(2025年8月15日)
ふたつの8・15
~たゆまざる 歩みおそろし かたつむり~
ターリバーン復権4年、日本敗戦と被爆80年
暑い夏が、地球温暖化と国際情勢の激動で、ますます暑熱化するニッポン。
水枯れと飢餓、苛烈でむき出しの暴力支配に苦しみつづけるアフガニスタン。
また8・15がやって来た。
今年の8・15はアフガニスタンでターリバーンが復権して4年、日本のアジア・太平洋戦争敗戦から80年。
くしくも、8・15は日本とアフガニスタンで歴史を刻む節目の日だ。
0で刻む年数は意味深い。2025年は、日韓条約締結60周年で、治安維持法制定100周年。もっとさがすと日露戦争が終結したのが120年まえで、同じ年に第1次ロシア革命。その10年前の130周年には日清戦争終結と三国干渉、そして朝鮮の閔妃暗殺事件(乙未事変)。140年前には太政官制度が廃止され内閣制度が創設され、150年前は朝鮮との江華島事件、160年前はちょうど慶応元年で孝明天皇が死去、徳川の世に終わりを告げる明治維新の最後の仕上げにかかる年だった。
近現代史をタテ軸にして自国歴史を遡り、ヨコに世界を輪切りにすれば、その国の行く末を見通すことができるのではないか。
アフガニスタンの直面する課題
やや強引の嫌いはあるが、両国をくらべて「戦後」の意味を考えてみる。
アフガニスタンの現代史は内戦の半世紀。ターリバーンの勝利によって内戦は多少落ち着いたが、アフガン社会を支配するイスラム過激主義・復古主義、それとのパシュトゥーン部族主義・中世遺制とのアマルガムが、アフガン人民、とくに女性と少女を苦しめている。
実例を列挙し始めるときりがないが、女性たちの苦難の直近のいくつかをトピックス欄に掲載した。
・バーミヤンの女性たちがターリバーン支配下での4年間の苦難を語る
・女性活動家:8月15日は「組織的なターリバーン弾圧」の始まり
・ヒューマン・ライツ・ウォッチはターリバーンが統治開始から4年で弾圧を強めたと報告
・ターリバーン政権が4年目を迎え、バーミヤンの少女たちは教育禁止によって夢が打ち砕かれたと語る
ターリバーンによるアフガニスタンの支配はその暴力性や狂信的な外装で強固にみえるが、実はそうではない。トピックス欄に「ターリバーン指導者は、人々がシャリーア法に馴染めなくなっていると語る」を掲載した。シャリーア法はイスラム国家にとってコーランの記述に基礎を置く、社会を運営する法律にあたるものだ。しかしターリバーンのばあい、独特の、ある意味国際的なコーラン理解・解釈から外れた特異な代物である。ゆえに、アフガン社会が、世俗化した他国のイスラム社会からの影響やネットなど通信手段の発達による外部社会からの影響を受けていけば、ターリバーン・シャリーアの化けの皮が剝げ、ターリバーンの支配が揺らぎかねない。その危険性をターリバーンの最高指導者は気づいたのだ。この現象の本質を「アフガンの声」に掲載した「「シャリーア法の施行」への執着:ターリバーンの生き残りをかけた権威主義的政治」は鋭く剔出している。
アフガニスタンの半世紀に及ぶ内戦は、ソ連や米英NATOやアラブイスラム勢力など外敵との闘いの屈折した表れだった。しかしターリバーン復権後の直近の4年間は、極端でゆがんだイスラム解釈と前近代的な遺制との闘いとなった。アフガニスタンははじめて、内政の課題として近代化を自らの手で勝ち取らなければならない状況にたどり着いたのだ。
とはいえ、アフガン人民だけの力で近代化の課題を実現することは困難だ。いままで以上に国際社会からの支援が必要とされる。そのためには、国際社会からの支援をえられないターリバーンの在り方を変更していかないかぎり、これまでのように、外部勢力の利用主義的なかかわりや干渉によって振り回されるだけになってしまう。『ウエッブ・アフガン』では、国際社会との連携を模索しながらターリバーン的アフガニスタンから脱却しようと努力する「アフガンの声」を今後も引き続き収集していく。
日本の直面する課題、ヒロシマ・ナガサキのセレモニーから
足元ニッポンの場合は失われた30年といわれる停滞からの脱却が直面する最大の課題だろう。アメリカファーストとMAGA(アメリカをふたたび偉大に)を唱える第2期トランプ政権からは惰眠をむさぼっていられない容赦ない矢が飛んできている。
