Global Poetry Night – Messages from Participants <III>
==参加メッセージ第1弾はココ、第2弾はココをクリックしてご覧ください==
(WAJ: 今回は、グローバル・ポエトリー・ナイト参加者の声<第3弾>。フランス語版『詩の檻はない』の発刊を記念して、作者が自作の詩を朗読するZoomイベント、リレー形式で地球を一周するぶっ通し企画だ。(日本時間1月21日(日)午前4時から午後2時)写真は自作の詩を朗読する髙原遥さん)
参加者の声
日本
● 髙原遥
お知らせいただきました通り、「詩の檻はない」朗読会 ― フランス時間1月20日午後8時から21日午前6時まで「ぶっ通し」のオンラインイベント ― に、世界中の詩人たちが集いました。私も、日曜の朝の30分間だけでしたが、参加しました。
私が入室した時点で、30人ほどの詩人の方が滞在しており、温かい笑顔で迎えてくださいました。順番に紹介されていく、「詩の檻はない」で連帯した詩人たち。ある人はフランス語で、ある人は英語で、またある人は日本語で発表し、それが主催者の方々によりフランス語・英語に翻訳されました。私は英語で発表し、Cecile Oumhani さんがフランス語に訳してくださいました。発表前後には Somaia Ramishさんとも改めて言葉を交わすことができ、「詩の檻はない」によって広がった連帯を再確認しました。どなたも真剣に、かつ温かい目で私の発表を聞いてくださり、開かれた発表の場所の有難みを感じるとともに、その「開かれた場」こそがこのムーブメント全体を貫く主旨の一つであることを思い出しました。
Somaiaさんの呼びかけにより始まった、不当に表現を規制された人々に連帯するこの運動が「詩集」「朗読イベント」という形で結実したことには重要な意味があると思います。
まず、詩集という形で出版されたことにより、そこに参加した詩人たちおよび興味を持った読者たちが、紙面に固定された詩を手に取ったことです。言葉や記憶は、時とともに風化してしまうもの。出版され、紙面に根を張った言葉たちが繰り返し読まれ、まなざしの光を浴びることで、抵抗の叫びは太い樹となり、消えることなく後世に残ることができるようになりました。
つぎに、朗読会というリアルタイムでの共有の場が設けられたことで、作者の意図した言葉のリズムを体感することができたこと。ロシアの女性詩人アンナ・アフマートワは、スターリンの圧政の下、自由を奪われた状況で、筆談により自身の詩を友人に伝えたそうです。詩が持つ、同じ言葉やリズムをあえて繰り返し用いるという特徴は、人の記憶に刻み、伝えていくという重要な機能を持っているのです。(アフマートワの話は、私の詩の仏語訳を担当してくれたフランス語教師の中田俊介氏に聞き、最近知りました。)先日あった別のイベントKotaba Slam Japan で Somaiaさんが語っていた通り、タリバンが詩を禁じるということは、詩が力を持っていること、彼らが詩を恐れていることの裏返しです。連帯し、読み聞かせ合うことで、言葉が繰り返し語られ、記憶される――この、詩本来の根源的な力を使ってイベントを完遂したという事実が、テキスト以上に大きな意味を伴い、詩的な抵抗の試みになっていることは疑いようがありません。
個人であれ、国家であれ、人種・宗教が何であれ、暴力ではなく言葉、対話が隣人につながるすべての扉であってほしいと願うことの多い昨今。このような開かれた場で、書き合い、持ち寄り、読み聞かせ、連帯と抵抗を記憶するという詩的なイベントに参加させていただけたことに感謝しています。またこの活動を実現するために行動したSomaia さん・野口さん・柴田さん・フランスペンクラブのみなさまおよび詩人の方々の勇気に尊敬の念を表します。
20240213
(WAJ: 東海大学文芸創作学科・岡和田晃先生の現代詩講義(「文章と表現」」内)での期末レポートとして提出された倉井綾香さんの『詩の檻はない』の読後感想文が送られてきました。本書の出版意図をストレートに受け止め、個々の作品を自分なりに理解して批評する姿勢に初々しさを感じます。また、1篇だけ収録された俳句の英文と日本文に関心をよせその奥深さに理解を及ぼしている点に好感を感じます。GPN(グローバル・ポエトリー・ナイト)への参加ではありませんが、広い意味でGPNへの感想なので、この欄に収録しました。ぜひご拝読ください。)
