに命じるよう求めた。イスラエルは12日に弁論する。訴えについて「根拠がない」と強く反発している。(https://www.bbc.com/japanese/67954329

★ 世界世論の連帯を組織し、粘り強い闘いでアパルトヘイトをはねのけた経験をもつ南アフリカは、パレスチナ問題の解決に自分たちの経験を踏まえて取り組んでいる。その責任感ある行動に尊敬の念を覚える。と同時に、ジェノサイド条約締結国には、「ジェノサイドを防止する義務」があるという。そして、紅海を航行するイスラエル船籍ないしイスラエル支援国への攻撃を繰り返しているフーシ派が属しているイエメンはそのジェノサイド条約締結国なのだという。

★ もしイスラエルがジェノサイド条約に違反していると認定された場合、フーシ派の行動は条約によって正当化される可能性がある。自分の都合で安保理決議を利用し、国際条約など最後は力で押しつぶす国連常任理事国五大国であっても、できることなら条約違反と指弾はされたくない、だから英米はフーシは爆撃を急いだ、というわけだ。

★ 戦争犯罪で国際刑事裁判所から逮捕状を出されているプーチン・ロシア大統領は中国や北朝鮮、中央アジア諸国など非締約国以外に出かけると逮捕される可能性があり、外遊がしばられている。勝手気ままをやっているようだが、安保理の常任理事国と言えども拘束される国際関係や大国の思惑は、常人には図りかねるところがある。

★ 話はぐっと身近な国内。分かり切ったことだからここでいきり立っても仕方がないが、派閥パーティーの裏金作りの話がいつの間にか派閥解消にすり替えられてしまった。派閥を解消して書類を処理してしまえば合法的に証拠隠滅だ。派閥解消を宣言した派閥がなんだかいいことをしているように扱われ、解消しない派閥が隠し事をしているように報道される。

★ 振り上げたこぶしを宙ぶらりんにさせている検察にも「失望」のため息。民主主義は選挙だけでなく、三権分立はそれ以上に重要な機能だ。司法と立法と行政が独立してそれぞれを監視し縛る機能がなければ民主主義とはいえない。日本ははたして民主国家といえるのか。

★ 本サイトで繰り返し紹介するアフガニスタンの政治情勢は、ターリバーン一極支配でそれに代わる勢力がいない点で、日本に酷似している。両国の歴史や経済・社会の発展段階や政党のありようなど、極端な違いはたしかにある。しかし、近代社会の規範からは大きくはずれているとしてもターリバーンには、イスラーム解釈にもとづく明確な目標(シャリーア法による統治)がある。しかもパシュトゥーン族の習俗を取り戻そうとする復古主義が歴然として存在する。

★ 第二次世界大戦で打ちのめされた日本は、自らの力で民主主義を打ち立てることもできず、いまは多様性の尊重とか共生社会の実現とか、崩壊しつつある資本主義の次の社会のあり方についてもしっかりした未来像を持っているわけではない。ターリバーンを世界は「デファクト・オーソリティ(事実上の当局)」と呼んでいるが、日本の自民党政権も「事実上の当局」そのもの、いや、公明党の助けがなければ存立できない、それ以下の存在なのかもしれない。

★ アフガニスタンやイランやインドとそれほど変わらないジェンダー指標のわが国で、JALの社長や共産党のトップに女性が選出された。選出されたと言っても別に公選制の選挙で選出されたわけではなく、内輪の禅譲のような選出だ。民主主義とはまったくかんけいない。女性のトップを持ってくればなんとかなる、という姑息な計算にもとづく行為でないことを祈る。

★ 個人的経験で恐縮だが、かつてリクルート事件のころまで、リクルートで働いていたことがある。伝説の江副社長とフリーランスの直契約だったから取引業者扱いで銀座8丁目の本社ビルでパーティに招かれたり(といっても大勢の中のただのひとりだが)エレベーターでたまたま乗り合わせたりしたこともあった。そのリクルートが、上場に絡む巨大金融汚職事件をおこし、没落。1兆円を超す負債を抱え、瀕死(ひんし)の状態に陥った。

★ それを救ったのが、女性として3代目社長に就任した河野栄子氏。経営を立て直し負債をほぼ返し終えて社長を男に譲った。譲ったのか譲らされたのか、その過程ではリクルートの支援にかかわったダイエーが経営不振に陥り、中内㓛氏も経営から退いた。そのころ河野氏のことは「女帝」とか「女の着ぐるみを着た男」とか揶揄されていた。一方で、われわれフリーター組は「リクルートは女の使いかたがうまい」と陰口をたたいていた。女性社員をトコトン使い尽くすやり方を現場で実感していたからだ。

★ 女性をトコトン囲い込んで表に出さない愚鈍なターリバーン。女性を表に立てて苦境の乗り越えを図るずる賢い日本。似ているんだか似ていないんだか。両極端であることだけは間違いなさそうだ。

kaneko20240115

==========<金子 明>==========(2024年1月15日)

2024年が始まってもう半月か? 去年までだと「もう今年も終わったね」などと戯れ言を交わす時期なのだが、今年はまだまだ先が読めない。そこで今回は、この先を占うためにもまず去年の振り返り。つまり「ソマイア・ラミシュの独占インタビュー@成田空港」を書き散らし、さらに例の「イーグル・アフガン明徳カレッジ(今後EAMC)」の最新情報。この二本立てでお届けする。

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6日間の日本滞在を終えて、12月20日にソマイアは成田から離日した。そこで搭乗手続きの列に並ぶ彼女に、ぶら下がりインタビューを敢行した。

Q. 日本で最低だったことは?
S. 日本で悪い点は見つけられませんでした。
ただ食べ物は時に私の好む味ではなかった。(笑)

Q. 日本人の印象は?
S. えー、とってもワンダフルで優しい・・・日本の友だちと、すごくいい時間を過ごせました。

Q. 東アジアに来たのは初めて?
S. そうですね。初めてでした。

Q. 他のアジア諸国は?
S. インドやイランには行ったことがある。でも日本は初めて。

Q. そうした国々と比べてどう?
S. 日本はとても先進的で、私にとっては興味深かった。ここには伝統とモダンが同居している。皆がとても教育されていて、伝統や文化を一にしている。それが私を驚かせたことの一つです。

Q. 来日の目的は?
S. KOTOBA Slam Japanのイベントに参加するためでした。詩人たちと繋がること。「詩の檻はない」を出版した関係者と会うことなどです。そのイベントでは、作品を送ってくれた詩人たちに会えたし、舞台で投稿した詩を披露した作者もいます。

Q. なるほど。その中でも一番の狙いは?
S. もちろん私にとって来日の最大目的はアフガニスタンからメッセージを伝えることでした。日本の方々にアフガニスタンを知ってもらうことは、これまでの歴史の一部で、長い背景のある必然です。だから実際にやって来て、もっと強い関係を結びたかったのです。

Q. 数々のイベントに参加されましたが、印象は?
S. 正直に言って、どれもとても面白かった。日本人の作家や詩人と会えました。観光もよかった。東京も横浜も。私をとても元気づけてくれました。

Q. 言葉の問題で欲求不満にならなかった?
S. それはあったわ。難しいこともあった。詩を読んで、とっても正確にそのメッセージを伝えるのは、言葉を知らないと難しいでしょ。でも、誰かが出てきて助けてくれた。だからそんなに大問題でもなかった。

Q. 目を見てわかることもあった?
S. たしかに、詩というもの自体が国境を越えた共通言語です。音そのもの、抑揚、体の動き、すべてが聴く人の理解を助けたと思います。時には、しゃべることすら必要のない場面もあります。いるだけで強く働きかけ、言葉抜きで心に触れることが出来ます。エネルギーがお互いを刺激する。それが私の考えです。

Q. オランダへ、将来アフガニスタンへ持ち帰るおみやげは?
S. 友情。友情! だれにとっても、それが一番たいせつなものでしょう。

Q. また来る?
S. もちろん。すぐにでも再来日を計画するわ。もっともっといたかったの。会えなかったひともいたし。とにかく今回の日本の印象は、「違う!」ってこと。次に来たら、もっと慣れて接することが出来るはずよ。

お疲れ様でした。つぶやき子はどこぞからもらったボーナスの一部、明治の女流作家の肖像が描かれた紙幣を「寄付します」と彼女に手渡した。すぐに両替所でユーロに替わってしまったが、印象は残したかな。またきんさいや。

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裏庭でたき火(左が増田さんとMちゃんのベビーカー)

「3週間のご無沙汰でした!」 EAMCの新年初の教室は13日(土)。学ぶ母親は37名、同伴した子どもは20名超。相変わらずの人気ですぞ。3月いっぱいの試行期間を経て、4月から本格スタートのための下ごしらえは着実に進んでいる。

いつものように託児班からの報告だが、今回はボランティア・スタッフに少し焦点を当ててみる。かつて「ワーカホリック」とまで言われた日本人。たまの週末、土曜日にしっかり休養をとらずしてどうする? と言いたいところだが、託児スタッフはシコシコ無償でやってくる。この日は計6人。ありがたや、ありがたや。

そして母親たちは学びたい一心で、そんな我々に子どもを託す。前回、とある母親が2階に連れて行き、教室で過ごす少女がいた。それが今回は預かることに。スタッフの充実ぶり(百戦錬磨のベテラン保育士多し)を垣間見て、また集中して学びたい気持ちも強いのだろう。ところがこの6歳のMちゃんは立てない。

そのうえ母が消えるや泣き出す。つぶやき子ならば「もうどしよう?」の局面だ。ところが預かった増田さん(短大スタッフ)は動じない。屋外に出すと泣き止むと気づくや、教室の母親にアピールし、ベビーカーを持ってこさせた。そして理事長がたき火で誘う裏庭で、静かに過ごした。

しばらくして部屋遊びにあきた6人を連れて、つぶやき子も外に出た。あっちこっちで冒険した挙げ句にたき火前に来ると、くだんの増田氏が「せっせっせーのヨイヨイヨイ」と挑んでくる。こっぱずかしいが、対子ども仕事を始めてすでに4年、とりあえず合わせる。「おちゃらか負けたよ、おちゃらかほい!」ってもんだ。

するとどうだ。ベビーカーにのったMちゃんが声を出して笑っているではないか? そのうえ、じゃんけんポーズまでする。袖の奥から出てこない両手はいつもグーではあったが。「いったい体が不自由で外国に来て、どうするのか?」といぶかった自分のさもしい心が吹っ飛んだ瞬間だった。この学校は君のためにあるんだ。

子どもを世話するには、多くの引き出しが必要で、努力を惜しんではならないと先輩の増田さんを見て思い知った。また同じような工夫や洞察が、室内でも行われていることは想像に難くない。これはなんだか「子育ての見本市」である。この素晴らしいスタッフの「仕事」を間近で見られる意義はでかい。生きるモチベはギャラだけではないのだ。

毎週土曜日を少人数でカバーするのは難しい。ボランティア・スタッフはいくらいてもいい。若い力はとくにいるかも(個人的願望)。そんな訳で、読者のみんな、その知り合いの方々が手を上げてくれるのを、今か今かと待っている。

noguchi20240115

==========<野口壽一>==========(2024年1月15日)

★信心深い方ではないので初詣は行ったり行かなかったり。ま、そのときどきの天候と体調に左右される。行くときは近くの稲荷八幡神社。歩いて行ける距離に松陰神社があるのでお参りしたことがある。が、あまりの行列に遠くから拝んで帰ってきたこともあった。それが今年は、神社をつくる、という人と知り合い、6日と少し遅くなったが、興味本位で行ってみた。鳥居と参道入り口に小さな祠ができていて、どんぶりに裸銭のお賽銭がすでに盛られていた。参道そのものや本殿はまだまだこれから。本殿にする予定の建物は戦前に建てられたという養蚕農家の母屋。まだ神社本殿の様相はしていないが、これから外装・内装をそれらしくするのだという。ご神体(というのかな?)は西郷隆盛だという。オーナーもとい神職が鹿児島出身だからでしょうね。しかし、これから神社をつくる、という人に会ったのは初めてだったので興味津々。
★ さらに興味深かったのは、作りかけ神社見学の帰りに案内してもらった般若の丘公園(埼玉県小鹿野町)。今から約1500万年前、この付近を含む秩父盆地が海だったことを示す化石が発見されたことを記念する公園。そこが海であった証拠としてチチブサワラという古生物大型魚類の化石が発見された。なんと2~3メートルにもなるサワラ属の中でも最大級の巨大魚である。いまを遡ること1500万年前、現在では標高200メートルにもなる秩父盆地(当時は海)を泳ぎ回っていたという。もうひとつはパレオパラドキシアというこれまたカバに似た奇獣の化石。1500万年前頃海辺だったここらに生息していた哺乳類束柱目の不思議な生き物の化石が発見された地。珍しいものに出会ったものだ。犬も歩けば棒にあたるもんですなぁ。
★ 秩父盆地が1500万年前海だったと聞いて、縄文海進を思い出した。縄文海進とは、縄文時代の始まり(16,000年前)に近いころに、海水準上昇は約120メートルにおよんだ(年速1–2cm)。ピーク時の約6,500年 – 約6,000年前まで上昇が続き、気候は現在より平均で1~2℃高かったという。この事実を示して、現在の温暖化現象の主因が二酸化炭素とする説を否定する傾向がある。しかし、産業革命後の数百年の気温上昇速度は1500万年昔のころの気温変化スピードや縄文海進のころのスピードとは桁が違うという。やはり近年の気温上昇スピードでは、人がかかわる温室効果ガスの増加を無視できないようだ。
★ てなことを考えていた翌日、7日には、今年初めてのアフガン研究会のあと、RAWAと連帯する会主催の「平和に生きる権利は国境を超える」集会に参加した。”世界最大の「天井のない監獄」ガザの人道危機が進む今、パレスチナとアフガニスタンの支援活動を続ける医師と法学者が現地訪問の経験から、平和的生存権と法の支配と、日本人の私たちがなすべきことを問う”集会である。集会ではRAWAと連帯する会の共同代表で室蘭工業大学大学院教授の清末愛砂さんが集会名となった表題で講演。ガザを訪問して市民の支援活動をした体験にもとづいて現状を報告した。かつて訪れた避難施設がいま爆撃・襲撃の的とされ犠牲者が多数出ている。参加者の怒りの声があがった。50名を超える参加者で集会室は満杯。野口は「アフガニスタンの現在」と題して、『ウエッブ・アフガン』でこの間報道、解説してきた記事の紹介を通して、アフガニスタンの現状と人びとの闘いを伝えた。参加者には本サイトの活動がしっかりと理解、支持された(と確信する)。感謝の限りだ。もっと頑張ってナマの情報を伝えていきたい、と決意をあらたにできた。感謝。
★ 9日には、43年前、野口が初めてアフガニスタンを取材した時にお世話になった、アニースというウズベク語の新聞でジャーナリストをしていた女性一家を富士山観光に招待した。お互いに「あの時は若かったよね」と語り合いながら。お互いにおばあさんとおじいさんになっていた。富士山は珍しく雲ひとつない青空にくっきりとした姿でわれわれを迎えてくれた。ちっとも変わらずに。でも浅間神社公園の400段の石段を一行4人、とにかく全員登り切った。まだまだアフガニスタンの平和と民主化に向けた活動はやっていける、と自信を深めた。
★ 11日も12日も新春賀詞交歓会や年の初めの国家ビジョンセミナーなどに参加して、13日は今年初めてのイーグル・アフガン明徳カレッジ。6時起きで2時間かけて千葉まで通ってアフガンの婦人たちと子供たちを迎えた。その様子は金子編集主幹もとい、金子託児責任者の報告にある通り。アフガン婦人の学習意欲には一寸のゆるみもなく、子供たちの元気ももりもり。受け入れ側のこちらも元気をもらって帰ってきた。
★ そんなわけで『ウエッブ・アフガン』制作の作業をする時間は極めて限られたものになった。とにかく、ニュース発行の15日はなにがなんでも守りたい、そんな意気込みでいまこのつぶやきを書いている。でも記事の中味には手抜きはまったくない。通常号を質量ともに凌駕していると自信をもっている。ぜひ、全編読み通してみてほしい。この間の編集スタッフや協力者や寄稿者の皆さんの熱意を感じられるはず。
★ 今年一年、さらにさらに強力なご支援をお願いいします。

kaneko20231227

==========<金子 明>==========(2023年12月27日)

前回のこのページで「一番長い日」をリポートしたばかりだが、翌週すぐに今度は「そこそこ長い土曜日」が襲ってきた。どうもしまらぬタイトルだが、中身は人気ドラマ「24」も真っ青なエピソードの連続であったと自慢しつつ、以下に詳細する。

始まりは例のイーグル・アフガン明徳カレッジ。前回は終了間際のカットインだったが、今回は8時半に着き、どっぷり参加した。子ども17人に対し、託児ボランティアが7人。あるべき姿だねえ。つぶやき子は外遊びの児童を担当した。にしても暑い。途中Mちゃんと自販機でペットボトルの水を買い、インド飲みで多くの子どもの渇きを癒やした。

【群衆を率いる自由の女神もどき】(12月16日10時30分撮影)

 

授業が終わるとセデカ代表が先生とスタッフを集め、教室で弁当をつつきつつ、ねぎらい会。

セデカ「生徒の一人が言っていました『学校に来れて嬉しい。家に帰ったらしっかり練習します。』」

とある先生「それホントに!?お願いしますよ・・・」

セデカ「新しい生徒が今日も来て、『次回は義理のお姉さんが二人来ます。』」

場の全員「え〜!!(爆笑)」

みな定員問題に関しては諦めたようだ。面白いのは登録生徒(その数をもうここで述べる気も起きん)がみな来るのではなく、登校総数は毎回40人ほどで収まっていること。なんとも自主的な員数管理。さすがのアフガン文化である。一夫多妻が影響している、と書くと青ポチ多数か?

そんなこんなで、弁当12個の残骸を愛車(ハッチバック)の後部につめこみ、西へ。15時すぎに大田区の池上本門寺へ。あの力道山ゆかりの寺の門前にある公民館で、バトルが開かれていた。題して「KOTOBA Slam Japan 2023全国大会」。ロープこそないもののリングに全国から腕(口?)自慢たちがあつまったセメント勝負の競技会だ。

優勝すると世界大会(パリとトーゴ)に出場できるとあって、アタッシュケースを奪い合うレスラーたちよろしく壮絶な死闘が繰り返されていた。しかも勝ち抜くには1日で3回もリングに上り、並み居るライバルを相手に戦わねばならない。プロレスの「トーク部門」のみを抽出したような「詩のバトル」とは言え、肉体勝負である。

 

そこにご存じ「詩の檻はない」をまとめたアフガン詩人ソマイア・ラミシュ氏がゲストとして呼ばれていたのだ。ありがとう!KOTOBA。君たちの誠意と努力で「ソマイア→ウェッブアフガン→旭川フラジゃイルの柴田氏→KOTOBA Slam Japan」のサイクルがこの日、物理的にも完成したのだ。

【戦いを見守るソマイアさん】(12月16日17時15分撮影)

 

ギャラがたったの「モチ2個!」だったとぼやく青年。その他、ナースや高校教師(この2名は秀逸)のパフォーマンス。いつ終わるとも知れぬデスマッチを大いに楽しんだ。ところが、ソマイアが語る段になると通訳がいない!しょうがない・・・お節介なつぶやき子は通訳を買って出(てしまっ)た。

ガラス張りの英語を、中途半端な実力で、並み居る詩人たちをまえに、通訳しようとは、かの力道山もお墓の中で仰天しそうな暴挙であった。通訳者自身がロースト・イン・トランスレーション状態というカフカ的世界である。さっそく来た来た・・・

 

ソマイア「私を動かすのはストロゲンよ。」

ストロゲン?なんじゃそりゃあ?オランダのリポビタンDか?救いを求めて会場を見渡すと、後方にいた女性が、「エストロゲン!」と助け船。でもその時点でそれが「卵胞ホルモン」とはつゆ知らず、ソマイアの女としての勇壮をうまく紹介できず申し訳なかった。高校の生物で習ったかもだが、恥ずかしさが先に出て身を入れて学習せなんだのが、ここにきて響いた。

とはいえ、ソマイアの純粋にして研ぎ澄まされた言葉を通訳できたのは光栄だった。そして、つぶやき子の目をしっかり見つめて、彼女の言葉を心に刻んでくれた聴衆(もちろん詩のファン)たちには感動した。グッド・オーディエンスが、ベスト・パフォーマンスを支えているのだと実感した次第である。

さあ、戦いが終わり、優勝者が決まった。前日に来日したばかりのソマイアをクルマで宿まで送った。「ごめんねソマイア、弁当カスが醤油くさくて」とこの場を借りて遡逆謝罪しておこう。ソマイアは降車後、帯同していたウェッブアフガンの野口編集長(およびその奥方)と、どこぞでディナーをとるべく街に消えた。

こんどは夜の首都高を東へ。目前に迫るスカイツリーがまぶしかった。自宅に戻るや、お腹ペコペコ。妻と連れ立って近所のサイゼリアへ。無事の帰宅を報告せんと写メ(机上の食い物のみ)を送ったら、のぞき見したソマイアが「ワイフの顔を見せないとは金子はターリバーンだ!」と糾弾。

そこで「おぬしら、いつまで食ってんだよ」のコメントを入れて撮り直しを送った。還暦をとうにこえたかみさんの姿である。笑わせるのに苦労したわい。

【エストロゲン異常分泌の妻】(12月16日21時30分撮影)

 

こうして、そこそこ長い土曜日は終わった。みなさんお疲れ様でした。

この日の教訓:朝から晩まで忙しかったが、「モチ2個」だにもらえなかった。しかし「つぶやき子はもっともっと大きなモノを手に入れた。HPが20上がった・・・」さあセーブ、セーブ。

noguchi20231227

==========<野口壽一>==========(2023年12月27日)

★ 歳のことは考えたくも思いたくもないのだが、ソマイアさんを送り出した翌日から若干体調を崩した。
朝5時に起きて7時に笹塚の民宿ロッジに迎えに行き、9時に成田空港着。その場で金子編集主幹と合流し、搭乗手続きを終えて彼女に最後のインタビュー。元気にセキュリティに向かう姿に手を振って金子主幹と昼食しながら打ち合わせ。夕方4時に自宅に帰りつき、うとうとする間もなく、溝の口で大学時代の友人と呑み会。調子に乗ってハシゴしたのが良くなかった。翌日、鼻の奥、喉との付け根あたりがムズムズし始めた。

★ どんな人も体内にウイルスや細菌を飼っている。共生しているわけだ。小生のばあい、喉菌がいて、体力が落ちるとこれが暴れだし、喉風邪となる。コロナ以前は毎年1回はこの菌のお相手をしていたのだが、コロナ中は2年に1回。とても軽くて済んだ。今回もすぐ病院に行き、とにかく安静、と出かけるのをやめて布団の中にいた。おかげで重篤にならず事なきをえた。これで今日、ニュースを出せばホットひと安心。今年も無事に終えられるか、と思いきや、「忘れていませんか?」とニュースが来たり電話が来たりで結局30日まで連続忘年会が入ってしまった。正月にふたたび寝込む可能性がでてきた。

★ アフガンサイトを始めて、良かったことと悪かったことの両面がはなはだしい。悪かったことから言うと、どうしようもない世界情勢や経済情勢に振り回されるようになった。友人は「無視、無視。できないことは考えないこと」と平然としている。書くことは恥をかくことでもあるけど、書いたなりの責任も発生する。それを無視しちゃ虫にもおとる? しかも、アフガンもウクライナもガザも、その他の地域も暗い話ばかり。ソマイアさんの詩ではないが「世界のどの地域も夜」。しかも真っ暗闇にみえる。前回も書いたが気鬱。悪いことはほかにも数々ある。

★ 悪いことも多いが、良いことはそれ以上にあった。なんといっても、ネットワークの恩恵を受けられることだ。昔、インターネットの勃興期、集まった仲間とインターネットは弱者の福音だ、と認識した。「知らない」「教えてくれ」「助けてくれ」と発信すると寄ってたかって知恵者がやってきて教えてくれ、助けてくれるのだ。サイトを発信してその中心に位置してみると恩恵に浴する中心にいるようなものだ。想定外の、実力以上のことができるようになるのが分かった。

★ そのひとつが『詩の檻はない』に結実した詩の運動だ。もともと文学少年だった小生は大学入学前、小説家になるのが夢だった。いまでもその夢は捨てていない。この『ウエッブ・アフガン』をやっているのも自分自身の取材と思索力の涵養と思っている。私小説を書こうと思っているわけではないけれど。かつ、いまさら、18、19でデビューして芥川賞を受賞するような作品は書けない。恥ずかしながら29歳のとき「金芝河論」を書いて文芸デビューしたら金芝河研究の第一人者と目されていた先生(井出愚樹)の怒りを買い、本1冊かけて反論された(現代文学読本 金芝河、清山社)。そんなにむきになるなることもないのにね、と思ったものだった。

★ 詩には思い入れがあった。だが詩壇や文壇への興味は持てなかった。ベトナムやアフガニスタンの革命運動に没入していった。革命ほど面白いものはなかった。しかし、アフガニスタンはドロヌマだった。それまでに学んだ理論も運動もまったく通用しない異空間。もがきもがいて何十年して出会ったのが、ソマイアさんからの1通のメール。いまの日本の詩壇でソマイアさんのアピールに応える詩人なんていないよなぁ、とスルーすることも考えた。しかし彼女が、そして彼女だけでなく、教育と人権を奪われた多くのアフガン女性たちが文字通り必死の形相で命を懸けて訴えて来るその姿を思うと、知らないふりをすることはできなかった。結果、それが今日につながった。今年最大の良いことであったことは間違いない。他方、これからのことを考えると、体がもつかな~、とおぼつかなくもなる。

★ もうひとつは、千葉でのアフガン女性のための日本語教育・生活支援活動のスタートだ。アフガニスタンに行かなくても、足元で「識字教育」の実践ができることを発見した。しかも学校法人明徳学園というとんでもない助っ人が現れたのだ。日本に政治難民としてだけでなく、生活上のさまざまな条件をかかえて日本でくらすアフガン人子弟子女がいたのだ。最初8人ぐらいを対象にできるところから、などと思って計画を立てていたらうわさを聞いて駆けつけてきた女性が1回目から20人。しかも赤ん坊や子供づれだ。帰ってくれともいえず、受け入れると次の週には30人、つぎ40人と増え子供も20人、30人といった具合。とにかくそれ以上は無理、とストップをかけたが結局1カ月後には子供をいれて70人を超す人員となった。「学校」で「学ぶ」という体験ができず、あこがれたまま日本で、家庭の中に閉じこめられている女性がたくさんいたのだ。アフガニスタンが日本にもあったのだ。驚くべき発見だった。