日本の場合、8・15では、原爆と戦争(あるいは平和)の課題が突きつけられる。それはセレモニーの形で現れる。
8月6日のヒロシマと9日のナガサキの慰霊および平和祈念行事である。
式典では恒例の、各県知事、市長、首相のスピーチがなされる。安倍首相や菅首相のときには、首相の挨拶文が過去文のコピーであったり、広島・長崎の使いまわしコピーであったりが指摘されたこともあった。年中行事化した惰性的姿勢が批判された。昨年はイスラエル代表の参加問題をめぐって長崎が招待しなかったとしてアメリカやイギリスの大使らがボイコットする事態も起きた。ガザやウクライナでの戦争をはじめ世界各地では絶えず武力衝突が起きているし、核兵器はなくならない。そういった情勢下でのヒロシマ・ナガサキ式典である。各県知事、市長、首相のスピーチは次のようなものであった。
<8月6日:広島>
・松井一實広島市長 平和宣言「核廃絶に力を尽くす」
・湯崎英彦広島県知事「核兵器廃絶は、実現しなければ死も意味する現実的な目標」
・石破茂首相「『核兵器のない世界』に向け国際社会を主導することは、我が国の使命」
<8月9日:長崎>
・鈴木史朗 長崎市長 平和宣言「被爆の記憶 国内外に伝え続ける」
・大石賢吾長崎県知事「被爆80周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典 慰霊の詞」
・石破茂首相「長崎を最後の被爆地に」
スピーチではそれぞれの立場から、犠牲者への鎮魂と原爆の廃絶と平和構築への願いないし意思の表明がなされた。(各首長・首相スピーチの全文収録pdf)
松井広島市長は市長の立場から平和、文化、スポーツ交流などを通した市民の国際的交流活動を進めていく決意を表明したうえで、「為政者の皆さん」と参加者や世界の国家指導者たちに呼びかけた。「ヒロシマの被爆の実相を自ら確かめてほしい」「日本政府は来年開催される核兵器禁止条約の第1回再検討会議にオブザーバー参加してほしい」と。参加したイスラエル代表の顔のアップが映し出された。
湯崎英彦広島県知事は「核抑止論はフィクションである」と断定し核兵器廃絶を訴えた。この問題提起については後で詳しく触れることにする。
石破首相はみずから改装後の広島平和記念資料館を訪問した実体験から原爆の実相を語り、非核三原則の堅持や政府の「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき努力する表明は行ったが、被爆者や平和運動の側から強く求められている核兵器禁止条約への参加には触れぬじまいであった。唯一の戦争被爆国であり、核兵器のない世界の実現を目指し「「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取り組みを主導する」というのならまっさきに批准し運動の先頭に立つべきではないだろうか。
鈴木史朗長崎市長は「人類は核兵器を無くすことができる」として、「地球市民」の視点と覚悟をもって地球規模での市民の交流を重ねていく、と表明。そのうえで国連の課題として国連憲章の理念に立ち、来年の核兵器不拡散条約再検討会議の成功を祈念した。
大石賢吾長崎県知事は、「慰霊の詞(ことば)」で、「長崎を最後の被爆地に」すべく、世界中の指導者に、核兵器に頼らずに平和な世界を築くよう努力してほしいと訴えた。
石破茂首相は広島でのスピーチと同じ様に「非核三原則を堅持しながら、「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取組みを主導する」と重ねて表明した。そしてここでも「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、核兵器保有国と非保有国の双方に対し、対話と協調の精神を最大限に発揮し、一致団結して取り組むよう粘り強く呼びかける、としているが、アメリカの核の傘の下で実質アメリカの従属国のような政策運営をしている事実を見る世界の眼は厳しい。
矛盾に満ちた日本政府の政策と立ち位置
