Deze Afghaanse vrouwen vluchtten voor de Taliban. ‘Binnenblijven was een marteling’
タリバンは3年前にアフガニスタンを乗っ取った。アフガニスタンの女性は街路やメディアから姿を消した。外を歩くこと自体が抵抗とされる国に住むのはどんな感じだろうか? 現在オランダに住む女性たちがそのことについて語る。(Trouw)
(注:第1回は「ソマイア・ラミシュの場合」)
(WAJ:ターリバーンの政権奪取から満3年が過ぎ、各国メディアで特集記事が組まれている。日本の新聞もその例に漏れず重厚なリポートを出しているが、いかんせん有料記事でハードルが高い。そこへ、オランダでナチスへのレジスタンス期(1943年)に地下新聞として創刊された骨太紙「Trouw(誠実)」がアフガン女性に焦点を当てたロング記事を発表した。各分野で活躍するオランダ在住の女性たちの声である。気前よく全文読めるので、ここに邦訳しシリーズ化して掲載する。今回は若い姉妹と63歳の元教師。)
ズッセン・ザハラとネガハの姉妹(19歳と20歳)、学生
ターリバーンは夜ジャララバードに侵攻しました。私たちが朝起きたとき、そこは新世界でした。その日と翌日までに、少女の未来はすべて消え去りました。私たちの家は私たちの刑務所になりました。
私たちの家族は8人で大きな家をほかの家族たちと共有していました。いつも面白かった。いとこたちと遊び、食べ物の香りと笑い声が絶えませんでした。活き活きとした安全なこども時代でした。
ターリバーン乗っ取りの翌朝、恐怖が家に忍び込みました。学校に行くことも外出することも、もう許されません。最初のターリバーンの時代を知っている両親は怖がりました。二人が部屋で泣いているのが聞こえました。通りでターリバーンが娘たち、つまり私たちをさらうかもと恐れました。さもなければ、もっとひどいこと。家に押し入って私たちを連れ出し、ほかのターリバーン戦士の妻として差し出すのではと。
”とっても静かにしていました”
ある日、ターリバーンが家にやってきました。武器を探していると彼らは言って、家全体を引っかき回しました。幸運にも私たちは別の階で遊んでいました。ネズミのようにとっても静かにしていました。
ターリバーンは12歳を超える少女に学校を閉ざしました。私たちは学校が好きで、よい生徒でした。生物が得意科目で二人とも医者志望でした。家ではよく従姉妹や姪を患者にして病院ごっこをしたものです。
ターリバーンが通りにいるので、私たちはたいてい屋内で過ごしました。たまに外出するときは、顔を隠し兄と一緒でした。
以前は街に出るとき人力タクシーによく乗りました。今は男性の家族の誰かがいないと禁止です。通りは日に日に危険になりました。タクシーに一人で乗って、男性の運転手と二人っきりだった近所の女性は撃ち殺されました。
テレビを見て本を読んで日々過ごしました。お互いが支えでした。いつもみんなから双子と思われていました。なんでも一緒にやって、お互いが相手のおしゃべりの文章を締めくくりました。2、3か月もすると、壁が私たちに迫ってきました。でも二人の絆はより強まりました。あさ兄弟が学校に出かけるとき、私たちは後に残って泣きました。こんなふうに1年半くらしました。
家族のメンバーの1人が結婚を迎えました。私たちはようやく祝う理由にありつきました。5人のターリバーン戦士が結婚式に踏み込みました。音楽を聞きとがめたのです。禁止されていましたから。彼らは一緒に食事し、音楽を楽しみました。それから花嫁の父親を逮捕しました。隣の部屋で女性たちは身を覆い隠し、家から逃げ出しました。化粧をしておめかししているために逮捕されるのが怖かったのです。
”ここでは自由でいられます”
父は私たちの16歳の弟を送り出しました。彼はヨーロッパに逃げねばなりませんでした。2022年に彼は砂漠と海を超えました。最後はオランダに着きました。そこには私たちのいとこがひとり住んでいます。弟はすぐに重病にかかりました。私たちとその家族もオランダに来る許可をもらいました。弟は半年前に死にました。
アフガニスタンを後にするのは簡単ではありませんでした。でも私たちは学校に再び行ける国に行くことを切望していました。二人にとってそれほど大きなカルチャーショックではありませんでした。家で西洋の本を読み、西洋の映画を見ていました。二人のお気に入りはタイタニックです。ここでは自由でいられます。通りを自由に歩き、電車でアムステルダムまでの旅ができます。オランダ語の授業が終わると、新しい友人たちとカフェでランチ。どれも、もはやアフガニスタンでは出来ない普通のことです。
