The Double Standards of Chauvinistic Leftists Regarding Social Movements
(WAJ: 2014年に結成されたパキスタンのパシュトゥーン・タハフズ運動(PTM)については、トピックス10月13日、トピックス10月14日の記事で紹介したように、アフガニスタン・パキスタン両国に住むパシュトゥーン人を束ねる運動として注目されてきた。とくに最近はアフガニスタン・ターリバーンの女性への教育制限に反対している。さらにはパキスタン政府のパシュトゥーン抑圧政策に反対して行動し、パキスタン政府から活動を禁止されている。PTMをめぐっては、ここで論じられているように肯定、否定、さまざまな評価が渦巻いている。とくにここではPTM評価における左派の側の混乱が指摘されている点が興味を引く。アフガニスタンは階級矛盾、民族部族対立、封建的前近代的部族の因習、宗教観の対立など、極めて複雑な矛盾構造の中に置かれている。アフガン民主派の苦悩の一端を知る論考である。)
2024年10月17日(ハシュテ・スブ(アフガニスタンの独立系メディア))
バーラム・アーモニヤイー
パキスタンのパシュトゥーン・タハフズ運動(PTM)はアフガニスタンの知識人の間では長い間激しい議論の源となっており、左派を含めて、支持者と批判者の両方が多数に上る。民族に基づく政治が国内の政治運動に深く決定的な影響を与える中、パシュトゥーン・タハフズ運動(PTM)への民族を中心とした評価が明らかになってきた。左翼の中でも、アフガニスタンのパシュトゥーン人の圧倒的多数がこの運動を支持しているが、パシュトゥーン人以外の左翼はより慎重かつ熟考の上この問題に取り組み、時には批判さえする。ややもすれば、双方の立場が非常に偏っていて不公平であるため、多くの分野で共通の傾向にもかかわらず、アフガニスタンの左翼の間には民族をめぐる深くて埋めることのできない溝が存在している。この溝は非常に深いため、統一された政治プロジェクトの形成にはほとんど期待が持てないようだ。
<参考サイト>パシュトゥーン・タハフズ運動
https://en.wikipedia.org/wiki/Pashtun_Tahafuz_Movement
アフガニスタン左翼の問題は常に、政治活動において妥協点を見つけることができないことである。歴史を通じて、彼らは過度に極端で急進的であるか、過度に受動的で自己満足的であるかのどちらかだった。時々、彼らは目覚めて非常に活動的になるため、重大な変化が進行中と思われる。気づかぬうちに。ある時は、まるで自分たちが存在せず、歴史の遺物になってしまったように感じさせるほど、深い沈黙と孤立に陥る。残念なことに、アフガニスタンの左翼はほとんどが、同じ民族による政治に関連する出来事が国内または近隣諸国で起こったときにのみ覚醒し、活動的になる。民族排外主義はあまりにも蔓延しており、階級闘争とプロレタリア国際主義を擁護すると主張する左翼さも深刻な影響を受けている。非パシュトゥーン人左翼は、パシュトゥーン至上主義に根ざした民族言語アパルトヘイトに大きく苦しんでおり、パシュトゥーン人がからむあらゆる政治運動をアフガニスタンにおけるパシュトゥーン至上主義完遂への道筋として認識している。彼らからすれば、これらの運動は解放や正義を求める性質がまったく欠けているだけでなく、根本的に反動的なものである。こうしたとらえ方は、パシュトゥーン左派の排外主義的な姿勢と同じくらい壊滅的かつ破壊的であり、致命的な民族的衝突へと導く危険性がある。
アフガニスタンの左翼はどの民族も排外主義的で、今でこそパキスタンのパシュトゥーン・タハフズ運動(PTM)を擁護するためにソーシャルメディア上の努力を惜しまないが、タバスム運動(訳注:2015年11月、ISやターリバーンに対して行われた非暴力抵抗運動)、啓蒙運動(訳注:2016年〜17年、タバスム運動のあとを受けたハザラ人による草の根的抵抗運動)、さらに変革のための蜂起(訳注:2017年、カーブルでシットインを行うなど反政府運動を展開し弾圧された)という社会正義運動が排外主義的で民族的に偏ったパシュトゥーン人が率いる当時のアフガニスタン政府に反して台頭したときには、特に姿を見せなかった。それどころか、排外主義的左翼は黙って裏へ回り、当時の政府に与する偏り日和見な位置から、アシュラフ・ガニーとその腐敗したパシュトゥーン中心主義サークルの側に立った。