Wahhabism: From a Religious Reform Movement to a Political Ideology in Saudi Arabia

An Historical, Intellectual, and Political Analysis of the Interplay Between Faith and Power
信仰と権力の相互作用に関する歴史的・知的・政治的分析

 

(WAJ: 本稿は主要なイスラーム潮流の解説をおこなうシリーズとして、前号の「ムスリム同胞団運動:知的・歴史的・地政学的分析」につづき、サウジアラビアの国教ともなっているワッハーブ主義について解説する。サウジアラビアを拠点とするワッハーブ主義は、アフガニスタン4月革命(1978年)に反対するジハード(反革命イスラムーム聖戦)の中軸をなすイデオロギーであった。サウジアラビア(ビン・ラーディン)とアメリカが資金と軍事力を提供し、パキスタンが軍事力と戦闘拠点を与えた。本稿においてワッハーブ主義がサウジ家に全体主義権力の宗教的根拠を与えて一体化してきた歴史と現実を明らかにしている。結果としてワッハーブ主義は政治的イスラームの権威主義的解釈の台頭を促し、ターリーバン、アル=カーイダ、ISISを含む過激派集団の勃興に寄与したのである。なお、本稿の著者ファテー・サミ氏がこの間、本サイトに執筆した論説のすべては「ファテー・サミ執筆記事一覧」で読むことができる。)

 

ファテー・サミ(Fateh Sami):フリーアカデミック研究者
2025年11月9日

 

 はじめに 

イスラームの歴史を通じて、「迷信の排除」の名のもとに本来の「宗教的純粋性」への回帰を主張する運動が、ときおり出現してきた。そうした諸運動の中でも、ワッハーブ主義は独自の位置を占めている。なぜならワッハーブ主義は、アラビアのナジュド地方における局地的な宗教的イニシアティブから発展し、イスラーム世界の多くの地域において、最も影響力をもち、支配的な政治‐宗教的イデオロギーのひとつとなるに至ったからである。
表面的には、この運動の創始者であるムハンマド・イブン・アブド・アル=ワッハーブの掲げた目標は、ムスリムの信仰を改革し、宗教的実践を見直し、そして純粋な一神教(タウヒード)の原理を回復することであった。しかし、「純粋なタウヒード」とは、イスラーム法学、クルアーン(訳注:コーラン)、そして真正と認められた預言者の伝承(ハディース)の枠組みの中で、具体的に何を意味するのかは、明確かつ一貫して定義されることはなかった。
実際には、この運動は、発足当初から、そして後にはサウード家(アール・サウード)の支援を受けながら、政治的正統性の手段となり、また彼らの宗教的影響力と政治的権力を拡大するための媒体へと変貌していったのである。

近世において、ワッハーブ主義はそれが単なる神学的な指向性ではなく、政治・経済・そしてグローバルな権力関係と深く結びついたイデオロギー体系であることを示してきた。18世紀におけるムハンマド・イブン・アブド・アル=ワッハーブとムハンマド・イブン・サウードとの歴史的同盟は、宗教と国家の連携における新たなモデルを確立し、それは今日に至るまでサウジアラビアの基盤的な権力構造を規定し続けている。

1970年代以降、このイデオロギーは、莫大な石油収入と西側諸国からの戦略的支援を背景に、アラビア半島をはるかに越えて拡大した。ワッハーブ主義の教義を推進する慈善ネットワーク、宗教学校、各種機関を通じて、より広範なイスラーム世界に広がっていったのである。こうした拡大は、ネオ・サラフィズム、アル=カーイダ、そしてISISといった諸運動の台頭への道を開くこととなり、それぞれがワッハーブ主義の原理を、ますます過激な方向へと解釈し、武器化していった。これらの集団は、イスラームを本質的に攻撃的で暴力的なものとして描き出すことに寄与し、倫理的節度と慈悲を説くクルアーンのメッセージとは相容れない、恐怖と歪曲に満ちた空気を作り出すことになった。

このような文脈の中で、とりわけアメリカ合衆国を中心とするグローバルな列強の役割は、重要であり、否定しがたいものとなる。ドナルド・トランプがかつて述べたように、「サウジアラビアの国王は、アメリカの支援がなければ2週間と持たないだろう。」という言葉は、現代の権力力学の現実を反映している。すなわち、独立性と精神的純粋さを主張する宗教的イデオロギーが、実際には、君主制の存続と西側諸国の地政学的利益とに絡み合っているという、現実の姿である。