さてここで、先ほど簡単にしか触れなかった湯崎英彦広島知事の挨拶にもどる。
湯崎知事はスピーチで次のように述べている。
「核抑止が益々重要だと声高に叫ぶ人達がいます。しかし本当にそうなのでしょうか。確かに、戦争をできるだけ防ぐために抑止の概念は必要かもしれません。一方で、歴史が証明するように、ペロポネソス戦争以来古代ギリシャの昔から、力の均衡による抑止は繰り返し破られてきました。なぜなら、抑止とは、あくまで頭の中で構成された概念又は心理、つまりフィクションであり、万有引力の法則のような普遍の物理的真理ではないからです。
自信過剰な指導者の出現、突出したエゴ、高揚した民衆の圧力。あるいは誤解や錯誤により抑止は破られてきました。我が国も、力の均衡では圧倒的に不利と知りながらも、自ら太平洋戦争の端緒を切ったように、人間は必ずしも抑止論、特に核抑止論が前提とする合理的判断が常に働くとは限らないことを、身を以て示しています。」
核戦争を抑止する「核抑止(Nuclear Deterrence)」論またはより現実的に核先制攻撃を抑止する「相互確証破壊(MAD: Mutual Assured Destruction)論の有効性を主張するために、湯崎知事の「フィクション」という言葉を批判する人びとがいる。
自然法則は誰にも抗うことのできない外部からの強力な束縛であるが、「抑止」という「概念」はそれを破るものを罰する力は外部には存在しない。このことを湯崎知事は「フィクション」と表現したのだ。
批判者は、核兵器保有国の中国、ロシア、北朝鮮が日本を侵略あるいは脅してきた場合、核でしか対応できない、この現状はフィクションではない。現実だ、と主張する。
核の脅威は核以外の武器と根本的な違いがある。広島・長崎に投下された原爆とはけた違いの破壊力を持つ現在の原水爆を撃ち合えば、当事国のみならず人類滅亡の危険がある。そもそも戦争は相手を消滅させることが目的ではなく屈伏させるのが目的である。共滅しては戦争の意味がない。
だから、ロシアのウクライナ侵略のさいにプーチン大統領が核兵器の使用をちらつかせたとき米英NATOの側は、もし核兵器を使った場合には米英NATOも参戦し通常兵器でロシア軍を一挙にせん滅する、と対抗表明した。その結果、ロシアは核兵器を使用することができず通常兵器による戦争を続けざるをえなかった。
ここに一種の抑止力が働いているのは事実だが、その抑止力は米NATOの核兵器の存在だけでなく、ウクライナ国民のロシアの侵略に立ち向かう国民の意思と実際の英雄的な戦闘、および核戦争が人類を破滅に導きかねないとの理性的な認識が、ロシア側の為政者をふくめて存在していた。
核兵器は使える兵器ではないという点でも他の武器と決定的に異なる。一度使って報復合戦になれば人類が滅びるか、少なくとも核戦争当事国はボロボロになる。だから、米ソ冷戦のピーク時(1980年代半ば)には、米ソ合計で約7万発あった核兵器が両国の核軍縮交渉(INF交渉やSTART交渉など)がなされた。そして冷戦終結期には数万発の核兵器が削減されそれらは半数にまで減少した。そして現在、ロシアと米国それぞれ5千数百発にまで減らすことができたのである。それでも世界には1万発以上のげんすいばくがある。(Wikipediaなど。根拠になる数字を発表している機関は、FAS(Federation of American Scientists, アメリカ科学者連盟)、SIPRI(Stockholm International Peace Research Institute, ストックホルム国際平和研究所)、条約の公式発表(New START)や主要報道)
つまり、米・ソ・ロシアは、核兵器は使えない、使ってはいけない兵器であることを認識しているのである。その認識をさらに進めていけば、完全な核軍縮も不可能ではないのである。この考えを、湯崎知事は次のように表現している。
「抑止力とは、武力の均衡のみを指すものではなく、ソフトパワーや外交を含む広い概念であるはずです。そして、仮に破れても人類が存続可能になるよう、抑止力から核という要素を取り除かなければなりません。核抑止の維持に年間14兆円超が投入されていると言われていますが、その十分の一でも、核のない新たな安全保障のあり方を構築するために頭脳と資源を集中することこそが、今我々が力を入れるべきことです。 」