★ そのほかにも、いろいろと教えてくれる人々がいて、取材の範囲や取り扱うテーマがどんどん増えた。そもそもサイトを始める時、サイトのミッションを「アフガニスタンと世界の平和、進歩、人権のために」としたのがいけなかった。こんなに広く高く大風呂敷を広げたら世界のすべてをつつみこまなければならない。そんな大きな風呂敷はふたりの編集委員だけではとても広げることもたたむこともできない。ここでもまた、自分の蒔いた種で苦しむことになるのだろう。

★ しかしその苦しみは楽しみでもある。さきほどの友人が言った「できることだけやればいいの」の精神でやれることをやっていれば、きっと、誰か助けてくれる人がでてくるに違いない。そもそもこのサイトだって、最初はボケ防止を兼ねて、と始めたらいろんな人が助けてくれていつのまにか「絶対にボケ防止などと言うな」と忠告されるまでになってきた。

★ そんなわけで、2023年は『ウエッブ・アフガン』にとって画期の年となりました。ご支援くださった読者の皆様に心より感謝申し上げます。そして、来年も皆様ともども健康でさらに高みへと進める年になりますよう努力いたします。ありがとうございました。

kaneko20231215

==========<金子 明>==========(2023年12月15日)

去る12月9日(土)はつぶやき子にとって、この4〜5年で「最も長い一日」となった。自業自得ではあるが、いかに「あーいそがし、いそがし」状態であったか報告するので、お付き合い頂こう。

わが本職はとある放課後学童クラブの補助員である。で、その学童はとあるこども園に併設されている。9日はそのこども園の「発表会」であった。与えられた職務はその撮影。テレビのディレクターだった時代から、撮影はお手の物である。園内生中継も含め、4台のカメラを駆使して動画を収録。11時半にそれが終わると、14キロほど離れた千葉明徳短大へクルマを飛ばした。

かねてから紹介している「イーグル・アフガン明徳カレッジ」の第5回教室の最終場面にぎりぎり間に合った。といっても、担当は「子守」なので、まずリズム室なる子守現場へカットイン。小3のお転婆娘AKちゃんが「逮捕!」といって出迎えてくれた。つぶやき子がいない間がんばってくれた3人の保育士と合流し、子どもたち(20人超!)の追い出しと、後片付けを手伝った。

母親が学ぶ間に子も学ぶ(12月9日撮影)

聞くと「カレッジ」は今回も大盛況。初級と中級、二つの講座で生徒数は40人を超えたという。香水の残り香ただよう教室の消灯、戸締まりを確認してから、「カレッジ」の主催者セデカ代表らと学食へ移動した。そこで配達された弁当をかっくらって(学食は土曜閉店)、次の出番に備えた。

この日の午後、短大の理事や評議員たちを対象とした講演会が開かれたのだ。トーカーはセデカ代表と、5月に来日したばかりのアフガン女性フルハーさん(現在、千葉大の学生)。この「カレッジ」の生みの親、千葉明徳学園の福中理事長が企画したイベントだ。つぶやき子が壇上の二人を紹介したあと、学園の重鎮たちは遠国アフガニスタンにおける女性たちの境遇に耳を傾けた。

パワポを駆使した両人による解説、会場からの質問(日本に住んでの苦労は?など)に答えて、3時半に講演は無事終了した。ところが、がぜん面白くなったのは、それからだった。セデカ代表を囲んでの立ち話が始まったのだ。いつも我々カレッジスタッフを「はっ!」とさせ、モチベーションを高めてくれるあの「セデカ節」が、そこでも炸裂した。

実はこの日、カレッジを取材していたとある全国紙の記者が、生徒の一人をインタビューした。通訳はセデカ代表。生徒が答える、「わたしは3年生までは小学校に通えた。だが父親が死んで学校をやめざるを得なくなった。15歳で結婚したので復学など出来なかった。それがこうして日本でまた学校というものに出会えた。」そう絞り出すや彼女の目に涙が溢れたという。

「もうポロポロ、ポロポロ。通訳していた私もびっくりしました。」それはかつての悔しさといまの喜びが入り交じった涙だったのだろう。立って聞く我々(教育関係者)の目にも、もらい涙がにじむほどのインパクトだ。「学校があるってそんなにありがたいことなのか」と。

無慈悲なセデカ代表は聞き入る我々にさらなる追い打ちをかける。アフガン女性の日本での暮らしぶりをずっと追っている某国営(風)テレビ局がある。その一環で、四街道市(我らが「カレッジ」も生徒の大半はここから来ている)の外国人支援事業が取材されたときのエピソードだ。

「そのアフガン女性の家族は内戦を避け、パキスタンに逃げました。そこで小学5年生まで、学校に通っていたのです。でも家族の男たちはみな勉強することに反対していました。あるとき祖父が彼女の足に熱湯をかけました。歩いて学校に行けなくするために。それでもなお行くなら『殺す』とまで言われたのです。」

平和な日本では信じられないことが、世界では起きている。学びたい女性たちがその思いを遂げられない現実が間違いなくある。これが、我々がスーパーなどで出会うかも知れないアフガン女性の体験なのだ。何かの縁で日本という国を選んでくれたのなら、せめて「来て良かった」と思ってもらえるよう精進したいものである。それが「愛国」だとつぶやき子は思う。

さて、夕方はふたたびこども園に戻り、ほったらかしにした撮影機材を撤収。さらにその夜はこども園の忘年会(実に4年ぶり!)であった。珍しく顔を出した福中理事長が、別席でつぶやき子がうら若き保育士さんたちをおちょくっている間、アフガニスタンについて熱く語っているのを、パーティー効果で耳にし嬉しかった。

いやあ、ほんまに忙しい一日であった。

noguchi20231215

==========<野口壽一>==========(2023年12月15日)

★ さすがのバイデン米大統領もついにイスラエルの蛮行についていけなくなったようだ。「ネタニヤフはかわらなければならない」と発言した。もっと早くそうしてれば尊敬されたのに。オッセーヨ、と言われるだけ。はたまな「変わる」なのか「代わる」「替わる」なのか。はっきりしてよ。イスラエルのネタニヤフ政権は「天井のない牢獄」と言われていたガザを徹底的に破壊し、住民を殺害しエジプト領に追い出そうと思っているようにしかみえない。ヨルダン川西岸でも攻撃を強めている。ハマースの自爆テロ戦術に武力で対抗しようとしてイスラエルはますます国際的に孤立を深めている。パレスチナ人への差別も、民族浄化、アパルトヘイトだと認識されるようになってきた。武力の連鎖ではイスラエル人民もパレスチナ人民も救われない。
★ ウクライナ戦線は膠着状態がつづき、ゼレンスキー大統領はアメリカに出向き、米議会に直接支援要請を行っている。しかし共和党はバイデン米大統領が要請している614億ドルのウクライナ支援の承認に難色を示し、「勝つための明確な戦略を示せ」との立場。正義や進歩や平和といった理念はもはや世界政治では通用せず、死と破壊しかうまない武力でしか紛争に決着をつけられないほど人間=現代社会は退化してしまった。
★ わが日本では、パーティー券のキックバックを裏金にしてきた安倍派を検察が徹底捜査しようとしている。賭けマージャン検事長をめぐって、検察庁の人事まで操作しようとした安倍元首相への意趣返しではないか、などの推測も飛び回っている。自民党の腐敗ぶりが暴かれるのはよいけれど、それで政界が浄化され、正常化されるとはとても思えず、国際政治の混迷とともに、個人の気持ちのなかにはやるせなさがどんどんと広がっていく。
★ アメリカの大統領選挙にむけた動きも「鬱」の原因のひとつだ。
★ ポーランドのように100万人デモで政権を変えるようなことのできない日本の庶民には、どうしようもないことばかり。ハマースのように〝暴虐武人〟もできない芸当。考えれば考えるほど無力感にさいなまれてしまう。こういうときは、座禅を組んで心をあらい鬱のもとを取り除き無心になるしかない。無心に座り、丹田に力をいれ気を集中し、肛門を締め肩の力を抜くクンバハカを実践してみよう。そして、森羅万象のコーナーに掲載されている村野謙吉さんのエッセー「ワルシャワで想う”脆弱な花盛りの世界”」を読んで考えてみよう。

kaneko20231205

==========<金子 明>==========(2023年12月5日)

あっという間に11月が逃げていった。その間、これまでにない貴重な体験を得ることが出来た。このサイトには、立ち上げからず〜っと関わっては来たものの、アフガン人に会ったことなど、ホンの数えるほど。読者の皆さんと同レベル(いや、おそらくそれ以下)にリアル・アフガニスタンには縁遠く、つぶやき子にとってアフガン人はレアな存在であった。


【遊んだあとは自ら進んでお片付け】(11月25日撮影)

そこは、道を歩けば見かける旅行者然、英語教師然とした西洋人とは大違い。彼らに「会う」と想像するだけでドキドキする。それがどうだ! いま、イーグル・アフガン明徳カレッジの月間報告(のようなもの)に目を通しているのだが、11月の4度の授業だけで延べ157人(実数で80人ほど)のアフガン婦人および子どもたちと面識が出来てしまった。とつぜん、アフガン・ファミリーの一員になったような気分である。

そんなうれしい感情とは別に、困ったことも起きていた。受講生の数が当初の想定(なんと8人!)をはるかに超えてしまったのだから、困らない方がおかしい。先生の数も、借りられる教室の数も、子守の人員もその場所も、すべてが追いつかない。幸い、先生方の超人的かつやくと、千葉明徳短大の柔軟な対応(教室数も児童待機場所も倍増!)で先月はどうにか乗り切った。だが、大方の意見は「今後どうにか手を打たねば。」こう正論で諭されるとグーの根も出ない。

そのうえ、とある事情通によると「やがて生徒数は200人になる」とのこと。いつぞやつぶやいた「嬉しい悲鳴」がこの半月で「苦しい悲鳴」に変わった。このままではまずい。ところが、あせる我々を尻目にひとり泰然と構えるスタッフがいた。イーグル・アフガン復興協会のセデカ代表である。11月最後の授業の後、彼女は教室に残った我々を前にこう切り出した:

「ヘラートからやって来た女性がいる。彼女は一度も学校に通ったことがなく、子どもの頃から学校に行くのがあこがれだった。だが、許されなかった。それが来日して、やがてこの教室を知った。そんな思いで駆けつける人たちに『お引き取りを』ということはできない。」

貧しい国と言えば、つぶやき子はネパールを数回たずねたことがある。そこでは朝、かわいい制服を着た子どもたちが町の学校に向かうそのはるか前に、頭に草を入れるカゴや布を担ぎ野良着をまとった同じ年頃の少女たちが山へとのぼる。また、町にくだる痩せた少女たちは自分の体重を超えるリンゴのカゴを背負っていた。15キロの道のり。一度休むと自力では立てない。通行人が起こしてやると、またトコトコ歩き出す。

ヘラートの彼女もそんな境遇だったのか? そのうえ、アフガニスタンではずっと戦争があった。我らが教室に学びに来るのはみな平和を知らない女性たちなのだ。この事実を踏まえると、彼女らの学習への意欲は「神々しい」とたとえても過言ではない。前回つぶやいたRちゃんの母親も、そうした迫力で子どもを預け、勉学に勤しんでいたのだ。

やりだしたからには、後には引けない。需要があるなら満たしてやらねば、やりだした意味がない。二階に上げてハシゴを外してはいけないのだ、とセデカ代表の話を聞いて肝に銘じた。では、どうするのか? 明確な答えが、ググれば出てくる訳ではなし、はやりの「何たら何たら」でも答えられるまい。これまで誰も手を出さなかった世界なのだ。

少しずつ「協力したい」という声も聞こえてきた。日本語を教えるだけでなく、料理を一緒に作ったり、子育てについて語り合ったり、手芸の相互伝授などはどうか、と提案する知人もいる。子守から派生して、遅れがちなアフガンキッズの勉強をサポートしたいという若者も出てきている。

この事業が交流の場を生み出し、相互理解の糸口にするという原点を、いま一度見据え直して、今後の進捗につきこの場を借りて報告させていただく。

noguchi20231205

==========<野口壽一>==========(2023年12月5日)

★ 前号<視点>で「ラベル思考の危険性」について書いたら、「ユダヤ≠イスラエル、ユダヤ≠シオニストなのに、一緒くたにされていることに違和感や意図的なものを感じます」と賛同のメールをいただいた。さらに、「宗教」が紛争や戦争の原因のように言われるが、それは誤訳による偏見ではないか、との指摘もいただいた。

★ もともと「宗教」という単語は仏教用語で、戦争や紛争とは無関係なのだそうだ。明治期に英語の「religion」(レリジョン)の訳語に用いられたために誤解が生じたのでは? という。教えに従って調べてみると確かに、「宗教」という用語は「宗」の「教(おしえ)」の意味で、仏教を指す単語だ。大谷大学のホームページに掲載されている小川一乗氏の「宗教」についての解説によれば、なぜ誤訳なのかつぎのように説明されている。

★ レリジョンという言葉は、その語義解釈によれば、キリスト教では「神と人間との再結合」という意味である。エデンの園において神との約束を破った人間は、神に背いたという原罪を持って生まれているが、神にその罪を懴悔することによって、再び神と結び付き救済されるという意味であり、「宗教とは人間と神(聖なるもの)との出会いである」などと説明されるのも、この語義解釈による理解をあらわしたものである。そうであれば、神の存在を認めない「神を持たない宗教」としての仏教はレリジョンでないことになる。(小川一乗)

★ ゾロアスター教の唯一神アフラ・マズダに発するユダヤ、キリスト、イスラームの系譜は唯一神信仰であるがために正邪を明らかにするさい相手が自分と違うとなれば、論理的必然として相手に対して非妥協的にならざるをえない。妥協すれば融合することになりおのれが消えることになる。「多文化共生」というコンセプトは一見進歩的に聞こえるが、真理はひとつという思想が紛れ込むとやっかいなことになる。目指すべきは「共生」を超えた先の「融合」なのではないだろうか。

★ さらに連想を膨らますと、新約聖書の「はじめにことばありき」という有名な語句も誤解されている。確かに、私も言葉の重要性を述べる時にこの成句を使ったりする。しかし、聖書の「ことば=ロゴス」は単純な「言葉」の意味ではなく「神」そのものを指し、「言葉の重要性」を述べたものではないという。(https://www.suomikyoukai.org/?p=13571)私が高校生時代に購入した聖書(フェデリコ・バルバロ訳ドン・ボスコ社刊)によれば、該当箇所は「はじめにみことばがあった。みことばは神とともにあった。みことばは神であった」と疑問の余地のない翻訳だ。つまり言いたいことは、聖書のヨハネ福音書の冒頭は、言葉の重要性を述べたのでなく、「はじめに神がいた」、神が万物をつくったのであり、神が作らなかったものはなにひとつない、と述べているに過ぎない、ということだ。

★ 本当に言葉の重要性を述べようとすれば、日本語「ことだま=言霊」のほうが適しているのではないか。コトバンクで「ことだま」を引くとつぎのように解説されている。
「ことばに宿る霊の意。古代の日本人は、ことばに霊が宿っており、その霊のもつ力がはたらいて、ことばにあらわすことを現実に実現する、と考えていた。」(出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)「口に出せばかなう」とか「忌み言葉は避けよ」などの日本庶民の知恵は、言葉に秘められた「霊力」を見抜いているといえる。

★ 『詩の檻はない』にかかわって、文学運動の場でよく問題にされる、文学や詩が現実にどれほどの役に立つのか、という自問自答の声を聴いた。言葉に宿る霊力を信ずれば、念仏をとなえるように平和の言葉を口に出し続けることは、平和につながる道なのではないだろうか。

★ 冒頭に紹介した方によれば、「ほぼ、一神教の方々が殺戮や侵略、差別や虐待、その他の多くの問題を犯されているようにお見受けします。本来の意味から言うと”宗教”は仏の教説の真髄を表す用語なので問題や争いが起きるはずがないのです。明治期の誤訳のせいでみそくそにされて一緒くたにされてしまい、現代の仏教徒は困っております」とのこと。「言葉」というものはいささかもおろそかにできない。

kaneko20231125

==========<金子 明>==========(2023年11月25日)

嵐のような3週間が過ぎ去り、いまホット休日(まさに勤労感謝!)を楽しんでいる。そのため今回は、かる〜くつぶやく所存だ(いつもだろ!との突っ込みはこのさい認める・・・)。

突如はじまった“学校ごっこ”】(11月18日撮影)
(外野の声:ややっつ、マイナスを教えてる?)
=====

さてここまで3回の日本語教室。先生たちの苦労を尻目につぶやき子はアフガン児童たちと楽しく遊んで来た(えへへ)。相手した子どもたちは延べ50人。飯のタネ(学童保育補助員)にフィードバックもできる貴重な体験である。その中から得たちょっとした発見と、授業後にインタビューしたある先生の声。今回はこの2本立てで、行ってみよう。

【発見】
★3回目は附属幼稚園の園庭が使えず、室内ですごした。そこでいろんなおもちゃを準備した。りかちゃん、シルバニア、プラレール、磁石のお絵描き板、ミニカーなどなど。補助員としての経験から、遊ぶのを見ながらの心の声は「ああ、終わったらあと片付けが大変だ。」どれもパーツが細かいのだ。ガクガク、ブルブル。そしてあっという間に2時間が過ぎた。するとどうだ。全てのおもちゃが元通りにしまわれているではないか?細かいミニカーまで、もとあった箱にうまく並んで駐車されている。これはなんなんだ!

保育士の諸先輩がたも、あとでその話を伝え聞き驚いていた。そこで見事な後片付けの理由を考え、こうではないかと思いついた。つまり、彼らにとっておもちゃは宝なのだ。だから遊んだあとは、次も自分が遊べるように、もしくは別の仲間が楽しめるように元に戻す。おもちゃに溢れきった生活を送っている日本の児童には思いも寄らない環境へのリスペクトではないか。
この子たちは自国で苦しんだ。だからこそ持つ、人への愛に根ざした物への愛。イスラームの教えにあるのかもしらん。それは小さな異文化の者たちが気づかさせてくれた大きな贈り物であった。

★ここ2度、Rちゃんという3歳ほどの女児を預かっている。母親から「自閉症で何でも拾って口に入れるので気をつけて」とのノーティス付きだ。目を合わせてもらうのに30分ほどかかった。外でも中でもぺったり座り込んだら危険信号。次の瞬間てにした何かを口に入れてしまう。
前々回はつぶやき子が、前回は福中理事長と千葉明徳高校の元教師・上田先生(いまは小学校教諭)が、つきっきりで見た。おじさん三人を手玉にとる小さなアフガン娘の図であった。日本なら「そんな子は親がしっかり見るべきだ」となるだろう。ところが母親は「学びに来たのです」と悪びれもせず預ける。

そこでまた考え込んだ。果たして「この母親には困ったね」で終わらせていいのか? そう考えてしまうのは、我々に何か欠けたところがあるからではないか? アフガニスタンでは、これくらいの特質なら人に預けて当然なのだ。「気をつけてね」と。その子の面倒を見るのに資格もへったくれもない。その結果、細かい我々は少子化に苦しみ、大雑把な彼らは子だくさんを謳歌している。

誰かさんが言う「異次元の少子化対策」とは決してカネの話ではないと、Rちゃんに教えられた気がする。

【先生の声】
もらった名刺に肩書きがいっぱい。そんな御仁がつぶやき子は苦手だ。それは小宮さんという日本語教師のご主人で、小宮さんに漏れなくついていらして、ご夫婦で全打ち合わせおよび全授業に出席してくださる。さらにこの2回は、チャーミングな娘さんの「よっこ」保育士まで連れてきてくださり「この方々がいなければ、今頃おおゴトだったね」と感謝の心やまのごとしである。すみません、これからは名刺の肩書きが多い人も「かたより見」しないと決めよう。
前置きが長くなったが、当の小宮先生は教師歴はまだ浅いものの、日本語の先生の例に漏れず異文化が大好きで、笑顔がすてきで小柄な女性である。

Q なぜ日本語を教えるの?
A もともと美容専門学校の講師だが、外国人にも美容を教えようと日本語教師になった。

Q: アフガン人の印象は?
A :2回目の授業で「携帯電話を教えて」と、とても人なつっこい。帰る際にも「きょう楽しかった」と言う。コミュニケーションや楽しみを求めて来ているように思う。仲良くなりたいと思う気持ちがとても嬉しかった。

Q :嫌な奴はいないの? 勉強嫌いの生徒とか?
A :よそでは見かけるが、ここの生徒はみな学びたがっている。本気で真剣にやってくれる。「もういいよ」って声をかけるくらい字を書く。この生徒たちは伸びる。

Q: 小宮先生の売りは?
A :教えているようだが、実は教えられている。例えば、子どもを愛することの大切さ。それが伝わって来た。またきれいな生徒が多い。だから顔を隠すのかな(笑)。

Q :異文化に触れてどうですか?
A :日本人にも異文化はあるので気にしない。しいて言えば、みんな積極的。「ところでみなさん、この白板に書ける人?」と聞くと「書けます」と次々出てきて、全然書き順違う。でも平気。純粋だなと思った。

Q :彼らの苦労へのねぎらいは?
A :いや、彼女たちは苦労が財産みたい。ここでしっかり学んで次の分野で活躍して欲しい。

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なるほど、教師も教師なら、生徒も生徒。ここで起きているのはただの語学教育ではない。何だか分からんが、それを越える何かなのは間違いないと納得し、心を新たにした。

noguchi20231125

==========<野口壽一>==========(2023年11月25日)

★ おととい、「第18回難民映画祭2023」に行ってきた。難民映画の「お祭り」というのは違和感があるが主催者の感覚なのだろうから、ま、文句はいうまい。お目当ては、『私は歌う ~アフガン女性たちの闘い~』を観ることだから。

★ 主催者の宣伝文句によれば、アフガニスタンの大ヒットオーディション番組「アフガン・スター」審査員のアリアナ・サイードと、その番組に出演したザハラ・エルハム、サディカ・マダドガルの3人が女性の権利獲得のために奮闘する姿を描いたドキュメンタリー映画。作品のおもな舞台は2019年、ターリバーンが復権してくる前の緊迫した状況のもと、いままで男性の優勝者しかいなかった歴史を覆して、女性が優勝を勝ち取るまでの物語だ。

★ 映画では勝利までのよくある奮闘ものと違って、女性が人前で歌を歌うこと自体が「恥ずべき」こととして家族や親せきからも「殺す」とまで言われながら、女性として自己を表現したいという欲求を貫く物語である。ターリバーンが歌舞音楽を禁止する以前に、女性は古い社会の戒律によって抑圧されていたのである。

★ ターリバーンがさまざまな芸術を禁止抑圧する以前に女性は自己表現そのものを旧社会で抑圧されていたのだ。現在、アフガニスタンの女性たちは、2重の抑圧を受けている。旧社会の部族的封建的南アジア的ミソジニーと、極端なイスラーム解釈による時代錯誤的戒律である。彼女たちはこの2つの桎梏を同時にはねのける闘いをつづけている。

★ オーディション番組の審査員をしているアリアナ・サイードは、アフガニスタンだけで有名なだけではない。むしろ、最初のシングルをだしてデビューした20代初めには海外で有名(ロンドンに住んでいた)になったが2011年に彼女の曲「Afghan Pesarak」がリリースされたあと、国外にいるアフガン人のあいだで有名になり、世界中で多くのコンサートが開かれ、歌ってきた。アフガニスタン以外で人気のピークに達したとき、彼女は脆弱な母国の国内コンサートで演奏することを決意した。そしてつぎつぎとヒットを飛ばし、アフガニスタンを代表するシンガー・ソングライターとなったのだ。(Wikipedia参照

★ アリアナ・サイードはシンガーソングライターであるだけでなく、女性解放と平和運動の活動家である。日本ではあまり知られていないが、今回の難民映画祭で多くの観客にその名前とパフォーマンスが知られたのは幸いだ。しかし、映画は、サイードの知名度によりかかるのでなく、女性たちが、テレビというマスメディアとシステムを通して自分たちを表現する権利、そして女性の優秀さをプレゼンするために古い制度と因習を打ち破る姿にスポットを当てていた。素直に賞賛したくなる制作姿勢だ。しかし、その努力も、2020年のアメリカとターリバーンによるドーハ合意でより危険度を増し、2021年のターリバーンの復帰により灰燼に帰した。

★ 結末は悲しいものだったが、その悲しさを踏み台にして、再び、新しい夜明けを告げる歌声が、世界の人々の想いとともに必ずやよみがえる、否、よみがえらせなければならないと思わせる作品であった。

★ アリアナ・サイードについては彼女の歌声「わたしは燃えさかる大地に咲く花」を『ウエッブ・アフガン』で訳詞とともに紹介した。この歌の一部は映画では「マン ハミーナ」という忘れがたく印象的なメロディーが披露されるシーンがあったが、『ウエッブ・アフガン』ではその全曲を鑑賞できる。お聴きになり、彼女の実力と詩の力とを確認していただきたい。(ここをクリック

kaneko20231115

==========<金子 明>==========(2023年11月15日)

「ヌストゥきらい。」

早口でつぶやいたのは、母親が日本語教室に通う6歳の少女Sちゃん。教室の開かれる千葉明徳短大まで家族で電車に乗ってやってきた。授業開始は朝10時なのに、8時45分には教室前に到着したという。兄たちとわしゃわしゃ騒いで待っていた。母親はパンクチュアル以上。ものすごい日本語習得への意気込みである。

さすがに1時間以上も教室前で待たせるわけにもいかず、子どもたちを1階にある子どもスペース(短大の授業用なのだろう)に連れて行き遊ばせた。木の枠で囲まれた1畳ほどの檻?があり、その壁にはクルクル回すと中の小物がゴロゴロまわる透明の筒(わかりーる?)や、あっちこっちの紐を引っ張ると、そっちこっちの紐が突っ張られる楽しい仕掛けがある。

冒頭のひとことは、しばらく遊んだあとに、Sちゃんが発した言葉だ。悪いが、聞き取れん。誰かいやなライバルが身近にいるのかな? 何度か聞き直してやっとわかった。それは「アフガニスタンきらい。」聡明で、日本語ペラペラで、保育園でもボスキャラとお見受けするSちゃんによるワン・フロム・ザ・ハートであった。

親切にしてくれる日本人へのリップサービスもあるだろうが、かの地が幼児に「きらい」と言わせる環境だったのは間違いなかろう。漏れ伝わるどんな記者の報告よりも胸を打った。平静を装ってこう返す、「大変だったんだね。でもそれをSが変える。いつかアフガニスタンに戻ってSが楽しい場所にするんだよ。」

わかったかい? と確かめる前に、Sちゃんは背丈以上の長さの巨大なチャンバラ棒で兄たちと、どつきあいを始めていた。その笑顔を眺めながら、ふとある相似形に気がついた。それは以前ここでさんざんつぶやいたザイーフ(ターリバーン創設者)の少年時代との類似性である。

逃げて他国へ。ザイーフはたどり着いたパキスタンで宗教学校に学び、長じて「世直し運動」ターリバーンを興した。つまり逃げて求めたものは、亡命先での安穏ではなく、立ち戻っての改革だった。そこはすごい。彼らはやがて政府を倒し、良くも悪くも国を変えた。