本稿は、分析的かつ比較的な方法を通じて、当初は改革的な宗教運動として出発したワッハーブ主義が、いかにして支配的な政治イデオロギーへと至ったのか、その歴史的軌跡を検討する。第1節では、その知的基盤と歴史的基礎を探り、第2節では、その政治構造とサウード家(アール・サウード)との同盟関係を分析し、最終節では、この現象に対する学術的評価の多様な姿を論じる。主要な目的は、ワッハーブ主義の枠組みの中で、信仰と権力との関係について包括的な理解を提供することであり――そしてその関係は、現代イスラーム世界を深く形づくってきたのである。

 

第1節 ワッハーブ主義の起源と知的基盤

ワッハーブ主義の知的根源は、18世紀のアラビア半島の宗教的・社会的・政治的文脈の中において理解されねばならない。この時代、イスラーム世界の多くは、知的停滞、科学的探究の衰退、そして中央政治権力の徐々なる弱体化を経験していた。オスマン帝国(オスマン・カリフ制)の衰退と、地方的な宗教的革新(ビドア)、迷信、そして民衆的な信心実践の広まりは、「初期イスラーム」の純粋性を回復しようと主張する運動にとって、肥沃な土壌を形成していったのである。

このような文脈の中で、ムハンマド・イブン・アブド・アル=ワッハーブ(1703〜1792年)が登場する。彼は当初、ウヤイナに拠点を置き、その後ディルイーヤに移ったが、民衆的なスーフィー実践、聖者を通した仲介、そして墓の崇拝を批判したことで知られる中世のハンバル派学者、イブン・タイミーヤ(1263〜1328年)の教説から大きな影響を受けた。イブン・アブド・アル=ワッハーブは、これらの立場を取り入れ、さらにそれを強調し、自らが「純粋な一神教(タウヒード)」と呼ぶものを推進するとともに、自ら多神教的であるとみなした諸実践に対して、一種のジハードを唱導したのである。

彼の掲げた目的は、墓参り、聖者による仲介、聖地での供物奉納といった、迷信や聖典に根拠のない儀礼的実践の排除にあったとされる。しかしその方法論は、神学的批判の範疇を超えるものであった。実際には、彼の運動は明確に排他主義的な観点を展開するようになり、彼のイスラーム解釈を受け入れない者は背教者(クッファール)とみなされうるとし、それによって他のムスリム共同体に対する武力闘争を正当化する余地が生じた。このことは、イスラーム法学における解釈的伝統の多様性から大きく逸脱するものであった。

 

核心的な知的原理

ワッハーブ派の教義は3つの基本原則に基づいている。

1. 個人と神とのあいだのいかなる媒介の形態も排除し、厳格かつ絶対的な一神教解釈をとること。
2. クルアーンとハディースに直接依拠し、伝統的解釈、共同体的合意(イジュマー)、そして古典的法学者たちによって発展された重層的な推論を最小化、あるいは拒否すること――たとえ聖典の文言が本来的に、複数の意味的・文脈的解釈に開かれているとしても。
3. 哲学的推論、神秘主義、思弁的神学を退け、知的探究や経験的霊性よりも、文言に対する文字通りの理解を優先すること。

その結果、多くのムスリム学者――とりわけスーフィー派や伝統的スンナ派法学諸学派に属する者たちは――ワッハーブ主義を、初期イスラームの信仰を硬直的かつ還元主義的に捉え直す試みの復活であると批判した。エジプト、インド、イランにおける他の改革運動が、信仰と理性の調和を追求したのとは異なり、ワッハーブ主義は理性を文字通りの聖典解釈の下に従属させたため、教義的に硬直した宗教的世界観を生み出すことになったのである。

 

第2節 ワッハーブ主義の政治的同盟と拡張

決定的な転機が訪れたのは1744年のことであった。イブン・アブド・アル=ワッハーブは、ダリーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウードと同盟を結んだのである。この提携によって、宗教的権威は政治的・軍事的権力と結びつけられた。すなわち、イブン・アブド・アル=ワッハーブが神学的な正統性を提供し、一方でサウード家が保護と領土拡張を担った。この同盟は、宗教と国家の連携という枠組みの基盤を築き、それは今日に至るまでサウジアラビアの統治形態を規定し続けている。

ワッハーブ主義の教義が広まるにつれて、サウード家の支配下に置かれた都市や地域では、徹底的な宗教的再編が行われた。聖廟は破壊され、地域固有の信心慣習は禁じられ、ワッハーブ主義の教義が公共の宗教生活の基盤となった。これらの動きは、1803年のメッカ征服(訳注:オスマン帝国から奪取)以降、いっそう加速し、アラビア半島の文化的・宗教的景観を根本から作り変えるとともに、ハナフィー学派やスーフィー教団を含む既存のスンナ派伝統に対して挑戦を突きつけることとなった。

