The Durand Line and the Fence: How are communities managing with cross-border lives?
著者:サバウーン・サミム
掲載:アフガニスタン・アナリスト・ネットワーク(AAN) 2024年4月19日更新
(WAJ: 本サイトでは、アフガン問題の最大要因はパシュトゥーン問題であると主張している。その最大要因のひとつが、デュアランドライン(またはデュランドライン)と呼ばれる、アフガニスタンとパキスタンの間にひかれた1本の境界線である。デュアランドラインは、19世紀、当時の大国ロシアとイギリスが争ったグレートゲームに翻弄されたアフガニスタンに押し付けられた境界線である。デュアランドラインについては、それがどのように結ばれたのか、その法的地位や両国の政治にどのような影響を与えているのかについては、これまで多くのことが書かれてきた。しかし、パキスタンが境界線をフェンスで囲うことによって、社会的、経済的、文化的に地域社会が受けたダメージについては、ほとんど情報がない、と本論の著者は強調する。アフガニスタン問題は突き詰めるとアフガニスタンの封建的部族的因習との戦い(パシュトゥーンワリなど)および民族部族の分断を抱えるパシュトゥーン問題である、というのが本サイトの結論のひとつである。その現実と解決の方向性はどこにあるのか。本論はパキスタン政府によるフェンスの構築がパシュトゥーン部族をより強固に分断し矛盾を深めている現実を明らかにしている。)
(AANリード)
アフガニスタンとパキスタンの事実上の国境となっているデュアランドラインは、これまでのいかなるカーブル政府からも公式に承認されたことはなく、家族の絆、宗教、伝統を共有するパシュトゥーン部族の居住地の中心を貫いている。そして、これまで一度たりともアフガニスタン側とパキスタン側に住む人々の生活に実質的な相違をもたらさなかった。しかし、パキスタンが2017年に決定し、現在ほぼ完成しているフェンスプロジェクトは、地域社会を物理的に分断してしまった。
アフガニスタン・アナリスト・ネットワーク(AAN/訳注:2009年に設立されたドイツに本部を置くNPOでアフガニスタンの統計分析を行っている)のゲスト執筆者サバウン・サミム(Sabawoon Samim)は、フェンスの建設によってデュアランドラインに住む人々の生活に何が起きたのかを探求した。
アフガニスタン・パキスタン国境沿いの険しいスピラ山脈にある、ホースト州のデレズダ渓谷の結婚式に集まる村人たち
写真: 2008年11月20日、David Furst/AFP=時事
本レポートのためのインタビューでは、パキスタンが建設したフェンスについて、「土地を貫通するのではなく、(私たちの)心の中を貫通するものだ」と表現する人が多かったという。
このフェンスは、1893年にアフガニスタン国王アミール・アブドゥル・ラーマン・ハーンとイギリスのインド外務大臣ヘンリー・モーティマー・デュアランド卿の間で結ばれた全長2640キロのデュアランド・ラインを踏襲している。この協定がどのように結ばれたのか、その法的地位や両国の政治にどのような影響を与えているのかについては、これまで多くのことが書かれてきた。しかし、パキスタンが境界線をフェンスで囲うことによって、社会的、経済的、文化的に地域社会が受けたダメージについては、ほとんど情報がない。本報告書は、国境沿いの地方に住むアフガニスタン人への16の詳細な聞き取り調査に基づき、それを改善しようとするものである。
簡単な歴史的背景を説明した後、地元のコミュニティがどのようなもので、どのような絆で結ばれているのかを掘り下げている。そうした現地の人々がかつて享受していた移動の自由を失ったことにどのように対処しているのか。フェンスを突き破ったり、潜り抜けたり、そうでなければ迂回するためにどのような手段を用いているのか。そしてそれに伴うリスクとコストを以下に紹介するレポートはつまびらかにしている。
アフガニスタンとパキスタンの国境をパトロールするパキスタン軍
写真 Aamir Qureshi/AFP 8月3日
(本文)
イントロダクション
[地図説明]1893年のアフガニスタンの地図に重ね合わせて、ESRI(環境システム研究所)の「世界の境界と地名」の表記に基づき現代の境界を赤線で重ね合わせたもの。 出典:アフガニスタン、バロチスタンほか図 (Hunt & Eaton、ニューヨーク、1893年)とRoger Helmsによる境界線(アフガニスタン・アナリスト・ネットワーク、2024年)
全長2640キロのデュアランドラインを設定する協定は、1893年にアフガニスタン国王アミール・アブドゥル・ラーマン・ハーン(Amir Abdul Rahman Khan)とイギリス領インド帝国外務大臣ヘンリー・モーティマー・デュアランド卿の間で調印された(協定の本文)。この協定がどのようにして結ばれたのか、その法的地位や両国の政治にどのような影響を与えているのかについては、これまで多くのことが書かれてきた。しかし、最近パキスタンが境界線をフェンスで囲うことによって、地元住民に社会的、経済的、文化的にどのような影響を与えたかについては、ほとんど情報がない。本報告書は、国境沿いの地方に住むアフガニスタン人への16件の詳細なインタビューに基づき、それを明らかにしようとするものである。 (原注1)
(原注1) インタビュー対象者は、ホースト、パクティヤー、ナンガルハール、クナル、カンダハール各州の出身者である。そのうち少数の者はカーブルに上京した後にインタビューを受けたが、その家族の半分は出身地方に留まり、彼ら自身も出身地の地域社会と連絡を取り合っている。彼らは、主にデュアランドラインが引かれている地区から選ばれた。年齢は全員が30歳以上である。残念ながら、筆者は女性にインタビューすることができなかった。また、移動が制限されているため、デュアランドラインのパキスタン側の人々にインタビューすることはできなかった。ただし、何人かのインタビュー対象者には、パキスタン側に住む家族や親戚がいた。さらに、筆者が過去に国境地帯を訪れ、現地の人々と無作為に話をした経験から、この報告書はさらに充実したものとなっている。
このレポートでは、①歴史的背景を概説した後、②地元の地域社会がどのようなもので、どのような絆で結ばれているのかを掘り下げていく。③また、デュアランドラインによる影響、特にパキスタンのフェンス建設に伴って最近課されるようになった制限と、それがどのように部族、村、家族、農場を切り裂いたかを検証する。④続いて、かつて享受していた移動の自由を失った現地の人々がどのように対処しているのかを探る。⑤最後に、両国間の現在の政治力学を簡単に解説する。
