(2026年4月9日)

 米・イスラエル・イラン戦争に思う 

~問われる人間主義と惑星思考~

 


月の裏側に到達した宇宙船オリオン号から見た地球(NASA提供)

 

米イスラエルの卑劣な奇襲攻撃

米国とイスラエルは、2026年2月28日、突如、イランへ大規模な空爆をしかけ、イランの最高指導者や国家や軍指導部の大量暗殺を挙行した。攻撃は、最終的な妥結を目前に控え、緊張緩和への期待が高まっていた両国直接交渉の最中に敢行された極めて悪質な蛮行であった。

交渉の進展により双方の信頼醸成が図られようとしていたまさにそのとき、相手の警戒が緩んだ瞬間を狙って軍事行動に踏み切ったこの行為は、外交を隠れ蓑にした計画的な奇襲にほかならない。それは単なる先制攻撃という言葉では到底言い表せず、相手を欺き、不意撃ちを前提とした「だまし討ち」であり、国際的な信義や交渉の原則を根底から踏みにじる卑劣極まりない暴挙であった。その結果、この攻撃は単に軍事的衝突を引き起こしただけでなく、国際社会における外交の信頼性そのものを深刻に損なう行為として、強い非難に値するものであった。国際的信用と信頼を自ら破壊するこの行為は、帝国としてのアメリカの衰退を決定づける歴史的な事件ともなるだろう。

 

人命は虫けら同然、米・イスラエル

それから1カ月以上にわたり、米イスラエルの空爆はイランの民間組織やインフラをも標的に繰り返された。たとえば、2月28日には南部ホルモズガーン州ミナーブの女子小学校がミサイル攻撃で直撃され175名以上が死亡した(国連報告)。この事件をもっとも痛ましい実例としてこの1カ月超の間に、米国を拠点とする人権団体HRANAによると、3636人が死亡した。そのうち1701人は民間人で、少なくとも254人の子どもが含まれているという。(Reuters

この奇襲に対して、イランは、急遽体制を整え、ひるむことなく自己防衛の反撃をこころみた。イスラエルや湾岸諸国の米軍基地などに甚大な被害をあたえ、ホルムズ海峡の封鎖により世界経済を混乱に陥れた。もちろんこの反撃により人命が失われてはいるが、それは米イスラエルによるものとは比べものにならず、イスラエルがガザで行った虐殺に比べれば天と地ほどの差がある。

 

約束も信義も踏みにじるトランプ

そもそも、米とイランの確執の背景には、大きくは2つ、①石油をめぐる英米帝国主義との利権争奪の歴史と、②パレスチナに対するシオニズムの侵略との闘いがある。1979年のイラン革命は米国から石油利権を奪還する闘いであったし、潜在的な核兵器所有国となっていたイスラエルとの対決をも辞さない政権の誕生であった。それ以来、アメリカはイランを封じ込めるため経済封鎖と核開発抑止政策を実行してきた。イランの核開発を抑止するのであればすでに開発して所持しているイスラエル問題を抜きにしてイランのみを批判するのは一方的な欺瞞だ。イランに核兵器を持たせないのならイスラエルの核も撤去させるべきである。また、パレスチナ人の土地財産命を奪うイスラエルの植民地主義的建国に反対するのは中東人民のみならず全世界人民の課題でもある。

イランは、イスラム教シーア派による神権政治体制によって運営されており、内部にさまざまな問題を抱えてはいるが、「悪の枢軸」のひとつとして批判する米イスラエル側に比べて外部に対する「悪」の程度ははるかに低い。

むしろ、1979年のホメイニ革命以来、イランに敵意をもつアメリカは、イラクをそそのかしてイラン戦争を支援したり、長年イランに経済制裁を課してきた。2015年のイラン核合意では国連も追認してイランに対する経済制裁を解くことになっていた。ところがその合意から一方的に離脱したのはトランプ大統領第1期の2018年だった。今回の米イランの核交渉はオマーンの仲介で行われていたもので、進展があったと報じられていたのである。

 

出口戦略なき米政権の焦り

イラン空爆はしてみたものの、「無条件降伏」するどころかイスラエルや湾岸諸国の弁軍基地に報復爆撃をするイランに対して、自らまいた種の栽培や収穫の仕方を知らないドナルド・トランプ大統領は、相手を恫喝する暴言を居丈高に投げつけるしか能がなかった。