ワッハーブ主義とサウード家の同盟:宗教的使命から政治的道具へ

1744年にムハンマド・イブン・アブド・アル=ワッハーブとムハンマド・イブン・サウードのあいだで結ばれた同盟は、宗教教義と政治権力とのあいだの戦略的パートナーシップの始まりを画した──それはサウジ国家の形成を方向づけただけでなく、その後の世紀におけるスンナ派イスラームの歩みにも影響を与えることになった。この協定では、役割の分担は明確であった。

私論になるが、それはイブン・アブド・アル=ワッハーブが宗教的指導と教義の正当化を担い、サウード家が統治および軍事的拡張の責任を負うというものであった。つまり、このようにして、宗教的権威は政治権力を正当化し、政治権力はワッハーブ主義の教えの普及を保証したのである。ただし注目して欲しいのは、クルアーンにおけるジハードの概念は、本来的には武力闘争ではなく、個人および社会のための道徳的・発展的努力を主として指しているという点である。

ワッハーブ主義運動の掲げる目標は、「革新(ビドア)から信仰を浄化し」、純粋な一神教を回復することであるとされていたが、この運動はまもなく、サウード家の政治的野心と切り離すことのできないものとなっていった。サウード家は、領土支配の統合と拡大のために宗教的正統性を必要としていた一方で、イブン・アブド・アル=ワッハーブは、自らの教義的使命を制度化するために軍事的・財政的支援を必要としていた。この相互依存関係は、あるモデルを確立した。それは私に言わせると、宗教が政治的目的に奉仕し、政治権力が宗教的権威を保護しかつ増幅するというモデルだ。――そしてこの構造は、今日におけるサウジアラビアの統治においても中核的な位置を占め続けている。

時がたつにつれて、この同盟は改革的イニシアティブから政治的道具へと変質していった。宗教的言説は、王統的権威を維持し、アラビア半島における部族的な社会・政治秩序を強化するための手段として機能したのである。20世紀になると、石油の発見とペルシャ湾におけるイギリス、そして後にはアメリカ合衆国の地政学的関与が加わり、この構造は近代サウジ国家の土台としてさらに固定化された。膨大な石油収入、外国からの安全保障の保証、そしてワッハーブ派聖職者機構との協力が結びついたことによって、君主制は広範な国民に対する実質的な説明責任を負うことなく統治を行うことが可能となり、宗教‐政治的エスタブリッシュメントは、手の届かぬ権威の地位に立つことになったのである。

アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプはその1期目にこう述べた、「サウジアラビアの国王は、アメリカの支援なしでは2週間と持たないだろう。」この発言は、サウジ支配の核心にある、持続的な二重の依存関係――すなわち、宗教的権威に由来する国内的な正統性と、グローバルな権力同盟から得られる対外的な保護――を浮き彫りにしている。

1970年代以降、サウジアラビアはその石油資産を用いて、ワッハーブ主義の世界的な影響力を拡大した。慈善団体、イスラーム大学、宣教組織、宗教学校がアジア・アフリカ・ヨーロッパ各地に設立され、ワッハーブ主義の教義が推進されたのである。こうしたイデオロギー的環境の中で、ネオ・サラフィズム、アル=カーイダ、そして後にはISISといった新たな運動が、自らの武闘的解釈を展開するための知的・財政的な空間を見出すことになった。

このようにして、ワッハーブ主義は、局地的な改革運動から、政治的・文化的・安全保障的含意を伴った越境的イデオロギー・ネットワークへと進化していった。その掲げられた目的は「真のイスラーム」の普及であったが、実践の上では、サウジ国家権力の統合を容易にし、イスラーム世界における西側同盟諸国の地政学的影響力を強化する役割を果たすことになった。宗教と権力のこの融合は、信仰と統治の境界線を曖昧にし、教義を政治的生存のための道具へと変質させた――そしてその力学は、今日に至るまで目に見える形で残り続けている。

 

第3節 評価と相違する視点

創始以来、ワッハーブ主義は相反する評価と解釈の対象となってきた。学者や政治的観察者たちは、これに対してさまざまな角度からアプローチしてきた。大まかに言えば、3つの主要な視点が特定できる。

1.改革主義的解釈

この見解の支持者たち――サウジの公的な聖職者を含む――は、ワッハーブ主義をイスラームを革新(ビドア)から浄化し、彼らが言うところの「真正なイスラーム」に立ち返るための試みと考えている。彼らによれば、ムハンマド・イブン・アブド・アル=ワッハーブは、宗教的逸脱や極端なスーフィー実践を認めたことに応答して、一神教への呼びかけを提起し、ムスリムたちをクルアーンとスンナへと戻るよう招いたのである。この視点に立つ著名な学者たち――イブン・バズやイブン・ウタイミーンなど――は、ワッハーブ主義を新たな宗派とは位置づけず、初期イスラームの諸原理を復興するものとして捉えた。