幼いSちゃんは日本へ。将来ここで幸せになるのも結構。そのために母親は日本語を学び始めたのだろう。だがやはり、だがやはり、祖国が嫌いなままではいけない。願わくはこの地から、ザイーフよろしく捲土重来。いつか人権を大切にする民主国家をアフガンの地で興して欲しい。そんな思いは誇大妄想か。ともかく夢はでっかくありたいし、彼女にその資質と資格はある。

最初「8人くらいは来るかなあ」と想定していたイーグル・アフガン明徳カレッジの生徒は、2回目でもう30人に達した。主催者側は「これ以上、受け入れられないよ〜」と嬉しい悲鳴だ。つぶやき子も甘かった。「わしが面倒みちゃる」と大見得を切って預かり始めた子どもたちは、いまや総勢22人だ。

そのうち3歳から12歳の15人を隣の幼稚園園庭に連れ出して遊ばせる。授業中の母親が少しは心配するかと思ったが、真逆。前半の教室が終わってブレイクに入ると、教室スタッフがさらにこんまいのを連れてくる。「この子も見て」ですと。いやはや、みんな必死なのだ。そして授業が楽しいのだ。もっと子守ボランティアがいるな。誰か手を挙げてくれるとありがたい。

モチベ高揚のため、最後にアフガン子守の楽な点をひとつ:
彼らは泣かない。日本の子どもたちとはちょっと違う。母親と離れても、園庭の柵の所でじっとたたずむだけ。それが民族性なのか、すでに涙が涸れたためかは分からない。

noguchi20231115

==========<野口壽一>==========(2023年11月15日)

★「ガザで国連職員100人超が死亡 1カ月超の犠牲者数で最悪」、と11月11日にロイターが報じた。同日のガザ地区保健省は10月7日からのイスラエルによる報復攻撃で、1万1078人が死亡(うち4500人以上は子供)、負傷者は2万7000人を超えている、と発表。同日(10日)のイスラエル人の死傷者は1200人以上(国連人道問題調整事務所発表)。

★ 「ガザに原爆を落とせ」とイスラエルのエリヤフ・エルサレム問題・遺産相が発言したとして物議をかもしている。しかし廃墟と化したガザの市街地の映像を見ると、すでに原爆投下以上の惨劇だ。ガザの住民200万人に対する死者1万1078人を日本の人口1億2000万人に引き直すと、66万4680人。この数字は広島(14万人)、長崎(7万4000人)、東京大空襲(10万5400人)の死者数合計の2倍以上である。

★ しかしそれよりも酷いのは国連職員の死亡者数の多さである。病院や救急医療活動中の国境なき医師団などの外国人医療従事者の死亡もかなりの数にのぼるとのレポートもある。非戦闘員の住民や人道活動に従事している人びとの死を思うと胸が張り裂けるような鎮痛な気分に陥る。今号では「世界の声」に伊藤正氏の「ガザ・イスラエル戦争 ~一日も早い停戦を~」を掲載した。これを読むとイスラエルの国内および世界のユダヤ人コミュニティにも、現在のネタニヤフ政権のやり方に対する批判が大きいことがわかる。一日も早い停戦と、恒久平和を保障する2国共存体制への道が開かれることを望む。

★ 一方、ウクライナ戦線は「膠着状態」に陥ったとウクライナのザルジニー総司令官が英エコノミスト誌に語ったとしてこちらも物議をかもしている。総司令官は膠着の理由は、双方が同じような装備で同じような戦い方をしているからであって「この膠着を打開するには新しい何かが必要だ。中国が発明し、今も相手を殺すのに使う火薬のような何かだ」と述べている。

★ この発言を受けて日本のテレビでは「戦争専門家」が登場して必要な兵器や膠着打開の戦法をあれやこれやあげつらっている。サッカーや野球のゲームを語るかのように。しかしそれ以上に驚くのは、ザルジニー総司令官の評論家風のインタビュー内容、自分の非力を公然と吐露して恥じない態度。命をあずける国民はいったいどんな気持ちでそんな発言を聞くだろう。

★ ザルジニー総司令官はこのインタビューで、ソ連軍のスミルノフ少将が書いた第1次大戦の分析「強固な防御線の突破」という本を読んで現状とそっくりだと感じた、という。どうせ読むなら、ベトナムのボー・グエン・ザップ将軍が書いた「人民の戦争 人民の軍隊」を読んでほしかった。この本には、軍備がほとんどゼロのベトナム人民が近代兵器で武装したフランス軍を完膚なきまでに打ち負かしたその秘密が書かれているのだ。そしてその本で書かれた戦法・思想をさらに発展させて、ベトナム人民はフランス軍とは比較にならないほど大規模かつ強固なアメリカの軍隊と傀儡兵に勝利したのだ。(今回はターリバーンの勝利の秘密についてはつぶやかない)

★ ベトナム人民はアメリカに竹やりや小銃でゲリラ戦を挑んで勝利したのではない。敵の武器を奪って自らのものにして武装した事実もあるが、最終的には当時のソ連や社会主義国から供与された膨大な近代兵器を薬籠中にして駆使した近代戦を戦って勝ったのだ。アメリカ軍をしのぐ強力な新兵器を持っていたわけではない。

★ ベトナムが圧倒的に脆弱な武器でさえ勝利できたのは、戦場では近代戦を戦い抜き、住民と一体となったゲリラ戦を組み合わせ、人民の軍隊として人民の戦争を遂行できたからである。そして、テレビコメンテーターに教えてあげたいのは、戦場での戦闘だけで勝利したわけではない、ということである。ベトナムは、ベトナムを支持する当時の世界の主要な潮流を味方につけて闘ったのである。つまり、物的な支援をあたえる社会主義陣営、いわゆる西側先進主義国の労働者や学生や人民、民族解放をもとめる発展途上諸国(今でいえばグローバルサウス)などの潮流を「反戦平和」の掛け声のもと国際戦線へと収斂させ、ベトナム支援に結びつけることに成功したからである。

★ 「戦争の帰趨を決するのは最終的に戦場だ」と誰もがいうが、それは木を見て森を見ない人びとの「短慮」である。現代においては勝敗を決するのは世界世論の支持である。日露戦争で日本海海戦や203高地でかろうじて勝利できたのも、その戦争を政治的に支えた英米や資金的にささえたユダヤ人を含む欧米の金融家たちの支持があったからこそである。

★ ウクライナの場合、『ウエッブ・アフガン』はアメリカの挑発にプーチンが乗った戦争であると初期から主張してきた。また映画『ドンバス戦争』の批評で、クリミヤ戦争後ドンバスで8年間も内戦状態がつづいてもウクライナ軍が勝利できなかった事実を重く見るべきであることをも指摘した。昨年2月のロシア軍の侵攻後、ロシア占領地で目立った抵抗がないこと、反ロシア住民が避難して非占領地に移動してしまったこと、ウクライナのロシア占領地の東南部が「ドンバス」の親露派支配地域のようになってしまっている現実をこそ、ザルジニー総司令官は直視すべきではないのか。

kaneko20231105

==========<金子 明>==========(2023年11月5日)

戸川純の歌に「隣のインド人」というけったいな1曲があるが、千葉県の四街道市はどうやら「隣のアフガン人」状態らしい。先月末に初めて会った当市にお住まいのアフガン女性Aさんは「3000人くらいいるよ」とおっしゃる。あれれ。法務省は最新データで千葉県に2100人強と発表し、とある筋によると四街道市だけで1500人との情報だったが、既にその倍ですか? 昨今の人の移動のめまぐるしさには驚く。

前回このページで報告したとおり日本語学校「イーグル・アフガン明徳カレッジ」の開校は11月4日に決まった。それに先立ち31日に、千葉明徳短大で日本語の先生たちによる現地下見と関係者の顔合わせが行われた。その際、つぶやき子が耳にしたのが、上記の「3000人」発言である。これはますますやる気の出る数字であった。で、肝心の顔合わせだが、短大の福中理事長がまず挨拶した:

「アフガニスタンには行ったことがないが、パキスタンとイランは訪れたことがあり、そのさい隣国アフガニスタンに思いを馳せた。イランではアフガニスタンから亡命した人たちと交流した。」

彼はネパールに何度も足を運び最貧地の学校の支援を続けるなど、行動派の理事長なのだ。前回つぶやいた「それまでアフガニスタンとは縁の無かった」という形容詞は、この場を借りて訂正させていただく。過去に「縁」はあったのだ。それを思い出に埋没させず、未来に向かって結実させたのが、セデカ氏だった。

ちょうど彼女に関する記事が毎日新聞に出た(10/30夕刊1面!)ので引用すると・・・
NPO「イーグル・アフガン復興協会」(東京都新宿区)代表理事でカーブル出身の江藤セデカさん(65)は、(2021年8月のタリバン復権以降)迫害を恐れて日本に逃れてきたアフガン人たちを援助している。

福中理事長に謝意を述べたあと彼女は集まった10人ほどを前にこう語った:

「こんな日本語の学校を開くのが、来日して40年来の夢でした。」

このあと、短大側に「あれを使いたい、これを準備して」などと遠慮なく協力を仰ぎ(聞いてくれた学園のみなさんありがとう)、4日後いよいよ開校の日を迎えた。

・・・・・

土曜日。開校式の予定時刻となった10時半。教室にはもう15名を超えるアフガン女性が到着し、子どもや赤ん坊までいる。急遽赤ちゃんコットが2台運び込まれた。さすが保育士養成を得意とする短大である。熱気はムンムン。空調の気温を20度にまで下げた。だが、「まだ8人来ていない」とのこと。

待つこと20分。無事に開校式が始まった。生徒20人、子ども12人、赤ちゃん3人。前述のAさん(この方も生徒)による声かけの成果である。短大からは理事長。主宰者であるイーグル・アフガン復興協会からセデカ代表と関根氏。日本語の先生6人。サポーターで、先生を集めてくれた金子恵美子さん(感謝!)と秋葉さん(庶務担当)。プラス、ウェッブアフガンの野口編集長とつぶやき子(おもり係)。

理事長、セデカ代表、金子恵美子さんが登壇して開講の祝辞(通訳はセデカ代表)を述べ、「イーグル・アフガン明徳カレッジ」は、小さいが大きい、その第一歩を踏み出した。

開校式の最後は6人の先生たちの自己紹介。さすがはプロ!ディズニーの着ぐるみ顔負けのインパクトだった。ここで小ブレイク。机の配置を変えて、日本語教室が始まる。以降はもうこの専門家たちに任せる局面だ。

そこでつぶやき子は子どもたち10人を連れて、隣の附属幼稚園の園庭へ。魅力的な遊具が子どもたちを誘う。小学校高学年の男子2名には、ものたりなかったろうが、理事長が出てきて植物の実について教えるなど(元高校理科教師)、時間いっぱい相手をしてくれた。

あとの子は3歳から7歳ほどの生意気ざかり。地元の保育園や小学校でブイブイ言いあっているようで、日本語の理解は問題なし。ときおりこぼれるダリー語のテンポの良さに「わしも覚えようかしらん」と、そのときは思ったが、これを執筆時のいまとなっては、きれいすっぱり忘れた。ことほど外国語の習得には根気と継続が第一。ママたちの奮闘を祈ろう。

うれしかったのは、12時を過ぎて帰る段になったとき、泣きそうになるほど、彼らが楽しんでくれたこと。(後引きっ子は世界共通だね)

考えさせられたのは、真っ青な秋の空を行くジェット機を見て、喜びと悲しみが入り交じった表情を子どもたちがみせたとき。

noguchi20231105

==========<野口壽一>==========(2023年11月5日)

★ イスラエルで痛ましい事態がつづいている。3日時点で、イスラエルの死亡者約1500人に対しガザの死亡者は約8500人。イスラエルの5倍以上の死亡者数だが人口比が5倍あることを考慮するとガザが25倍多いことになる。死亡者の命に軽重の差はないが、ガザから伝えられる死亡者の多数が子供や女性など民間人だ。イスラエルはハマース戦闘員を狙った精密爆撃をしていると主張している。しかし無差別爆撃しているとしか思えない被害写真の数々だ。イスラエルはハマースが市民を人間の楯にしているからだ、と言い訳している。

★ 犠牲のニュースの中でも、驚きかつ痛ましいのは国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)が1日に発表した事実だ。なんと10月31日までにガザで国連職員が70人も「死亡」したという。「死亡」と報道されているが、これは「虐殺」以外に考えられない。

★ ガザ現地に入ったUNRWAラザリニ事務局長は、子供たちは飢えと渇きに苦しんでおり、「自分の人道支援業務の中でもっとも悲しい日のひとつだった」と振り返っている。国連人道問題調整事務所(OCHA)によるとガザの避難民は140万人を超えたという(日経新聞11月2日)。ガザの人口は200万人だ。

★ 西側諸国からは諸悪の根源テロ集団と糾弾されているハマースだが、実はイスラエルの諜報機関としてモサドとならんで悪名高いシン・ベトのアミ・アヤロン元長官は「現在の状況を招いたのは他ならぬイスラエル自身だ」と証言し、イスラエルはパレスチナ人を分断するためにハマースを育てた、ネタニヤフ首相に責任がある、と言い切っている。(NHK国際ニュースナビ、2023年10月24日
この事実はハマース創設時点から始まったことで、『イスラエル諜報機関 暗殺作戦全史』(上下巻、ロネン・バーグマン著、早川書房、2020年刊)が暴露しており、今回のシン・ベト元長官の発言はそれを追認したに過ぎない。

★ 今回のガザ・イスラエル戦争が解決困難である原因は、ネタニヤフ政権とハマースの両者ともが相手の存立を承認していないことにある。しかし、イスラエル内にも、パレスチナ内にも2国家共存しか解決の道はない、とする勢力が存在している。ここに問題解決の一筋の可能性がある。この可能性は、一方的なパレスチナ側の妥協によるものであり、パレスチナ人にとって悲痛かつ苦渋に満ちた、身を切られるような、断腸の思いの妥協であることを世界は認識しなければならないのだ。

★ 先ほどのシンベトのアミ・アヤロン元長官は「情報組織シンベトの連中はみな今のような強硬路線では何も解決しないと思っている」と述べているし、今号に掲載したイスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラル氏もネタニヤフ政権を明確に批判している。同様に、イスラエルを支持するアメリカのユダヤロビーにもネタニヤフ路線に批判的なJストリームという組織が活動している。そもそも、イスラエル一辺倒だったトランプ元大統領の舌鋒も最近は曇りがちだし、ユダヤを出自とする米国のアントニー・ブリンケン国務大臣も地上攻撃にはやり立つイスラエルをなだめる姿勢に転じている。誰もが武装対決ではパレスチナ・イスラエル問題を解決できないと気づいている。

★ ロシアのウクライナ侵略がいかに世界を危険に陥れたかを知った世界は宣戦布告なきガザ・イスラエル戦争がさらに危険を内包していることを認識すべきだし、この無駄な戦争によっていかに多数の無辜の命が失われているかに思いをはせるべきだ。

kaneko20231025

==========<金子 明>==========(2023年10月25日)

アフガニスタンから日本にどれくらいの人が移り住んでいるのか? 年次の情報は法務省のサイト「在留外国人統計」で確認できるらしい。ところが行ってみると類い希なる面倒なサイトで、何が何だかようわからん。これが読み取れねば、わが国ではお役人とは付き合いきれんのか・・・と絶望感。

「求めよさらば」の精神から電話をかけて聞く。かつてマスコミにいたときの常套手段である。なにも有名報道機関の兵隊である必要はない。いい世の中だ。(しかもわが携帯は無制限かけ放題)

「お世話になっています。ウェッブアフガンの金子です。ゴニョゴニョ・・・」

「あ、そうそう、あれはわかりにくいサイトですね。私が調べて見ましょう。」

優秀な担当者である。いと高きところにいる霞が関の住人も下々の問い合わせに応じる木っ端はいい人なのだ。大きくなってもその姿勢を忘れるーな!と心で叫びつつコールバックを待った。

「全国に5306人、千葉県に2110人です。」

なるほど、千葉県に4割もいるのか。ちょっと目からウロコだね。

なぜ調べたかというと、この秋から千葉市にある千葉明徳短大の一室をお借りして、イーグル・アフガン復興協会がアフガン人向け女性日本語教室を始めるのだ。つぶやき子が勤務する学童クラブがこの短大の系列であるというコネで話がまとまった。偶然ではあるが千葉で教室を開く意義は大きい。

それまでアフガニスタンとは縁の無かった短大の福中理事長が、イーグル・アフガン復興協会のセデカ代表とこの夏に会った際、鶴の一声で「日本で苦労しているアフガン女性たちのために日本語学校をやりましょう、教室はお貸しする」と提案してくれたのがそもそもの始まりであった。

理事長からは「イーグル・アフガン明徳カレッジ」という名前もいただいた。「下にダリー語も入れてね」とおっしゃる。ダリー語をよく知るイーグル・アフガン復興協会の関根氏が کالج میتوکو ایگل افغان と加筆した。

懸案は「誰か日本語教師はいるか?」だったが、それもセデカ代表のコネで解決した。現在10名ほどの教師チームができあがっている。千葉県に住む先生も多くて地の利がある。しかも全員女性。アフガン女性は「男の先生だと旦那が受講を許可しない」らしい。

肝心の生徒たちは、四街道のアフガンコミュニティからやって来る。セデカ代表による声かけの成果である。毎週土曜にクルマを連ねてやってくるとのこと。さあ、開講は11月4日に決まった。どんなスタートになるのか?次回のつぶやきで報告するのでご期待を。

noguchi20231025

==========<野口壽一>==========(2023年10月25日)

★ こう立て続けに世界的な大事件が、しかも悲惨でひどい事件ばかりがつづくと、ウツになりそうな気持を奮い立たせて頑張るが、編集が追いつかない。ニュースに載せる行数は大したことないけれども、情報を取捨選択したり、翻訳したり、掲載許可をもらったり、その間に問い合わせの数々や出かけて行って打ち合わせすることもある。旬刊なんて宣言しなければよかった。

★ むかし観たテレビドラマの決め台詞を思い出した。「時間よ、止まれ!」。もしそれが実現したら、世界中でバカなことをしている指導者のところに行って「くだらんことやめろ!」と1人ずつ頭にゲンコを喰らわせることができる。いい考えだ。魔法のランプを拾ったら頼んでみよう。

★ とにかく何かしなくては、と気がせかされます。支援カンパをするくらいしか実質的なことはできないのですが・・・。むかしカンパをするときの決まり文句「蟷螂之斧」があったのですが、カンパを呼び掛けて使う立場の人からは、「財布がイターイというくらい出してくれ」と言われたことがありました。ハイハイ。

★ だんだんニュースのトップに載せる「トップのお知らせ」が増えてきた。今週は5本載せたが実際はもっとたくさん載せたい情報が寄せられてくる。今後ニューストップのお知らせ欄は充実させていきたいと思っています。アフガニスタン問題に直接関係ないな? と思っても情報を送ってください。『ウエッブ・アフガン・イン・ジャパン』(正式名称)の正式ミッションは「アフガニスタンと世界の平和、進歩、人権のために」です。

★ トップのお知らせ欄に載せた「私は歌う ~アフガン女性たちの闘い~ 日本初公開(第18回難民映画祭)」の予告編の主人公に取り上げられているのはアリアナ・サイードというアフガニスタンで一番の人気を誇る女性のシンガー・ソングライターです。いまはアフガニスタン以外でしか活動できませんが、ますます熱狂的な人気を勝ち得ています。彼女が予告編で「マンハミーナ」と歌っている「わたしは燃えさかる大地に咲く花」は『ウエッブ・アフガン』で歌声と詩(英文・和文)を掲載しています。(ここをクリック)このビデオは2022年2月2日にヨーロッパ議会で彼女がおこなったパフォーマンスのビデオクリップです。それを聞けば彼女の思想と並々ならぬ歌唱力に感動すること間違いなしです。ぜひ、このビデオクリップを視聴し、11月23日に開催される映画祭に参加されるようお勧めします。会場はカナダ大使館内のオスカー・ピーターソンシアターです。申し込みはここで。野口はすでに申し込みました。

★ 『詩の檻はない』をめぐる活動や話題はますます広がりを見せています。マスメディアでの報道も広がっていますが、地道な朗読会も各地で開かれています。野口も10月15日に横浜寿町で開かれた朗読会に参加して、「アフガニスタン問題とは何か」について講演させてもらい、自作の詩を2篇「なぜ?」「暗闇に咲く花」を朗読しました。人前での自作詩の朗読など人生初体験でした。癖になりそうです。

★ 森羅万象コーナーに村野謙吉さんから「ヨーロッパの諸問題解決の源泉・ポーランドと今後の世界」の原稿をいただきました。折しもポーランドの総選挙、野党連合が政権を奪取しました。ヨーロッパとの一体感を取り戻していく方向に動いてほしいものですが、そのEUもなんだかギクシャクしています。日本の補選2つは与党が1勝1敗。与野党とも政党も政治も劣化しているなかでの議席勝敗を論じることのむなしさを覚えるのは私だけでしょうか。

★ 物事の白黒、良しあし、正義不正義を単純に決めることができない難しい時代になってきました。よくよく考えて行動することが重要なようです。一世を風靡したイスラエルの歴史学者ユバル・ハラリ氏のガザ・イスラエル問題でのインタビュー「イスラエル人もパレスチナ人も〝苦痛の海〟にいるからこそ」(ANNnewsCH)をYoutubeで視聴しました。イスラエル人として苦しさが垣間見える発言で首をかしげるところがだいぶありましたが、賛同できるまとめでした。つまり、「頭の中では妄想も含めあれこれ考えが錯綜する。頭の中でなにを考えても自由だが考えた結果を口に出すときは頭と口の間にフィルターを設け、よく考えて発言すべきだ、個人も政治家も。とくに政治家は発言に責任をもつのが職業だからなおさらだ。トランプ大統領のように思ったことを何でもかんでもすぐ口に出すのはよくない」というところ。つまり、「よく考えてものは言え」という当たり前のことなのだが、何でもかんでも言ったが勝ち、受ければ儲け、マッチポンプで金もうけ、という社会では。

★ つぶやき、長くなりそうなので最後にひとつ。ターリバーンの芸術否定や検閲による自由抑圧に詩で抗議しようと呼びかけたソマイア・ラミシュさんをKOTOBA Slam Japan 2023が今年12月に東京で開かれる全国大会に招待します。(詳細はここをクリック)アンソロジー『詩の檻はない』の日本・フランス同時出版、日本に避難してきたアフガン女性のための日本語学校「イーグル・アフガン明徳カレッジ」のスタート、ささやかながらガザ・ヘラートへの人道支援の手伝いなど、情報伝播や討論やネットワーキングを具体的な活動のきっかけづくりに役立てられるようになってきました。「焦らず慌てず諦めず」着実にこの道を進んでいきたいと思います。皆様のいっそうのご指導ご支援をお願いいたします。

 

kaneko20231015

==========<金子 明>==========(2023年10月15日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第24弾。最終回となる今回は「エピローグ 今日のアフガニスタン」から抜粋・翻訳する。

ザイーフによると、アメリカは未だ自らが「唯一の世界のリーダーであるという仮定」にしがみついており、それが失敗の原因らしい。彼が列挙する就任したばかりのオバマ大統領の試練は:

●「雌牛として乳で手なづけた」パキスタンの大統領ムシャラフが、無実のアフガン市民の殺害を手伝ったことや、国内のイスラーム政党を抑圧したことで、国民から憎まれ始めている。

●アメリカがイスラエルを特に強く支援しパレスチナと敵対することを見過ごせないアラブ世界のリーダーたちは、アメリカに背を向ける。

●ジョージア、ウクライナ、チェコ共和国に防衛設備を築いた効果は大きいが、ロシアの強力化、中国の劇的進歩、イランの核軍備は今後アメリカの脅威となる。

こうした状況を前に、「変化」を標榜したオバマも詰まるところは諜報部門の判断に頼らざるを得ない。アフガニスタンでは「カルザイの首を新たな傀儡にすげかえようと企てているが、それはアフガニスタンの独立をさらに犯すだけだ」と斬り捨て、アフガン問題の独自性を語る:

●対アラブ諸国では「付かず離れず」に甘んじるアメリカにとって、アフガニスタンは「御し易い。」敵は世界中に散らばっていない「土着」の民族だ。いくら殺し苦しめても、世界から大きな反発を招くことは無い。パレスチナやイラクとの大きな違いだ。

●抑圧され続けたアフガン人は辛抱強い。「不幸なことに、世界も辛抱強く」その苦難や流血を見ながらも黙っているが。

●当初アメリカの介入に小躍りしたアフガン人も、今ではアメリカが人々を殺し、お互いを憎しむよう仕向けているだけだと気づいている。

●国内の治安は地に落ちた。いくらかでも財産のある者は国外に投資する。

●オバマや同盟国は増派を企んでいるが、それで治安が保たれる訳ではない。「より多くの兵士は、より多くの流血を意味する。」近隣諸国も緊張する。

では、ザイーフの提案は? 前章で積み残した課題だが、至極シンプルに、オバマ政権に対しこうアドバイスする、「アメリカは戦争キャンペーンではなく、平和キャンペーンを。戦略の大転換が必要だ。」

そして国内向けには「団結せよ。」

・・・・・

以上が、本書の概略である。著者のザイーフは2012年、UAEに亡命した。アルジャジーラの記事(2012年4月9日付)によると、9.11の記念日に向けテロを企んだとされる2名のアラブ人を支援した廉で、アメリカに睨まれたためだという。

そして2021年8月、自らが育てたターリバーンが再び政権につき現在に至っている。

<完>

noguchi20231015

==========<野口壽一>==========(2023年10月15日)

★ ヘラートの大地震とガザでのハマスの暴発が同じ日に起きた。

★ヘラートの大地震は痛ましいニュースだ。さらに、緊急支援に駆け付けたパキスタンの医療団がヘラートでターリバーンに入国を妨げられたとか、女性隔離と抑圧を被災現場でも実施して救援活動の妨げをしたとか、ブルドーザーで人体ごと瓦礫をかたづけてその泥の中から遺体をさがさせたとか、遺体処理にすら女性差別をおこなったとか、信じられない報告が寄せられてきた。辛いニュースだが、翻訳して掲載した。

★もうひとつの痛ましいニュース。ハマスの集団自爆テロのような奇襲攻撃だ。直近のヨルダン川西岸でのイスラエルのパレスチナ人殺害への報復との解説もあるが、攻撃の規模や内容をみると、何年もかけて周到に準備されてきた作戦にみえる。しかしその戦略目的は理解しがたい。

★ ハマスの暴発はこれまでの武力攻撃と異なり、ロシアのウクライナ侵攻と連動して中東のみならず世界を揺るがす大事件に発展しかねない。目先の衝突の激しさとイスラエルの地上侵攻に目を奪われてマスメディアは人命救助=人道回廊設置に焦点を当てて報じている。緊急的には失われなくてもよい人命の救助が最優先であることは間違いなく、あらたな軍事衝突を回避する緊急策を国際機関や周辺各国は模索すべきだろう。