自らが勝手に設定し、2度も3度も延期した交渉期限を守らせようと、米大統領がイランに対して発した数々の品性下劣で威嚇的言辞は、国家指導者の発言として看過しがたいものであった。いわく、「発電所やインフラを破壊する」「石器時代に戻す」「文明を一晩で消し去る」などの罵詈雑言は、単なる軍事的威嚇を超え、民間人の生活基盤そのものを標的とし破壊する意図を露わにしている。こうした人物を民主的手続きによって選出した矛盾は、アメリカ民主主義の脆弱性を示していると言える。(アメリカでは罷免の動き)

 

人命をめぐる国家機関の対応

このような大統領の指揮の下で進められた軍事行動の過程で、F-15Eストライクイーグルが4月3日、イラン側によって迎撃される事態が発生した。

機体は墜落しパイロットは脱出を余儀なくされた。乗員2人のうちパイロットは比較的早期に救出されたが、もう1人の乗員は行方不明となり、敵地領域内で孤立した。この状況下で展開された救出作戦は、まさにアメリカ軍の特質を象徴する事件となった。

墜落機から脱出し標高2000m級の山岳地帯の岩の裂け目に潜んでいた乗員が発する暗号無線により生存を確認した米軍は救出のため夜陰に紛れて特殊部隊を含む200人を投入した。衛星情報、無人機、電子戦支援などあらゆるリソースが統合された。地上では潜入部隊が敵の警戒網をかいくぐり、空では救難ヘリが護衛戦闘機とともに待機する。最終的にパイロットは敵の追跡をかわしつつ接触地点へ移動し、劇的な救出が成功する。その過程で使用不能となった高価な航空機や装備は、敵に利用されることを防ぐため爆破処理された。たった1人の兵士のために、多数の兵員と莫大な資源が投入されたこの姿勢は、「兵士を見捨てない」というアメリカ軍の原則を体現するものとして讃嘆された。

この点において、アメリカ政府は自国兵士に対し、ある種の人道主義的価値を具現化したように見える。しかし同時に、この人道主義は選別的である。国外では民間インフラを標的とする攻撃を辞さず、国内では警察暴力や移民政策における強権的措置が問題視されている。たとえば、ICEによる殺人的抑圧捜索、さらにはBLM(ブラック・ライブズ・マター)に象徴されるような、国家権力による暴力は深刻な社会問題となっている。兵士の命を守る姿勢も、究極的には国家の維持という目的に従属しているにすぎない。(この英雄的救出劇自体、米軍の別作戦の失敗を糊塗するキャンペーンだとする興味深い説もあり、米軍の主張を単純に信じるわけにもいかない。

 

イラン側の人命観は?

一方でイラン側を見ると、国家のあり方はアメリカとは別の形で極端である。今回、イラン政府は爆撃からインフラを守るため、「人間の鎖」によって発電所などを取り囲むよう国民に呼びかけ、未成年の参加すら促した。このような行為は、民間団体が抗議行動として呼びかけるのとはことなり、国家が国家防衛の名の下に市民、特に子どもの命を危険にさらすものであり、重大な倫理的問題を孕む。

また、過去のイラン・イラク戦争において、少年兵を地雷原に進ませる戦術が取られた歴史(民兵組織バシジの少年兵)や、反政府運動や抗議運動に発砲し何百、何千人の国民を殺害するイラン国家(直近の例ではマーサ・アミニ事件や2026年初頭の抗議運動)が個人の生命をどのように扱ってきたかを物語っている。さらには宗教上の戒律を国民に敷いたり、ジハード(自己犠牲)を称揚する政教合一の神権政府の問題もあるが、それらは内政問題として不干渉とされるべき側面もある。

 

国民の命を“食す”国家

このように見てくると、アメリカとイランは一見対照的でありながら、いずれも国家の論理を優先し、必要とあらば個人の生命を手段化したり軽んじたりする点で共通している。国家にとって暴力は統治の最終法源であり、対外的には外交の延長にほかならない。戦争にルールが定められても、それはしばしば力の前に無力である。トランプ大統領の「国際法は意味がない」という発言は、その現実を端的に示している。

いうまでもなく、われわれは米国やイスラエルによる無慈悲で無差別的な砲爆撃を強く批判する。そもそも今回の戦端は両国の交渉中のだまし討ちであり、国連をはじめ多くの国も認める国際法違反行為だからである。しかし、米イスラエルの不法行為をいくら厳しく糾弾するからといって、イランの神権政治や女性の権利抑圧、国民の人権や生命軽視に反対する立場を不問に付すわけにはいかない。それらは内政不干渉と言う国際法上の取り組みとは別次元の、人道上の問題だからだ。この面では、アフガニスタンを含むこの地域において、世俗化や基本的人権の確立を求めて闘う人々との連帯は、同じ惑星に住む同時代人として義務であるとすら考える。(イラン人のスローガン「女性、生活、自由」、アフガン人のスローガン「仕事、パン、自由」(Webafghanの「NO JAIL」コーナーでの訴え))

