われらの運命

 

作:ファテー・サミ
2025年8月15日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盲しいたる暴君 狂おしき権力

幾たびも この地は焼かれた

果てしなき遊戯 不正なる戦(いくさ)

むきだしの手に 運命は預けられた

 

隣人どもは 強盗と化し

欲望の眼が ひとつに重なる

山々へと 狙いを定め

大地に眠る 富の脈へと

黒衣の支配者が それを祝した

 

裏切り者 あるときは主

刃を重ねる 虐殺者

またあるときは 偽りの教え

またあるときは 数珠を手にもつ盗人

 

ムフティとなりて 裁きの座に

空虚なファトワ 法に仮託し

カーブルの路地に 刃を隠し

タリブの影に 憎しみ従う

 

文化の顔をかぶる獣

恩寵なき 腐りし魂

信仰の衣に身を包み

血まみれの手 胸には炎

 

チャール・アシアブの隠れたる

丘より放たれし火矢は 死を凍えさす——

降り注ぐ火の雨 悲鳴の嵐

わが家を焼き 空を焦がす

 

彼は笑い 夜に死を抱き

朝には鎖が 光を奪う

あらゆる路地に 喪の鐘鳴り

母の叫びと 虚ろなむくろ

 

神の言葉を 欲望の盾とし

聖典に 埃の罵り

信仰の名のもと 地を焼き——

欲と偽り 果てしなき嘆き

 

悔いもなく われらの地を売り

異国の手へ 利益のために

人も 痛みも 過去も見ず——

夢を競売にかけ 嘲笑った

 

ある者は倒れ 他は傷み

ある者は縛られ 他は辱められ

ある者は夜をさまよい続け

ある者は海を越え 魂は暴風に弄ばれ

 

またある者は 聖なる地を去る

その傷は 兄の刃によって——

兄は信仰の仮面をかぶり

聖なる絆を 裏切った…

 

ああ、知る心よ 目覚めた魂よ——

祈りを空へ 捧げたまえ

慈悲ふたたび 降ること願い

この鉄鎖の痛み 断ち切るために…

 

この闇と 炎と 嘆きの底より

救いの光 我らに届かんことを——

サミアの叫びが 真実と炎にのり

ついには 御座へ届かんことを… 御名へと。

 

【訳:野口壽一・金子明】

 

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<解説>

 

アフガニスタン出身の作家であり政治アナリストでもある作者は、この『我らの運命』の中で、圧政、裏切り、そして絶え間ない戦争によって荒廃したこの地への、胸を締め付けるような深い嘆きを詩の形で綴っている。悲痛でありながら力強い詩句で綴られたこの詩は、荒廃の証人であると同時に、神の介入を願う嘆願でもある。これは単なる苦しみの記録ではなく、宗教、政治、そして偽りの愛国心によって自らの罪を覆い隠した者たちへの告発でもある。鮮やかなイメージと魂を揺さぶる語り口を通して、作者は搾取された運命の重圧に抗い、生き残ろうともがく傷ついた国の本質を捉えている。

この詩は、「盲しいたる暴君 狂おしき権力」という厳しいイメージで始まる。

これらの詩句を読むと、読者は暴力と不正に蝕まれた国にいるという実感を即座に抱く。しかし、この詩に登場する悪役は外国人だけではない。最も残忍な裏切りのいくつかは、国内からもたらされるのだ。

作者は、裏切り者、軍閥、司祭、裁判官、ターリバーンといった役割を転々とする人物たちの二重性を暴き出す。彼らは単なる個人ではなく、階級である。権力の座を悪用し、称号や聖衣の陰に隠れ、しばしば宗教に訴えて利己的な意図を隠そうとする者たちだ。詩人は、ターリバーンとして知られるこれらの「黒衣の支配者」を非難する。彼らは表面的な敬虔さの裏に、欲望、貪欲、そして残酷さを隠しているのだ。

 