★しかし、人道支援だけではこの問題を解決することはできない。マスメディアはパレスチナとイスラエルとの対立という構図でこの問題を論じているが、真実は、ハマス路線とネタニヤフ路線の非和解的対立であり、パレスチナ一般とイスラエル一般の対立ではない。30年前にアメリカのクリントン大統領を仲介として、イスラエルのラビン首相と、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長との間で締結された「パレスチナの暫定自治に関する原則宣言」は、和平にむけた解決の一縷の望みだった。

★パレスチナを国家として認め国家としてのイスラエルと併存させる以外に和平の道はないという双方の妥協の産物だったのだが、パレスチナ、イスラエル双方の内部から批判の声があがり、イスラエルのラビン首相は暗殺されアラファト議長も指導力を失い、結局、パレスチナ内部ではハマスの、そしてイスラエルではネタニヤフの、相手を全否定する非和解勢力が双方のなかで力を得、対立は深刻の度をましてきた。その挙句の今回のハマスの急襲である。

★イスラエル内部ではハマスの奇襲攻撃を2001年のアル=カーイダによる9.11事件と同じだとして、徹底した反テロ作戦を実行し、ハマスをせん滅せよという声が高まっているという。それはある意味、自爆テロ的暴発をしたハマスの思うつぼだ。世界各地にテロ攻撃を拡散させ、世界を不安定化させるだけだ。イスラエルはパレスチナ人を全滅させることはできない。逆にパレスチナ人がユダヤ人を根絶やしにすることもできない。イスラエルはパレスチナ人の独立国家樹立を認めて共存するか、パレスチナ人を抱え込んでイスラエル1国にするかしか解決策はない。イスラエルが後者を選んだとすれば、900万人ほどのユダヤ人が500万人近いパレスチナ人を内部に抱えることになる。そしてその国でパレスチナ人は、ユダヤ人が差別抑圧されてきた以上の差別抑圧にさらされ、抑圧する側のユダヤ人も安らかな生活はできなくなるはずだ。いずれが現実的な解決策であるか、今一度、イスラエル、パレスチナ両国人は熟慮すべきであろう。

★われわれを含む第三者にとってもそのことは大事だ。ここで注目すべきはBBCの慧眼だ。イギリスの公共放送BBCは11日、与野党からの批判をはねのけて「パレスチナの武装勢力ハマスを『テロリスト』と説明しない編集方針を擁護した」という(https://www.bbc.com/japanese/67085752)。そこで、BBCの広報は、他者の発言内容を伝える場合を除き、記者が「テロリスト」という言葉を使わないのはBBCの長年の姿勢だと説明し、またBBCのジョン・シンプソン世界情勢担当編集委員は、「誰かをテロリストと呼ぶことは、どちらかの肩を持つことになる」と述べている。つぶやき子は、ハマスの今回の攻撃が「集団的自爆テロ」に近い愚策でまったく支持できない誤った作戦であると思うが「テロ」の烙印を押して「テロとの戦い」と単純化する思考停止では問題の解決はできないと信じる。

★先ほど、「読者の声」に「ガザーテヘランーモスクワ枢軸」と題するムソウ国師の投稿があったので、それにふれてユダヤ・パレスチナ問題の根源に簡単に触れて意見を述べておいた(https://webafghan.jp/readers-voices/#20231014)。参考にしていただけるとありがたい。

★悲しい事件が多いがこれもそのひとつ。パキスタンで過激派のテロが激増している問題。「トピックス」と「世界の声」コーナーに関連記事を掲載しておいた。これも参考にしていただきたい。

★これはうれしいニュース。『詩の檻はない』出版のきっかけをつくってくれたロッテルダムに亡命中のソマイア・ラミシュさんを招待して「KOTOBA Slam Japan 2023 全国大会」がひらかれる。ひとりでもおおくの人が同大会に参加して、アフガニスタンにおける検閲と詩作に抗議してほしい。詳細は https://webafghan.jp/noticeboard/

★最後に。<視点>で 『ファクトフルネス』について書いた。歴史の大きな流れは間違いなく「良いこと」が増えつつある。今回のヘラートの大地震やガザでのハマスとイスラエルとの戦争事態も「良いこと」が増えつつあるなかでの「悪いこと」であると認識することが大事だ。センセーショナリズムに踊らされず、無用な恐怖や偏見にとらわれず地道にひとつひとつ確信をもって改革の活動をつづけることの重要性を再確認しよう。

kaneko20231005

==========<金子 明>==========(2023年10月5日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第23弾は、第20章「釈放」の後半と第21章「勝てない戦争」から抜粋・翻訳する。ザイーフを乗せたプライベートジェットはついに祖国アフガニスタンに降り立った。

カーブル空港周辺の様子にまず驚いた。「米軍がこしらえた道路とフェンス、そして米軍基地が、まるで小さな都市であるかのように見えた。」機外に出ると、すぐに「サジダを捧げて、アッラーへ感謝した。」グアンタナモを出たのが2005年9月11日。翌12日の到着だった。

※脚注「サジダ:ひれ伏して、額、掌、膝、足を地面につけること。イスラームの毎日行う祈りの儀式の一部。」

その日はアメリカ人によって、まず国家保安局へ連れて行かれ、次いで家族のいるムッラー・ムタワッキルの自宅へ。さらにムジャッディディーを表敬訪問した。2日後、市内に家を貸し与えられた。アメリカ人は今後1年間、家賃を払ってやると言う。そこまでは順調だった。

※脚注「グアンタナモから帰った者はみなムジャッディディー率いる『平和と和解委員会』によって公式に取り扱われた。2009年2月の段階で、63名がグアンタナモの元収監者だった。最大時で、グアンタナモには110名のアフガン人がいたが、今(2009年)は27名にまで減っている。元収監者のうち8名が、何らかの理由で再収監され、そのうちの3名は後に再釈放された。(いずれもカーブルにある『平和と和解委員会』が発表した数字)」

ところが5か月後、妙な事が起きてザイーフは「感情的になり動揺した。」ある朝、「アフガン国家保安委員会」なる組織から電話があった。「お伺いしてもいいですか?」ザイーフは答えた、「どうぞ、心からお待ちしています。」組織名を聞いて、てっきりアフガン人がやって来ると思ったのだ。

ところが午後2時、家の前に現れたのは防弾チョッキを着て武器を持った米兵たちだった。「2度と見たくない連中だった。」すぐに仮病。「返事よりも沈黙が勝る」との判断だ。その日は退却したが、2日後に同じ男から電話があった。

   :「また今日の2時に伺ってもいいですか?」
ザイーフ:「どなたが来られますか?」
   :「先日と同じ人たちです。」
ザイーフ:「グアンタナモで約束されました、『帰国後、こういう人たちが訪ねることはありません』と。自由な私を尋問するなら手錠と鎖を持ってきなさい。」

すぐに、別の男から電話。グアンタナモで釈放のために尽力してくれた1人だった。「彼らを家に入れてやってください。ちょっと質問したいだけです。1度きりです。」さすが「墓場」で世話になった男の頼みだ。ザイーフも断り切れず、気の向かぬまま同意した。

果たして午後2時、質問項目満載の紙切れを持って米兵たちは現れた。アフガニスタン統治の難しさに米国は困り果てていたのだ。

ザイーフ:「1度でも答えるときりが無くなります。だから答えません。」
米兵  :「怖がらなくても大丈夫です。出処は漏らしません。それに援助を増やす覚悟です。」
ザイーフ:「秘密保持も援助増額もあなた方の勝手です。でも私は協力したくないのです。グアンタナモであれだけ聞けば満足でしょう。」
米兵 :「あなたには未来があり、家があり、子どもたちもいます。」

アッラーに守られ、こんなワナとは無縁のザイーフは続けてこう言い放った。
ザイーフ:「ここが独立した自由の国だと言うなら、私も独立して自由です。これがもし自由の問題なら、『来ないでくれ』と言う自由を私は持ちます。これがもし権力の問題なら、お気の済むようにどうぞ。権力はあなた方のもの。さあ投獄するか、お帰りになるか、何なりとどうぞ。」

彼らは去った。

米国の質問には断固として答えなかったが、米国の傀儡と言われた「ハーミド・カルザイには、帰国後3、4度招待され」国政に関して言葉をかわした。「意見は違ったが、ともに解決策を探った。」

ザイーフのカルザイ感:
●「平和と安定」が口癖だが、その真反対にいる。
●ウソのプロパガンダと空虚な約束で、国民を欺く。
●意識してそうしているのか、気づいていないのか、謎。
●取り巻きによって隔絶され、偽情報を信じさせられている。
●そんな偽情報に基づき行動する。
●外国のスポンサーのお陰で権力に着いたため、元より地盤がない。
●自らが虎と絶壁の間にいると自覚してはいる。
●朝起きてどちらに進むか不明。
●即席大統領の悲哀で、友と敵の区別が付かない。

ボロクソである。挙げ句にこう宣言する、「アフガニスタンの問題は彼の頭では解決しない。操られているポーンに過ぎないカルザイの時代は、じきに終わる。」

そこまで言えば、「ではお前だったらどうするのか?」と聞かれるのは当然だろう。米国も、カルザイもそれが知りたかったはずだ。ザイーフはその質問に以下のように答えている:

●そもそも、「ターリバーンとアル=カーイダを根絶やしにする、そして民主主義と自由をもたらす」と考えた米国には、笑うしかない。それは米国の「意見」としてはアリだが、私は同意しない。
●(手をパーにして開き)今はこんな感じ。
●(すべての指をクローにして)3年後にはこうなる。本当のバカでなければ、意味がわかるだろう。
●(固いゲンコツを握って)さもないと、6年後にはこうなる。ここで君が脳みそを使うならまだましだが・・・
●使わなければ、10年ですべてが制御不能となる。君らの試みは恥ずかしい失敗となり、我々は大災害を被る。

この自伝が書かれたのは2009年で、2010年には書物として世に出ている。10年後と言えば2019年ないし2020年あたり。2021年に米軍撤退だから、ザイーフの先を見る目は正しかったと言うべきか。

この本の紹介も、いよいよ次回で最後となる。

(続く)

noguchi20231005

==========<野口壽一>==========(2023年10月5日)

★ 今号で特筆すべきはなんといっても「世界の声」コーナーに掲載した「日本ペンクラブが『詩の檻はない』を推薦」ではないでしょうか。なんといっても日本ペンクラブは、国際ペンクラブ(PEN International)の日本支部ですし、PENとは、Poets(詩人)、Playwrights(劇作家)、Essayists(随筆家・評論家)、Editors(編集者)、Novelists(小説家)等の頭文字、つまり文学・文壇に関わるすべての人々(著述家)を表す組織です。そんな組織が、特定の出版物である一冊の詩集を組織として推薦したのです。珍しいことです。権威主義におもねって喜んでいるわけではありません。フランスやスペイン、オランダなどヨーロッパのペンクラブが真っ先に支持して支援活動をしている『詩の檻はない』の隊列に日本ペンクラブ(日本の文筆活動家の代表)が加わったことを喜びたいのです。文学中の文学である「詩」を禁じる政権(いまはまだ事実上の存在にすぎないとはいえ)を許さないのは、国境を越えた詩人の義務であるに違いないからです。ガラパゴスの殻に閉じこもるのでなく、世界に飛び出していく先頭に詩人たちに立ってほしい。

★ 久々に「書籍/批評/提言」に新原稿をアップしました。「ヒンズークシュに幻の蝶を求めて」。美しい蝶の数々とアフガニスタンの自然や社会や人々の姿が、たくさんのカラー写真で紹介されている楽しい本でした。しかし内容はマニアックでもあり、研究者の学術論文としても通用しそうなかなり手ごわい知的な格闘をせまる書籍でもありました。最近このコーナーでの書籍紹介が途絶えていましたが、良書がないわけではなく、単純に編集部の目と手が足りないだけでした。ぜひ、紹介すべき良書をお知らせいただけると幸いです。できたら原稿を添えて。

★ アフガンニュースレター <No.74>のトップで紹介した「アフガン細密画展 ターリバーン政権下で苦境の画家を支援する西垣さんの活動」も特筆すべきでしょう。西垣さんは1994年から29年間、アフガニスタンの芸術活動を中心にアフガニスタンを支援し続けてこられた方です。ソ連軍のアフガン侵攻にはじまる内戦にショックを受けてアフガン支援を続けてこられました。ご高齢のため支援活動を終了されていましたが、ターリバーンの再来にショックを受けて、再び活動を再開されました。現在88歳。模範とすべきかたです。東京東中野のパオでの展示会は9日まで。まだ間に合います。ぜひご覧になってください。詳しい情報は毎日新聞の次の記事(ここをクリック)で読めます。

★ 同じくニュースレターで紹介した「森の映画社/長編ドキュメンタリー映画『世界の先住民と先住権』(仮題)」も見落とせません。森の映画社は、この『世界の先住民と先住権』の監督をする影山あさ子さんと、藤本幸久さんのおふたりが代表する映画社です。藤本さんは、野口が土本典昭監督で制作にかかわった『よみがえれ カレーズ』の助監督をしています。藤本監督は平和をテーマに、沖縄問題やアイヌや朝鮮人など少数民族問題などを一貫して映像化してきました。とくに沖縄問題は辺野古基地問題を現地に住み着きながら撮影し続けてき、現在は「沖縄・琉球弧を戦場にするな」のスローガンのもと、映画を武器に平和活動をつづけておられます。監督の言葉=「自衛隊の新基地建設とミサイル配備が急激にすすむ馬毛島、奄美、宮古島、石垣島、与那国島 の現実と人びとのたたかい、沖縄の米軍基地と戦争計画について、私たちの取材映像を使 つて講演します。映画「One Shot One Kill」 の海兵隊プー トキャンプの映像、沖縄での訓練の様子も交え、 米海兵隊の訓練で、ヒ トがどのように人を殺せる兵士に育てられているのかもお伝えします。」『ウエッブ・アフガン』でも、森の映画社の活動を逐次紹介していきたいと計画しています。

★ 前号で紹介した「クオシュ・テパ運河が中央アジアにもたらすもの」の衝撃はかなり大きなものがありました。日本ではあまり知られていないだけでなく、アラル海の自然破壊のすさまじさ、そしてそれに輪をかけるようなアフガニスタンでの潅漑事業活動。アラル海やナイル川だけでなく、人間の思いあがった自然改造がどのようなしっぺ返しを受けつつあるか、考えざるをえません。開発から取り残されて、生存そのものが危うくなっているアフガニスタンでは、中村医師が身を挺して取り組んだ灌漑事業は多くの人々の命を救うものであるのは間違いありません。グローバルサウスの人々の「先進諸国」への批判は、「帝国主義」「植民地主義」を真っ先に実行して自分たちは富を蓄えたのに、発展途上国が工業化や自然改造などを始めると「気候変動」や「環境破壊」などを持ち出して規制をかけて来る身勝手さが許せないのです。とはいえ、クオシュ・テパ運河が抱える問題は自然環境の問題だけでなく、パシュトゥーン族による民族浄化やテロ集団生き延びの問題や周辺諸国との安全保障問題まで、じつにさまざまな問題を含んでおり、見過ごすわけにいかないプロジェクトです。ターリバーンはアフガニスタン開発の巨大プロジェクトに中国を引き込もうとしています。さらに新しい問題が生起しそうな気配。ますます見過ごせません。

★ 「トピックス」では頻発の度を増しつつあるパキスタンでのテロ事件を取り上げました。「テロ攻撃急増 9か月で700人以上のパキスタン人殺害」にあるように、パキスタンではただならぬ事態が進行しています。議会での不信任決議で失脚したイムラン・カーン元首相の動きがパキスタンの政情不安に輪をかけます。パキスタンの政治情勢はアフガニスタンと緊密に連携しており、『ウエッブ・アフガン』が一貫して主張しているように、アフガニスタンとパキスタンは一体としてみていかないと理解できません。そしてその関係はインド・パキスタン情勢と密接にからんでいますし、パキスタンは中国と「一帯一路」で連携しています。そしてそれがまた、パキスタン内の武力反対派の標的にされています。この地域の動静は再び世界を揺るがすホットポイントになりかねない様相を呈してきました。引き続き注視していきます。

★ 本サイトのアフガンサイド主筆ファテー・サミは前号の「アフガニスタン陥落から2年後の経済危機: 「イスラム首長国」の勝利と敗北」の続編「崩壊寸前のアフガニスタンー世界は沈黙する目撃者」を書いています。前半部分は前回の記事と重複があるが、何度でも読んでこころに刻んでおきたい。ターリバーンの強硬姿勢の背景には、強行姿勢を取らなければ内外の体制を維持できない事情があり、逆にその強硬姿勢が彼ら自身を拘束し、山積する難問の解決を難しくする原因ともなっています。現在の姿勢をあらためなければ、国民だけでなく、ターリバーン自身も苦境に陥っていくことでしょう。

★ とはいえ熱暑の夏も10月の声をきいてやっと夜は涼しくなってきました。しかしまだ30度を超える日があるとの天気予報も発表されています。使い古された秋の決まり文句「スポーツと文化の秋」、美しい日本の秋を堪能する心の余裕を持ちたいものです。

kaneko20230925

==========<金子 明>==========(2023年9月25日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第22弾。今回は第20章「釈放」の前半から抜粋・翻訳する。ザイーフは4年以上も閉じ込められた「生者の墓場」から蘇り、祖国に帰る日をやっと迎えた。

2004年5月11日、ザイーフは別の部屋に送られた。「どうせまたどこかの尋問部屋に行くのだろうと考えていた」が、着いた場所はいつもと様子が違った。「まるで事務室のようで、机やテレビもあり、きちんとした部屋だった。」その上、入室すると米兵がザイーフの両手両足を解き放った。檻の外で4肢が自由なのは「グアンタナモに収容されて以来はじめてのことだった。」

しばらくするとアフガン人と3人のアメリカ人がやって来た。アフガン人は「アフガン政府の代表」だと自己紹介した。アメリカ人のうち2名は知った顔で以前優しく接してくれた尋問官。残りの1人は「新たな在アフガン米国大使館の職員」だと言う。何度も騙され続けたザイーフは彼らが「本当に言う通りの人物かどうか疑った。」

この自称「アフガン政府の代表」は数日後ふたたびザイーフと面談した。今度はランチを食べながら。「うまい料理に新鮮な果物、ペプシまで。私は尊敬されていると感じた。」その席で彼は「キューバからの解放を確かなものにするためベストを尽くす」と宣言し、翌月の再訪を約束した。

アフガン代表が去った後、ザイーフは「あたかも人間として」扱われるようになった。週に1、2度の尋問は続いたが「何か欲しいもの、食べたいものはないか?」と聞かれる。ちょうど収容所の環境が悪化しているときだった。「もらったものを他の捕虜に分け与えた。香水、シャンプー、一級品のオリーブオイルなど。」

ところが、翌月になっても代表は現れない。2か月たったころザイーフは「疑いが増し、やがて失望した。」尋問官は「必ず戻って来るから待ちなさい」と諭し続けたが、ザイーフはもう信じなかった。多くの捕虜仲間は「釈放されると考えるのが、そもそもおかしい」と笑った。

こうして1年ほどが経ったある日、尋問官が言った、「アフガン代表が来週戻ってきて、あなたは釈放されます。」果たして翌週、ザイーフは部屋を移された。そこには、空調、冷蔵庫、テレビ、そしてバスルームまであった。別の尋問官が入ってきて伝えた、「おめでとう、あなたは釈放されました。将軍も祝福していましたよ。アフガン代表は明日ここに来ます。」

釈放されたことは嬉しかったが、後に残す捕虜たちのことが頭から離れなかった。「法も規則もなく、人間として尊敬されない」彼らをそのままにして独り出て行く。まして仲間のうちには処遇改善を訴えてハンストをしている者もいる。正義感の強いザイーフにとっては、さぞ心苦しいことだったろう。

翌日、待ちに待ったアフガン代表が現れ、ザイーフの家族や国家の現状を伝えた。お返しにザイーフは収容所の環境を包み隠さず話し、アメリカ人と協議し改善するようアドバイスした。彼が部屋を出るとザイーフは再び、元の檻に戻された。そこで釈放前の捕虜を診察する赤新月のスタッフが来るのを待っていた。すると医者ではなく米兵の一群がやって来た。

ビデオカメラを携え、パシュトー語の通訳もいる。そして1枚の書類を差し出した。いわく「これを全て認め著名せよ。それが釈放の条件だ。」ザイーフはその各条項を鮮明に記憶し、この自伝に記している。
グアンタナモにいた者だけが知る貴重な文書資料である:
・捕虜は罪を認め、罪を許し収容所から解放する合衆国政府に感謝する。
・捕虜はアル=カーイダおよびターリバーン運動のメンバーだったが、それらとの関連を今後すべて絶つ。
・今後いかなるテロ活動にも加わらないと捕虜は約束する。
・今後いかなる反連合、反米国の活動に加わらないと捕虜は約束する。
・上記の条項を破った捕虜は、再逮捕され死ぬまで拘束される。
・捕虜の署名

怒ったザイーフはこの紙切れを米兵たちに投げつけた。そして逆に「5項目」に分けて言い分を述べた:

①私は無実で、誰かから非難されることは決してない。私を解放するからと言って、米国を許したり、ましてや感謝することなどない。私が罪を犯したというのは、どこの法廷、裁判所なのか?

②私はターリブだった。今もターリブで、今後も常にターリブだ。だが、アル=カーイダの一員だったことはない!

③私はテロ攻撃の廉で咎められたが、そんなことはしていない。どうすれば、してもいないことを認められるんだ。教えてくれ!

④アフガニスタンは私の祖国だ。私の祖国で私に無理やり何かをやらせる権利は誰にもない。私が家の主なら、他に誰が私に家の中ですることを命じられるのか?

⑤私はまだここに繋がれている、無実の身で。再逮捕は可能だ、どんな言いがかりをもってしても。だから、いかなる書類にも署名しない。

困った米兵たちは「署名しないと釈放は取り消され死ぬまでここを出られないぞ」と脅したが、ザイーフは受け入れない。彼らは何度も部屋を出たり入ったりして困った様子だった。最後に「しょうがない、何かお前の好きなことを書け」と諦めた。そこでザイーフは次の文章を記した:

「私は罪人ではない。無実だ。パキスタンと米国が私を嵌めた。特に咎もないのに4年も拘束された。これは仕方なく書いているが、今後いかなる反アメリカ活動にも軍事行動にも加わるつもりはない。ワッサラーム

※脚注「ワッサラーム:アラビア語の挨拶で、文字通りの意味は『平安に』」

文末に署名。米兵たちはその紙を持って部屋から消えた。しばらく独り残され「うまく認められるだろうか」と心配していると、赤新月のチームがやって来た。「おめでとう、釈放です」と言う。続けて「アフガニスタンに帰国できますよ。それをお望みですか?」

馬鹿げた質問にちょっと切れたザイーフ:「望まなければどうなるのですか?一生ここにいるのですか?」
赤新月:「我々には何も出来ません。アメリカ次第です。」

ザイーフによると「全てはアメリカ次第」。つまりここにいる赤新月は、米国の捕虜への仕打ちに若干の法的免罪符を与えるためだけの連中だ。くだらない質問もその一環だった。やがて彼らも姿を消した。

続いて元いたキャンプ5へ。ザイーフが不在の間に捕虜は個室の「墓場」から引っ張り出され、大きな檻にまとめて入れられていた。彼らへの最後の挨拶が許された。1時間半にわたって話をした。「彼らを最悪の状態のまま残して出て行くのは恥ずかしかった」が、みな祝福してくれた。キャンプ1とキャンプ4の仲間にも挨拶し、夜の11時にやっと部屋に戻った。

その夜中2時に起こされ、米兵に連れられ空港へと向かった。1機のジェットが離陸態勢で待っていた。チャーター機だ。機外に数名のアメリカ人とアフガン人がいた。彼らに引き渡された。「おめでとう。さあ機内へ。」

搭乗口で米兵と別れ、機内へ。「米兵が肩に手を置かない状態で歩けたのは、その時が初めてだった。」将軍が乗り込み別れの挨拶をして去った。機内には4名の警備担当らしきアメリカ人。3時に離陸した。

機内で例のアフガン代表が伝統衣装とターバンをくれた。狭い機内だったが、「自由に歩け、トイレが使えた。」いっぱい食べて、ぐっすり眠った。10時間飛んでロンドンで給油。さらに7時間飛んで、カーブル国際空港に着陸した。

(続く)

noguchi20230925

==========<野口壽一>==========(2023年9月25日)

★ 21日、東京・赤坂区民ホールでウズベクスタン大使館主催の「ウズベキスタン~シルクロード文化の交差点」と題する日本・アフガニスタン友好の集いがあり、参加してきました。会場には日本人、在日ウズベク人だけでなく、日本に住むアフガニスタンやトルキスタンなど周辺の同民族/異民族の大人や子供が入り混じって楽しむお祭りのような夕べとなりました。

盛り上がる舞台■(⇐クリック! 注意:音が出ます)
今号で取り上げた「クオシュ・テパ運河が中央アジアにもたらすもの」が問題にしているのがまさにこの地域です。友好と対立は紙一重。そこに住む人びとの粘り強い友好の意識がないとすぐに対立につながります。赤坂区民ホールのような友好の雰囲気が当地で持続することを祈ります。

★ 23日、東京都写真美術館で「アフガニスタン山の学校支援の会」の報告会があり、参加しました。同時にフォト・ドキュメンタリー「鉛筆と銃 長倉洋海の眸(め)」の上映があり、視聴しました。アフガン現地はターリバーンの支配2年がすぎ、アフガン国民の暮らしや女性の待遇に関してますます過酷な状況となっています。「山の学校支援の会」が支援していたパンジシールの学校も一時のようなターリバーンが兵舎にしていた状況ではなくなったようですが、学校としては使われず荒れたままになっているようです。「山の学校支援の会」ではひきつづき、「隠れ教室」や「秘密の学校」などへの支援を続けていく、と表明されました。『ウエッブ・アフガン』としてもできる限りの応援をしていきたいと思います。

★ 本号<視点>では、初の試みとして詩人で文芸評論家の岡和田晃氏へのインタビューを掲載しました。岡和田氏と本サイトのつながりは、ロッテルダムのからソマイア・ラミシュさんが呼び掛けた「詩によるターリバーンの検閲と弾圧に抗議する国際運動」への取り組みがきっかけでした。この活動に賛同した日本の詩人たちの熱意に感動し、その運動をリードした岡和田さんたちの思想に共鳴したことはもちろんですが、岡和田氏の発言は本サイトの主張と軌を一にするだけでなく、本サイトでは扱いきれていなかった日本の文化・芸術状況に対する批判的視点をも提起してくれている点が<視点>として掲載させていただく理由でした。快諾された岡和田氏に本欄を借りてお礼申し上げます。ここで岡和田氏の発言にあるように、ソマイアさんの呼びかけに応える行為は、単にアフガン人の闘いに連帯・呼応するだけでなく、日本の文化文学状況、精神構造に変革をうながす意味もあります。『ウエッブ・アフガン』の本旨は、アフガンの変革を応援するとともに日本の変革に資していく、という点にあります。今後、視野をさらに広げていきます。皆様のいっそうのご支援をお願いいたします。