それらの社会運動の要求は不合理だったのだろうか、それとも間違っていたのだろうか? そうでなければ、なぜ自由、民主主義、社会正義を擁護すると主張する左翼団体が全面的かつ積極的な支援を提供しなかったのだろうか? アフガニスタンではオオカミと子羊が平和に共存しているのに、パキスタンではパシュトゥーン人だけがパンジャブ人による抑圧と不当な扱いを受けているだろうか? 私は、パシュトゥーン人が大きな被害者となっているパキスタン軍の抑圧的な政策を批判すべきではない、あるいはパシュトゥーン・タハフズ運動(PTM)の大義が不当であるとみなすべきだと言っているわけではない。私たちはこの運動を支援すべきだと思う。しかし、私たちが忘れてはならないのは、正義運動に対する私たちの姿勢が、選択的であったり、偏ったり、民族排外主義に染まってはいけないということだ。
<参考記事>
タバスム運動
https://deeply.thenewhumanitarian.org/womenandgirls/community/2016/11/30/one-year-tabassum-afghan-women-search-voice
啓蒙運動
https://8am.media/eng/a-reflection-on-the-rise-and-fall-of-the-enlightenment-movement/
変革のための蜂起
https://thediplomat.com/2017/06/afghanistans-uprising-for-change-time-to-shatter-ghanis-delusion/
レーニンに対する恣意的解釈
ロシア共産主義者の指導者ウラジーミル・イリイチ・レーニンは、あらゆる形態の排外主義に対して容赦ない闘争を開始した有名な政治家だ。彼はソ連からの離脱をふくむ民族の自決権を擁護した。レーニンはロシア人として、ロシア人排外主義に対して激しい戦いを繰り広げ、死ぬまでこの努力をやめなかった。自分たちを熱心なレーニン主義者だと誇らしげに呼ぶアフガニスタンの左翼は、排外主義的でありながらレーニンのこの革命的姿勢に従うのだろうか? そうではない。彼らはレーニンの遺産のこの側面を強調することを嫌う。彼らはレーニン主義を自分たちの利益にかなう場合にのみ援用し、すべての分野で援用するわけではない。これらの左翼は依然としてパシュトゥーン人排外主義の実際を認めず、「階級と資本の矛盾」、「階級闘争」、「プロレタリア国際主義」に焦点を当てることによって、アフガニスタンの政治領域の民族至上主義の性質を覆い隠そうとしている。彼らは、レーニンのように、排外主義に対して宣戦布告することさえ考えもしない。
排外主義的左派は、自らを過度に革命的でマルクスとレーニンに献身的であると見せながら、その行動の中にこの二人の革命思想家の痕跡をほとんど残さない。明らかなのは、戯画化されたマルクスとレーニンであり、彼らの主張を正当化するために恣意的に引用される。彼らにとっては、マルクスやレーニンの言説を数行引用するだけで、自分たちの主張を正当化するのに十分なのだ。これら排外主義的左翼によって生み出されたマルクスとレーニンは、厳格で、独断的で、頑固で、決定論的で、還元主義的であり、彼ら自身を反映したものにすぎない。あたかもこの二人の思想家が人類救済のための究極の解決策を私たちに手渡してくれたかのように、私たちがしなければならないのはそれを利用することだけだというように。彼らが提案した解決策のひとつは、人による人の搾取から逃れるために階級闘争を行うということだ。しかし、民族紛争を含むすべての紛争を階級紛争だけに帰着させることは有効なアプローチなのか? それは民族排外主義に終止符を打つのか? アフガニスタンに深く根付いた民族政治を考えると、この還元主義が現在の危機をさらに悪化させるのか? わが国の階級対立はそれほど深刻なのか? そして最後の質問だ。アフガニスタンにおける慢性的な民族間の危機的状態と政治に染みついたパシュトゥーン至上主義を考慮すると、デュランドラインを越えてパシュトゥーン人の結束を強化することがアフガニスタンの非パシュトゥーン民族グループにとってさらに悪い状況を招かないという保証は一体どこにあるのか。パシュトゥーン至上主義、特にターリバーンの出現ですでに苦しんでいる人は誰なのだろうか? これらは、パシュトゥーン・タハフズ運動(PTM)の排外主義的左翼支持者が正しく答えなければならない重要な質問だ。これらの疑問に対して合理的かつ論理的な答えを提供しなければ、アフガニスタンにおける現在の根深い危機の解決に向けて、真剣かつ重要な一歩を踏み出すことはできない。