上の地図は1893年に描かれたものである。この地図は、植民地時代の地図製作の問題点をよく示している。つまりウェストファリア的に大雑把な国境と領土主権の概念からすれば随分と細かい地図だが、実際には正確さを欠いている。たとえば、カーブル宮廷との密接な関係がかつてはあったにしても、当時既に疎遠になって久しい地域をアフガニスタンの一部として含んでいる。 (原注2)
(原注2)例示すると、この1893年の地図はアフガニスタンの実効的な国境/勢力圏、特にチトラルとインダス渓谷上流との関係を誤って描いている。
①歴史的背景
アフガン人、特にパシュトゥーン部族にとって、デュアランドラインは依然として気がかりな問題である。 (原注3)多くの人々もこれが正当な国際国境線だと見なすことを拒否している。つまりアブドゥル・ラーマン・ハーンは強要されイギリスの圧力のもとで署名したと主張し、それぞれの勢力圏を決めておくだけの条約であって、2国間に公式な境界線を設けることにはならないと信じている。(原注4)さらにアフガン人は、1947年にイギリスがパキスタンから撤退した後の協定の有効性にも疑問を抱いている。彼らの間では、協定は100年間しか有効でないという考えが広まっているが、協定にそのような記述はない。
(原注3) デュアランドラインは、アフガニスタン南西部、パキスタン、イランに住むバルーチ族の地域社会も通過している。さらに、ヌーリスターン/チトラルの区間では、ヌーリスターン人やカラシュ人など、協定が結ばれた当時、文化的・社会的に密接なつながりをもっていたグループが分断されている。しかし、本レポートでは、この協定がパシュトゥーン人にどのような影響を与えたかだけに焦点を当てる。
(原注4)デュアランドラインが画定されるまでは、そしてある面ではその後も、アフガニスタン南東部の国境の拡張は、カーブルにとって領土や行政支配の拡大というよりもむしろ、この地域に居住するパシュトゥーン部族との政治経済的な関係(すなわち、商人から徴収される通行料、あるいはよりまれには部族から徴収される貢納金、部族が名目上の忠誠を示し戦略的要衝たる連絡路を軍事的に支配することと引き換えに得る補助金)であると理解されていた。(Christine Noelle, ‘State and Tribe in Nineteenth-Century Afghanistan’, pp163-190参照)
デュアランドラインの有効性に反対する、あるいは賛成する法的、政治的な解釈はさておき、日々の生活ということになると、この境界線は現在、それをまたぐ地域社会の生活に嘆かわしい影響を及ぼしている。パシュトゥーン部族の領土の中心を横切って引かれたこの境界線は、家族や部族のメンバーを恣意的に異なる国に配置している。アフガニスタンのパシュトゥーン族が支配する南部のヘルマンド、カンダハール、ザーブルから、パクティーカー、ホースト、パクティヤー、そしてナンガルハール、クナルに至るまで、この境界線の両側に住むのはほとんど同じ人々であり、自分たちの手で作ったわけでもなく、多くの人々が受け入れてもいない境界線によって隔てられている。 (原注5) さらに重要なことに、この境界線は、特にここ数年、彼らの日常生活に大きな問題をもたらしている。
(原注5)デュアランドラインは、アフガニスタンの南東部以外の3州、ヌーリスターン、バダフシャーン、ニームルーズを通過しているが、これらの州にはパシュトゥーン人が全くいない、またはほとんどいない。デュアランドラインの反対側には、カイバル・パクトゥンクワ(大多数がパシュトゥーン人)、バルーチスタン(大多数がバルーチだがパシュトゥーン人も)、ギルギット・バルーチスタン(少数のパシュトゥーン人)というパキスタンの3州がある。 2018年にカイバル・パクトゥンクワに統合されるまで、デュアランドラインのパキスタン側には連邦政府が直接管理する7つの半自治の連邦直轄部族地域(FATA)があった。これらは北から南に、バジャール、モマンド、カイバル、オラクザイ、クラム、北ワジリスタン、南ワジリスタンだった。
デュアランドラインはアフガニスタンとパキスタンの関係を左右する重要な要素であり、しばしば両国を敵対関係に向かわせてきた。最初の争いは1947年、新生パキスタンが独立国家として国連に加盟することになり、アフガニスタンが反対票を投じたことにさかのぼる。(原注6)しかし、パキスタンが誕生するはるか以前から、英領インド内のパシュトゥーン系政治家の間では、いつまで部族諸州に甘んじるかの議論が続いていた。それはデュアランドラインの向こう側、つまりアフガニスタンの領土を含め将来どう統治するかの問いかけであった。
(原注6)この確執のエピソードとその後の緊張した両国間の外交関係に関する偏りのない研究は比較的少ない。詳細については、ルイス・デュプリー著、「アフガニスタン」、485 ~ 494 ページを参照のこと。
デュアランドラインのインド側にいる多くの者も、アフガニスタン政府同様、この問題を解決するためにイギリスに接触した。ドクター・ハーン兄弟やハーン・アブドゥル・ガーファル・ハーンなど、英領インドのパシュトゥーン人政治指導者たちは、アフガン側のパシュトゥーン人のために独立したパシュトゥーン国家、パシュトゥニスタンを興す構想を練った。しかし、こうした努力は実を結ばず、部族地域は、北西辺境州(NWFP)やバルチスタンのパシュトゥーン人が居住する他の地域とともに、分割後、最終的にパキスタンの一部となった。(原注7)
(原注7)英領インドに生まれたアブドゥル・ガーファル・ハーン率いるクダイ・ヒドマトガル運動(訳注:パシュトゥーン語で赤シャツ党運動)は、1947年7月の北西辺境州住民投票において、独立したパシュトゥニスタンの形成やアフガニスタンへの加盟といった選択肢を含めるよう提唱した。しかし、これは許されなかった。彼らは結局投票をボイコットし、投票した人々の大多数はインドでなくパキスタンを選んだ。
一方アフガニスタン政府は独自の異議を唱えた。1949年、大議会ロヤ・ジルガはデュアランドラインに関するすべての合意を無効とし、破棄した。その後、アフガニスタンの首相(1953~63年)、そしてクーデター後の大統領(1973~78年)であったダウド・ハーン(Daud Khan)によってアフガン側でもパシュトゥニスタンの構想が持ち上がった。ダウトは、国境線の引き直しやパシュトゥーン人のための独立国家を公に認めさせようと、さまざまな取り組みを行った。彼は激しい宣伝戦を繰り広げただけでなく、アフガニスタン軍にパキスタンの部族諸州への進駐を命じ、パキスタンの準軍事組織と衝突させた。ダウトはパキスタンと戦うためにパシュトゥーン部族を励まし武装させ、アフガニスタンのカレンダーにパシュトゥニスタンの祝日を追加し(詳細は以前のAANレポート)、カーブルとジャララバードにパシュトゥニスタンにちなんだ通りや広場の名前をつけた。
