Deze Afghaanse vrouwen vluchtten voor de Taliban. ‘Binnenblijven was een marteling’

タリバンは3年前にアフガニスタンを乗っ取った。アフガニスタンの女性は街路やメディアから姿を消した。外を歩くこと自体が抵抗とされる国に住むのはどんな感じだろうか? 現在オランダに住む女性たちがそのことについて語る。(Trouw

(注:第1回は「ソマイア・ラミシュの場合」
  第2回は「ズッセン姉妹とラヒメ・ハミリの場合」
  第3回は「ファラー・ビカラーン(44歳)、起業家・女性の人権活動家とマハタブ・ムハマディ(42歳)、教師」

 

(WAJ:ターリバーンの政権奪取から満3年が過ぎ、各国メディアで特集記事が組まれている。日本の新聞もその例に漏れず重厚なリポートを出しているが、いかんせん有料記事でハードルが高い。そこへ、オランダでナチスへのレジスタンス期(1943年)に地下新聞として創刊された骨太紙「Trouw(誠実)」がアフガン女性に焦点を当てたロング記事を発表した。各分野で活躍するオランダ在住の女性たちの声である。気前よく全文読めるので、ここに邦訳しシリーズ化して掲載する。最終回の今回は弁護士ほか3人の証言。)

 


ミラ(35歳)、弁護士

母が私の精神の教師です。母は「愛が神と個人を繋ぐ」というスーフィズムの精神で6人の子どもを育てました。神の愛は人類愛を意味します。母は言いました、「いつも善い意図を持ちなさい、全ての他人に優しくあり、尊敬しなさい。」

1996年にターリバーンがヘラートに侵入したとき、私は7歳でした。今も鮮明に覚えています。夜にたくさんの銃声が聞こえました。翌あさ外に走り出ると、沢山の見知らぬ男がいました、髭が長く、服が長く、両目の下には黒くスミを塗っていました。私たちの家から通りの反対側に事務所を開きました。「このものたちはターリバーン。ドアを閉め、外に出てはなりません」と母は言いました。

母は公務員で、それは私たちにとって安全ではありませんでした。クルマに荷物を詰め込んでトルクメニスタンに逃げました。途中、通りに死体があるのを見ました。毛布にくるまれていましたが、その下から兵隊のはくブーツが飛び出ていました。

“私たちは包み隠さず反論しました”

父はトルクメニスタンへの大使になりました。今と違って、最初のターリバーンの治世には対抗する政府もあったのです。首都のアシガバートには白いビルが沢山ありました。静かで、私たちは快適に暮らしました。でも私の頭と心はいぜん私の国にありました。それを恋しく思いました。

2003年、私がとても喜んだことに、家族はヘラートに戻りました。懐かしい思いで私は一杯になりました。まるで歩く私の両足を地面が包み込んでくれるみたいに。ただ、姉妹と私は新しい現実に合わせねばなりませんでした。トルクメニスタンの少女たちははるかにより自由で、学校のクラスも共学でした。

私たち4姉妹は「反逆シスターズ」として知られました。ちょっと着こなしが違ったのです。長いヒジャブでなく短いヘッドスカーフをまとったのです。私たちは非難を浴びせる少年たちと戦いました。私たちは包み隠さず反論しました。

私は弁護士になり、もっぱら社会正義のために努力しました。家庭内暴力の犠牲者を守り、NATOのプログラムで働きました。

加えて、ヘラート州の難民キャンプで働きました。アフガニスタンではまだ多くの場所で内戦があり、その結果難民がいました。同僚たちと一緒に、独立した財政基盤を持つ組織を立ち上げました。目的はストリートチルドレンを助け、児童労働反対のキャンペーンを行うことでした。アフガニスタンでは児童労働が大きな問題でしたから。

“少女と女性は同性の支援担当者に助けられる必要があります”

2022年の12月、女性は国内も国際も問わずNGOで働くことを禁じられました。国連も含めて。このため活動は甚だしく減少しました。人口の3分の2が人道支援を要するにもかかわらず。性差に起因する暴力のレベルは高く、各事例において、少女と女性は同性の支援担当者に助けられる必要があります。この援助が絶たれると、結果は壊滅的です。かつての私の同僚はいま、自宅にいながらNGOの活動をしています。これでは他者を助ける力を出し切れません。

私自身はターリバーンの乗っ取りのあと逃げ出さねばなりませんでした。離れたくありませんでしたが、家族が私の命を心配しました。

バスに乗って18時間でカーブルへ。ずっと泣き続けていました。車窓からはピックアップトラックに乗った沢山のターリバーンの集団を見ました。25年前に私たちの近所を侵した男たちにそっくりでした。

 

“いま突然私は助けられる側にいます”