『詩の檻はない』について 倉井綾香
『詩の檻はない』は、タリバン政権の詩作禁止令を受け、アフガニスタンにおける詩とあらゆる形態の芸術の弾圧に対して、アフガニスタンから亡命した一人の女性詩人の呼びかけに応じ、世界中から詩を寄せた詩人たちによる、詩に託された抗議運動である。寄せられた詩の制作の背景には、検閲や芸術への弾圧だけでなく、アフガニスタンの紛争や、タリバン政権による女性の抑圧なども取り入れられている。
この運動のきっかけとなった、アフガニスタンの詩人であるソマイア・ラミシュさんは、詩の力によって人々は連帯することができ、不正や抑圧などによる沈黙を打ち破ることができる変革力を信じて、世界中に詩を送ってくれるように呼びかけ、世界各地から100を超える詩が寄せられた。日本からも8歳の少女や学生も含めた36人の詩がこの本には掲載されている。著名な詩人だけでなく、これほど多くの様々な人が詩を寄せることができるのもSNSが普及した現代社会ならではと言えるだろう。
寄せられた詩は多岐に渡り、日本ならではの俳句も1篇掲載されている。英語の訳も付けられ、日本語の直訳ではない、その英文に、短い俳句に秘められた意味の奥深さを感じることができる。
アフガニスタンの女性の抑圧について触れられているのは、佐川亜紀の「女たちの言葉は水路」である。女たちの言葉を水路や花、樹、大地、針に喩え、それがいかに大事なもので、奪われてはいけないものかを訴える。題や冒頭の水路は、アフガニスタンのために水路を作るのに尽力し、銃撃により命を落とした中村哲医師に繋げている。アフガニスタンの苦難をアフガニスタンから遠く離れた日本の読み手にもわかりやすく伝えている詩である。
雪柳あうこの「いつかの早春」も、アフガニスタンの状況から女が幼い娘と往く野原を想起させ、アフガニスタンの女性が過ごしてきた茨の苦難を何代もの女性たちが改善してきた過去、そして再び茨だらけになってしまった現在につながり、それでも再び茨がなくなり、青空の下で過ごせる未来が来ることを詩の中に表現することが詩人の祈りである。
アルゼンチン出身のファン・タウスク「アフガンの詩人」は、タリバンからの女性に対する恐ろしい抑圧、女性蔑視の行為を表わし、それでも抵抗する自由と優しさの詩をつくる若い女性詩人は、ソマイア・ラミシュさんを表現しているのであろう。
詩の禁止・詩人の弾圧に触れているものも多いが、大田美和の「アフガニスタンの詩人たちとの連帯のための「ポエマー」宣言」では、それまでの詩人、ポエットから、弾圧に対して闘うポエマーという新しい名称を作りだし、自分でも闘うポエマーとなることを宣言するとともに、ポエマーが果たす役割を列挙している。とても重いことを表現しているのだが、ポエマーという言葉の持つ軽やかさ、ポップな雰囲気を詩の文体にも取り入れて、語尾が若い女性のような語り口調であり、読み上げるのに心地よさを感じさせる詩である。
尾内以太の「鯨」では、詩を禁じられたら、踊ろうに始まり、次々と行為を禁じられる。最後には沈黙して大地に立つ私自身が一行の詩であると宣言している。そして多くの人がその数だけの詩になる。彼の言う「沈黙を食べる鯨」を、読み手は色々と解釈することができるだろう。詩を制限する巨大な抑圧者とも考えられるが、この抑圧した状況、沈黙せざるを得ない状況を食べてなくしてくれる大きな望み、未来の希望とも考えられるだろう。
同じように〇〇できないから〇〇すると書かれた詩に、アルジェリアの詩人ハフィド・ジャファイティの「書くことを禁じられたら-アフガンの人々のために」がある。この詩では、ある行為を禁じられ、外的な行動を止められても、見えない内面や心で思うことは制限されることがないことを具体的に表現している。愛を否定されても、愛することはできるし、自分の痕跡である詩を消されても、抵抗の炎が消えることはないのである。