★ 本号のトピックス欄にはいくつか相反する記事を採録しました。
ヨーロッパでは本サイトに寄せられただけでも3カ所で、アフガン女性が先頭にたってターリバーンの暴政と9.11を取り上げてハンストをしています。本国でも女性たちの訴えが途切れずに送られてきます。ところが、インドに軍事留学していたアフガン学生がターリバーンの支配するカーブルに帰国しています。旧共和国軍兵士らはパキスタンに亡命し苦しい生存を強いられています。ところが海外に亡命中の女性スポーツ選手たちは中国政府の支援で26日から開かれるアジアスポーツ競技大会に出場を予定しています。これには当然裏で中国とターリバーンとの合意があるものと思われます。アフガニスタンへの人道支援はターリバーン支配によって満足に届けられない事態が続いています。依然として、アフガン人の生活は世界体制のひずみ・ゆがみの影響をもろに受け続けています。われわれにできることは最低、そのようなアフガン国民の苦難から目を背けず、視線を向けつづけることではないでしょうか。それをアフガンの人々も望んでいます。

★ この間、いくつかの会合に招かれて講演を頼まれました。そこで「ターリバーンに反対することとターリバーン的なものに反対することを分けて考えるべきである」という主張をしてきました。それを一言でいうと、「いまアフガニスタンを支配しているターリバーンという組織と、ターリバーンをターリバーンたらしめている要素とは分けて理解すべき」、ということです。説明すると少し長くなるので本サイトでは引き続きその説明・解明を続けていきます。

★ 9月も終わりに近づいて、夜半はだいぶ涼しくなりました。従来と1カ月ずれている体感です。猛暑の夏がつづいたので体も戸惑っていることでしょう。コロナの陰で消滅していた(させられていた?)インフルエンザが復活しているようです。コロナもインフルもウイルス起源の風邪。対策は何と言っても自己免疫の維持強化です。信用ならないおかみの言うことより、自分自身の自己防衛が第一。みなさん、ご自愛ください。

kaneko20230915

==========<金子 明>==========(2023年9月15日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第21弾。今回は、釈放のエピソードを記す前に置かれた第19章「生者の墓場」から抜粋・翻訳する。これは著者がグアンタナモにいた4年間で見聞きした出来事の総まとめ。米国による人権蹂躙のカタログである。

ラマダーン事件
2003年のラマダーン月の2日目に、ある米兵が捕虜を虐待した。48人の捕虜のうち1人が抗議のため兵士たちに水をかけた。彼はすぐに懲罰部屋に隔離されたが、翌日捕虜全員が罰せられた。34日間、新鮮な食事は与えられず、水も奪われた。上層部にかけあうと、返事は「これが軍隊式だ。だれか1人が間違えば、グループ全員が罰せられる。」

クルアーン侮辱事件
女性兵士が監房検査の際、クルアーンを意図的に床に投げ捨てた。捕虜たちは彼女を罰せよと要求してストライキを起こし、着替え、シャワー、散歩を拒絶した。すると報復にガスを送り、捕虜を気絶させた。米兵はその隙に持ち物を奪い、髭を剃った。夜は大きな音を立てて、捕虜を眠らせなかった。

マシャール殴打事件
インディアナ棟で捕虜たちが「アッラーフ・アクバル(アッラーは最も偉大なり)」と唱え檻を叩き始めた。アラブ人の兄弟マシャールがひどく殴られ、多くが死んだと思ったことによる抗議行動だった。米兵は「入院しているが危篤だ」と発表した。2か月後、彼が歩くことも、座ることも、動くことも、しゃべることも出来ない麻痺状態であると知らされた。2年半入院した後、マシャールはサウジアラビア政府に引き渡された。

※ 脚注「マシャール:マシャール・アワド・サイヤフ・アルハルビは(1980年頃)サウジアラビアに生まれた。2001年にアフガニスタンのマザーリシャリーフで逮捕。グアンタナモから釈放され、2005年7月19日にサウジアラビアに帰国した。」

ザイーフによると、「捕虜は世界で一番弱い人々」だが、グアンタナモに入れられた者は「もはや人ですらない。日に日に人間性を奪われていく。」

捕虜仲間たち
①イエメン出身のムフタール※1。彼はクンドゥーズ州のカライエ・ジャンギ※2から送られてきた。カライエ・ジャンギはウズベキスタン軍に投降したターリバーンらが収容されたが、捕虜同士に殺し合いを強いる、生きた捕虜の金歯を抜こうとするなど虐待が横行し、その挙げ句に捕虜による暴動が勃発した。

※1 脚注「ムフタール:ムフタール・ヤフヤ・ナジ・アルワラフィ(1976年頃生まれ)はイエメン市民。アラブ人向け野戦病院の運営を補佐し、ターリバーンを助けた廉で収監された。2008年12月時点で、いまだグアンタナモにいる。」

※2 脚注「カライエ・ジャンギ:『ターリバーンとアル=カーイダの捕虜』が収監されていた砦。2001年11月25日から12月1日まで暴動が起き、外国軍の特別作戦部隊による空爆でやっと鎮圧された。300人の捕虜のうち生き残ったのは86人だけだった。」

ムフタールによると、暴動は「決死の反乱だった」と言う。敵はドスタムの兵士だった。仲間に囲いを解かれ、少ない武器を手に6日間は持ちこたえたが、再び手錠をはめられた。

②タジキスタン出身のヨウスフ。彼はターリバーンによってタジキスタンでリクルートされた。ドスタム軍に捕まったときは「故郷に送り返される」と思った。しかし、コンテナで何日も運ばれ、移動中に息絶えた捕虜の死体をかき分けて外に出ると、赤十字の代表者がいた。さらに目隠しされ、ジューズジャーン州の刑務所に送られた。

※脚注「ヨウスフ:ヨウスフ・ナビエフは(1964年頃)タジキスタンのイスファラで生まれた。2004年7月に戦闘員資格認定法廷が設置されたが、その前にグアンタナモから釈放された。」

③カンダハール州クシャブ出身のアブドル・ガニー。空港をロケット弾で襲った廉により、カンダハール州知事の命で、自宅にて逮捕された。容疑を否認したが、現場の空港に連行され、暗い部屋のなか鉄線で殴られた。なおも否認すると逆さづりにされ、昼間中なぐり続けられた。痛みに耐えきれず、自白した。その結果、アメリカ人に引き渡された。

※脚注「アブドル・ガニー:1984年頃生まれ。戦闘員資格認定委員会に出された証拠によると、『(2002年11月)カンダハール空港を離陸しようとした米空軍の輸送機をBM12ミサイルで攻撃するのに加わった。』2008年12月時点で、いまだグアンタナモにいる。」

ウソ発見器
ザイーフはあるとき、ウソ発見器を使った尋問を受けた。
尋問官:「これはウソ発見器だ。これを使って尋問してもいいか?」
ザイーフ:「もっと早く使えば、無駄な時間を省けたのに。」
尋問官:「君のことをすべて知っているのは誰だ?」
ザイーフ:「アッラーだ。」
尋問官:「ほかには?」
ザイーフ:「私自身だ。」
尋問官:「発見器を使えば私にもわかる。」
ザイーフ:「自らがアッラーだと言い張ってはいけない。父親ですら息子の心はわからぬものだ。」

こんなやりとりで始まった機械仕掛けの尋問もザイーフの「強い心には勝てなかった。」

尋問官のバリエーション
①フレンチ髭を生やした魔術師風の男がこう切り出した。
魔術師:「君を金持ちにしてあげよう。私が与える500万米ドルで君はアフガン1の大富豪だ。」
ザイーフ:「私はとても金持ちです。想像以上にね。お金はもう沢山、いま欲しいのは自由です。」
魔術師:「不信感のあまり私が言っていることを理解できないようですね。」
ザイーフ:「信じられるわけがありません。あなたに願うのは、ここから出るための手助けのみです。」

こんな実のない話に4時間も費やしたあげく、魔術師は退席した。

②続いて自らを「天使」と称する女性が尋問を引き継いだ。
天使:「私が誰か知っていますか?」
ザイーフ:「アメリカ人とお見受けします。」
天使:「ご存じないようですが、あなたの釈放、待遇、処罰、すべてについて権限を持つのが私です。実は、これまでの尋問結果をあまり信じていないのです。私にだけは初めから正直に語ってください。」
ザイーフ:「そうすれば、あなたの次に来た尋問官に、同じ事を繰り返さなくて済みますか?それとも、また最初から・・・」
天使:「しゃべっていいと言われなければ、お黙りなさい。教えてあげましょう。あなたのプライドを剥ぎ取りますよ。」

ここでザイーフは切れた。相手を非難しまくり、尋問は終了。「彼らが再び現れることはなかった。」

戦闘員資格認定
グアンタナモのおかげでアメリカは国際世論の圧力を受けた。そこで「3年後に彼らは戦闘員資格認定委員会をでっち上げ、世界と捕虜を騙そうとした。」捕虜の多くはその設立を喜んで迎えたが、実際は「どの捕虜がアメリカの敵か」を決するほどの役割しか持たなかった。

※脚注「戦闘員資格認定委員会:2004年7月に聴聞を開始。グアンタナモに収監されている各捕虜が『敵戦闘員』と定義するに値するかどうかを法的、一時的に決定する会合。574回ひらかれたうち、37回のみが報道機関に観察、公開された。収監者本人が出頭を義務づけられることは無く、多くが委員会に文書を提出する形で参加した。」

委員会は「みなお馴染みの尋問官によるでっち上げだった。裁判官、弁護側、告発側すべてが、CIA、FBIなど諜報機関に雇われていた。」あげくに誰も法の専門家では無かった。ザイーフにもひとり担当がついたが、あまりに無知なので弁護を断った。

行政審査会
案の定、戦闘員資格認定委員会は長続きしなかった。すると続いて軍内に行政審査会なるものが持ち込まれた。しかし、これもザイーフは評価しない。ニセ情報で捕まった者は枚挙にいとまが無いのだ。「ムジャヒディーンの服を着ていたから、鏡を持っていたから、電話を持っていたから、家畜を見張る双眼鏡を持っていたから」無実の者が捕らえられた。

※脚注「行政審査会:米軍内でグアンタナモに収監されている容疑者の品定めを毎年おこなう聴聞会。収監された者が法的アドバイスを受けられないこと、自分がどんな容疑で収監されているかを知り得ないこと、容疑者に無罪の推定が認められないことを理由に、人権擁護の立場から非難された。初年度の聴聞会は2004年12月14日から2005年12月23日まで、数次にわたって開かれた。」

ある捕虜は「25年前の難民IDカードしか身分を証明できるものがなくて逮捕された。」これらが、行政審議会の言う真実であり「アメリカが言い張る証拠であった。」こうして、元ターリバーン、現政権のメンバー、靴職人、鍛冶屋、羊飼い、ジャーナリスト、両替商、商店主、そしてモスクのイマーム(指導者)が閉じ込められ、「3年後にやっと無実だとされ釈放された。」もちろん、その間の補償はおろか、詫びる言葉すらない。

ハンスト
2005年の夏には大きなハンガー・ストライキが発生した。275人が26日間にわたり食事を拒み、捕虜の3分の2は、何らかの形でストに参加した。ザイーフを含む6人の捕虜代表団が収容所側と3度にわたり交渉し、「捕虜を人間として扱う」と約束させて、一旦は解決した。収容所長はラムズフェルド国防長官に、「グアンタナモの囚人にもジュネーブ条約を適用させるよう掛け合った」との甘言をたれさえした。しかしそれはアメリカのウソだった。

そのためストは再発し、2005年9月11日にザイーフが釈放されたときも、なお続行中だった。痩せ細ったハンストの実行者は次々と病院に運ばれた。病床についても「死を恐れぬ」彼らは食事に手をつけない。病院長が彼らへの強制給餌を拒んだため、新たに5人の医者が派遣された。

こうした「生者の墓場」たるグアンタナモのハンストが、ようやく収束したのは翌2006年1月のことだった。

「さあ、国連はいまどこにいる。 2千万のアフガン人を苦しめる制裁にかまけて、数千のモスレムが不当に拘束され、正義と法と人権をもとめ叫ぶ声が聞こえないのか。何のための国連なのか。」

(続く)

noguchi20230915

==========<野口壽一>==========(2023年9月15日)

★ 編集部にふたつの緊急ニュースが送られてきた。9月11日、ノルウェーに住むアフガニスタン出身の人権活動家ミナ・ラフィクさんが、人権侵害の罪でターリバーンをハーグ国際司法裁判所に提訴せよと要求して、ハンガーストライキを始めたという(https://webafghan.jp/another911/)。もうひとつ、オスロのまえに9月1日には、ドイツ・ケルンで先行するハンガーストライキが闘われていた。ターリバーンに対して、世界各地でさまざまな抗議行動が展開されている。

★ 今度のハンガーストライキは、どちらも、2001年のあの忌まわしい9.11米国同時テロを忘れるな、とのスローガンを掲げている。いうまでもなく、あのときは、第1期ターリバーン時代にあって、ビン・ラーデンらアル=カーイダをかくまい、アメリカ本土への自爆テロの実行を許したのだった。

★ あれはもう過去の事件だ、という認識がありはしないか。本サイトで連載した「ターリバーンに関する国連安保理報告」は、アフガニスタン国内に、アル=カーイダの残党をふくめ20以上のイスラーム過激派集団が存在し、勢力を回復しつつある事実を報告していた。これらの組織はアフガニスタンの周辺諸国への進行を公言し、実際に行動を起こしている。(「トピックス」コーナーなど参照)

★ターリバーンはアフガニスタンの国土でのテロリストの活動は許さないと公言しているが、パキスタンやタジキスタンなどではアフガニスタンを拠点とする越境テロ攻撃が盛んにおこなわている。パキスタン政府はターリバーン当局を強く批判しアフガニスタン領内での軍事的対応をもほのめかしている。(https://webafghan.jp/topics/#20230912b

★本サイトで再三報道しているように、パキスタンとアフガニスタンとの対立は単純な国境紛争ではない。パキスタン政府と内戦状態にあるともいえるパキスタン・ターリバーンをアフガニスタン・ターリバーンは支援している。「アフガンの声」で取り上げたイスラーム諸国協力機構(OIC)代表団のカーブル訪問団の中にはパキスタン代表も穏健イスラーム派のインドネシア代表もはいっているが、どの国もターリバーンを正当な政府とはみなしていない

★ 国連は、アフガニステン1530万人が急性食料不安に陥っており、280万人が緊急レベルの危機にあるとして寄付を呼び掛けている。しかし、ターリバーンが現在の姿勢を変更せずますます国際社会に背を向けた行動をつづけると、国際支援すら細らざるをえない。

★ジハードで米英NATO軍を追い出したターリバーンだが、ジハードだけでは国民を生かすことができないことを自覚すべきだ。

kaneko20230905

==========<金子 明>==========(2023年9月5日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第20弾。今回はその第18章「グアンタナモ湾」の後半から抜粋・翻訳する。収容所の各施設の特徴、戦争捕虜の非人道的扱い、そしてその上手な隠蔽策が語られている。

ザイーフが初めてやって来たとき、つまり2002年7月時点での収容所の概要:
●グアンタナモは単一のキャンプ(収容所)で、8棟からなり、他に「監禁棟」が離れて建っている。
●8棟内に監房の数は48。歩行スペースは2カ所。簡素な浴場は4カ所。
●監禁棟には24の独房。

捕虜の衣装と持ち物:
●赤い囚人服。素材は分厚く、肌を傷める捕虜もいた。
●(各自に)毛布2枚、水のボトル2個、タオル2枚、小さなビニールのカーペット、歯ブラシと練り歯磨き、聖なるクルアーン、マスク。
●一般的な懲罰は、カーペット以外の上記持ち物を取り上げること。

やがて、第2キャンプが出来ると、所長だった将軍は交替し、捕虜の待遇は悪化した:
●監房数が300に激増(6倍以上)。
●クルアーンは没収。
●ザイーフたちは再び剃り上げられた。
●捕虜への尋問が増え、よりひどく虐待された。

新たに所長となった将軍の名はミラー※1。「後にイラクに移り、そこでアブ・グレイブ収容所を統括した。」彼はグアンタナモにキャンプエコー※2をうち建てた。

※1脚注「ミラー:ジェフリー・D・ミラー将軍(1949年生まれ)は2002年からグアンタナモ収容所で軍の上級司令官を勤めた。イラクでも捕虜の『軟化』を進言し、2004年3月に露呈したアブ・グレイブ刑務所における醜聞を彼のせいだとする者は多い。」

※2脚注「キャンプエコー:グアンタナモ湾拘置施設を最終的に構成する7つのキャンプの1つ。捕虜を単独で拘束するために使われた。いわゆる『高価値』捕虜が、ここの特別なアクセス制限独房にしばしば収監された。」

そこには監禁のための様々な工夫を凝らした部屋があった。例えば、普通の部屋に檻をしつらえ、檻の前にトイレを置いたもの。扉などすべてが遠隔で操作され、四六時中ビデオで監視される。入れられると昼か夜かも分からない。何人かの「兄弟」は出てきた後、精神に異常を来し苦しんだ。

グアンタナモに来ると、捕虜の多くは数年で精神異常に陥った。そんな中の1人に、ザイーフの捕虜仲間アフマドがいた。

※脚注「アフマド:アフマド・(アル)ラシディは1966年頃生まれのモロッコ人。ロンドンの多くのレストランでシェフとして17年間働いたのち、2001年10月にアフガニスタンに入国。2002年にパキスタンで逮捕された。獄吏がつけたあだ名は『将軍』。ニューヨークタイムズのゴールデン記者(2006年)によると、彼の持つ強い『影響力と自尊心』から命名された。ラシディは『多頻度利用客マイレージ付与』と呼ばれた虐待の犠牲者だった。それは昼夜を問わず捕虜の収監場所を意図的に変え続け(移動マイレージを貯め)、移動時間以外は6時間におよぶ尋問を続け、捕虜を眠らせないというもの。戦闘員資格認定委員会によると、彼は『2001年7月(テロ組織)アル・ファルークの訓練キャンプにいた』とされるが、レプリーブ(法的虐待を指弾する国際NPO)の調査員が、その時期ラシディはまだロンドンにいたことの証拠を発見している。グアンタナモに2007年4月まで収容され、モロッコへ帰国した。」

アフマドはカンダハールでもザイーフの隣の監房にいた:
●常時、重い鎖で繋がれている捕虜の1人だった。
●虐待によって、やがて精神を病んだ。
●治療されることは無く、何度も罰せられた。
●ザイーフは彼が気絶するのを数回見た。

そしてグアンタナモへ来たのだが、あるときザイーフの隣の檻に入れられた。すると彼は、クルアーンと詩を暗唱し、「ことし神に導かれしお方が再来される」と何度も唱えた。ある日、彼は米兵を食事の盆でたたき、キャンプエコーに送られた。そして3年間入れられていた。

アフマド以外にも精神疾患を抱えた者はいたが、誰も治療を施されなかった。「全能のアッラーの前では、狂者も精神異常者も許されるが、米兵の前ではそうはいかない。」

ここまで書いて、ザイーフはようやく自分の環境について語り出す:
●まずデルタ棟の15番檻に入れられた。
●次にキャンプデルタが出来ると、そのゴールド棟8番檻へ。
●そこに2003年始めまでいた。
●さらにキューブ棟37番檻へ。

※脚注「キャンプデルタ:2002年4月に稼働を開始したグアンタナモ湾拘置施設の一部。施設全体は少なくとも7つのキャンプ(キャンプ1から6、およびキャンプエコー)で構成されていた。」

最初、ザイーフの檻からは海が見え、行き交う船を眺めることも出来た。しかし、すぐに窓のない場所に移され、檻の中でたった1人の時間を過ごした。とは言え、締め付けはゆるやかだった:

●週に1度のシャワー。
●両手を縛った状態だが、2週に1度は歩行スペースで15分の散歩。
●後に散歩時間は30分に。
●囚人服は毎週交換。
●髭や爪の手入れは禁止されていたが、やがて週1でカミソリと爪切りの使用が認められた。
●食料は最初戦用品だったが、朝食と夕食は調理された新鮮なものに変わった。
●翌年、昼食も新鮮なものになった。
●しかし、味はなく量も足りない。
●そのため、日に3度新鮮な果物が出るのは、大きな喜びだった。

宗教的な計らいもあった:
●1日5回の礼拝が許された。
●夜の礼拝の時刻になるとアナウンスまでして、捕虜たちを起こした。
●アザーン(礼拝の呼びかけ)のテープは米兵が流し、彼らはその口まねをした。
●しかし日中は、捕虜たちが正しい時刻を日の高さで判断した。
●後には、集団での礼拝も許された。
●但し監禁棟では、時刻など分からない。みな思い思いのタイミングで礼拝した。

第3キャンプができると食事が質・量ともに悪化し、懲罰が増えた。新築のキューブ棟を例にとると:
●囚人は季節を問わず下着のみで檻に入れられる。
●礼拝のときも下着のみ。
●食事の量は大きく減らされ、米兵による虐待がひどくなった。
●便所は皆に丸見え。
●檻は狭く、捕虜はまっすぐ横になって眠れない。
●冬は極寒で、捕虜はその場で跳躍して暖をとる。

こんな環境のなか「あるとき、下水が詰まって最悪だった。汚水と糞便が絨毯のように床を覆い尽くし、異臭を放った。」そんなトイレ事情としては:
●排泄後、紙も水も使えない。
●手で拭くが、その手は洗えない。
●囚人はその手で食事をする。

「これが、人権を守ると主張する奴らによる我々の扱い方だった。」

つぶやき子の父は戦後シベリアで6年間捕虜として過ごした。父の葬儀で初めて会った先輩義勇兵によると、「永久凍土を開墾したが、夏でも1メートル掘ってやっと土が出てきた。それは並大抵のことではなかった。」よくぞ生きて帰ったものだが、本人がいっさい語らなかった悲惨さ・屈辱は如何ばかりだったろう。グアンタナモよりはマシだったと信じたい。

さて、ザイーフはキューブ棟に入れられ辛酸をなめた:
●キューブ棟への収監は1度につき1か月から5か月まで。
●自分を制御できない者ほど、長くとどめ置かれる。
●やや離れたところに精神病棟があった。
●そこに入れられる多くは、重患で自殺傾向があった。
●ザイーフのいる間、ほぼ毎日自殺騒ぎがあった。
●自殺を試みた者は鎖で縛られ、精神安定剤を打たれる。
●そのため多くが薬物依存症になる。

それ以前に入れられていたキャンプデルタでは、囚人間に対立があった:
●原因は米兵のスパイだとの疑惑。
●スパイは他の囚人に叱り飛ばされ、時には暴力を振るわれる。
●近くの檻にいる者はスパイに唾を吐きかけ、檻を変えてくれと要求する。
●スパイの多くが檻の中で首つりを図り、精神病棟に送られた。

スパイ問題をより複雑にしたのが、人種と宗教の相違だった。「アフガン人スパイの幾人かが、改宗しイスラームを捨てた。アッラーの名と既に取り上げられた聖なるクルアーンを蔑んだ。イラクやイエメン出身のスパイもいた。」不信者は首に十字架さえつけ、日々その数を増した。この事態は「イスラームを放棄させようとするアメリカの策略だと見る者が多かった。」

続いてザイーフは新築されたキャンプ4とキャンプ5を解説する。まずキャンプ5:
●他から離れた場所にある懲罰専用キャンプで「墓場5」とあだ名される。
●換気も窓も無く、壁はコンクリート。
●小窓から食事が差し入れられるが、捕虜はその間後ろを向かされ、小窓の方を見てはいけない。
●よく食べ物が床にこぼれるが、替えは出ない。
●入った者は、見る影も無く痩せ細る。

続いて独特なキャンプ4:
●真っ当な食事が与えられ、捕虜は体重と体力を回復できる。
●共同生活が許され、集団での食事や礼拝が可能。
●ゲームやスポーツも許される。
●望めば1日何度もシャワーを浴びられる。
●囚人服は白で各自に洗濯石けんが配られた。
●週に1度は映画を上映。
●サッカー場、バレーボールコート、卓球台があり、運動が許可される。

話がうますぎるようだが、ここに「多くのジャーナリストや国会議員たちがやってくる。ビデオや写真が撮られるが、訪問者との会話は禁止された。」つまり、一片のパンにも窮する多くの痩せた捕虜の存在を隠すための装置だった。

さらにキャンプ4は「釈放を前に入れられる場所」と位置づけられていた。だから、ここに来た捕虜は「もうすぐ出られるぞ」と喜んだ。米兵たちも「ここで1か月も過ごせば、みな出て行く」と期待を煽った。だが、待つべき「ひと月がやがて1年になった。」それでも、ザイーフたちは驚かなかった。「アメリカ人は何かを言って約束しても、すぐに忘れてしまうからね。」

実際2004年6月にキャンプ4に移されたザイーフだが、1年と3か月をそこで暮らし、充分すぎるほど体力を回復した。そして遂に釈放の時がやって来た。

(続く)

noguchi20230905

==========<野口壽一>==========(2023年9月5日)