飛行機に乗ったあと最初の数か月に私が体験したショックを表現することは不可能です。私は独立した女性でした。両親から1ペニーたりとも援助されたことはありません。結婚しないことを選びました。私は他人を助けてきた人間です。困っている人に手を差し伸べ、難民を助けました。それがいま突然私は助けられる側にいます。

しばらくして、気をとり戻し、再び人生の明るい側を見始めました。すぐにナイメーヘン(訳注:オランダ南部の古都)にあるヒューメンソード難民キャンプにいるアフガニスタン人グループと手を取り合いました。いらい終始一貫お互いに支え合っています。

オランダ人は、見ず知らずの私をいろんな素敵な方法で助けてくれます。こうした一般人による無条件の援助こそ、私がアフガニスタンに導入したい考えです。いつか戻ることが出来たならば。

 


マリアム・ガフーリ(33歳)、社会学者、プロジェクトリーダー

「ひとりの子どもを村全体で育てよ」は私にとってただの諺ではありません。このように私も育てられたのです。私を育てた大家族は中央アフガニスタンのある村に暮らしていました。

私たちの暮らしは伝統的なイスラームの価値観に根ざしていました。家族の長である私の祖父は教育に大きな価値を置きました。予言者ムハンマドにあらわされた最初の単語は「イグラ」でした。それは「読む」という意味。知識を得るために。祖父はその息子も娘も平等に扱いました。そして私の兄弟姉妹も、私も。

私たちの州はいくつかの戦争できびしく打たれました。私が小さかった頃はムジャヒディーンがロシア人と戦い、ロシア人が去るとターリバーンが来ました。

“市場はパンを売る女性のブルカで真っ青でした”

それは難しい時代でした。ターリバーンはしょっちゅう私たちの村を襲い、逃げ損ねた男たちは打たれるかさらわれました。ターリバーンは街から未婚の女性を掠奪しました。ときおり父と市場に出かけましたが、道ばたにはたくさんのターリバーン兵士の死体がありました。やまかげに隠れたゲリラによく待ち伏せされたのです。

食べ物は多くありませんでした。ターリバーンは水の供給を絶ちきると共に、私たちのエリアへの交通も止めました。農地も庭園も枯れました。たったひとつの井戸から村へと水を運ばねばなりません。飛び込んだ虫は布でこしました。叔母たちが家でナーンというパンを焼き、街の市場で売りました。市場はパンを売る女性のブルカで真っ青でした。
医者だった父はもう給料をもらえません。家族を食べさせる手段をいつも探していました。

私たちにはとにかく干しぶどうがありました。それを売りに父ははるばるカーブルまでバイクを駆りました。誰も買ってくれないときは、馬の餌に買ってくれる男が現れました。干しぶどうがしばしば私たちが生き延びるための唯一の食料源だったように、馬たちにとっても欠かせなかったのです。

私たちはホームスクールで学びました。父が読み書きや英語、算数を教えました。厳しい教師でした。

2001年にターリバーンが追い出されると、生まれて初めて学校に行きました。ホームスクールのおかげで4年生から始められました。学校で好成績を残し、学位を取ることは女性である私にとって、重要でした。とても成功し、インドの大学に行く奨学生に選ばれました。家族の中にはこれに反対の者もいました。でも両親は賛成でした。祝福されて旅立ち、社会学の修士となりました。

“女性が重要なポジションにつく機会がありました”

2013年にインドから戻ったとき、アフガニスタンははるかに進歩していました。希望の空気が漂い、女性が重要なポジションにつく機会がありました。私はオランダの「コードエイド」という組織で働き始めました。そこで、アフガニスタンの女性と少数民族を対象としたインクルーシブな社会を目指すプロジェクトのリーダーとなりました。

カーブルではもはやまったくヘッドスカーフをつけない女性が見受けられました。また私のようにイスラム法を尊重し自らを覆うことを好む女性もいました。自分の好みで選べました。覆われると守られていると私は感じました。通りではしばしば顔も隠しました。ある女性たちにとって、自由は見た目上も明確に表すものです。私にとって自由は内面に関するものです。

ターリバーンが再び権力を得るとは全く想像できませんでした。そうなったとき、私は「逃げなければ」と自覚しました。大きなリスクがあったのです。オランダのNGOで働いていたのもそのひとつですが、ターリバーンは再び未婚女性を掠奪し始めたのです。

“ときには喜びも見い出したいのですが”

今、アフガニスタンにいる少女たちのためにオンラインの教育システムを構築しようと日々取り組んでいます。女性の幸福に貢献できる最低限の努力です。一緒にいる家族が私のすべてです。ここで家族と過ごすのは「終わりなき休暇」と映ります。ここオランダでは、そのことが一番の悔しさです。ときには喜びも見い出したいのですが。

 