アフガニスタンとパキスタンの国境にあるスピンボルダック交差点で、フェンスに囲まれた通路を歩くアフガニスタン人たち
写真: AFP通信、2022年11月21日
パキスタンは領土的脅威を覚え、パシュトゥニスタン騒動への報復として、アフガニスタンの輸出入を阻害するために港と国境を閉鎖した。内陸国であるアフガニスタンは、国外への移動と貿易をパキスタンの港に頼っていたため、大きな経済的影響を受けた。パキスタンの報復によって、アフガニスタンにとって最も有効な商業ルートのひとつが閉ざされ、深刻な経済的後退につながった。その後、パキスタンはダウド大統領政権に不満を持つアフガニスタン人を支援し、彼らに武器や隠れ家を提供した。最終的に、ダウドがデュアランドライン問題を完全に取り下げ、パキスタンは国境通過を再開したが、両国関係は依然として友好的ではなかった(Dupree, pp 538-54参照)。
1978年にダウドが暗殺され、暴力的な政権交代が行われた後、アフガニスタンは長期的な混乱に陥り、パキスタンはアフガニスタンに対して優位を保つことができた。パキスタンは、アフガニスタンにとって貿易と国外通行のための最も有力な選択肢であっただけでなく、アフガニスタンのスンニ派ムスリムのムジャヒディーン諸政党に直接影響を与えることができた。ムジャヒディーン諸政党は、ダウド政権の後継者であるアフガニスタン人民民主党(PDPA)とそのソ連支持者の共産主義政権と戦い、党本部をパキスタンに置いていた。パシュトゥニスタンを積極的に推進する戦略を真剣に追求しようとするアフガニスタン政府は、ダウドで最後だった。同時に、カーブルのどの政府も、デュアランドラインが有効で、容認でき、妥当であると示唆したことはない。しかしながら、アフガニスタンの人々が終わりなき試練だと考えているこの問題に対して、国際舞台であれ、二国間であれ、真の解決策を提案できた政権はない。
パキスタン政府はそれと異なり、アフガニスタン政府にデュアランドラインを両国間の合法的な国境として公式に承認させようとする努力を一貫して続けてきた。例えば、1992年にムジャヒディーンがPDPA政権を最終的に打ち破ったとき、パキスタンの主要な要求は二国間戦略協定の締結であり、そこではデュアランドラインを正式な国境として承認することが重要な課題として提起された。当時のアフガニスタン暫定大統領セブガトゥッラー・ムジャデディ(Sebghatullah Mujaddedi)は、この要求を断った(デュアランドライン協定の正式締結に向けたパキスタンの試みについては、AANの報告書)。
パキスタンは1996年、強力に支援していたターリバーンがカーブルで政権を奪取した後、再びデュアランドラインを正当な国境として認めるよう要求した。しかしターリバーンも過去の政権同様デュアランドラインをめぐる交渉を拒否した。パキスタンの鍵となる狙いは、デュアランドラインを正式な国境として承認してもらうことだとハミド・カルザイ(Hamed Karzai)大統領が述べたように、デュアランドラインに対する拒否反応は共和国時代にも現れた。
今日に至るまで、すべてのアフガニスタン政府は、デュアランドラインを公式の国境線として語ることを拒否している。しかし実際には、この境界線に沿って両隣国は正式な国境にふさわしい税関やその他の施設をすべて開設している。
とはいえ近年、パキスタンがフェンスを建てデュアランドラインの物理的インフラを強化したことで、現状は変化した。少なくともナンガルハールとペシャワールを結ぶトルハム交差点では、アフガニスタン人がパキスタンに入るにはビザが、パキスタン人がパキスタンから出るにはパスポートが必要だ。
②地域社会の特質:デュアランドライン沿いに住んでいる人びと
この報告書の主題は、共通の文化、民族、言語、伝統を持つパシュトゥーン部族を対象とし、デュアランドラインが彼らをいかに2つに分断したかである。例えば、シンワリ、モフマンド、サフィの3大部族は、アフガニスタン東部のクナル州とナンガルハール州、パキスタンのバジャウル、モフマンド、カイバル地区を結ぶ線をまたいでいる。同様に、ザドラン、グルバズ、マンガル、トゥーリーの部族は、アフガニスタンのホースト州とパクティヤー州、パキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州の北ワジリスタン地区とクラム地区の様々な地区に住んでいる。(原注8) ワジール部族はパクティーカー州バルマル地区と国境を越えたパキスタンの南ワジリスタンと北ワジリスタンに、ムクバル部族とドザジ部族はパクティヤー州の国境ダンド・オー・パタン地区とパキスタンのクルラム地区に住んでいる。
(原注8)旧FATA7県はカイバル・パクトゥンクワ州の県となり、正式にパキスタンの州に統合された。しかし、地元でもアフガニスタンでも、いまだに旧名称で呼ばれている。この事情は原注4にあるChristine Noelle, ‘State and Tribe in Nineteenth-Century Afghanistan’に詳しい。
あるインタビューへの答えのように、部外者は「2つの異なる国に住む人々の区別がつかない」のだ。別の人は、「デュアランドラインのアフガン側の村に行き、向こう(パキスタン)側と比較すると、両者の違いはゼロに見えるだろう」と指摘した。別のインタビュー回答者はこう断言した。 「結婚式、儀式、習慣において、両側は同じ伝統を持っている」と。
パキスタンのバルチスタン州にあるチャマン市では、チャマンの住民と、隣接するスピンボルダックやカンダハール、さらにアフガニスタン南部一帯のパシュトゥーン人を区別することは、まったく不可能ではないにせよ、困難だとインタビューにある。特にこの2つの国境都市の住民は、同じアチャクザイ族の出身者が多い。チャマンの住民はスピンボルダックとカンダハールに土地、家、家族を持っており、カンダハールの住民はチャマンとクエッタに土地、会社、親戚を持っている。 アフガニスタンとパキスタンの両方の公的なIDカードを持っている人も大勢いる。「スピンボルダックに渡るときはアフガニスタンのタズキラ(IDカード)を使い、パキスタンに戻るときはシナクタ(パキスタンのIDカード)を使う」と、あるインタビューにあった。
ナンガルハール州のトルハム国境付近でパキスタン入国を待つアフガニスタン産農産物を積んだトレーラー群
写真: 2024年1月15日、Shafiullah Kakar/AFP