★ 陳腐な表現ですが、うれしい悲鳴。ボケてるヒマがありません。
★ 旭川から帰って残暑見舞いメールを出したらたくさんの方から暖かい励ましや含蓄のある言葉や貴重な資料を送ってもらいました。それらを読んだり、返事を出したり、資料の整理をしたりは、充実した楽しい時間でした。そのほんの一部を「読者の声」に掲載させていただきました。掲載できませんでしたが、私信をお送りくださった皆さんにこころよりお礼、申し上げます。
★ 久しぶりに詩を発表して掲載されたアンソロジー集が出版されたため、朗読する機会が増えました。この間の集まりで何度か朗読させていただきましたし、集会での朗読予約が3件もきています。これも「うれしい悲鳴」です。
★ 野口の仕事は、アフガニスタンの現状を少しでも多くの人に知ってもらい、アフガニスタンが忘れられないように、そして生きる希望を失っていない人々に声をとどけるお手伝いをすることと心掛けています。日本に避難してきた人々の支援は言うまでもありません。
★ 日本語の習得や生活上の支援、やることは山ほどあります。少しずつ片付けていかなければなりません。猫の手といったら失礼ですが、応援をよろしくお願いいたします。
★ さて本号の内容について。盛りだくさんで読み切れない、との声をよく聞きます。全部読もうと思わないでください。1本でも読もうかな、と思ってくださる記事があればラッキー。余力があれば次をお読みください。ニュースメールだけをざっと眺めるだけでもうれしいです。見出しだけでアフガンとそれを取り巻く世界の一部だけでもわかってもらえるよう努力します。
★ 今号のトピックスでは、ターリバーンが相変わらず女性差別や思想弾圧を強めている状況を伝えていますが、ターリバーンとしてもアフガニスタン国民の生活を保障できなければ、いくら代替勢力がいないといっても、暴力だけで従わせることなどできません。国力が疲弊して共倒れするだけです。今のところは、敵対勢力や対立民族(タジク、ハザラ、ウズベクなど)を締め付けて難民化させて外に追い出せばその跡地後施設をパシュトゥーン族や遊牧民たちで埋められる、と考えている節があります。ようは一種の民族浄化策。
★ そんな行動をパキスタンのターリバーンであるTTPなどと協力してやっていますが、もともとが彼らはテロを手段とする極端な強硬派。さらに、国連レポートによればそのようなテロ過激派集団がアフガン国内に20団体ほどもいて、増強されつつあるといいます。ターリバーンはいまだ建前上は暫定政権として各大臣は「代行」とか「暫定」とかの冠をつけていますが、実質上の当局となった以上、他国に対する安全管理も含め国家運営をしっかりやらなければ国外からの支援どころか商人さえも期待できません。
★ 今号の<視点>では、インドネシアのイスラーム状況にふれました。ターリバーンやイランやIS(イスラム国)などは原理主義的、懐古趣味的独自解釈で組織を運営していますが、独自解釈をするのなら、インドネシアのように、人類が歴史的に勝ち得てきた自由、平等、人権の思想を聖典コラーン(クルアーン)に見出して未来のある社会を作り出してほしいものです。このままでは、イラン、アフガニスタン、パキスタンの混乱を助長するだけで、世界の安全にとっても困りごととなってしまいます。
★ こんな風に書いているとますます熱くなってきます。これから水浴びでもして熱を冷まします。残暑ももうしばらくのことと思います。皆様も気を許さず熱暑をお元気にお過ごしくださるようお祈りいたします。

kaneko20230825

==========<金子 明>==========(2023年8月25日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第19弾。今回はその第18章「グアンタナモ湾」から抜粋・翻訳する。2月にカンダハールに送られたザイーフは、そこで5か月弱過ごしたあと、遂にグアンタナモへと旅立つことになった。

「7月1日、私は床屋へ連れて行かれ、今一度剃り上げられた。」前回、ザイーフが受けた様々な虐待を紹介し、悪辣な捕虜の扱いを列挙したが、ここに1つ追加せねばならない。それは、ムスリムにとって一番耐えられない「髭剃り」である。「イスラームでは髭を剃ることを禁じている。ハナフィー信仰では罪と見なされており、髭を剃られるなら殺された方がましなのだ。」

※ 脚注「ハナフィー:イスラーム法思想の4大学派の1つで、アフガニスタンでは主流派(世界的にも、支持者数は最大)。法学者アブ・ハニーファ(767年没)の名前からつけられた。イスラーム法やシャリーアをより自由に運用することを提唱する。」

体の毛をすべて剃り落とされたあと、他の捕虜ともども鎖に繋がれ、キューバへ向かう飛行機に乗せられた。機内の虐待:
●両足を鎖で床に固定。
●両手は背中に回して施錠、金属製の椅子に縛られる。
●1インチたりとも、身動きできない。
●その状態で離陸まで4時間。
●離陸直後から捕虜は苦しみ出し、うめき声を出すが放置される。
●トイレの使用は許されない。
●どこかに一度着陸し、計23時間かけてフライト。
●着陸後も機内で3時間待たされる。
●つまり、計30時間その姿勢をとる。
●腕は膨れ上がり、米兵は食い込んだ手錠を外すのに一苦労した。
●解錠後は「動くな」と命じられ、思わず伸びをした捕虜は容赦なく蹴られ殴られる。

「私自身も3度蹴り飛ばされた」後に、基地へと進み、まず医療診断を受けた。すぐに尋問室へ。過酷なフライトで疲れ切った頭に、いろいろ質問を浴びせる手はずだったが、「ここに来るまでは、キューバを脅し文句に使われたが、もう来てしまった。恐れる物は何もない」と覚悟を決めたザイーフは完全黙秘。根負けした通訳は尋問部屋を去った。

すると海運用木箱でこしらえた檻へ。手足は自由で個室。さらに「水があって何よりも私を喜ばせた。何か月も浄めの水に窮していたが、やっと満たされた。体を洗い、祈り、眠った。」夜の祈りにも起きないほど眠りこけた。

ここまでザイーフは一直線に、つまりほぼ体験したそのままに自らの半生を書き綴ってきた。それがこの本の魅力であり、俯瞰する学者やジャーナリストには到底描けぬターリバーンの内幕が、素朴な筆致で活写されている。その体験主義は、彼が最果ての地獄で目覚めた翌日から一段と鋭く輝き、あの悪名高きグアンタナモの真実を我々に伝えてくれる。

【檻】
ザイーフの檻はグアンタナモ捕虜収容所のゴールド棟にあった。捕虜の扱いはバグラムやカンダハールに比べれば良かった。檻の中は孤独だが、周りの捕虜仲間との会話は許され、自由の感覚があった。広さは1.2m×1.8mで横にいくつも並ぶ。ベッドは金属の1枚板。檻の中に水道と便器がある。隣の檻との壁は無く、仕切りは金網。身を清めたり排泄するのに丸見えなのは恥ずかしかった。

【ここはどこ?】
みんな混乱していた。「キューバじゃなく、ペルシャ湾のどこかの島だ」と言う者。「グアンタナモに行く途中の別の収容所だ」と言う者、などなど。「メッカがどちらか分からないので、みんな別々の方角に向かって祈った。」

【赤十字】
アフガニスタンでお世話になった赤十字は、ここでも登場する。怪しい一面もあったが助けられた。
赤十字:「私たちが空港で見張っていたので、虐待が防げましたね。」
ザイーフ:「しかし、バスの中で兵士は私たちを太鼓のように叩きました。」
赤十字:「空港にはいましたが、バスの中は権限外でした。」

赤十字のインタビューには、茶とビスケットとジュースが出た。ドイツ人の通訳との間でこんなやりとりがあった。
ザイーフ:「どうしました?なぜそんな目で私を見るのですか?」
通訳:「君を見たことがある。どこかで会いしましたか?」
ザイーフ:「ここに来る前、カンダハールで何度か会ったのでしょう。」
通訳:「いや、それは無い。多分テレビで見たのか。顔も体つきも見覚えがある。お名前は?」
ザイーフ:「ムッラー・アブドル・サレム・ザイーフ。ターリバーンのパキスタンへの大使でした。」

そう聞くと驚いた彼は「ごきげんよう」と挨拶をして、唐突に切り出した:
通訳:「ムッラー・ダデュラーがどの棟にいるかご存じですか?」

マスードを封じ込めたあの片脚の猛者ムッラー・ダデュラー・アークンドである。意表を突く質問だった。捕虜になって以来、ダデュラーに会ったことも、その名を聞いたこともない。もしグアンタナモにいるのなら、捕虜の全名簿を持つ赤十字が居場所を知らない訳がない。「怪しい質問だ」と警戒した。

捕虜の中には片脚の男が2人いたが、どちらもムッラー・ダデュラーではなかった。恐らく米兵はこのうちのどちらかが悪名高き司令官だと疑い、通訳を介して探りを入れたのだろう。「赤十字の職員すべてがアメリカのスパイだと決めつける捕虜はさすがにいなかったが、米諜報機関が赤十字内に根を張り、スパイを潜伏させている可能性があると考えた者は多かった。」

赤十字への苦情が米兵を逆上させるのも困りものだった。例えば:
●食事が少なくまずいと苦情→赤十字が米兵に改善を促す→翌週のメニューは改悪される。
●ザイーフが胸と耳の痛みを訴えた→赤十字が診断し軍医に報告→軍医は治療どころか診察すらしない。
●バドロザマン・バードルが檻の中で赤十字にインタビューされていたが、英語だったために、外にいた下士官が怒って話を遮り、彼に全ての衣服と持ち物を差し出すよう命じた。赤十字の職員に無力感を味あわせるための見せしめだった。その証拠に、彼が立ち去ると、すべてをバードルに返却した。

※ 脚注「バドロザマン・バードル:ジャララバード出身(1970年頃生まれ)の英文学修士。米国とターリバーン双方を批判する文章を書いたとして、アフガニスタンで収監された後、グアンタナモへ。戦闘員地位審査法廷(CSRT)が始まる前にグアンタナモから釈放された。兄弟(2010年の時点でグアンタナモで再収監中)と共にグアンタナモに関する厳しい告発本を書き、アフガニスタンで2006年に出版した。」

このバードル事件以来、捕虜たちは「赤十字に苦情を述べなくなった。とは言え、みんな彼らとの話し合いには熱心だった。」気分転換になったし、ビスケットとジュースはとても魅力的だったようだ。

ザイーフが収監されていた後半の2年間、赤十字はパシュトー語の通訳2人をあてがった。彼らは手紙を家族に送り、文盲の者には代筆し、家族の居場所を探し出しさえした。「赤十字は、我々を助けようと試みた。一方我々は、アメリカによって拷問された。自由の大地が、全ての法律と人権をその軍靴で踏みにじった。」

【米兵の各グループ】
米兵たちは何組かに分かれて行動していた。それは「バッジに描かれたシンボルマークで識別できた」ようだ。

3大グループ
[木組]
●最も優しいグループ。
●捕虜間で差別をせず、うまく扱う。
●食料を十分に与え、時には果物まで出す。
●就寝中に邪魔をしない。
●捕虜が医者に会う必要があれば、世話をし、なるべく早く情報を伝える。
●そんな訳で、彼らにはなるべく文句を言わないように努めた。

[十字組]
●とても厳格で、収容所に秩序と法を行き渡らせるのを指命とした。
●時に差別的で、虐待も辞さず、懲罰として食料を減らすこともあった。

[三日月組]
●粗野で常に差別的。
●いつも食事を減らし、衣服もろくに与えない。
●毎晩、眠りを妨げる。
●すぐに逆上し、捕虜を罰する。

次の3グループ
[スペイン人組]
●グアンタナモで最も礼節を重んじ、尊敬すべき兵士たち。
●捕虜に最大の同情と理解を示す。
●彼らのかつてムスリムだった先祖について、捕虜とよく話す。
●食料を追加し、石けんやシャンプーをくれる。
●イスラームを尊重し、祈りを妨げぬよう気にとめる。
●聖なるクルアーンを決して粗末に扱わない。
●収容所の外で何が起きているかを伝えてくれる。
●しかし、やがて全員がいなくなり、アングロサクソンの米兵に取って代わった。

[鍵組]
●まさに野生動物。
●ザイーフが解放されたときも、収容所に詰めていた。
●粗野でイスラームを尊敬せず、捕虜の暮らしを貶めるためには、どんな面倒も厭わない。
●深夜の点検を欠かさず、捕虜の眠りを常に妨げる。
●上役にはウソの報告をし、捕虜を虐げ聖なるクルアーンを侮辱する。

[94組]
●何の咎もなき捕虜を虐げ、聖なるクルアーンを侮辱する。
●捕虜と94組の間の憎しみは増大し、捕虜はお返しに、出来るときは必ず反抗する。
●兵士に水をかける、質問を無視する、常に非協力を貫く。
●最後には、94組の排除を求め、彼らが去るまで不服従を重ねると宣言した。
●収容所当局も折れて、組の解散を命じ、兵士個人を収容所中で別のグループに組み入れることにした。

どうやら結局は、3大グループと鍵組の計4グループが存在したようだ。そしてグアンタナモの兵士は半年ごとに異動していった。概して良い兵士が去り、悪い兵士が補充された。中には収容所の惨状に悲しみを感じ、帰ったら「キューバの捕虜に何がなされているか」を国際メディアに訴えようと言う者もいた。

また人種による兵士間の特徴もあった:
[ラテン系白人]
●概して礼儀正しく、捕虜に同情を示す。
●概して差別をしない。

[黒人]
●いつも疲れているように見える。
●寝ているか食べているか。
●低教育で、貧しい田舎者。
●捕虜を差別する兵士は少ないが、差別する者は最も激しく差別する。
●白人兵に悪態をつく。利己的で残虐で侮辱的だと。
●兵士間に信頼関係は無く、捕虜に話しかけるときや捕虜に何かを与えるとき、周りを注意する。

[アングロサクソン]
●政府の中枢にいる連中だが、狡猾で、嘘つきで、詐欺師。
●上官のほとんどを占め、上記2グループよりも教育的、財政的に優れている。

[インディアン]
●ほとんどいない。
●USAの本来の持ち主で、発見されるずっと前からそこに暮らしていた。
●今ではアメリカの片田舎に住み、識字率が低い。
●多くがドラッグやアルコールに依存している。

「彼らは最初にやって来たアメリカ人に殺され、土地を奪われ、山岳地帯に追いやられた。今でも、政府に満足な代表者を送り出せず、その兵士の多くは他のアメリカ人を侵略者と見て、合衆国のやることに同意しない。そんな彼らが現状を見て、我々捕虜を慰めた。」

以上がいわゆるグアンタナモ総論。以後ザイーフはこの刑務所における痛みを伴う体験から、米兵による捕虜の「非人道的扱い」を次々と暴露していく。

(続く)

noguchi20230825

==========<野口壽一>==========(2023年8月25日)

★ 今号は野口が24日に旭川で開かれた『詩の檻はない』の発刊記念イベントに出張したため1日遅れの発行となりました。

★ 旭川を拠点とする柴田望さん、ロッテルダムを拠点とするソマイア・ラミシュさんとは毎日のようにメールやSNSでやり取りしていました。行く前にはそれほどの新鮮味はないかもしれないと思っていたのですが、いざ行ってみると、「見ると聞くとは大違い」。今風に言うとリアルとバーチャルの差でしょうか。報告したいことは山ほどありますが、イベントの速報は柴田さんがブログに即アップされたのでそちらをご覧ください。アフガンメールニュースのトップにリンクを張っておきました。(本サイトではホームアイコンをクリックすると表示される「読みどころ」コーナーにあります。)

★ 「大違い」のいくつかは<視点>に書きました。こちらもぜひお読みください。今回のイベントが11月のフランス語版発刊に向けてこれから日本と世界にじわじわ効果を発揮していく画期的試みだったことは間違いありません。本サイトでは今後の動きを細大漏らさずフォローしていきます。ご注目ください。

★ 想定外の発見もありました。<視点>に書きました。行ってみて知った「旭川」の奥深さとチャレンジ精神でした。

★ 旭川には「カワ」だけでなく「ヤマ」もありました。イベントの翌日、全国的に有名になった「旭山動物園」に行きました。東京より暑い35.5℃の炎天下、東のハシから西のハシまで汗をダラダラ流しながら動物たちに挨拶してまわりました。エアコンをもらえない動物たちはぐてっとしてました。一躍有名になったごまふあざらしが水柱を泳ぎ登る有名な展示の決定的写真も撮れて、来てよかったと大満足。実は午前中はイベント実行委員のひとりだった木暮さんの案内で旭川文学資料館を見学しました。小熊秀雄の出身地として旭川は有名ですが、戦前の軍都旭川が文学をもはぐくんでいた地であったことを明かし立てる充実した展示で驚きました。旭川恐るべし。

★恐るべしついでにもうひとつ。野口はアフガニスタンがムジャヒディーンとターリバーンの時代になって本国との連携が途絶えた90年代以降、国内でベンチャー支援活動をしておりました。株式会社キャラバンをベースにインターネットの黎明期、世田谷で「246コミュニティ」というネットを使ったベンチャー支援です。会社活動の終焉とともにその活動も終わりましたが、旭川で、杉村太蔵氏が地域おこしと起業支援の素晴らしい活動を始めていました。彼は旭川出身だそうです。これもまた、旭川恐るべしのひとつでした。

★ 本号のアフガン現地情報では「アフガンの声」の「『悪』と『より悪』の中間のアフガニスタンの教育システム」やトピックスの一連の記事をぜひお読みください。アフガニスタンで進行している女性差別がかつての人種隔離政策として世界中の糾弾の的になっていた南アのアパルトヘイトと同類の仕打ちであることが理解できます。8月15日付けのアフガン女性たちの記事「アフガニスタンと世界に対する脅威:アフガン女性政治参加ネットワークがターリバーンに警告」に付された抗議写真の異様さには胸が締め付けられます。顔出しできない女性抗議者たちの無念さと怒りが刃のように突き刺さってきます。

★ 同時にトピックスではパキスタン軍がアフガニスタンに越境空爆してパキスタンターリバーン幹部を殺害した記事を紹介しました。アフガニスタンターリバーンとの三つ巴はじょじょに抜き差しならないところに向かっているように思えます。

★ 今号の特集のひとつとしてケシ栽培、アヘン売買とターリバーンの関係に焦点をあてました。ターリバーンがケシ栽培を禁止したと無批判に報道する既存ジャーナリズムがありますが、実態はその逆です。「アフガンの声」、「世界の声」を聴いていただきたい。

★ 8月15日がターリバーンがアフガニスタンを乗っ取って2年になることから、テレビや新聞でいつもより多くアフガニスタンが取りざたされました。生活困難や難民の発生、教育や人権侵害の実態などが報道されることは、アフガンの現実を人々に知らせるうえで大切なことではあります。しかし、見過ごしてならないのは、ターリバーンを「デファクト・オーソリティ」として対策をのべる傾向です。とくに国民の生活苦に同情を寄せる姿勢からの発言が目立ち、とくに行政関係者のそのような発言は気になります。現在のアフガニスタン問題の根本的な犯罪性は、ターリバーンがアフガニスタンを武力によって占拠し勝手気ままにふるまっていることです。ガニー政権が崩壊し逃亡した責任も大きいですが、そのように仕向け許したアメリカや日本も含めた「国際社会」(じつは西側政治行政界)の責任が大きいです。一般庶民の「可哀そう」という感情に乗っかって政治の責任をうやむやにする姿勢は許せません。

★ 「教育」の問題に関してもぜひとも注視してほしい点があります。それは、女子に教育を与えよ、という「声」の皮相さです。ターリバーンは教育を否定しているのでなく、自分たちの好みに合わない教育を否定しているのであって、これから、彼ら好みの教育体制、内容を構築実践しようとしている過渡段階である、ということです。ターリバーンという存在をそとからマルっととらえて批判していては足元をすくわれます。彼らは乱暴者で遅れている野蛮な集団ではありません。西洋思想や宗教の欠点を突き、それを克服する方法手段をイスラームの言葉で合理化し実践しているのです。その誤りを突かない限り(われわれが外からついたから納得してくれるとは思いませんが(養老孟司先生のいう「バカの壁」(ターリバーンがバカという意味ではありません、念のため))彼らの内的論理を理解し批判する必要があります。その意味で「編集部より」で金子編集委員が連載紹介しているアブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」が役に立ちます。

★ お伝えしたいことが山ほどあり、今号も盛りだくさんになってしまいました。全部に目を通すのは大変でしょうが、どれかひとつでもご興味をひく記事を提供できれば本望とおもって、作業をしております。だんだんひどくなる残暑。ご自愛されてお元気にこの夏をお過ごしになられるよう、祈念いたします。

kaneko20230815

==========<金子 明>==========(2023年8月15日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第18弾。今回はその第16章「厳しい現実」、第17章「捕虜306」から抜粋・翻訳する。遂に戦争が始まった。多くのパキスタン人が義勇兵として参戦した。またザイーフの元に紙幣や財宝を届ける者もいた。だが、そんなことで戦況が変わるほど、事態は甘くなかった。

米軍による攻撃開始後のザイーフの動きを列挙してみよう。

【亡命画策】
攻撃が始まった翌日(10月8日)、主治医が自宅へ不意に現れ、「体調が悪いと伺い、往診に来ました」と言う。訪問した本当の理由は、自分の庭で匿ってあげよう、パキスタン政府はきっと大使を米国に差し出すだろうから、と提案するためだった。ザイーフは申し出を断ったものの不安になった。そこで、サウジアラビア、UAE、カタール、そしてパキスタンの4か国に亡命を申請した。しかし結果は、どこも却下。英国大使とフランス大使にも連絡したが、返事なし。ただ独りUNHCRのみが1か月限定の保護書類を出してくれた。

【戦況悪化、アフガニスタン孤立】
翌週にはもう形勢不利となった。状況改善を狙ってイスラマバードで多くの大使と面談していたザイーフに対し、サウジアラビアとUAEが国家承認の取り消しを通告してきた。

【11月11日、カーブル陥落】
ザイーフは、ちょうどペシャワール経由でクエッタに向かうところだった。すると機内で「全財産の半分をターリバーンに差し出す」という女性病院経営者と隣り合わせた。そして「唯一シャリーアを守るあなた方が米国に負けるなんて、神様はどうしたの?」と泣く。「神は我々をお試しなのです」と、道中ザイーフは彼女を慰め続けた。

【11月13日、カンダハールへ】
一度イスラマバードに戻ったザイーフだったが、2日後、今度はランドクルーザーを駆って、陸路カンダハールへと向かった。目的はアミール・アル=ムーミニーンに「米国と直接話し合わないか」と秘密裏に相談すること。途中、チャマンで国境を越えるまでずっとパキスタンのスパイに尾行された。「再入国は許可されないかも」と心配した。

カンダハールは混乱の中にあった。ボスにまみえんと、新築なった政府の庁舎へ。だがムッラー・オマルは不在だった。しばらくしてそこを出たが、出てから1時間後に、米国空軍が庁舎を爆撃した。ボスは心配した、「お前は監視されている、会うと危険だ。」続いてムッラー・オマルの古い方の家に向かった。すると、乗っていたクルマのすぐそばに、爆弾が落とされた。その衝撃でザイーフが持っていた衛星電話が吹っ飛んだ。2度目の攻撃で「ムッラー・オマルは私の位置が追尾されていると確信した。」

それを傍証する事象が2つ:
●携帯が破壊されたあとは、もう襲われなかった。
●数分後、ロシアのタス通信が「アフガニスタンの駐イスラマバード大使が、カンダハールでクルーズミサイルによって殺害された」と報じた。

結局、ボスには会えずじまいだったが、副官に要件を伝えて5日後、クエッタに向かった。案の定、再入国は渋られ、ウェシュの国境でビザが出たのは夜の9時。その日はクエッタの領事館に泊まり、翌朝空路イスラマバードに到着した。空港では「幽霊か」といぶかった報道陣の質問攻めに遭った。

【11月20日、パキスタンも承認取り消し】
イスラマバードの大使館に戻ったその日、パキスタン政府から「国家承認取り消し」の書状が届いた。ザイーフの行く先々で、スパイが見張っていた。ターリバーンを支援する人々の訪問は続いたが、ザイーフの活動範囲は日に日に狭められていった。

【12月7日、カンダハール陥落】
この一大事は、ザイーフの自伝に全く記されていない。よほど悔しかったのだろう。盟友でありボスでもあるムッラー・オマルは、杳として行方が知れなくなった。先の11月13日に起きたニアミスがザイーフにとって最高指導者との最後の邂逅となるのか。これ以降、ザイーフは米軍に協力する「ドスタムやイスマエル・カーンらと交渉し、ターリバーンの捕虜を帰還させる」ことに精を出した。

【12月24日、リビア独立記念日】
記念式典が市内のマリオットホテルで開かれた。ムシャラフ大統領も招かれていた。彼を一瞥しただけで通り過ぎたザイーフに、他のイスラーム国家の大使たちが盛んに話しかけてきた。イラン大使に至っては、隣席に陣取った。「アフガニスタンの状況と私の意見を聞きたかったのだ。」ザイーフは適当に食事を済ませ、そそくさと帰ろうとした。しかし、ロビーで待ち受けていた大勢の記者たちが「蜂のように群がって」ザイーフは式場に押し戻された。

マスードを殺したのも記者に化けた暗殺者だった。それもあってか、怖がったのは式典会場の賓客たちだ。ムシャラフは隣室に控えたボディーガードたちのもとに逃げ込んだ。すぐに警察が現れ、ザイーフを裏口から逃がした。

翌日、パキスタン外務省の役人が大使館にやって来て、「ムシャラフが昨晩のマリオットの事件にいたくご立腹だ」と告げた。「もう見過ごせぬ」と。実は以前、ISIは「ザイーフがムシャラフ暗殺計画を練っている」と騒いだことがあった。まさかの濡れ衣だ。ただし、そう思わせる要因もあった:

ザイーフは「700人のウレマによるファトワ※1」を世界の報道機関とパキスタン政府に表明していたのだ。それ以来、ザイーフはムシャラフ側にとって喉元の「トゲ」だった。そのファトワにいわく、「アメリカ人がアフガニスタンに侵攻するのを助け、ムスリムに対して戦い、その他いかなる方法でも彼らを援助する者は、誰であろうと罪を犯している。その者はムバフ・ド・ダム※2となり、殺しても良い。」

※1 脚注「ファトワ:イスラームの宗教学者が出した法的権威を持つ意見。1989年にアヤトラ・ホメイニが『悪魔の詩』の著者、サルマン・ラシュディの処刑を求めて出したファトワが最もよく知られている。」

※2 脚注「ムバフ・ド・ダム:文字通りに訳すと『許された流血』。法学者の意見は拮抗するが、例えばイスラームに反する行いをした者はムスリムを含めて殺しても良いとされる。さらに、そこにはアフガニスタンでアメリカ人に協力する者までも含むとの意見もある。」

【2002年1月2日、逮捕】
夜8時、自宅で捕虜の救出方法について思い悩んでいると、扉がノックされた。3人のパキスタン人が入ってきて告げた、「閣下、あなたはもう閣下ではありません。アメリカがあなたを尋問したく、われわれはあなたを合衆国に差し出します。」

ここから先の3週間、捕虜となったザイーフは辛酸をなめる:
●まず、10日間ペシャワールで監禁。
●次に儀式(米兵による殴る蹴る、裸にされる)を経て引き渡され、ヘリで運ばれる。
●飛行中も暴力は続き、着陸後、別のヘリ(少しモダン)に乗り継いだ。
●船倉らしき場所で小さな檻に入れられる。そこで何人かのターリバーンの囚人を見たが、会話は禁止された。
●船内の小部屋に引き出されて尋問、「オサマ・ビン=ラーディンとムッラー・モハマド・オマルについて何か知っているか?」この船には5、6日いた。
●さらにヘリを数機乗り継ぎ、殴られながら別の地へ。
●気づくと新雪の積もった地面に裸で放り出されていた。
●そこはまだ、アフガニスタンだった。(バグラム基地)

【1月25日、赤十字登場】
赤十字の係員が捕虜を登録し、家族への手紙を預かった。捕虜となって初めて満足な食事にありついた。

【2月9日、カンダハールへ】
裸の写真を撮られ、医療診断。再び赤十字が現れ、今度は身分証明書を配った。カンダハールに即席で建てられたテント監獄に、7月1日まで収容された。