アスラ(21歳)、学生

母と7人の兄弟姉妹とマイドレヒト(訳注:ユトレヒトの北西10キロに位置する都市)に住んでいます。隣は優しいオランダ人女性でときおり助けてくれたり、一緒に楽しんだりもします。地元のハイスクールの卒業パーティーに私を誘ってくれました。

それは映画のように素晴らしいイベントでした。あれほど大きくて派手なものは見たことがありませんでした。少年少女がみな着飾って、美しいクルマで来ました。みなで一緒に踊り、飲み、とても幸せそうでした。私は踊りに加わりませんでしたが、見ていて美しい景色でした。

アフガニスタンにいる私の友人たちはとても異なる人生を送っています。ただ少女だというだけで3年間いえに閉じ込められています。多くは意気消沈し、自分の未来がまったく見えません。彼女たちの思いはわかります。私も1年半、同じ状況でしたから。

“彼女たちは私が新しい国に行って自由なのを喜びますが、それが私を悲しませます”

ワッツアップで私たちが話すとき、彼女たちを元気づける言葉を探します。少しでも彼女たちに希望を持ってもらうために。彼女たちは私が新しい国に行って自由なのを喜びますが、それが私を悲しませます。彼女たちはあまりにも絶望的な状況にいるのですから。

私の家族は私の友人たちとはいつもちょっと異なっていました。少女と少年が同じに扱われたのです。一般の環境で私が見るところでは、少女にははるかに多くの制限が課せられ、少年はひいき目の扱いを受けて、その結果、より成長するチャンスを得ます。私の友人たちは、「おばあちゃんは自分たちよりも兄弟の方が好きだ」と言いました。

私の母方の祖母は私ととてもウマが合います。4歳になるまで祖母の家で育てられました。私と弟にとってはまるで第二の母親です。

私は学校へ行くのに6歳まで待つのを長く感じました。母はマザーリシャリーフ市で教師でしたから私も教師になりたいと思いました。いまここオランではもっと可能性が見えて、看護師か歯科医も視野に入れています。

母からターリバーンについての多くの話を聞きました。彼らが初めて権力を握ったとき、母は大学生でした。母はターリバーンを怖がりました。それでカレッジをドロップアウトしました。

その歴史が繰り返されるとは決して考えませんでした。私と私の友人たちが、当時の母のように、もはや公的な暮らしへの参加を許されなくなるとは。爆弾が撃ち込まれ、近所は大きく破壊されました。次にターリバーンが通りを行軍しました。家を出ることは許されず、出たいとも思いませんでした。恐怖で麻痺したのです。

“近所に住む両親の多くは息子たちをイランに送り出しました“

近くの村に住む父のいとこ(16歳)が誘拐され、ターリバーンに洗脳されました。よく起こることです。村に住む若い少年はターリバーンへの参加を強いられます。誘拐された少年は村に戻って新たに少年たちをリクルートします。近所に住む両親の多くは息子たちをイランに送り出しました。

父はオランダの団体で働いていましたが、私たちを守るため、正確に何をしているかは語りませんでした。2022年の2月に、父はカバンに最低限必要な荷物をまとめるよう求めました。家族でアフガニスタンを出るのです。私は本を6冊カバンに詰めました。父は病気の祖母の面倒を見るため残らねばなりませんでした。今も世話しています。もちろん私は心配しています。近所の人たちによると、ターリバーンは父を探しているそうです。

ここで新たに2人の親友ができました。ネガハとザハラと学校へ行きます。オランダ語の学習は順調です。ユトレヒトで買い物をするのが大好きです。3人はみんなお揃いの白いスニーカーを買いました。私たちが新たにやって来たこの国で出来ることは、あえて同じ靴を履いて歩くことくらいです。

 

トロウ編集部より

コンビ写真家のハダス・イツコビッチとアニャ・ファン・リットがこの写真リポートを始めたとき、アフガンの女性はターリバーンをクルアーンにある「バルザフ」によくたとえた。それはこの世とあの世に中間にある誰も知らない場所で、死者の魂がさまよう冥界だ。バルザフは真水と塩水が混ざる汽水域と比較される。

祖国で権利を奪われた女性たちがその汽水域で生き残るにはどうするか? 外国に逃れ新たな水に出くわした亡命女性はどう頑張って泳ぎ切るか? この「汽水域の女たち」とも表現されるインタビュー集で、彼女らは現在、過去、そして未来を語る。それぞれの写真の1枚目は、着の身着のままただわずかな許可証にすがって祖国を離れた女性その人、2枚目は彼女たちの内面世界を反映するアフガニスタンの記憶を写している。トロウはその紙面とサイトにそんな8人の横顔を掲載した。

幾人かはアフガニスタンにいる家族の安全を考慮して偽名としたが、その実名は編集部が把握している。

この記事の発表は「特別報道企画基金」( www.fondsbjp.nl)の支援によって実現された。

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