それに帯する批判的観察としては:
この解釈は改革的意図を強調するものではあるが、サウジ国家との歴史的同盟は、より複雑な現実を明らかにしている。すなわち、ワッハーブ主義の教義とサウジの政治的野心が1つに収斂され、王統的権威の統合に奉仕し、改革的レトリックと政治的目的が並行して進展していったことを示している。

2.イスラーム内部からの批判的解釈

ムハンマド・アル=ガザーリー、ファズルル・ラフマン、そしてアズハル大学の一部の学者たちを含む多くのムスリム思想家は、ワッハーブ主義を、知的停滞、宗教的硬直性、そしてムスリム共同体内部の分裂を助長するものとして捉えている。その厳格な字面主義(文字通り主義)と独立した推論(イジュティハード)の拒絶は、数世紀にわたってイスラーム社会を特徴づけてきた知的ダイナミズムを制限し、これまでの学者たちが哲学・科学・法学において果たしてきた歴史的貢献を無視することにつながったと言う。

この観点から見ると、ワッハーブ主義は一神教を回復することを主張してはいたものの、実践の上では政治的権威を強化する装置として機能していたとも言える。現代のイスラーム諸機関はしばしばワッハーブ主義を、純粋に宗教的真理を推進する運動というよりも、「政治権力に奉仕する運動」として捉えており、教義的主張を政治的目的の正当化に用いていると評価することが多い。

3.西洋の分析的解釈

マダウィ・アル=ラシード、トーマス・ヘッガマー、ジル・ケペルといった西洋の学者たちは、ワッハーブ主義をサウジの政治戦略およびより広範なグローバルな利害との関連において検討している。彼らの主張によれば、この運動は20世紀において、西側列強からの財政的・政治的支援によって強化され、アラブおよびイスラーム世界における民族主義・左派・改革主義の諸運動に対抗するための地政学的道具として機能したとする。

この視点からすると、ワッハーブ主義は単なる宗教教義ではなく、サウジ国家の公式イデオロギーの背骨として機能しており、宗教的改革やイスラームからの迷信の排除よりも、政治的安定と権力の統合を優先していると考えられる。

比較的評価

これらの諸視点を総合すると、ワッハーブ主義は信仰と政治的権威の交差点において機能していることが明らかになる。たとえそれが改革的な宗教的イニシアティブとして始まったとしても、時を経るにつれ、王政の権力を統合し、支配者を正当化するための道具へと進化していったのである。この運動の二重の性格――言説においては改革的であり、実践においては政治的であるという性格――は、サウジの統治のみならず、イスラームに対する世界的認識にも深い影響を及ぼしてきた。

 

結論

ワッハーブ主義は、近世以降のムスリム世界を覆ってきた知的・政治的危機という、より広い文脈の中で理解されるべきである。表向きには、革新(ビドア)や迷信から宗教を浄化し、純粋な一神教を回復することがその目的とされていたが、実際にはその歩みはサウジ王族との政治的同盟、そして西側列強からの戦略的支援によって形づくられてきた。こうしてワッハーブ主義は、君主制を正当化し、サウジ王統支配を継続させるための媒介として機能するイデオロギーへと変貌したのである。

知的側面においては、理性的探究、スーフィズム、そして神秘主義の拒否によって、イスラーム思想の地平は狭められ、熟考・寛容・知的柔軟性が抑圧された。政治的側面においては、支配者への絶対的服従を強調することで、政治的イスラームに関する権威主義的解釈の台頭を促し、ターリバーン、アル=カーイダ、ISISなどの過激派集団の勃興にも寄与する結果となった。

最終的に、ワッハーブ主義は迷信への反発として始まったが、政治権力の統合のための道具へと進化していった。本質的には、宗教改革を装いながら支配者の権威を保証し、その過程でイスラームの世界的イメージを歪める装置として機能したのである。とりわけ冷戦期において、サウジのワッハーブ主義と西側の地政学的利益との戦略的提携が成立したことで、その影響力は地域的にも国際的にもさらに拡大した。

ワッハーブ主義は、近世以降のムスリム世界を覆ってきた知的・政治的危機という、より広い文脈の中で理解されるべきである。表向きには、革新(ビドア)や迷信から宗教を浄化し、純粋な一神教を回復することがその目的とされていたが、実際にはその歩みはサウジ王族との政治的同盟、そして西側列強からの戦略的支援によって形づくられてきた。こうしてワッハーブ主義は、君主制を正当化し、サウジ王統支配を継続させるための媒介として機能するイデオロギーへと変貌したのである。

 

著作権

本記事は、ファテ・サミによって研究および分析的著作として執筆されたものである。著者および原典または出版社を明記せずに引用・再出版・改変することは、厳格に禁じる。

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