つまり、「核兵器のない世界をつくろう」という呼びかけにほかならない。そのために知恵と労力とお金をつかいましょう、というわけである。
付言すると、マスメディアでの日本の安全保障議論をみていると、まるでサッカーやアメフトをやっているかのような、戦争突発を前提とした「戦争論」をやっている。ちんけなゲームシミュレーションのように。戦争論や国防論をやりたいのなら、それが可能な日本国憲法があるのを前提にしなければ議論にならないし、武力や装備を云々するならば、国民の国防意識の涵養が肝心だ。国民が武力行使してまでも「国家」を守る意思を持っていなければどんな軍装備も無意味だ。現国民の意識ではとうていウクライナのような国防戦が戦えるとは思えない。さらには、垣間見られる「戦争論」論者の前提には「くに」と「国家」と「政府」の同一視、ないし混同があるように思える。
日本が核兵器を持つためには(持てるだけのプルトニュウムやロケット技術などはあるのだが)、自国の勝手な判断だけで核兵器を持てるわけではない。有効な核戦争を闘うには原子力潜水艦とSLBMが必須だ。さらにはアメリカや国際社会の同意(しぶしぶの黙認であっても)ないしは容認の強要が必要だ。つまり政府指導者が外部の反対や抵抗をはねのけてでも実現するという強靭な決意を持つ必要がある。アメリカの核の傘から独立して国際的承認をとりつけ(安保条約はじめ関連する国際条約のクリア、アメリカの軍システムからの独立)、それを可能とする憲法の作成、財政資金の調達。現在の少数与党体制、政府首脳がコロコロ変わる現状で果たしてそれができるのだろうか。「戦争をしてでも国を守る意思があるか」というアンケートでイエスが十数%(各種調査)という現状でどんな国防態勢がつくれるというのだろうか。安保条約第10条にもとづき条約破棄通告を行えば1年で安保体制は終了できるという主張があるが、それに至るためには内外に越えがたい高い壁のかずかず(手順)が立ちはだかっている。外交条約・軍事同盟を簡単に廃棄できると考えること自体、児戯に等しい言説だ。
石破首相の挨拶は、これまでの日本政府の方針、つまり国民の意識をできるだけ刺激せず(「解釈改憲」という詐術)、どこまで守られているのかわからない非核三原則(持たず、作らず、持ち込ませず?。若林敬氏の命を懸けた独白すらあるのに)、アメリカの核の傘の下でアメリカ軍とべったり(できたら核共有したい、のすけべ心)。そんなミエミエの政策をとっている日本に、核保有国と核非保有国との間でどうして「『核兵器のない世界』に向け国際社会を主導すること」ができるというのだろうか。この人は自分の言っていることの意味を理解できない度し難いウソをつく人か、虚言癖の塊のような人だ。
広島・長崎の原爆の実相、その悲惨さだけでなく、人類の歴史と宇宙船地球号を内部から破壊することさえできるすさまじい破壊力を持った兵器であることの実相を世界に示し、真に「核兵器のない世界」をつくるにはどうすればよいか。
すでに地球を何度も破壊できる、現実に存在する核兵器の使用を抑止できる、核兵器以上の破壊力をもった兵器は、「抑止力」を機能させるために必要などない。そしてまたそんな兵器などありはしない。
知恵と努力と金をつぎ込むべきは、本当の意味の、戦争を起こさせない国際的な「安全保障体制」の構築なのであって、戦争を前提として相手に勝つための議論や軍装備の実装ではないのではない。
東京での長崎平和集会
長崎でのセレモニーと同じ日、同じ時刻に東京・井の頭公園で開催された「核廃絶・井の頭平和祈念会」に参列し原爆が炸裂した11時2分、参列者のひとりとして、犠牲者を悼み、平和への思いを新たにする黙祷をささげた。
東京の祈念会は、長崎平和公園の祈念像を制作した北村西望氏の祈念像原型のまえで挙行された。その開会挨拶で、祈念会の藤田公一代表が北村氏の句を紹介してくれた。ヒロシマ・ナガサキの悲惨を体験した人類が核兵器のない恒久平和をめざして進むべき決意と行動を励ます言葉だった。
たゆまざる 歩みおそろし かたつむり
【野口壽一】