国家の略奪

この詩は政治的偽善を超えて、アフガニスタンの経済的搾取を描いている。天然資源に恵まれた山々と大地は、飽くなき貪欲の標的となり、外国勢力だけでなく近隣諸国や腐敗した内部勢力からも狙われている。国は比喩的にも文字通りにも売り飛ばされている。「悔いもなく われらの地を売り 異国の手へ 利益のために」

作者は、私利私欲のために国家全体の夢と尊厳を競売にかけた者たちを告発している。これらの詩句は、戦争経済と資源の窃盗がイデオロギー対立にしばしば伴う世界において、切迫した響きをもって響く。

 

チャール・アシアブ虐殺:リアルな記憶

最も心に残る場面のひとつは、カーブルのすぐ南に位置するチャール・アシアブの丘陵地帯からのロケット攻撃を想起させる。これは1990年代に軍閥グルブディン・ヘクマティアールが同市を襲った残忍な砲撃を明白に示唆している。詩の中でヘクマティアールの名は直接挙げられていないが、その暗示は明白だ。「チャール・アシアブの隠れたる 丘より放たれし火矢は 死を凍えさす」

ここで詩は証言となる。作者は、家々を飲み込み、夢を打ち砕き、世代を超えて傷跡を残した炎の嵐を目撃する。襲撃者が笑いながら、その夜、死の眠りについたことで、恐怖はさらに深まる。街は煙と血と哀しみに包まれ、街路は傷ついた人々と死者の血で染まり、女性と子供たちの泣き声と嘆きで汚染された。

 

歪められた宗教、裏切られた信仰

作者はこの詩全体を通して、宗教的偽善というテーマを繰り返し取り上げている。ムフティであれ、ターリバーンであれ、自称聖人であっても、これらの人物は神の名を、人々を鼓舞したり高揚させたりするためではなく、暴力と権力を正当化するために用いている。作者はこう記している。「神の言葉を 欲望の盾とし 聖典に 埃の罵り」

こうした信仰の冒涜は、この詩の中で最も痛ましい非難のひとつだ。慰めを与えるはずの宗教が、操作、分裂、裏切りのために武器として利用されている。

 

追放と兄弟愛の崩壊

詩が終わりに近づくにつれ、哀愁を帯びた調子となり、戦争の余波――傷ついた体、引き裂かれた家族、そして亡命を強いられた難民――に焦点を当てる。犠牲者一人ひとりが抱える傷はそれぞれ異なる。「ある者は倒れ 他は傷み ある者は海を越え 魂は暴風に弄ばれ」

最も悲痛なことに、兄弟愛の絆さえも引き裂かれてしまう。偽りの信心深さと毒されたイデオロギーに覆われた兄弟が、兄弟を裏切る。祖国は戦場と化すだけでなく、感情と道徳が崩壊し深く沈む。

 

抵抗としての希望

それでも、灰の中から祈りが湧き上がる。最後の節は復讐ではなく、慈悲を訴える。詩人は天に祈りを捧げる。受動的な屈服ではなく、切実で切なる願いを込めて。「この闇と 炎と 嘆きの底より 救いの光 我らに届かんことを」

この希望はナイーブなものではない。革命的なのだ。それは、最も暗い時でさえ、人間の魂は光を求めて叫ぶことができる、そして宇宙はそれでも耳を傾けてくれるかもしれないという信念だ。最後の一節「サミアの叫びが 真実と炎にのり ついには 御座へ届かんことを」は、記憶、抵抗、そして真実の救済力への信仰を象徴している。

 

結論:証言と警告としての詩

『われらの運命』は単なる詩ではない。それは証言である。戦争犯罪と偽善を証言すると同時に、すべてが燃え尽きた後でさえも、神に向かって声を上げる勇気を持つ国民の強靭さをも証明する。この詩は、最も切実な形態における詩とは、ある種の真実の語りかけであり、不正の記録であり、正義への嘆願であり、救済への祈りであることを私たちに思い出させる。

この作品は、哀歌であり、告発であり、そして祈りでもある。アフガニスタンの長い悲しみの夜を――政治的にだけでなく精神的にも――理解しようとする人々にとって、『我らの運命』は明晰さとカタルシスの両方を与えてくれる。