カマニ・ジャヤセケラ「自由」では、花は咲いてはいけない、風は吹いてはいけない、鳥は鳴いてはいけないといった自然の摂理への否定を列挙し、人間が考えを持ち、自由に話し、笑い、冗談を言ってはいけないと決められたことは、果たして公正な判決であるのかと問うている。人の思考と表現の自由は、自然と摂理と同じことなのだと捉えている。また、抑圧された土地で、ネガティブな気持ちによる人々の団結と、甘美な解放、自由への焦がれは、言葉と表現の並びからは、逆に圧迫感と無力感、歪みを感じさせ、不当な支配に侵されている状況がいかに異常であるかを示しているのではないだろうか。
三木悠莉「夜はもう明けているのに」は、アフガニスタンの状況に対して、無関心でいる者に対し、詩による啓蒙を試みている。私の骸の上で眠るあなたという、傷つけられている人の存在から目を反らし、思考や行動を止めた者への呼びかけである。現実を見ずに眠っていることは死と同じと断じ、鶏や陽光、アラームの代わりに、詩によって目覚めさせようとしている。夜に眠る者に対し、実は世界はもう陽が昇っているのだと語るところでは、呼びかける私が私たちに増えたように、目を覚まし、真実の世界に生き、自らの力で進んでいる人々がいるのだと語っている。眠りこそ孤独であり、世界から取り残されているのだ。今の世界を捉え、踏み出すことが、生きていることだと伝えている。世界の人がアフガニスタンに関心を寄せるように訴えているようにも、間違った弾圧を行っている人へ気づきを求めているようでもある。
闇に眼が覆い隠され、世界が見えない状態に人々がいることは、植松晃一「目隠しの国の詩人」でも描かれている。この詩では、最初に詩人が目を開き、世界の美しさを知り、次の人への目覚めとなる衝撃を世界に遺した。闇の中に居る人を詩により目覚めさせようとする、同じようなアプローチであるが、「夜はもう明けているのに」は、私が私たちに増えて、私たちであなたの瞼を開けようとしているのに対し、「目隠しの国の詩人」は、目を開けた詩人は闇に呑み込まれ、その言葉は遺言として次の人に受け継がれ、より困難な状況にあることが綴られている。
村田譲「歌う小石」は、オランダに亡命したソマイア・ラミシュの気持ちを表現している。アフガニスタンでの不当な支配から逃れ自由を得ても、自らが育った家も、親しい友のいない場所で生きていく現実は決して望ましいものではない。彼女の望みは、歩道で見つけた小石のように小さな声をあげている。その声がメールを通して広がっていく。言葉の違う、イスラームの祈りを知らない人々が、声を拾い上げることが、遠く離れた地で今も耐え忍んでいる人々の力となるのだと、この詩は表現している。
冒頭に寄せられたソマイア・ラミシュの詩は無題であり、五部構成となっている。一部は「世界のどの地域も夜」から始まる。アフガニスタンで今も弾圧に苦しむ人と、それ以外の人たちの間の隔たりと、世界の捉え方の違いを示している。アフガニスタンから離れても世界はどこも夜であり、暗闇の中に居るのだと気づいてほしいと訴えている。二部は、紛争の中で死の間際に居る兵士が、遺された者のことを想う詩ではないだろうか。戦い、命を落とす人たちには、その帰りを待つ大切な人がいるのだと。全身を隠したヒジャブから唯一見える恋人の目元の運命の不安定さも暗示している。三部は、二部の応答のような詩である。愛する人を失ったら、自身が生まれ、育ち、愛する人と共にいた地にいたいと渇望する。四部は、亡命により、自身の故郷、アイデンティティを捨てなければならなかった人の哀しみが表現されている。知らない土地、知らない言葉、知る人のいない哀しさを、彼女自身が体験したことを通して綴っているようである。五部は、自身が女性であることを弾圧する者に対して、何度も傷つけられ、女性としての死があっても、生きて立ち向かっている。最初の一連に籠められた叫び、死による解放を望みながら、支配者の死を願う。しかし、地獄のような現実でも、土地は天国にも地獄にもつながっておらず、今を生きる私たちこそがすべてなのだと訴え、アフガンとイランの街頭で女性のスローガンで結んでいる。
同じテーマでもこれだけ多様な表現が生まれるのが詩であり、異なる背景をもった人たちが、実際に体験していなくても想像することで、詩は制限されることができないものだということを示している。また、詩はどういうものであるかを表現したものが多く、詩人こそが、詩を文字の列ではなく、大きな力をもっていることを信じている。このことこそ、最初にソマイア・ラミシュさんの訴えたことである。