今の私たちの目標はオランダ語コースを終えて、大学に行き、医者になることです。ここに持ってきたわずかな物のひとつが私たちの夢なのです。
ラヒメ・ハミリ(63歳)、教師
私の世代でカーブルに出て大学で学ぶことを許された女性は少なく、私はそのひとりです。3人の友人とアパートをシェアしました。素晴らしい時でした。1989年に教育修士の学位を得ると、ふるさとのヘラートに戻りました。
1996年にターリバーンが侵入したとき、女学校で教えていました。何週間も噂が立っていました。少女たちには少ないが幾日かは世界が安全だと感じて欲しいと思っていました。侵入の日もまだ否定的でした。現実が刺さらなかったの。夜が更ける頃、街は完全におさえられました。それから5年、私たちは暗い現実を過ごすことになりました。
ターリバーンは学校を閉じ、女性は家を出ることが許されません。私はリビングを使い、代替学校をこっそり開きました。「お茶を飲みに」と偽って、少女たちは学びに来ました。
”家にいるのは拷問でした”
家にいるのは拷問でした。私は危険を冒して、ひとりの友人と公園に行きました。女性には許されぬ行為でした。ブルカで覆えば、10分くらい安全だろうとふんでいました。世の中をみたいと痛く欲したのです。世の中が私をみてくれないのなら。
緑の中をほんのちょっと歩くと、後頭部にひどい打撃を感じました。予期できませんでした。ブルカは人を見えなくするだけでなく、人から多くの視野も奪います。ターリバーンに気づかなかったのです。頭を押さえて家に走って戻りました。あのターリバーンの時期に私が敢えて外出することは二度とありませんでした。
ある夜、ターリバーンが近所の家に押し入るのが聞こえました。最も若い息子をしょっぴきました。息子を奪い取らぬよう懇願する母親の必死の叫びは今も私の耳にこだまします。女ばかりか男も安全でないこのひどい時期が終わるとは私には思えませんでした。
2001年11月5日、外国軍が到着しました。ターリバーンは通りから一掃され、女性が湧き出ました。すべての道角から音楽が聞こえ、男は髭を剃りました。私は再び夫を認識しました。
私は男性と女性の人権を守る外国のNGOで働きました。州内には多くの抵抗がありました。特に田舎の村々で。女性を洗脳して西洋の進歩思想に染めていると言われました。
もっとも簡単な選択をする権利すらないと思っている女性たちに私たちは会いました。きょうをどんな風に過ごそうかとか、絨毯の色は自分で選べるのだとか。
”児童婚の事例は無数にありました”
多くの女性は結婚を拒否する権利を持つことを知りませんでした。イスラム法に述べられています。でもムッラー(訳注:村々の宗教指導者)は彼女たちに決して教えません。児童婚の事例は無数にありました。これは法律違反です。12歳という若さで妊娠した少女たちにも会いました。もっと田舎の地域では、まず女性の教師に会うことしか出来ません。彼女たちに頼んで、その地の少女や女性に権利について伝達してもらうのです。
20年たって、私たちは地方の学校とシェルターをいくつも開きました。シェルターでは家庭内暴力の女性被害者を匿いました。
それから、誰も読みたがらない本に出てくる作り話のように、ターリバーンが権力に返り咲きました。ターリバーンは暗い心を持っています。自らを宗教者でムスリムだと呼びますが、イスラームの信仰のエッセンスを曲げて踏みにじり、国民を特に女性を完全にコントロールしたいだけです。クルアーンには男女平等が説かれています。違いは「善」と「悪」の間にあるだけで、それは性別とは無関係です。
”国内の女性にほとんど何もしてやれず、無力を感じます”
私は同僚と一緒に、ターリバーンのもとでなされる人権侵害を報告し続けるうまい手を見つけ出しました。店を借り上げましたが本当はオフィス。そこへ毎日ちがう男性に頼んで家族だとの触れ込みで連れて行ってもらう。女性単独ではオフィスに通うことも出来ないのです。
人権活動家としての生活はますます危険になりました。2022年5月4日、私は家族と一緒にイラン経由でオランダに避難しました。安全になったのはありがたいが、国内の女性にほとんど何もしてやれず、無力を感じます。
教育と知識は私たちに考え選ぶ自由を与えます。自分の人生をどう生きるか。すべての女性がその選択枝を持つべきです。娘が頭のスカーフを脱ぐと選択しても構いません。それはここオランダで私がそれをつける自由があるのと全く同じ事ですから。
(つづく)