デュアランドラインは多くの場所でまだ十分に画定されておらず、最近まで山間部では標識もなかったため、現地の人々が境界線の正確な位置を確認したくても難しかった。森林地帯では、部族が自ら線引きを行い、その線のどちら側にいるかで人々に森林を割り当ててきたという。「森がアフガニスタン側にあれば、こちら側の人々が利用する権利があり、パキスタン側にあれば、あちら側の人々が利用することになる」と、あるインタビューへの回答。
住民の見分けがつかないだけではない。周辺地域や他の州から来た住民も、両国間の移動は問題なく出来た。公的な手続きはほとんどいらなかった。ある回答者によれば、多くの村人にとって、デュアランドラインの向こう側に行くのは、生まれ故郷であるパクティヤーの州都ガルデスに行くのと同じくらい簡単なことだったという。
インタビュー回答者らによると、パシュトゥーン人、特に同じ部族の人々の間の絆は非常に強いため、デュアランドラインのどちらかの側の人間がバーディ(抗争)に巻き込まれたり、政府の指名手配リストに載ったりすると、反対側に避難できるようにする。それはよくあることだったという。「彼らは部族によって避難所を与えられた。そして、部族全員が彼らの後ろに控えていたため、誰も彼らを傷つけようとはしなかった」とある回答者は語った。
どちらの国も、デュアランドラインを越えて反対側の国境地域から人々が移動するのを妨害しようとしたが、成果は得られなかった。アフガニスタンとパキスタン間の政治的混乱の際、パキスタンでは部族間の絆が国家権力に抵抗できるほど強かったため、インタビュー回答者の言葉を借りれば、人々のそのような往来を「あえて」妨害することはできなかったという。
その上、ソ連がアフガニスタンを侵略しアフガン人ムジャヒディーンが赤軍と戦いはじめた時、ムジャヒディーンを含む数百万のアフガン人がパキスタンに避難した。ソ連が後ろ盾した共産政府は国民の移動を厳しく制限し、デュアランドラインを経由してムジャヒディーンが国内に潜入するのを防ごうとした。しかし険しい地形と地域社会の固い繋がりがムジャヒディーンを助け、ラインを封鎖することはまず不可能だった。
ソビエトに対するジハード(聖戦)の間、ムスリムの連帯感が高まったことも、移動制限を反古にする一因となった。アフガニスタン人、特にデュアランドライン周辺地域の出身者は、現在のカイバル・パクトゥンクワ州だけでなく、パンジャブ州など、さらに遠くのパキスタンの他の州を訪れることが普通になっていた。たとえば、あるインタビュー回答者の父親は、定期的にパンジャブ州の州都ラホールを訪れ、そこから自動車部品などの物資を輸入していた。
その息子によれば、彼はダウド・ハーンの統治時代に手に入れたアフガニスタンのタズキラだけで旅をしたという。別の回答者も同じような家族の思い出を持っていた。「私たちの仲間はパキスタンに仕事や治療に出かけていました。彼らはパシュトゥーン人(パキスタン側)の家で何日ももてなされました。叔父はよく、自分たちは『パスポート』や『税関』という言葉さえ知らなかったと言います。また、(パキスタンの)警察が(正式な渡航)書類を持っていないことを理由に、人々に賄賂をねだったり、要求したりすることもありませんでした」と彼は言う。
彼らの回想によれば、1980年代、国境地帯からのアフガン難民はパキスタンのパシュトゥーン人に温かく迎えられた。同じ部族に属する彼らは、「自分たちの血族として見られ、部外者のように扱われることはなかった」と、ある回答者は付け加えた。
別の男性(部族はザドラン)は、ソビエトとの戦争中に彼らがパキスタン側のクルラム県のパラチナルに移住したとき、同じザドラン系部族である地元の人々が耕作地を無償で提供し、彼らを村に受け入れてくれたという。同時に、過去100年にわたり、カーブルの中央政府への反発や危機の際には、デュアランドラインの反対側から志願して同胞のパシュトゥーン人たちとともに戦った人たちもいる。1929年には、当時カーブルで王位を占めていたハビブラ・カラカニ(Habibullah Kalakani)と戦い、最近ではソ連軍、北部同盟(1996年から2001年にかけて第一次イスラム首長国と戦うために集まった、主にタジク人、ハザラ人、ウズベク人の派閥)、そして後には米軍や共和国の軍隊や警察と戦った。
③デュアランドラインによる影響:境界設定とフェンス設置
1893年の協定調印後、1895年から1898年にかけて、アフガニスタンとイギリスの当局者はデュアランドラインの線引きを行った。しかし、実際には人々の生活に支障はなく、それまで通りであった。パキスタンが建国されても(訳注:1947年の独立)、7つの連邦直轄部族地域の住民にはほとんど変化はなかった。彼らは、市民権を縮小する代償として、部族に半自治的地位を保証した英領インドの下で受けた例外的な行政的・法的地位を維持していた。パキスタンはせいぜい、それまで手つかずのデュアランドライン上に公式の検問所を設けた程度であった。つまりナンガルハールのトルハム、カンダハールのスピンボルダック、ホーストのグラム・ハーン、パクティーカーのアンゴル・アダ、ヘルマンドのバラムチャなど、部族が利用してきた歴史的な有名ルートがそのまま主要な通過点となった。パキスタンは深刻な問題を引き起こすことなく、地元の地域社会が以前と同じように暮らせるようにした。公的な枠組みは変わっても、人々の動きは通常通りであった。現在60代の回答者が父親の思い出をつぎのように語った。
「私たちがパキスタンに行くときは、ほとんどグラム・ハーンを通った。当初、父はパキスタンへの道やゲート(つまり国境)に何もないと言っていた。みんな何の問題もなくパキスタンに行っていた。実際、どっちがどっちで、いつ『パキスタン』に着いたのか知っている人はほとんどいなかった。しかし、時が経つにつれて状況は変わった。今では、国境を越えることがいかに難しいかがわかる。」
後にソ連とムジャヒディーンの軍事衝突がもたらした緊張にもかかわらず、国境管理の流れと設備はほとんど変わらなかった。状況が変わり始めたのは、米国がアフガニスタン新政府(アフガニスタン・イスラム共和国)の樹立を支持した2000年代初頭、特にターリバーンの反乱が頻発してからだ。アフガニスタンの新政権は、反政府勢力であるターリバーンに支援と庇護を提供したパキスタンに非難の矛先を向けた。そのためパキスタンとの関係はすぐに敵対関係に転じた。共和国はますますパキスタンへの反感を強め、イスラマバードの宿敵インドに傾いた。一方、イスラマバードは「戦略的縦深性」、つまりインドと対峙するためには背後に友好国が必要だという考えに主眼を置きターリバーンを利用した。
