Deze Afghaanse vrouwen vluchtten voor de Taliban. ‘Binnenblijven was een marteling’

オランダ「トロウ(Trouw)」紙 2024年8月14日号より

 

(WAJ:ターリバーンの政権奪取から満3年が過ぎ、各国メディアで特集記事が組まれている。日本の新聞もその例に漏れず重厚なリポートを出しているが、いかんせん有料記事でハードルが高い。そこへ、オランダでナチスへのレジスタンス期(1943年)に地下新聞として創刊された骨太紙「Trouw(誠実)」がアフガン女性に焦点を当てたロング記事を発表した。各分野で活躍するオランダ在住の女性たちの声である。気前よく全文読めるので、ここに邦訳し掲載する。まずは当サイト(ウエッブ・アフガン)でお馴染みの亡命詩人ソマイア・ラミシュのインタビューから。)

 

Somaia Ramish (38 jaar), dichter, schrijver, journalist en vrouwenrechtenactivist
ソマイア・ラミッシュ(38歳)、詩人、作家、ジャーナリスト、女性の権利活動家

私はいつも神の存在を疑って来ました。学校で必須だった宗教の時間には、臆せず疑問をぶつけました。いつも門前払いでした。流れに逆らって泳ぐことで、救いは言葉にあり、自由は詩を書くことにあると気づきました。

1986年、私の家族はテヘランに逃げました。教室ではアフガニスタンから来た外人。イランの少女たちは机を共有したがりませんでした。ある日、私たちに先生が宿題を出しました、母親に手紙を書けと。その手紙を返すとき先生は言いました、「ソマイア、君の手紙は全くの詩だ。」彼女は私の手紙を額装し廊下に貼り出しました。それは私の最初の小さな勝利のごとく感ぜられました。

イランでの亡命生活は簡単ではありません。イラン政府は難民対策の方針を変え続け、何年も学校に行けない時期がありました。

 

“若い頃からタブーを破ることに勤しんできました”

ターリバーン政権が崩壊すると(訳注:2001年12月)、両親を説得し故国に帰りました。アフガニスタンでは学校が開かれる見通しで、将来が明るく見えたのです。

若い頃からタブーを破ることに勤しんできました。16歳の時、ヘラートの詩と文学の会に参加しました。書かれた文字を心から愛する女性と男性のグループです。そこで初めて聴衆の前で自作の詩を朗読し、感想をもらいました。

自由を求めると、家族の男性たちとしばしばぶつかりました。放課後4時過ぎの帰宅を父は許しません。弟にはまったく規制なし。私は英語の授業を受けたかったのに。叔父は父に注意しました、高学歴の女はいつか問題を起こすと。

 

“絶望から、彼女は自身に火をつけました”

頭のスカーフは重荷のように感じられました。できる限りだらしなく被っても。私の心はどんなスカーフでも隠せませんでした。何事も私の手に書くことを止めさせられませんでした。女性の権利に関する記事をいくつも書き、学校新聞に載せました。近所から通うファリバという少女がいました。でも学校に来なくなりました。

あとで聞いたのですが、彼女は結婚を強いられたのです。その夫は彼女の勉強を禁じました。絶望から、彼女は自身に火をつけました。私は深いショックを受け、詩を書きました。彼女について。また抗議と絶望の中で自らに火をつけた他の女性たちについて。私たちの社会で女性が直面する不正と問題について書きました。でも、女性の強さと勇気についても書きました。

若い教養人の一団と共に、私たちは「新たに考える人々」を立ち上げました。私たちの注意はすべて平等と女性の権利に注がれました。

ヘラートにあった唯一の映画館はモスクに改装されました。私たちは新しい映画館を開きました。そこでフェミニストの映画を見せました。2012年に、自前のラジオ局を興しました。ムッラー(訳注:各地にいるイスラームの指導者)たちは私たちのスポンサーを脅し、私たちはとうとうそのラジオ局を閉鎖しました。

友人たちに推挙されて、初めての独立した進歩的な女性候補としてヘラートの州議会選挙に挑みました。選挙期間中、多くの脅迫を受けました。候補者はあらゆる手で私を侮辱し、私のポスターは組織的に壁から剥がされました。みなの予想に反して、私は当選し、次の4年間州議会議員として事務所を持ちました。

2021年に私たちはモスクワに住んでいました。夫がアフガン大使館の外交官だったのです。ロシアとターリバーンの深い繋がりについては知っていました。そこでオランダにいる家族を訪ね、その後の状況を見守ることにしました。

国際社会がターリバーンにアフガン国民の命運を委ねるとは想像できませんでした。20年の間に築いたすべて、女性の権利、人権そして自由が破壊されるとは思ってもいませんでした。

 

“一夜で私たちはすべてを失い、難民になりました”

スキポール空港に着いたとき、テレビがアフガニスタン崩壊のニュースを伝えていました。軍警察が亡命を希望するかと私たちに尋ねました。私の夫は言いました、「いいえ、私は外交官で姉を訪ねに来たのだ。」警察官は答えました、「あなたの国は崩壊しました、外交官とはどの国のことでしょう? 我々はあなたたちを救いたいのです。」

私たちがテル・アーペル(訳注:オランダ北部の村で難民受け入れセンターがある)に着いたのは深夜でした。息子は高熱を出しました。私たちは野外で一夜を過ごしました。薬も食べ物もなし。一夜で私たちはすべてを失い、難民になりました。その後の2年間はひたすら待つだけの長い旅。私たちの運命は他者に委ねられました。友好的な夫妻が家を1軒提供してくれました。

さあ新しい家です。私たちの双子は安全です。自ら進み出て社会に貢献することが私たちの責務です。

アフガニスタンにいる数人の女性とは今も連絡し合っています。ターリバーンに抵抗しているのは女性たちだけです。通りでデモし、ソーシャルメディアに発信しています。逮捕のリスクは甚大で、恣意的に交流され拷問されます。遠くからですが彼女たちを援助し、様々な場面でアフガニスタンについて書き、話しています。それはひとえにアフガニスタンの国民、とくに女性たちが忘れ去られないためです。

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