ザイーフが記録する捕虜生活は:
●捕虜仲間は最初600人(テントは全部で30張り)。後で800人に増えた。
●月に1度だけシャワーが浴びられる。
●クウェート産のミネラル水がボトルで配給されるが、体を洗うのに使うと罰せられる。
●食事は、古くは第2次大戦の日付にまで遡る缶詰。
●6月になってやっと改善され、ハラルのメニューが出るようになった。
●夜には抜き打ち検査があり。犬まで連れてくる。
●捕虜は番号で呼ばれる。ザイーフは306。
●捕虜は自分の番号が呼ばれると、うつむいて「ようこそ」と返事する。拒否すると罰せられる。
●テント以外に格納庫を改造した獄舎があるが、捕虜たちから懲罰房と恐れられている。
●もちろん、捕虜は何度も何度も尋問される。
●それは、「知っている」と疑っている一面もあったが、より多くは「捕虜を、若い兵士が逮捕尋問術を身につけるためのモルモットとするためだった。」

ここで、ザイーフは赤十字の3つの任務について解説する:
① 捕虜と家族の手紙のやりとりを手助けする。
② 20人の捕虜につき4冊のクルアーンを与える。
③ 最低でも4か月に1回はシャワーを浴びられるよう段取りする。またオーバーロールの捕虜服を洗濯して渡す。

しかし、この赤十字も油断ならない。噂によるとスパイが潜り込んでおり、うっかり漏らした言葉を米兵に告げ口されると言うから要注意だ。

そしてある夏の日、尋問の最中にこう聞かれた:

「ムタワッキルを知っているか? 会いたいか?」

「彼が捕虜だとは信じがたい。どこにいるんだ? どうすれば会える?」

すると数分後、本人が現れた。パキスタン製のビスケットを1箱くれた。ザイーフは両手が縛られているので食べられない。テントに持ち帰ることも許されない。10〜15分話し合った後、彼は出て行った。

話の内容:
●ザイーフは近々キューバに送られる。
●ザイーフの身に何が起きるかは、アッラーのみが知り給う。

さすが大物政治家は捕虜になったりはしない。うまく寝返って米国側についたのだろう。土産がタバコでなくビスケットだったのはご愛敬か。

果たして、翌日。尋問官の言葉:
●君は7月1日にキューバへ送られる。
●君の人生はそこで終わることになる。
●遺体が祖国アフガニスタンに戻ることもない。
●君の最後のチャンスだ。
●今、決断しろ。
●アル=カーイダとターリバーンの両指導者の居場所を吐いて国へ帰るか、一生われわれの奴隷として暮らすか。

ザイーフは「1日考えてみろ」と言われたが、即刻返事した、「私はここに捕らわれているどんな兄弟と比べても、より才能があり重要な人物ではありません。全能のアッラーの思し召しにただ従うのみです。私は罪を犯していません。だから罪を認めません。私をどう処分し、どこに送るかはあなたたち次第です。」

こう言い放ったあとは、「早く移送しろ」と願うばかりだったと言う。

(続く)

noguchi20230815

==========<野口壽一>==========(2023年8月15日)

★ 今号は8月15日号。日本は78周年、アフガニスタンは2周年。去年はこう書いた。日本は「終戦」とごまかして「敗戦」の認識から逃げている、それに引き換えアフガニスタンでは20年の共和国体制を「敗北」「失敗」として反省する機運が出てきている、と。ことしはどうだろうか。
★ 『ウエッブ・アフガン』としてはターリバーンのアフガン乗っ取り2周年を期して「アフガニスタンにおける検閲と芸術の弾圧に対する詩的抗議」としての『詩の檻はない』を取り上げた。ロッテルダムからのアピールに対して日本からの反応が一番大きく、また、書籍としての発行も日本が一番乗りだった。それを可能とした人々の労に喝采を贈りたい。そして、そのきっかけをつくり、反応の大きさを組織しえたわれわれの活動をも再確認したい。今回の成果はアフガニスタンの人々の切実な課題への支援としては些細なものだが、まずは言葉にだし、それを形にすることから始まることを肝に銘じて先に進みたい。
★ ロッテルダムに亡命せざるを得なかったソマイア・ラミシュさんの悲痛な叫びが胸に刺さる。
世界中の自由な人々よ、
自由を体現する像をもつあなたたちよ、
/・・・/
私たちは、死から生へ還って来たのです。
仕事、パン、自由(アフガニスタン)
女性、生活、自由(イラン)

★ ある在外アフガン人組織から「ターリバーンの圧制政権と人権侵害に反対して強く団結し、ストラスブール、パリ、アテネの人々が今週集まって世界的な抗議活動を行います。 彼らの集団的な叫びは、正義、自由、そしてアフガニスタンの人々のより良い未来を要求する。 アフガニスタンの人々に連帯して、彼らは状況への引き続き注意を払い、アフガニスタン人々の援助、支援、そして明るい未来を提唱するよう呼びかけています」との連絡が来ています。アムステルダムの集会を実行した友人からは写真や動画、資料のコピーなどを送られてきました。次号ではアフガン国内、国外の闘いをレポートします。乞うご期待。

★ 戦線膠着を見せ始めたウクライナ情勢も気になる。とはいえ本サイトで取り上げたウクライナ映画『ドンバス』<視点:034>ウクライナ映画『ドンバス』を観て考えたで書いたけれど、もともと、ドンバスでは今のような戦争を2014年から8年間つづけてきていて、ロシア軍を跳ね返すことができずにいたのだ。プーチンが短期にウクライナを片付けることができると誤った判断をしたように、ドンパスやクリミアを1年足らずで取り返すことなどできるものではないのだ。
★ 戦争を長期化させてロシアを弱らせ、あわよくば連邦を崩壊させようと狙っている勢力は着々と手を打っている。「西側はロシアの崩壊に備えている」。平和維持機構としての国連が機能不全に陥っている現在、過去の延長として未来を考えるのでなく、未来の視点から現在を照らす必要があるのではないか。ジョン・レノンが提起したように国家や宗教がなく戦争や争いのない世界を空想・夢想する能力を身に着ける必要があるのではないだろうか。

kaneko20230805

==========<金子 明>==========(2023年8月5日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第17弾。今回はその第15章「9.11とその余波」から抜粋・翻訳する。ターリバーンが世界に向けて唯一開いていた窓口が在イスラマバード大使館。大使はその夜から一大テロ事件の善後処理に追われた。

自宅に戻ると、大使館の政治担当チーフに電話し、翌朝の段取り(メディア対応、声明発表など)を決めた後、寝床に着いた。しかし「オサマが米本土で大きなテロ攻撃を企んでいる」という米大使の発言を何度も思い出し、一睡もできなかった。すると午前1時、カンダハールから電話。ムッラー・オマルの副官に「アミール・アル=ムーミニーンがお呼びです」と伝えられた。本国政府も眠っている場合ではなかったようだ。

簡単な挨拶に続き「およそ15分間」今後の国としての出方をボスと協議した。

翌朝早くに、大使館に着くや、大使は矢継ぎ早に行動した:
●モニタリングチームにテレビニュースを見ておくよう指示。
●自らは、英字新聞に出ている各国の反応を確認。
●午前10時に記者会見すると発表。
●会見開始の直前になってやっと本国のムタワッキル外相から電話。
●伝えられた公式スタンスを文書化して、会見に臨んだ。

会見では声明文を読み上げた、「慈悲深く哀れみくださる神の名において。米国での出来事に強く抗議し、犠牲になった方々のご家族に深い哀悼の意を捧げます。責任者は罰せられねばなりません。我々が望むのは正義の執行と、アメリカの辛抱強く慎重な行動です。」

ザイーフはイスラマバードの米大使館にもコピーを送った。「しかし、もう遅かった。恐れ怒ったアメリカは、復讐を求めていた。」翌日から事態は大きく動き始めた:

●ブッシュ大統領がテレビで「首謀者はビン=ラーディン、彼を匿うアフガニスタンは共犯者」と宣言。
●その2日後、ムタワッキル外相がブッシュ発言を否定する声明を発表。
●国連がアメリカへのサポートを表明し、ビン=ラーディンの引き渡しを正式に要求。
●他のイスラーム諸国は、アメリカの逆鱗に触れぬようにと静観。
●ひとりイスラーム首長国のみが「証拠不足による不同意」を表明し、孤立。
●対アフガン制裁が強化。
●パキスタンに支援を求めるべくターリバーン高官が訪れたが、拒絶された。
●やがて米国はビン=ラーディンの引き渡しに加え、広範な基盤を持つ民主政府の樹立、人権特に女性の権利の擁護を求めてきた。

最後の項目になると、他国の政府の退陣要求、つまりもう宣戦布告である。ちゃっかり「人権」を持ち出すのは、うまいが卑怯。さらに、「米軍によるアフガン全域における自由な捜索作戦の展開」までも追加で盛り込んできた。こちらは治外法権どころか、武力による他国での刑事活動だ。当時米国(と世界)は狂っていたな、と今にして思う。

最近、ロシアも似たようなことをしているが、違いは核で脅す必要が有ったか無かったかだけと見るのだが、いかがか。ちなみに、ブッシュはムシャラフに対し「アフガン攻撃に協力しないなら、パキスタンは石器時代に戻りますよ」と警告した(とムシャラフは後に自伝に書いた)。どうも同じ穴の狢である。

さて、米国の怒りを静め、話し合いで解決したいザイーフは、かつて当選祝福の際に教わったブッシュ大統領の個人アドレス宛てにメールを送った、「ジハードと内戦で10年間疲れ果てたアフガニスタンはもう戦う気がなく、戦う力もありません。」同じ文面を米国の大使館と両院にも送った。

ブッシュ大統領の顧問、アフガン生まれのザルメイ・ハリルザドには電話で伝えた、「アメリカは直接アフガニスタンと交渉するべきです。ターリバーンはパキスタンの言いなりではありません。パキスタンに、私たち両国の利益に沿う仲裁などできません。」しかし、大使の訴えを知ったはずのブッシュ大統領だが、聞く耳を持たなかった。

※ 脚注「ザルメイ・ハリルザド:1951年マザーリシャリーフ生まれ。2003~5年、アフガン大使、2005~7年、イラク大使、2007~9年、国連大使を歴任。現在(2010年当時)もアフガン案件に絡んでいる。」

世界最強の米軍といえども、陸封されたアフガニスタンを単独で攻め落とすのは難しい。そこでパキスタンの協力を必要とした。先のブッシュによる脅しは、その表れであり、実際の出来事だろう。9.11後の1か月、直接は探れない敵・米国の出方を、その子分パキスタンの動きから把握しようとザイーフは情報を集めた:

●パキスタンは共産主義者の将軍やムジャヒディーンの司令官としきりに顔合わせし、イスラーム首長国と戦うに当たって有望な同盟候補であると、ISIを通じて米国に伝えた。
●米国は協力する司令官に数百万ドルを送り、通話無料の衛星電話ほか、想像を超える量の物資を与えた。
●アフガン大使館の職員にも金を与え、米国のために情報を漏らすよう誘惑した。
●パキスタンはシンド州とバルチスタン州の軍事基地を米軍に提供した。するとすぐに、対アフガン戦に備えて大量の武器と弾薬がそこに運び込まれた。
●米パ両国の諜報機関は、アフガン軍、特に空軍基地を指揮するターリバーン司令官の情報を求めた。
●パキスタンは北部同盟と極秘に会談した際、ターリバーン掃討後のアフガンの軍事と政治について協議した。

あらゆる情報が「戦争は不可避」と告げていた。しかし、アミール・アル=ムーミニーンは楽観的だった。開戦の前にザイーフはカンダハールに出向き、ボスと直接話し合っている。その様子を、彼はこう伝える:

●市内の新しい家でムッラー・オマルはザイーフを出迎えた。
●それまでに集めた米国の動きに関する情報をすべて伝えた。
●ボスはそれを受け入れない。アメリカには「ビン=ラーディンが首謀者であるとの確たる証拠を見せよ」と要求したから、その提示無しで攻めてくるとは思わない、と言う。
●ザイーフの見立てによると、ボスは開戦確率を10%ほどと思っているようだった。

不思議である。新居に移ったのも「まずはムッラー・オマルとビン=ラーディンをクルーズミサイルで叩く」との噂を聞いた上でのことではなかったか? その裏にはパキスタンの二枚舌があった。ザイーフには「戦争が近い」との情報を漏らしつつ、カンダハールのパキスタン領事館は正反対のことを言い続けた、「それは無い。ブッシュの好戦的物言いは米国民の怒りを静めるための修辞法だ。」

これを単純に信じたとすれば、ターリバーンの政治中枢はあまりにもナイーブだったと言わねばなるまい。学生だから法に従う。相手もそうするはずだ。もはや「やあやあ我こそは」の時代ではないということを、現在のターリバーン政権にも是非伝えなくてはならないように思う。

果たして戦争がどう始まったか、ザイーフの回想をもとに辿ってみよう。

【10月のある朝、明日の夜侵攻を始めるとの一報を、パキスタンの高官から得た】
敵もさる者。侵攻開始に備えブッシュ大統領は「証拠」を提示していた。ただし「その相手はアフガニスタンではなく、パキスタンだった。」つまり攻撃に全面協力する手はずのムシャラフが、国際世論に問い詰められるのを想定し(その頃、少し熱が冷めていた)、アリバイ的証拠を与えておいたのだ。

ダルエスサラームのテロに加担したとされる「アラブ人アリの告白」である。「その後、アリは失踪。精神病院で見つかったが、薬の影響で正気にもどることはなかった。その言葉を真に受けたムシャラフは信用をさらに損なった。」

※ 脚注「1998年8月7日:ケニアのナイロビとタンザニアのダルエスサラームで同時にクルマが爆発し、米国大使館が襲われた。数百名が殺害され、ビン=ラーディンは後に米国の『10大お尋ね者』に名を連ねた。」

【翌晩10時、カンダハールから、いま空軍基地がミサイル攻撃を受けていると電話】
ザイーフが「アミール・アル=ムーミニーンはご存じか?」と聞くと返事は「イエス。いやちょっと待て。アミール・アル=ムーミニーンの家にたくさんのミサイルが撃ち込まれている・・・」電話はプツリと切れた。ザイーフは侵攻を信じなかったボスの身を案じた。

【直後にカーブルから電話、空軍基地がミサイル攻撃を受けている】
すぐに電話を国防大臣のムッラー・オバイデュラーに回してもらった。戦争のプランとアドバイスを手短かに伝え、こう言って受話器を置いた、「もう柔らかいベッドと宮殿のときではない。どこか安全なところへ逃げろ。あとは神のみが知り給う。」

※ 脚注「ムッラー・オバイデュラー:1980年代の有名なムジャヒディーン司令官。後に国防大臣となった。今(2010年当時)も存命中だが、パキスタンに拘束されていると信じられている。」(この本の執筆後、2010年にパキスタンの刑務所で心臓病のため死亡した。)

ザイーフは細かい日付を自伝の中で述べていないが、これは10月7日夜のことだ。深夜に大使は自宅の庭で会見を開いた。ブッシュ大統領による攻撃開始ビデオは「グッドアフタヌーン」で始まることから、7日午後に発出。時差は9時間なので、詰めかけた世界のジャーナリストは、ホヤホヤのブッシュ発言の裏を、ザイーフの言葉で確認したことだろう。「これは戦争の始まりだ」と。

以後、ザイーフは毎日午後4時に記者会見を開いて「アフガニスタンで起きていること」を世界に伝えた。パキスタン外務省は「黙れ」と何度も脅してきた。ISIも3度に渡って正式に抗議した。内容を事前に伝えろと。

11月9日にマザーリシャリーフが北部同盟の手に落ちた。するとチャンス到来とばかりISIは、「しぶといオバイデュラー国防相とカンダハール州知事をパキスタンにおびき出せ」と要求してきた。逮捕する考えだ。敵にすれば大使の身柄なんかどうにでもなる、なんでも言うことを聞くだろうと思っている。そのうえ後ろ盾はあの米国だ。いま寝返れば命の保証どころか、将来の地位も約束されそうな勢いである。そんな誘惑につぶやき子ならあっさりと負けるだろう。

もちろん我らがザイーフはきっぱりと断った。「逮捕されるから来るなと彼らに助言しました」とは何とも痛快な返答である。「政府はこうだがパキスタンの民衆は全く違った。」戦う隣国の姿は、やがてパキスタン人のモスレム魂を鷲づかみにしてしまう。

大使館に数千の志願兵が押し寄せた。別の数千の志願兵は直接、バルチスタンとNWFP(北西辺境州)からアフガニスタンに入国した。デュアランドラインを越えた強者は1万に達した。パキスタン政府を揺るがすほどの事態である。さすがに大使も扱いに困った。テレビに出て、「もう来ないでくれ。肉体のジハードより、金銭のジハードが欲しい」と訴えた。しかし効果は無かった。

それほどまでに「人々はイスラームへの熱望に突き動かされていた。」

(続く)

noguchi20230805

==========<野口壽一>==========(2023年8月5日)

★ パキスタンが大変だ。本サイトでは、アフガニスタン問題とパキスタン問題はひとつ、との立場から報道をつづけているが、イスラーム過激派のテロがパキスタンで激増している。しかもその規模が大きくなっているだけでなく、これまでのパキスタン・ターリバーン中心であったものが、IS-KPというイスラム国関連の組織の犯行が報じられた。パキスタン連立与党のひとつに向けられたテロだったが、その党はイスラーム組織である。同じイスラームでも宗派が違うとジハードの対象とされる。
★ この事件に先立つ7月25日には米国のブリンケン国務長官とパキスタンのザルダリ外相が電話会談を行い、パキスタン経済とアフガニスタン関連問題について話し合っている。米国とパキスタンは、ターリバーンに過激派を取り締まり、テロをやめさせようとしている。しかしそれは、無理な相談。アフガニスタンという自由の地を得て、テログループは要員育成を図り、力を蓄えている。パキスタンだけでなく周辺諸国はテロの脅威への対応を急がされている。
★ パキスタンの経済危機は深刻だ。昨年国土の1/3が水没。「経済成長率は0.3%に低下、洪水や外貨不足で急減速」「2022年以降、歴史的な洪水被害、外貨準備不足による輸入制限、通貨下落、高インフレ、利上げ、IMFプログラム再開の遅れなどの逆風の中、経済は急減速した。」(ジェトロビジネス短信)このような経済危機に加えての国内でのテロ対策だ。現在連載中の「ターリバーンに関する国連安保理報告」はアフガニスタンとパキスタンをまたにかけて策動する両国のターリバーンおよび20にも及ぶテロ組織の動向を詳細にレポートしている。
★ もうひとつ重要な事実は、2022年3月に工事が始まったアフガン北部国境を流れるアムダリアから水を引く運河工事だ。全長280km、幅100mの運河ですでに100kmほどは完成している。問題はこの地域にパシュトゥーン人を移住させ、しかもパキスタン領内の部族を移住させる計画がある、と囁かれている事実だ。パキスタン政府とターリバーン政府のあいだで、パキスタン・ターリバーン(パシュトゥーン人)を移住させる計画がひそかに締結されているとの情報もある。要注目だ。
★ 話変わって次号はターリバーン復権の2周年、日本の太平洋戦争敗北の78周年にも当たる8月15日号である。さらにもうひとつ、ロッテルダムのソマイア・ラミシュさんが呼び掛けて実現した世界の詩人による、ターリバーンの詩に対する検閲と詩作禁止に反対する抗議詩キャンペーンの成果が発売される日だ。Amazonで予約募集中。まず日本を皮切りに『詩の檻はない』が発行される。11月にはフランス語版が発行される。SNSを駆使して実現したこの活動が、現地で闘う人びとを少しでも励ます力となることを祈る。

kaneko20230725

==========<金子 明>==========(2023年7月25日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第16弾。今回はその第14章「オサマ問題」、第15章「9.11とその余波」から抜粋・翻訳する。前回でいよいよこの自伝は折り返し点を越えた。すると、あの男が登場し、あの大事件が世界中を驚かす。当時一般に諸悪の根源と見なされたターリバーンは、破滅への道をどう辿ったのか。後半に入りキンドル端末をいじくる指が一段と活発になった。

もちろん、米国の敵ナンバーワンのオサマ・ビン=ラーディンと在イスラマバード、アフガン大使のザイーフに直接の面識はない。しかし、前者は後者の仕事を確実に難しくし、後者は前者を守り通す姿勢を貫いた。それはザイーフにとって、悩ましくも誇らしい「オサマ問題」であった。

※脚注「オサマ・ビン=ラーディン:サウジアラビア人でテロのパトロン。1980年代のジハード期はアフガニスタン南東部で過ごした。その後しばらくサウジとスーダンに潜伏してから、1997年にアフガニスタンへと戻り、まず西部続いて南部で活動。米国の利益を損ねようと数々のテロ攻撃を立案・指揮したが、その総仕上げが2001年の9.11だった。現在(2010年当時)も存命中と信じられている。」

ここで久しぶりに年表を確認しておこう:
1988年(オサマ31歳)ペシャワールでの話し合い中にアル=カーイダ誕生。
1989年 ソ連撤退。オサマ、サウジアラビアへ帰国。
1991年 オサマ、ソマリアへ。
1993年 世界貿易センター爆破事件。ブラックホークダウン。
1994年(ザイーフ26歳)ターリバーン旗揚げ。
1996年 ターリバーン、カーブル制圧。
1997年 オサマ、スーダンからジャララバードへ移動。
1998年 ターリバーン、バルフ州都マザールを一時制圧するも失う。
米国、アフガニスタンをクルーズミサイル攻撃(標的はアル=カーイダ基地)。
2000年 ザイーフ、大使となる。
2001年 バーミヤンの石仏、爆破(アル=カーイダが手伝ったとの噂あり)。

誕生から12年、アル=カーイダは世界各地でテロを起こし、その名を轟かせていた。怒ったアメリカは、それを撲滅せんとミサイルを撃ち込んだ。そして首魁たるビン=ラーディンの引き渡しを、米国のみならず、パキスタンのムシャラフ、「中立であるべきにも関わらず変質した国連までもが」しつこくアフガニスタンに要求した。

たまらず、ザイーフが在イスラマバードの米大使に出した提案:
①しかるべきテロの証拠を出せば、イスラーム首長国がシャリーアに従いイスラームの最高裁でビン=ラーディンを裁く。
②それが嫌なら、イスラームの3か国の検事総長が4番目のイスラーム国で新たに裁判を開き、そこに米国も参加させる。アフガニスタンはパートナーとしてビン=ラーディンの出廷を約束する。
③それも嫌なら、我々が力ずくでビン=ラーディンの全活動を抑制する。通信手段を奪い、他国を標的としたいかなる行動のためにも、我が国土を使わせない。

ザイーフの考えの根底には、「両国間に犯人引渡条約が結ばれていないからには、たとえ米国といえども、横車を押させない」という矜持があった。遵法精神である。よく言われる「パシュトゥーン人は客人を決して裏切らない」という民族の誇りとは若干異なるアプローチだ。

もちろん米国の答えはいずれの提案にもNO。彼らにしてみれば、「たわけるのもほどほどに」なのだろう。挙げ句に「従わないなら兵力の使用も躊躇しない」と脅してきた。なるほど、外交とは乱暴者の競技場なのだ。

そして、興味深い話がひとつ。ある朝、米大使が「今から話し合いたい」と連絡してきた。失礼な「今日の今日」だ。いつもの「アメリカのお家芸、大山鳴動ネズミ一匹だろうと思った」ザイーフだが、夜の祈りの後でどうにか都合をつけた。すると敵は大使の自宅にまで押しかけて来た。そして極秘情報を口にした:

「我々の諜報員によると、オサマが米本土で大きなテロ攻撃を企んでいるようです。だから、こんな夜に駆けつけたのです。ぜひ貴国政府に伝え、阻止してください。」

ザヒール・シャー時代の国境警備隊司令官の轍を踏むまいと、ザイーフは外務省を通すという手順を省き、直接カンダハールに情報を伝えた。すると待つこと23時間・・・ほぼ1日!なんとも長い待ちである。いらつくザイーフと米大使の気持ちになって、以下の脚注で時間つぶしをお願いしたい。

※脚注「これは人気の与太話;1970年代に、パキスタンのジェット戦闘機が、南東部の国境を越えてアフガン制空圏を侵した。国境警備を担当する司令官は、手順を重視して速達を送り、どう対処すべきかと、カーブルに打診した。アフガン郵便の遅さは有名だ。政府から返事が届いたのは6か月後。いわく、撃ち落とせ。」

この脚注で思い出すのは、映画「トラ・トラ・トラ」のタイピングシーンか、はたまたベレンコ中尉か。サッカーワールドカップを応援に行って国の家族に絵はがきを出したスコットランド人の話(毎度とっとと予選敗退し、予定より早く帰国した自分が、その絵はがきをいつも受け取る)みたいな何とも滑稽な話である。

カンダハールからの返事はこうだった:「現在もこれからも、アフガニスタンは合衆国を害する意図を持ちません。アメリカに対するいかなる種類の攻撃も我々は許さず、またそのような攻撃の計画および訓練を、我が国土で誰が行おうとも必ず阻止します。」

木で鼻をくくるとはこのことか。これを聞いた米大使は「ダメだ、こりゃ」になったこと請け合いである。1人ザイーフのみが「これで我が政府の立場は明示された」と悦に入った。その後、アメリカ側は「奴を手渡したら、政府を承認しよう」と釣りを試みるほど折れてきたと言う。そんな矢先の9月11日、夜7時ないし8時の出来事だった。

・・・・

ニュースを知らされ、テレビのある隣家へ。仲間と画面を見ながら、「戦争が始まる」とザイーフは涙を流した。大喜びの周りの者がいぶかって聞く、「なぜ泣くのか?」その無邪気さがザイーフをさらに悲しませた。そして諫めて聞いた、「誰が米国と世界の怒りをまともに受けるのか?」そのときザイーフの「脳裏をかすめたのは、日本の真珠湾攻撃だった。」その結果どうなったか?「迷いもなく2発の核爆弾を落とされたではないか。だから泣いているのだ。」

それでも、皆は納得しない。逆にこんなパシュトゥーンの諺を出して煽った、「襲われし場所、そこでこそ戦は起きる。」アメリカは遠くにありすぎて、とても自分たちに復讐などできない、と彼らは安心しきっていた。「次に何が起きるのかを心配しながら」ザイーフは自宅に戻った。

(続く)

noguchi20230725

==========<野口壽一>==========(2023年7月25日)