このことは、パキスタンの部族地域における治安の悪化と武装勢力の増大と相まって、国境管理を強化することを促した。しかし、それはデュアランドラインをまたぐパシュトゥーン部族の生活を混乱させることなしには達成できなかった。
イスラマバードの最初の動きは、正式な通過地点に制限を設けるというものだった。時折、貿易商だけでなく、デュアランドライン周辺の地域社会に住む個人に対してもゲートを閉じ始め、IDカードやパスポートといった書類を要求したり、単に通過を許可しないことで彼らの移動を制限した。こうした制限は後に制度化された。2016年5月下旬、イスラマバードはナンガルハールのトルハムを通ってパキスタンに入国する際のパスポートとビザの要件を公式に発表した(アルジャジーラの報道)。
2010年代初頭、パキスタンは深さ2メートル、幅2メートルの溝を掘り始めた。塹壕は主に南部のカンダハール州とヘルマンド州の端に掘られた。しかし、国境を越えた移動を阻止するという明らかな目的を完全に果たすことはできなかった。
パキスタンの最も本気の動きは2017年に実施されたもので、デュアランドライン全体をフェンスで囲うことを決定した(ドイツ国際放送DWのレポート)。パキスタンの動機の鍵は、パキスタンの過激派、主にパキスタンのターリバーン(Tehrik-e Taleban Pakistan、TTP)がアフガニスタンから侵入するのを防ぐことだった。さらに、アフガニスタン人、難民、仕事を求める人々が容易にパキスタンに移住するのを妨害したかったのかもしれない。しかし、私たちの取材対象者の大半を含む多くの人々は、パキスタンの意図に疑念を抱いていた。ある取材対象者が言った、フェンスは要するにデュアランドラインを正当化し、パシュトゥーン人同士を引き離す試みであり、「彼らが団結して将来的にラインの撤廃を要求しないようにするため」なのだと。
ナンガルハール州のシャムシャド山脈を通ってアフガニスタンとパキスタンの国境を越えるアフガニスタンの女性たち
写真 ヌールッラー・シルザダ/AFP通信、2016年5月12日
この決定はアフガニスタンで国民の大きな反発に直面した。アフガニスタン共和国は、このフェンスを最も強い声明で非難した。アシュラフ・ガニー( Ashraf Ghani)大統領は、パクティヤーで開かれた市民集会でこう演説した。「有刺鉄線で我々を分断しようとする人々は、もう一度考えるべきだ。飛行機や爆弾も私たちを分断できなかった。フェンスだったら少し切れ目を入れるだけでいいのだ。フェンスで歴史を消せても愛情や血を消し去ることはできない。」(BBCのパシュトー語リポート)
アフガン人はいたるところで街頭に出て反対の声を上げた。彼らはフェンスを、家族や部族を分断しようとする違法な試みとみなした。パクティヤーの住民はアフガニスタン政府に、フェンスを撤去し、これ以上のフェンス建設を阻止するよう訴えた。パクティーカーでは、抗議者たちは、同州の若者3000人がフェンスを撤去する用意があると発表した(Bakhtar News参照)。アフガニスタン軍も現地で散発的にパキスタン軍兵士と衝突し、可能であればフェンスの建設を阻止し、不可能であれば完成後に破壊しようとした(国境での衝突に関するAANのレポート参照)。部族組織が強力な地域では、地元住民がパキスタン軍によるフェンス設置を阻止することに成功した。少なくともホーストのドザジ・マイダン地区ではそうだった。筆者の持つ情報によれば、2018年、ヘルマンドでは、ターリバーンもフェンスを数キロにわたって破壊し、パキスタンの治安部隊と衝突した。しかし、この問題は後に解決された。
2023年4月、パキスタン軍の広報機関である軍間広報部のアフメド・シャリフ部長は、パキスタンが全長2600キロのデュランドライン沿いのフェンスプロジェクトの98パーセントを完了したと発表した(TOLOnewsの報道はこちら)。フェンスは2つの柵で構成され、それぞれの高さは2メートルで、その間に1メートルの空間がある。さらにその上を半メートルの有刺鉄線が覆っている。フェンスに加え、パキスタンはフェンス沿いに数百の検問所を設置している。人口密集地では、検問所は100メートルから150メートルおきに設置されているが、起伏の激しい山間部では設置頻度は低い。フェンスは、経済や貿易から文化、伝統、家族関係に至るまで、地元部族の生活のあらゆる分野に深刻な影響を与えている。
フェンスがいかに地域、家族、農場を分断したか
「どんな法律の下でも、どんな宗教の下でも、家族を分断し、(分断された)人々の間に障壁を設けるのは不当だ」と、パクティヤーのダンド・オー・パタン地区のある回答者は言った。他の多くの人々は、フェンスを「土地ではなく、(私たちの)心を分断するもの」と表現した。彼らはすぐに「野蛮」や「非人道的」といった言葉でフェンスを表現した。一方、ホーストのグルバズ地区にある地域社会に暮らす長老はこう言った。「フェンスが設置され始めたとき、私たちが抱いた感情は家族を失ったときと同じだった。不愉快だった。残酷な異教徒でさえ、兄弟と兄弟を引き離すような行為はしなかった。私たちはそれまで想像したこともなかったし、このようなことをした者たちや、それを可能にした者たちを決して許さない。」
フェンスによって村は分断され、家族さえも分断されている。例えば、筆者が話を聞いたある農民の家族の半分はパキスタン側に住み、彼と彼の2人の兄弟はアフガニスタン側に残っている。2022年3月にカンダハールのスピンボルダックを訪れた際、筆者は、ある農家がアフガニスタン側に井戸を持っている一方で、彼の土地のほとんどはパキスタン側にあることも確認した。ホーストとパクティヤーでも、少なくとも2件の同様の事例を知っていた。パクティーカー出身の50代のある回答者は、こう説明した。
「(バルマル郡にある国境の村)ハルシンでは、人々は幸せに暮らし、村全体がひとつの氏族で構成されていた。そのため、パキスタン人であろうとアフガニスタン人であろうと、誰も気にしなかった。しかし、フェンスが村に到達すると、パキスタンの治安部隊は村の真ん中にある場所を指さして言った。『 ここまではパキスタンのものだから、そこにフェンスを設置する。』人々は、そんなことはするなと何度も言った。パキスタン軍は納得しなかった。貧しい村人たちに抵抗する力はなく、フェンスは設置され、村は真っ二つになった。アフガニスタン側とパキスタン側に親戚がいる家族さえある。いまやパキスタン側は、村の外にポスト(治安検問所)まで設置している。人々は親戚に対し遠くから手を振ることしかできず、お互いに会いたいときはパキスタン人に賄賂を渡すか、公式のゲートを通るために長い長い旅をしなければならない。