 

国家とは暴力と支配の連鎖

国家という枠組みに依拠するかぎり、暴力と支配の連鎖は形を変えながら繰り返される。歴史を振り返れば、それは例外ではなくむしろ常態であった。国家は自らの存続と利益を最優先に据える構造を持ち、そのために内外の「他者」を管理し、時に排除し、時に破壊する。そこでは個々の人間の生命や尊厳は、しばしば目的ではなく手段へと転化される。どれほど美しい理念を掲げようとも、国家という装置が内包するこの論理から完全に自由であることは難しい。だから国家にはそれを縛る憲法が必要なのだ。

ゆえに私たちは、国家という人工的な単位を絶対視する思考そのものを問い直さなければならない。

そのとき手がかりとなるのが、「人間主義(ヒューマニズム)」の立場である。人間主義とは、国籍や民族、宗教、性別といったあらゆる差異に先立って、「人間であること」それ自体に価値の根拠を置く思想である。そこでは、誰であれ生まれながらにして尊厳を有し、侵されるべきでない権利を持つと考えられる。この普遍的な人間観は、近代以降の人権思想の基盤となってきたが、現実の政治の場においては、しばしば国家利益の前に後景へと退けられてきた。人間主義とは、まさにその逆転を試みる立場であり、国家ではなく個々の人間を倫理の中心に据え直そうとする試みである。

しかし同時に、現代においてはそれだけでは十分ではない。なぜなら、私たちが直面している問題の多くは、すでに国家という枠組みを超えて地球規模で連動しているからである。

環境破壊、気候変動、資源の枯渇、そして武力衝突による難民の発生など、いずれも一国では完結しない課題である。ここで必要とされるのが、「惑星思考」と呼ぶべき視点である。

 

地球以外に生きる場所はない

惑星思考とは、国家エゴイズムや偏狭なナショナリズムを乗り越え、人類全体、さらには地球という生命圏そのものをひとつの共同体として捉える思想である。それは単なる理想論ではなく、相互依存が不可避となった現代における現実的な認識でもある。

ある地域での環境破壊は別の地域の生活を直撃し、ある国の戦争は遠く離れた場所にまで不安定さを波及させる。このような状況において、自国の利益のみを追求する態度は、結果的に自らの基盤をも損なう自己矛盾へと陥る。惑星思考は、この相互連関の事実を引き受け、地球規模での共存を倫理と政治の出発点に据えようとするものである。

人間主義が「誰もが等しく尊厳を持つ」という原理を提示するならば、惑星思考は「その尊厳を守るためには地球全体の持続可能性と連帯が不可欠である」という条件を示す。この2つは対立するものではなく、補い合う関係にある。個々の人間の尊厳を真に守ろうとするならば、その人間が生きる環境と社会の全体性を視野に入れざるをえないからである。

ゆえに私たちは、国境や民族や宗教といった境界に閉じた思考から一歩踏み出し、人間主義と惑星思考の双方に根ざした新たな次元へと思考を開いていかなければならない。国家ではなく、人間の尊厳そのものを基軸とし、同時に地球全体の連関の中でそれを捉え直す。そのとき、暴力と支配の連鎖はただ繰り返される運命ではなく、乗り越えうる歴史的課題として立ち現れてくる。

折しも、アルテミス計画で打ち上げられた宇宙船オリオンから見た「三日月の地球」写真が送られてきた。生身の人間が最も遠方からみた地球の姿である。人間は一時的に月や火星などに行けるかもしれないが、水や空気やオゾン層などで守られたこの惑星でしか生きていけない生物なのだ。現代科学技術は人類の特定のグループのエゴでこの惑星での人類生存条件を破壊できるほどのレベルにまで発展してしまった。

宇宙船オリオンからは見えない、宇宙船地球号を支配する国家や民族や宗教の枠組みは極めて強固であり、人びとの意識はそれらに深く結びついている。しかし、それでもなお問い続けるほかはない。

私たちは既存の国家や民族や宗教のために存在するのか、それとも人間としてこの唯一の惑星において生きるために必要な外在的観念や組織はいかにあるべきか。この問いを手放さず人間の尊厳と地球的連帯を思考の中心に据え続けるかぎり、暴力の連鎖を超える道は、かすかにではあれ、確かに私たちの前に開かれてくるのではないだろうか。

もちろん、その道は容易ではない。しかし諦めることなく粘り強く命のつづくかぎり繰り返す以外の道はない。

野口壽一