★ 『ウエッブ・アフガン』では、アフガニスタンにおける人権問題、とくに女性に対する対応については広く南アジアに残存するミソジニー(misogyny)と関連付けて考えるべきと主張してきた。ミソジニーはイスラーム解釈と結びついて社会を強固に縛り付けている。イスラーム神権政治をとるイランにおける女性差別はアフガニスタンと双璧をなしている。イスラーム諸国の中でもアフガニスタンとイランでそのひどさが際立っていっる。ヒジャブのかぶり方がなっていないととがめられ拘束中に死亡したマフサ・アミニさんの事件からまだ1年もたっていない。アミニさんの殺害をきっかけにイランで発生した全国的な闘争のスローガンは「女性、生命、自由」だった。アフガニスタンとも共通するスローガンであり、アメリカの「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大切)」と軌を一にするものでもある。インドの論者は「世界の声」で「イラン、アフガニスタン、インドにおけるヒジャブの難問」のタイトルでこの地域共通の難しい課題として指摘した。ターリバーンが教育の現場で自分たちのイスラーム理解を国民に強要し、民衆の願いと逆方向に突き進んでいる現実を「アフガンの声」の「世俗教育の根絶を狙うターリバーン」が描き出している。
★ ところが、イランやアフガニスタンとおなじくイスラームの規定によってヒジャブを強制したり女性の行動を規制していたサウジアラビアは国際的に門戸を広げる政策を模索しており、豊富な資金を元手に、女性解放政策を取り始めた。その方向性のもとで自国のメディアに、イランにおけるアミニさん事件を利用して対立しているイラン政府を窮地に陥れるために反政府運動をあおっていた。サウジアラビア政府は、自分の息のかかったこのメディアをイラン政府との交渉の道具として使った。イラン政府を弱らせて自らのほうへ引き寄せる高等戦術を弄したのである。その手口を「マフサ・アミニ事件への抗議行動とサウジのメディアがサウジとイランの緊張緩和に及ぼした影響」(「世界の声」)で、アメリカの論壇が暴露している。しかも、サウジアラビアの「高等戦術」のバックアップをイギリスとアメリカがしている。世界はじつにねじれた関係のもとに奇妙に依存しあって動いている。
★ しかしそのような陰謀めいた動きを鋭い感性をもつひとびとは見落とさない。詩のアンソロジー「詩の檻はない」は8月15日に日本での先行発行が決まった。世界の詩人たちはターリバーンの詩作禁止、検閲、文化芸術弾圧を言葉の力で、国際的な連帯活動によって跳ね返そうとしている。アフガニスタンだけでなく、アフガニスタンの周辺諸国の、さらには目に見える抑圧や、隠微な策動を自らのものと受け止めて抉り出し、暴き、広めることができるのは鋭敏な感性と勇気をもった表現者たちが時代を先取りし、運動の先頭に立つ。
★ 今号も、考えさせられ、勇気を与えられるエッセーや記事が満載だ。どれか一遍でもよいので、気にかかる記事に目を通していただきたい。

kaneko20230715

==========<金子 明>==========(2023年7月15日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第15弾。今回はその第13章「高まる緊張」の後半から抜粋・翻訳する。この長い自伝のちょうど中ほど(折り返し点)に来て、やっと、クルマ以外の「日本」が登場する。そのため、わが国の資料にも当たりつつ、やや詳しくつぶやきたい。

在イスラマバード大使となり、世界に開かれた唯一の窓口として、攻めては「真のイスラーム」の域内伝播を、守っては「ターリバーン政府の承認」獲得を目差し精進していたザイーフ。2001年の春、その足をすくったのが、例の「大仏破壊」である。

思い出して欲しい、1998年になってやっと(当時ザイーフは副防衛大臣だった)、バーミヤンが制圧されたことを。そこはターリバーンの支配に最後まで抗った地なのだ。それもあってか3年後、「パキスタンとの緊張が高まる中、勧善懲悪省のマウラウィ・アブドゥル・ワリ大臣は、バーミヤンの古くて有名な仏像群を破壊せよと命令した。」

※脚注「マウラウィ・アブドゥル・ワリ:カンダハール州のシア・チュイ村出身だが、1980年代のジハードには参戦しなかった。2006年夏、パシュモルでカナダ兵士によって殺害された。」

この命令は「何らかの方法で事前に漏れ」、世界中の使節団がザイーフを通してアフガニスタンに文句を言おうと押しかけた。「大使館前でデモをする」外交官すらも現れた。「ユネスコの抗議文は36通」を数えた。中でも活発に抗議したのが、中国、スリランカ、日本の3か国だった。

●中国:首長国は直ちに彫像群の破壊準備(刻一刻と大量の爆薬が仕掛けられていた)を停止せよ、と要求した。

●スリランカ:修理のために(事前に一部が砲撃によって壊れていた)、彫像群を国外に運び出そうと提案した。「仏教の指導者がパキスタンまでやって来て、イスラマバードで私に会った。アフガニスタンまで行きたいと要望したが、却下された。」

中でも日本の努力は最大だった。「国会議員、文化庁長官、さらに6人の外交使節」からなる一団をパキスタンに派遣し、2つの異なる解決策を提案した。

提案①:スリランカ同様、彫像群を分解し、日本に運んでから組み立て直す。
提案②:頭からつま先まで、彫像群をすっぽりと覆い、誰にもそこにそれがあるとは思わせない。その裏で保存する。

言い放っただけの中国。宗教心から奥座敷へと突き進んだ(しかし却下された)スリランカ。テクノロジーを開陳し、代替案も出しつつ説得に当たった日本(うまく行くと、関係企業の儲けになるぞ!も含め)。なかなか興味深い三者三様である。

ここで本自伝を一旦離れ、日本側の記録をあたっておこう。ネットを覗くと、さすがに政府の資料がシュレッダーも溶解もされずに残っていた。

外務省資料:(タリバーンによる彫像破壊令問題

これによると、どうやら日本の抗議団はアフガニスタンまでは到達したようだ(ただし当然ながらバーミヤンには行けず)。入国を拒絶されたスリランカとの違いは何だったのか、については、後ほどザイーフの著述に戻って考察するとして、つぶやき子には「これは、いかがなものか」と気になる点がある。それを先にやっつけておこう。

つまり、先の日本外務省のページは、「アフガニスタン・イスラム共和国」→「アーカイブ」と階層化されている。このアーカイブの一番下、つまり最も古い資料がこの「タリバーンによる彫像破壊令問題」なのだ。その何が「気になる」のか?

ここで、さんざんつぶやいたファウジア・クーフィの自伝「お気に入りの娘(本サイト:金子つぶやきによるダイジェスト)」に戻る。以下の叫びはつぶやき子の耳を離れない:「われわれの内戦は終わり、ターリバーンがいま、われわれの政府だと世界は認識した。われわれは昨日の物語。一面に載るのは別の悲劇だ。でもわれわれの悲劇は終わっていない。なのに世界は続く数年間、われわれのことを忘れてしまった。われわれが漆黒の中で何かを求めていたそのときに。」

先の大戦でコテンパンにやられたからと言って、何でもかんでもアメリカ追従でいいのか?という疑問である。ファウジアたちがどんなに苦しんでも、国として何もしなかった我々が、すわ「あの大仏が壊されるぞ!」となって初めて「そういやアフガニスタンはどうなったの?」と気にし出す。「これは許さん、どうにかしよう」と国際的なブームに、ちゃっかり便乗だけはする。

余談ついでだが、確か中3のときに「日本沈没」がベストセラーになった。さっそく映画化されたワンシーンは今も目に焼き付いている。日本から数百万単位で難民を受け入れて欲しいと頼まれた豪州の前首相(たぶん)は、日本からの陳情者が帰ったあと、土産にもらった小さな仏像を手に、「こんなのが送られて来るのはいいが、日本人は困る」と本音を吐く。このフィクションに対して15の夏に感じた怒りが、数十年の時を経て変貌し、今度は現実に対して「困る」とうそぶく側にいる・・・それでいいのか?という問いである。

さて、2001年のザイーフ対日本使節団の邂逅に話を戻そう。先の2案を示したあと、使節団はこう付け加えた。「もしも我々の提案を飲むならば、彫像群に対し金を支払いましょう。」そう、この資金力こそがスリランカとの違いだろうと、つぶやき子は邪推する。そうこうして交渉は「2、3時間も続いた。」

両者のやり取り
(日本)仏教徒としての先達はあなた方、アフガン人です。我々は単にあなた方に続いて仏教を受け入れました。だからあなた方が先達として、歴史的・宗教的記念物を保全するよう期待します。

(ザイーフ)仏教の礎を私たちが築いたから、ある意味でいまだにこの宗教のリーダーであると考えるのは面白い見方ですね。でもアフガン人はその頃から進化しました。仏教が何の基盤も持たない空虚な宗教だと気づき、イスラームの光を見たのです。かつて私たちを先達とし、私たちに続いたのなら、なぜ真の宗教に出会った私たちの例に従わなかったのですか? その上、仏像は人の手によって石から作られました。宗教的に真の価値はありません。その保全に何の意味があるのでしょう?

(日本)メッカのカーバ神殿も人の手によって石から作られています。何百万のモスレムが毎年巡礼し、周行するのはなぜですか? モスレムがそれを尊重し、今でもその方角に向け祈るのはなぜですか?

質問を質問で返されたザイーフは「それ以上理性的につきあう気になれなかった。」そこで「本国に伝えます」と述べて話を切り上げたと言う。この使節団が日本外務省の言う「3月7日の代表団」で、パキスタンを経てムタワッキル外相の待つアフガニスタン(おそらくカーブル)へと向かった一行だろう。残念ながら成果がなかったのは周知の事実である。

※脚注「ムタワッキル:ターリバーン政権の最後の数年間で外務大臣を務めた。もともとカンダハール州出身で、父は地方では有名な詩人だった。」

それにしても、いくらザイーフの挑発に乗ったとはいえ、日本側が発した最後の2つの質問はかなりお粗末ではないだろうか? 現在と過去を天秤にかけるのは「学者」の姿勢としてはアリだろうが、少なくとも「政治家」の言葉としては配慮を欠いたと言うべきだろう。

この爆破騒ぎの期間(2001年2月末〜3月上旬)、ザイーフは大使として「つらく、苦しい体験をした。」誰の目にも、石仏の爆破はアフガン外交をさらに大きな試練へと導いた。この出来事に対し、「自分では何も出来ず、何の相談もなされなかった。」この一言は、自らを大使へと推挙したアミール・アル=ムーミニーンへの恨み節とも聞こえる。

そして彼に忠誠を誓い、イスラームに詳しい大使はこの騒動を次のように締めくくる:「確かにシャリーアを逸脱した行為でないことには同意する。だが、石仏はただの宗教問題ではなかった。破壊は不必要で、間の悪い事件だった。」

国際世論は爆破が終わると「覆水盆に返らず」と諦念したのか、またもアフガニスタンのことを忘れようとしていた。しかし、その大騒ぎからちょうど半年後、あの大事件が勃発する。

(続く)

noguchi20230715

==========<野口壽一>==========(2023年7月15日)

★6月30日にバイデン米大統領が「アフガニスタンにはアル=カーイダはいない。ターリバーンの支援のおかげだ」と発言したのをとらえて、ターリバーンが早速翌日の7月1日にバイデン氏の発言は現実を理解してのもの」との声明を出した(7月1日)。ところが国連は、6月1日づけの「安保理文書」でターリバーンがアル=カーイダほかのイスラム主義過激派をかくまい育成している現状を克明にレポートしていた。今号ではこれらの動きを紹介する一方、<アフガンの声>「アル=カーイダはアフガニスタンに本当にいないのか?」 、<世界の声>「ターリバーンの内部対立、表面化」を掲載し、アフガニスタンを根拠地とするイスラム過激派の危険性が去っていない事実に光をあてた。
あわせて、<世界の声>「「ターリバーンはいまや武器商人」を掲載し、米英NATO軍がアフガニスタンに置き去りにした大量の軍装備品、武器、弾薬類が世界のテログループにバザールで売られている現実のレポートを紹介した。

★一方、7月11日、12日にはリトアニアの首都ビリニュスで北大西洋条約機構(NATO)の首脳会議がひらかれ、ウクライナへの長期支援の公約が確認された。それを一言でいえば、ロシアを過度に刺激しないために、ウクライナへの軍事支援は負けない程度に控え、将来的には戦争を終結(停戦)させてウクライナをNATOに加盟させる、との方針だろう。なんということはない、戦争を永続化させ、戦争経済を常態化し、軍産複合体制による世界支配を継続させようということにすぎない。われわれは2021年の米軍のアフガニスタンからの撤退は「アフガニスタンに中国・ロシアを引き込む。そして新疆ウイグル・台湾問題で中国を叩き、ウクライナ問題でロシアを叩き、経済的軍事的に足元を脅かすようになった中国を蹴落とそうとする戦略である、とロシアのウクライナ侵略の前に書いた(<視点:~015>2021年12月13日<視点:~020>2022年2月15日)。悲しいかなその見通しは現実のものとなった。

前号の<視点:~069>「ウクライナ戦争とアフガン戦争」で書いたように、米英NATOは極めてずる賢い。核大国ロシアのプーチンを怒らせて第3次世界大戦=核戦争=地球の破滅が起きないように、ウクライナを負けない程度に支援しつつ、最終的にNATOの拡大を実現させようというのだ。すでにフィンランドはことし4月にNATO加盟を果たしたし、エルドアン・トルコ大統領を丸め込んでスウェーデンのNATO加盟も決定した。アメリカの政策=「ウクライナ戦争のアフガン戦争化」は着々と進み、戦争または戦争状態の永続化が現実のものとなった。

★ジョージ・オーウェルは、第2次世界大戦が終わり、冷戦がはじまろうとするまさにその時、『1984』を発表し、世界がオセアニア、ユーラシア、イースタシアに3分割され、それらの地域間で対立と戦争が常態化し、世界支配が維持される将来世界を描いた。それはまさに米ソ冷戦体制を予言するものであった。冷戦が終結してジョージ・オーウェル的ディストピアが終結したかに見えた21世紀、今度はまさにオーウェルの想像通りの世界が出現した。米英NATO、ロ中イラン北朝鮮、米日韓AUKUSの三極世界である。グローバル・サウスと呼ばれる国々やその他の国々はどの極につくか選択を迫られる。

★国家間対立と戦争が常態化するこの世界の社会・経済体制は、政治と軍事と経済が密接に融合した軍産複合社会となる。一触即発の危機の演出のもと、文化も経済も金融も情報も軍事的な観点から政治化される。物を神としてあがめ、モノに支配されることを「物神崇拝」というが、現在は「軍神崇拝」とでもいうべき世界になりつつある。すべてが政治軍事的な観点からサンクション、デカップリング、デリスキングと呪文が唱えられる。命を奪われ、苦難をなめさせられるのは、逃げ惑ったり戦場に駆け付けたりするウクライナ人や戦争に駆り立てられるロシア人など直接の犠牲者や、戦争を原因とする経済社会的負担に巻き込まれる世界人民である。一般庶民の対抗手段は、ひたすら平和を願う声をあげつづけ、政治家たちに戦争でなく外交による紛争解決に立ち戻れと圧力をかけ続けることしかないだろう。

kaneko20230705

==========<金子 明>==========(2023年7月5日)

アブドル・サラム・ザイーフの自伝「ターリバーンと共にある私の人生」(My Life with the Taliban/Abdul Salam Zaeef/2010) を紹介する第14弾。今回はその第11章「大変な任務」、第12章「外交原理」、第13章「高まる緊張」から抜粋・翻訳する。

1978年、親戚と一緒に国を捨て命からがらパキスタンに逃げた10歳の少年が、22年後、大使となって舞い戻るとは、まさに神のみぞ知る運命だった。イスラマバードの大使はターリバーンのキャリア官僚の間では垂涎の職なのだ。「サラリーは良く、アフガニスタンよりも生活水準は高い。」しかし、ザイーフは「気乗りしなかった。」

なぜか?それまで外交とまったく無縁だったことから来る不安はあったろう。もともと、例の「学者になりたい」血筋である。しかし、嫌がるもっと実質的な理由があった。当時の「イスラーム首長国」は、国連によって制裁を受けており、大使館が置かれた国は世界で唯一パキスタンのみ。それが国際社会と繋るための「最後にして唯一のよるべだった。」

※脚注「国連による制裁:アメリカの要求を受けて国連が初めて制裁を加えたのは、1999年10月。しかし全く効果が無かった。そこで翌年12月19日、安保理は制裁をさらに強め(決議1333)、武器の輸出を禁止した。さらに、この決議にはターリバーンの国外大使館を全て廃止すべしとの条項も加えられた。」(この制裁は、2022年12月16日の決議2665まで、以降計30回を数え、現在まで上書きされつつ続いている。)

「難しい状況だ」と懸念するザイーフはボスのムッラー・オマルに撤回を要求した。しかし「もう遅い。布告は出された。それにお前なら出来る」とにべもない。やがてパキスタン側も承諾しビザを出した。新大使は国連専用機で、イスラマバード空港に降り立った。

さっそく執務を開始したが、心配した通り外交は複雑怪奇。その主たる要因は例の組織だった。つまり、「パキスタンの政府内で大きな力を持つのがISI(軍統合情報局)だと着任後に知った。他国の代表たちの間でも、ISIの隆盛は周知の事実だった。」かつて国防相代行を務めていた時、ISIは様々な貢ぎ物を手に近づいてきたが、ことごとく無視した。ザイーフはその性格からして「スパイ活動が嫌い」なのだ。

そして、主たる交渉相手であるパキスタンの外務省は伏魔殿だった:

●アブドル・サッターが「外務省で打ち合わせしよう」と持ちかけた。ザイーフは裏にロシアがいることを察知し、「話し合うならパキスタン抜きで」と拒絶した。

※脚注「アブドル・サッター:パキスタンの外務大臣(在任1999〜2002年)。以前にオーストリア、インド、ソ連で大使を務めた。」

●アメリカ外交筋には「3か国協議にようこそ。でもターリバーンは来ない。彼らに交渉の意図はないようだ」と残念がって見せた。しかし呼ばれたはずのザイーフが協議の開催を知ったのは、その数日後だった。

この件に関しては、ザイーフも「知っていたとしても拒絶した」と言うから、どっちもどっち。しかもその情報を「内通者がもたらした」とは、彼も徐々に大使職が板に付いてきた、と言うべきか。

国連も含めどの国と交渉するにしても「パキスタン抜き」がザイーフの矜持だった。パキスタンの後ろにはアメリカがいて「イスラーム首長国の孤立化」を狙っているのだから、至極真っ当な判断だ。但し、彼のいる場所はパキスタン。何とも歯がゆい状態である。

また、パキスタンの役人は「隣室にアメリカ人がいる」と恐れ、低い声で話をする。中でもザイーフが呆れたのは、彼らのアメリカへの妙なリスペクト。「ブッシュ大統領陛下」とか「コリン・パウウェル・サヘブ(閣下)」とか。同じモスレムとして、聞くに堪えなかったろうと想像する。

さて、外務省はこんな具合だが、警察を担当する内務省も手強い。

300万もいたアフガン難民は様々な差別に苦しんでいた。なかでも「難民への警察の横暴」は目に余った。自身も難民の出だから、人ごとでなかったろう。特に「大使館の前の通りで、まるでオオカミ集団のごとく難民狩りをする」警察は許すことが出来なかった。

<悔しい事件簿>
●大使館で話し合いをするために難民キャンプからはるばるやって来たウレマ(イスラーム学者)の1人が、途中警察に金を奪われたと訴えた。「すわ!」とザイーフが現場に向かうと悪徳警官はまだそこにいた。とっ捕まえてふん縛り(さすが元軍人)、詫びるその男を警察署に突き出した。結果、内務相は彼を放免し、逆に大使を特権乱用で告発した。

●国防軍の司令官であるムッラー・セラージュッディンが病気治療のためドイツに向かう途中、イスラマバードのホテルから警官たちによって誘拐された。すぐに解放されたが、持っていた1万ドルの旅費および治療費は奪われた。内務省に訴えると、マスコミの大キャンペーンが始まった。いわく「セラージュッディンはパキスタンの少年を虐待した。」話はどんどん膨らみ、アフガン側はついに訴えを取り下げた。

※脚注「ムッラー・セラージュッディン:ターリバーン政権下で国境防衛を指揮した強者ムジャヒディーン司令官。ヘラート市民の多くは、彼が市内で最も残虐なターリバーンの1人であると信じている。」

<耳を疑う言い訳>
抗議のため内務省に乗り込んだザイーフ大使はハイデール大臣に状況改善を直接訴えた。その返答は、「わが国の警察は何もアフガン人だけを苦しめているのではありません。金がありそうで無抵抗そうなら誰でも標的にします。これは一般的な問題で、特に難民に限ったことではありません。」

そんな中、「ターリバーンはパキスタンで人気があった」と述べるあたり、ザイーフもいよいよ大物政治家の貫禄を帯びてきたようだ。いわく「パキスタン国民の80%はイスラーム首長国を支持していた。」1999年のクーデターで独裁政権を打ち立てたパルヴェーズ・ムシャラフ行政長官はターリバーンに深入りしようとせず、多くの役人は支援に懐疑的だったにも関わらず。

それは大使館が「あるべきイスラーム」のプロパガンダに精を出した成果であろう。大使自身がカラチ、ラホール、クエッタ、ペシャワールと、国内を駆けずりまわった。自由に動けはしたが、危険を避けるため秘密裏に敢行された宣伝旅行だった。ジャマアテ・イスラミ党※1の「カルタバ会議」※2やジャミアテ・ウレマイエ・イスラム党※3の「デオバンド会議」※4にも参加して、数百万のモスレムに団結を呼びかけた。

※1脚注「ジャマアテ・イスラミ党:パキスタンのメジャーな政党で、1941年にラホールで旗揚げ。パキスタンにイスラーム国家を建設することを提唱する。」

※2脚注「カルタバ会議:毎年ラホールで開かれ、政治的、宗教的な問題を3日間にわたり討論する。」

※3脚注「ジャミアテ・ウレマイエ・イスラム党:パキスタンの政党で、1945年にジャミアテ・ウレマイエ・ヒンドから分派して誕生。デーオバンド派(19世紀インドに起源を持つスンナ派イスラームの改革運動)の伝統を守る。」

※4脚注「デオバンド会議:ペシャワールで2001年4月8〜11日に、50万人が参加し開かれた。サウジアラビアに米軍が駐留し続けていることへの懸念などを表明。会場ではムッラー・オマルやオサマ・ビン=ラーディンの檄が読み上げられた。」

特に後者の会議は「印象的だった」と言う。「200万人(報道のなんと4倍!)が参加した」会議だったが、最終日に登壇した大使はアフガニスタン・イスラーム首長国の代表として演説し、アミール・アル=ムーミニーンの声をテープで流した。

精力的に活動するターリバーンだったが、それを邪魔したのは常にムシャラフだった。ザイーフによると当初ムシャラフは:
●ターリバーンを嫌ったが、単に自らの政治的な生き残りのために擁護した。つまり、ますます巨大化するISIが彼の前にいてターリバーン政権を承認し、後ろにはターリバーン好きな国民が控えていた。
●ムシャラフのクーデターが成功した陰には隣国でのターリバーン勝利が少なからず影響したという分析すらあった。
●世俗的な男で宗教心は皆無。ターリバーンが本気で「イスラーム首長国」を打ち立てるとは考えておらず、自分と同じく「宗教を利用して政治的目標に向かっている」と信じていた。
●インドの影響もあった。東西両面に敵を持つのは避けたい。そこで、西のモスレムを手助けして「パキスタン・ファースト」を旗印に東の聖戦に備えようとした。

こうして表面上は一応の仲良し。ところが、あることをきっかけに、ムシャラフは硬化する。その経緯は:
●アミール・アル=ムーミニーンを自国に招待したが、断られた。
●そこで、自らをカンダハールに招待してくれと要望したが、返事はこうだった、「どうも訪問の目的が良くないようです。隣国の長として、安全保障や経済問題を語りに来るなら受け入れます。しかしビン=ラーディンはわが国と米国の問題で、貴国が口を挟むものではありません。」
●ムシャラフはアフガン訪問をキャンセルした。
●トドメはアミール・アル=ムーミニーンがムシャラフ大統領に宛てた親書、「共にイスラーム法を施行し、イスラーム政府を打ち立てましょう。」やっとターリバーンの「本気」を理解した大統領はその「忌まわしさ」に身震いした。

こうして大統領が豹変すると、次に出てきたのがISIだった。「悪いようにはしない」と懐柔してくる。何度も金で釣ってきたが、ザイーフは「1ルピーたりとも手を出さなかった。」逆に「ISIが北部同盟のアフマド・シャー・マスードに接触し始めた」との情報をつかんだ。「イスラーム首長国に対する陰謀として、パキスタンはアメリカ、イラン、北部同盟と手を結んだ。」

大使館対ISIの諜報合戦だ。ザイーフにとって「スパイは嫌い」など既に過去の言葉。せっせとパキスタン政府内にスパイ網を構築し、ISIに近いとおぼしき大使館スタッフをクビにした。だがまだ「パキスタンの真意はつかみ切れていなかった。」

こうして両国間に緊張が高まる中、アフガン政府の「勧善懲悪省」のある行動によって、ザイーフたちは外交上の大きな危機を迎えることになる。バーミヤン石仏の破壊命令が出されたのだ。
(続く)

noguchi20230705

==========<野口壽一>==========(2023年7月5日)

★ 今号から、高速サーバーに移転しました。
普通なら旧サイトからサイトアドレスも引き継いでデータ丸ごと引っ越しすべきだったかもしれません。しかし、できるだけ従来の操作感を維持したまま、データ管理システムを改善する方針で、サイトアドレスも webafghan.jp と一目瞭然シンプルなものに刷新しました。その結果、旧サイトはそのまま維持し、2サイト併用体制となり、ご覧のような仕様となりました。出来栄えはいかがでしょうか? ご意見を賜れば幸いです。

★ さて、サイトのバージョンアップと取材・原稿作成に没頭している間に、オランダを拠点にするBaamdaadのソマイア・ラミシュさんと旭川を拠点にする柴田望さんの詩集出版プロジェクトは大詰めを迎えました。(ここをクリック)日本語版は表紙から本文まで校正も終わり、ターリバーンが再来した8月15日の2周年までには、フランス語版と日本語版をアマゾンで販売できるところまできました。いまから周囲の方がたに宣伝してくださいますよう、お願いいたします。値段その他の詳細は決まり次第お知らせいたします。

☆ バージョンアップ作業のため旧サイトを見返していたら現時点でもう一度目を通すべき、あるいは勉強会などのテキストに使うべき、多くの記事が満載になっていることに気づきました。多くの筆者や情報提供者の方がたのおかげと改めて感謝の念がわきました。サイトのオープンから2年の間、ご指導ご鞭撻くださった読者の皆様に心よりお礼申し上げます。誠にありがとうございました。

★ ところで、振り返って見つけた記事のひとつに、アフガニスタンの女性シンガー・ソングライターの美しい歌声があるのに気づき
ました。アフガニスタンの歌手 アリアナ・サイードさんがヨーロッパ議会でおこなったパフォーマンスのビデオクリップです。タイトルは「わたしは燃えさかる大地に咲く花」。今年1月にターリバーンが詩や歌を禁止する布告を出しましたが、実は彼らは再登場直後の2年前からその野蛮な行為を働いていました。一方、アフガニスタンのアーチストたちは歌声でも闘いを始めていたのでした。このつぶやきをお読みになった方は、ぜひいま一度、われわれを力づけずにはおかない彼女の歌声を聴いてください。ここをクリックすればその歌声を聴くことができます。

 

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