このような村分割の事例は決して少なくない。ほとんどのインタビュー回答者が、そのような出来事を直接体験しているか、似たような話を知っている。たとえばクナル州では、ある回答者は、彼の村の仲間がパキスタンのバジャウル庁のカガ地域出身の女性と結婚したと語った。フェンスが設置される前は、二人は自由に両国間を行き来することができ、彼の妻は頻繁にバジャウルの実家を訪れていた。しかし、フェンスが設置された後、彼女は家族を訪ねることができなくなり、今では2~3年に1度、それも長距離を移動し、公式の横断地点を通過した後にしか会えなくなった。村や家族が分断された同じようなケースは、このエニキャスTVのリポートや、VOAパシュトーでクナル、ヌーリスターン、スピンボルダックの状況が報告されている。ナンガハールの40代の学校教師は、それがどのように彼の地域社会を苦しめているかを説明した:
「フェンスができる前は、バジャウル、モフマンド、ペシャワールに自由に行くことができた。冠婚葬祭やその他の儀式にも行った。向こうの人たちも私たちの儀式に参加しに来ていた。何か問題が起きると、彼らをジルガ(部族集会)に招待し、彼らのジルガに参加し、そこでの部族の重要な決定に私たちも参加した。さらに、私たちの村では、村人の多くがバジャウルの女性と結婚し、多くの人々が自分の娘や姉妹をバジャウルの男性に嫁がせた……。私たちは、以前のようにお互いを訪問することができなくなった。」
下の2つの衛星画像は、デュランドライン沿いに位置し、パキスタンのフェンスによって隔てられた2つの集落の例である。
パクティーカーと南ワジリスタンの国境にあるデュアランドラインとパキスタンのフェンス
出典:Roger Helms(アフガニスタン・アナリスト・ネットワーク、2024年)
ザブールとバルチスタンの国境にあるデュアランドラインとパキスタンのフェンス
出典 :Roger Helms(アフガニスタン・アナリスト・ネットワーク、2024年)
フェンスがもたらす弊害はこんな所に留まらない。境界線が十分に画定されていないことや、パキスタンがアフガニスタンの領土に侵入しようとする傾向があるという主張が、地元住民と政府双方にとって状況をさらに複雑にしている。私たちのインタビュー回答者やメディアは、パキスタンがいくつかの地域でアフガニスタンの領土を侵犯し、アフガニスタンに属する土地にフェンスを設置したと主張している。TOLOnewsの2つの記事およびPajhwok Newsの記事を参照あれ。パキスタンがこのプロジェクトを開始した当時、デュアランドライン沿いの多くの地域では、当時のアフガニスタン政府は反政府勢力ターリバーンとの不安定な紛争状態にあり、両者とも確固たる支配権を握っていなかった。カーブルが自国の領土を掌握できない中、パキスタンは、ある回答者が言うように、「アフガニスタンの土地を奪う 」ことができたという疑惑がある。ある回答者によれば、フェンスが設置される前、パキスタンの国境検問所は、地元住民がシフリ・ノクタ(ゼロ・ポイント)と呼ぶ場所にあった。つまり、ホースト州のタニ地区にあるドザンザ・キル村がアフガニスタン領土の端っこなのだが、その村の中心部からさらに車で15分ほどかかるパキスタン領内にあったという。そこからパキスタンが侵入してきて、アフガニスタンの土地にフェンスを築いた。今ではドザンザ・キル村の半分が境界線の向こう側になっていると地元住民は言う。
カンダハールのスピンボルダックに住む別の回答者は、パキスタンが同地区のグラム・マンダ地区でアフガニスタン領に5キロも侵入しているとAANに語った。もともと歴史的にアフガニスタン領土内に区画されていた村の墓地は、今ではフェンスの向こうパキスタン側にある。
アフガニスタンイスラム首長国(IEA)の陸軍参謀総長であるカリ・ファシフディン・フェトラット(Qari Fasihuddin Fetrat)は、TOLOnewsとの最近のインタビューで、ドザンザ・キル村のような地域について、我々の質問に答えている。IEAとパキスタンの国境を越えた衝突を引き起こしたのは、パキスタンが「(境界線が画定された)場所ではなく、(アフガニスタン側に)フェンスを設置しようとしたからだ」と彼は付け加えた。筆者はこの件について、国境関連問題に関与する他のターリバーン幹部たちにも話を聞いた。ある者は(詳細は語らなかったが)、共和国時代、「パキスタンだけでなく、他の多くの隣国がアフガニスタンの領土を何キロも掠め取った」と主張した。さらに別の者はこう言った。
「前政権は何年もの間、デュアランドラインを含む国境を監視する勇気がなかった。実際、気にも留めていなかった。担当省庁は何もしていなかった。そのため、多くの隣国がこの機会を利用して、アフガニスタン領土内に向け国境線を移動させた。私たちが国境をGPSで確認し、国境線が画定されたときから私たちの省にあるオリジナルの地図をチェックしたとき、パキスタンが何十ものアフガニスタンの村を占領していることがわかった。」
また、ターリバーン関係者と同じような内容をインタビューで答えた者もいた。当時は共和国がパキスタンに従順すぎたために、フェンスの設置を阻止できたはずの地域でパキスタンにそれを許してしまったと非難した。しかし、侵入側は暴力に訴えてきたので、阻止は難しかったかもしれない。
経済へのダメージ
家族の絆が損なわれただけでなく、デュアランドラインにおける制限強化は貿易や地域経済にも大きな打撃を与えた。ライン上やその近くにある多くの町では、地元の人々はどこに住んでいるかに関係なく貿易を行い、ラインをまたいで商売をしていた。また、アフガン人は簡単に国境を越えてパキスタンの都市に行き、治療を受けることができた。
国境の町チャマンとスピンボルダックでは、双方の地元民が常に大きなビジネスを営んでおり、商人や労働者が簡単にラインを越えていた。スピンボルダックとカンダハール市では、チャマンとクエッタの住民が大規模な市場、自動車ショールーム、その他のビジネスを経営している。「チャマンの人は朝ここに来て商売をし、夕方には(チャマンに)帰る」とは、ある回答者の言である。
他の地域では、アフガニスタンの地元民がパキスタンで商品や作物を売ったり、その逆もあった。インタビューによると、パキスタンのクルラム県の県庁所在地であるパラチナー出身の人々は、アフガニスタンのホースト、パクティヤー、パクティーカーの地方バザールや地区バザールに店を持っていたという。パキスタン側の商人の多くは、アフガニスタンのバザールから商品を輸入していた。バザールへのアクセスは容易で、特定の商品の価格はパキスタンの都市に行くよりも安かったからだ。
2022年1月、VOA Deewa Newsの取材に応じたトルハム労働協会の前代表ファルマン・シンワリは、次のように語った。 「私たちはゴウラ(地元のお菓子)、ダール(レンズ豆)、ショダ(牛乳)など、(アフガニスタン側で)安く手に入るものを持ってきて、ペシャワールのバザールで売っています。しかし、フェンスが設置されて以来、私たちは複数の問題に直面しています。トークン(ビザの代わりとなる一時的な紙)もビザももらえません」。
カイバル県ランディ・コタルの住民はこう言った。「フェンスが影響を及ぼすのはこの町のバザールにいる何千もの人々です。アフガニスタンから石油や日用品を買いに来る人たちがいました。その上フェンスは私たちのバザールだけでなく、(デュアランドライン沿いの)周辺地域全体にも影響を及ぼしています。」(出典はこちら)
合法的な貿易が停止するだけではない。デュアランドライン上のさまざまな交差点では、アフガニスタンかパキスタンのどちらかの国が法律で禁止している物資が運ばれていた。また1980年代のソビエトとの戦争や、その後の対米ターリバーンの反乱期には、密輸業者が軍用車両や銅、武器、小麦や羊などの物資や家畜を輸送していた。さらに別の役割もあった。商人の中には、商品に対する税金を避けるために、公式の横断地点を経由せず、非公式な方法でラインを横断する者もいた。
アフガニスタン・パキスタン国境沿いの険しいスピラ山脈にある、コースト州のデレズダ渓谷の結婚式に集まる村人たち
写真 2008年11月20日、David Furst/AFP
特に東部と南東部では、フェンスやその他の移動制限によって、地元の人々が国境を越えることが難しくなっており、こうしたビジネスの多くが大きな打撃を受けている。パキスタンは最近、カンダハール州のチャマンーボルダック間のゲートとパクティカ州のアンゴール・アダでビザ取得を義務付けると発表した。両地では市民の強い反発を招き、5カ月を越える座り込みが今も続いている。そして2023年10月以降、国境を完全に封鎖して貿易や通行を人々の目の前で妨げている(TOLOnewsとSpogmai Radio)。
アフガニスタン共和国と地元民には、もっと心配なことがある。パキスタンが侵入しているだけでなく、あるインタビュー回答者によると「住民を奪おうとしている」のだ。国境に接する村ばかりでなく、周辺の地区にまでおびただしく侵入したパキスタンは、意図的にアフガニスタン人にパキスタンの身分証明書を与えていると言うのだ。これは特に、ザブールのシャマルジやカンダハールのスピンボルダックといった国境沿いの地区で顕著だったという。パキスタンはまた、国境によく繋がるネットワークを構築し、自国のSIMカードをアフガン住民に配布した。私たちのインタビューに答えてくれた人たちは、このような手口は、アフガニスタン領土内深くにデュアランドラインを移動させ、住民を懐柔するパキスタンのより広範な策略の一部であると解釈している。
④現地民の対処法:フェンスを迂回する(あるいはくぐり抜ける)住民たちの工夫
以上のように、フェンスは実際には家族や村を分断している。しかし、地域社会を取り巻く絆は依然として強く、2メートルのフェンスによって完全に断絶されたわけではない。地元の人々は人間関係を維持し、常に家族を訪ね、冠婚葬祭やその他の儀式に参加し、お互いのことに口を出す方法を見つけ出している。とはいえ、これらはすべて、多大なコストと、多くの場合、多少の危険を伴うものである。
ほとんどの場合、地域社会の関係維持や人々の移動には2つの方法がある。ひとつは、正式なルートでラインの反対側へ行くことで、そのためには公式の横断地点まで行く必要がある。そこでは、パキスタンはデュアランドライン周辺地域の出身者がIDカードを使ってビザなしで通過することを許可している。ホースト州のグラム・ハーンのようないくつかの通過点では、国境線に接する地区の住民はビザの代わりに一時的な紙(トークン)を受け取る。トークンは、特定の日数の滞在を許可する。一方、国境線のパキスタン側の人々は、身分証明書を見せるだけで、アフガニスタンに快適に入国できる。
ナンガルハール州の主要国境トルハムでは、現在、ビザを持つアフガン人だけがパキスタンへの越境を許されている。スピンボルダックでは、以前はカンダハール州の住民はIDカードを提示すればゲートを通過できた。しかし、イスラマバードは最近、チャマン-スピンボルダック交差点でもすべての人にビザを要求すると発表した。
ところが、地元民ならばIDカードか紙のトークンを持参するだけで入国を許可するという方針すら一貫しておらず、両国間の一般的な政治的雰囲気に左右される。両国関係が険悪になると、パキスタンは貿易はおろか、ビザなしで通過できる地元民たちにも門戸を閉ざす。たとえば、ホーストのグラム・ハーンは、2022年に1カ月以上、2023年初めにも全面的に閉鎖された。パクティカのアンゴル・アダも時々閉鎖されている。
クナール州アサダバードでの国境警備隊との衝突に伴うデモで、パキスタン国旗を燃やすアフガニスタンのデモ隊
写真: AFP通信、2013年5月6日
また、人々は非公式の横断路も利用している。インタビューによると、パキスタンの検問所がそれほど近くにないいくつかの地域では、例えば、パキスタン兵の許可を得て、フェンスを簡単に見つからないように切断している。「フェンスの下を切り取り、その下に穴を掘って、人が一人通れるようにします。一旦見張りが通り過ぎると、フェンスを結び直して、破れたようには見えないようにするんです」と、あるインタビュー回答者が語っている。パキスタンの治安部隊が彼らの動きを察知して発砲したこともある: 「フェンスが切られていることに気づくと、彼らはすぐにフェンスを直し、その地域の監視を強化します。」
インタビューに答えてくれた人たちはこうも指摘した。デュアランドライン沿いの多くの場所で働くパキスタンの治安部隊はかつてはパシュトゥーン人で構成されており、地元の人々に同情的で、しばしばフェンス脇の小さな戸口からラインを越えることを許可していたと。しかし、現在、彼らのほとんどは、パキスタンの非パシュトゥーン地方の出身者が多く、即座に同情的とは言い難い辺境部隊に取って代わられているとの回答もいくつかあった。一方、パキスタンの都市から遠く離れ、兵站の関係で兵士への補給が困難なライン通過地域の一部では、パキスタン軍は地元の人々に日用品や食料を頼り、その見返りにフェンスを越えることを許可している。
しかし、地元の人々が事実上の国境を越える最も一般的で安全な方法は、パキスタン兵に賄賂を渡すことだ。国境線沿いのフェンスには小さな戸口があり、警備用の小屋に隣接していることが多い。地元の人々が警備員に賄賂を払えば、警備員はその見返りにドアを開け、越境を許可する。「国境にいる(警備の)パキスタン兵はみんな賄賂を受け取っている。いったん金を払えば、たとえ爆発物を持っていても、出入りを許可してくれる。」パキスタンに入れば、アフガニスタン人はほとんど質問されず、地元住民と見分けがつかない、とある回答者は語った。
こうした苦難に耐えながら、国境地帯の住民たちは、ある程度までは国境を越えた移動を維持してきた。しかし、フェンスが彼らの生活にもたらした不都合は依然として大きく、家族、部族、貿易に深く影響している。かつては普通の日常的な活動であったものが、頭痛の種となり、賄賂や旅費、時間の面でコストがかかり、またそれなりのリスクも伴うようになった。
両国政府がこの問題を解決できない、あるいは解決しようとしないため、両国のパシュトゥーン人たちは、フェンスとそれがもたらす制限に対する批判の声を上げてきた。アフガニスタンの活動家たちは、このデュアランドライン問題の解決を繰り返し求めてきた。2022年3月にバヌーで開催されたパシュトゥーンの部族集会(ジルガ)では、ラインのパキスタン側から5000人のパシュトゥーン人が集まり、「デュアランドラインのフェンスを強く非難」した。彼らは「すべての古くからの交易路を完全に開放し、双方の人々の自由な移動を(尊重する)」ことを要求した(DWの報道)。
最近では、2023年10月、イスラマバードがスピンボルダック ‐ チャマンを通ってパキスタンに入国するすべてのアフガン人にパスポートとビザを要求すると発表したとき、バルチスタン側では数千人の人々が座り込みを始め、その決定を撤回するよう政府に要求した。この抗議は政府が要求を満たさぬ限り続く。
しかし、こうした抗議や陳情は、いずれも具体的な結果を生んでいない。デュアランドライン論争は、より広範で長期化する紛争の一側面である。国家の部族に対する政策、そして具体的な要求を決定するためのパシュトゥーン社会のさまざまな層における共通の立場の欠如、そして国家に十分な圧力をかけて政策を変更させる方法の欠如である。
多くの人にとって、フェンスは論理的に破綻している。その目的が達成されていないからだ。つまり過去数年間で、パキスタンへの、そしてパキスタンからの過激派の侵入を阻止できないことが証明された。もしパキスタンが主張するようにフェンスが効果的だとしたら、なぜTTPがフェンスを越えるのを防げなかったのだろうか?
⑤デュアランドラインをめぐる政治力学
アフガニスタンとパキスタンの関係は、1947年のパキスタン独立以来、ほとんどの期間、友好的ではなかった。パキスタンは、デュアランドラインが両国間の合法的な公式国境であると繰り返し主張してきた。一方、アフガニスタンは、これは単なる便宜上の線引きであり、国境ではないと主張している。しかし、アフガニスタンがデュアランドラインについて積極的な政策をとったのは、1970年代のダウド・カーンの時代のみだった。彼は独立したパシュトゥーン国家の形成を目指した。その後、侵略と戦争が繰り返されたため、アフガニスタンの人々がこの問題について考える機会はほとんどなかった。しかし、デュアランドラインはアフガニスタンでは依然として人気のあるトピックである。
現在、パキスタンとアフガニスタン・イスラム首長国(IEA)の関係は国境をめぐって対立しており、時折衝突が起きたり、貿易や物資の輸送が閉鎖されたりしている(RFERL/ Radio AzadiやAl Jazeera)。2021年12月のナンガルハールに関するロイターの報道のように、IEAがフェンスの建設を妨害したという報告もある。2023年9月、アフガニスタン国防省はフェンスを効果的に監視するため、フェンス沿いに100カ所の検問所と道路を新設すると発表した(TOLOnews)。
パキスタンに住んでいた50万人以上のアフガン人が最近強制帰還させられた。この問題によって、アフガニスタンの高官たちは、デュアランドラインに対して公然と異議を唱えるようになった。IEAの殉教者・障害者省のマウラウィ・カリムラ・アフガン(Maulawi Kalimullah Afghan)財務・総務部長は、2023年11月24日に開かれた集会で次のように述べた: 「アフガニスタン難民はあなた方の国土に住んでいたのではなく、パシュトゥニスタンという自治区や占領地に住んでいたのです。パシュトゥニスタン内のバルチスタンかペシャワールに住んでいたのです。そここそが大アフガニスタンです。」(ラジオ・アザディと、アフガニスタン人研究者アブドゥル・サイードがTwitter/Xに投稿した動画)。
アフガニスタンとパキスタンの国境にあるトルハム交差点で、パキスタンの準軍事部隊が鉄柵を設置するのを見守るアフガニスタンの男性たち
写真 2001年12月1日、Tariq Mahmood/AFP
ヌルラ・ヌリ(Nurullah Nuri)国境・部族問題担当大臣代理はまた、「架空のライン」と呼んでいる: 「パキスタンとの正式な国境線も、ゼロポイント(門)もない」(TOLOnews)。アッバス・スタナクザイ(Abbas Stanakzai)外務副大臣代理も次のように述べた: 「今日、アフガニスタンの半分は分離され、デュアランドラインの反対側にあります。デュアランドは、アフガニスタン人の心にイギリス人が引いたラインなのです。」(TOLOnews)
パキスタンがアフガン難民を強制的に追放したことについて、アフガニスタンのムッラ・ヤクブ(Mullah Yaqub)国防相はまた、暗にイスラマバードに警告を発した。パキスタンのアンワル・カカル暫定首相はその後、TOLOnewsのインタビューで、デュアランドラインは国際的に認められた両国の国境線であると主張した。同様に、アッバス・スタナクザイ氏の発言を受けて、パキスタン外務省は声明で、「パキスタン・アフガニスタン国境の合法性と神聖性に関するいかなる勝手で空想的な主張も、地理、歴史、国際法の事実を変えることはできない」と述べた。(アリアナニュース)。
メディアでどのような諍いが繰り広げられようとも、被害を受けた地域社会がどんなに長く苦しもうとも、両国の国内政治を考えれば、両国がすぐに人々の生活制限を緩和するとは誰も思っていない。現実的に言えば、独立したパシュトゥーン国家の樹立や、デュアランドラインの反対側にあるアフガニスタンの旧部族地域を併合するというダウドの夢は、両国にとっても住民にとっても奇妙で実現不可能に見える。しかし、役に立つのは移動と貿易の制限を緩和することだろう。特にデュアランドラインの沿線に住む人々は、農地へと簡単に行き来し、現在断絶されている友人や親戚に会える自由を再び享受したいと切望しているのだ。
編集:ケイト・クラーク、ファブリツィオ・フォスキーニ
デザイン・レイアウト:ヨルト・コヴァーチ