(2024年8月25日)

 「さきの大戦」と呼ぶ意味 

~虚と実をだます「言の葉」の力~

 

五大紙の社説など、めったに読まない。しかし日経新聞の8月16日号の1面をめくったら、2面右上社説欄が目に飛び込んできた。いつもは、1000字ほどの異なるテーマの原稿を2本並べて縦長に配置しているのだがこの日は15字19行7段ぶち抜き、2000字ほどかけてひとつのテーマを論じていた。大見出しは〝「さきの大戦」と呼ぶ意味を考えよう〟。
読者に直截に主張を突き付ける珍しい姿勢だ。読まないわけにはいかない。

主張をかいつまんで紹介すると、「さきの大戦」には4つの戦場があった。①1937年に始まった日中戦争、②次に日米戦争、③さらに東南アジアを植民地にしていた英仏蘭との戦争、④最後がソ連との戦争、だという。

おおよそ4つの戦争の総和として「さきの大戦」を捉えようとする<視点>は悪くない。
とくに、「大東亜戦争」という名称が含意する「大東亜新秩序はアジアの植民地解放というより日本の権益確保が実質であり、つまりは侵略だ。侵略の肯定と受け取られかねない呼称は避けるのが見識だろう」とただしく規定している点は同意できる。

つぎに「太平洋戦争」という呼称をとりあげ「太平洋での米国との戦争は本土空襲や沖縄戦、原爆投下の悲劇を生み、多大な犠牲を払った教訓から二度と戦争を繰り返さないという国民感情に結びついた」として「鎮魂と平和を祈るこの時期にしっくりくる呼び方だろう」としている。超軍国主義化した日本の無謀さにふれず戦争の被害・犠牲のみを強調するまとめには疑問を差しはさみたい気がするが、それもまあ、よしとしよう。

3つ目の戦争として「太平洋戦争というくくりではこぼれ落ちてしまう戦争」として「中国や東南アジアなどを侵略した加害の歴史」に焦点を当てている点は誉めてあげたい。しかし、その戦争の実相や中国人民をはじめとするアジア人民の闘いにまったくふれることなく「英仏蘭との戦争」が「結果として東南アジア諸国に独立の道を開いた」とつづくのはいただけない。これでは「大東亜戦争」論者を喜ばせる結論となってしまい、せっかくの前半の良さが減じられてしまう。

ところが、もっとまずいのは、最後の4つ目の戦争「ソ連との戦争」にかかわる部分だ。

多分、ヤルタ・ポツダムでの密約のあと、アメリカが広島へ原爆を投下した直後の8月8日にソ連が日ソ中立条約を破棄して参戦してきてからの「満州の惨状」を念頭に置いて「自国の軍隊が作戦を優先して民間人の保護を後回しにするとどうなるのか。日ソ戦争は悪例として後世に語り継がれるだろう」「肝に銘じたい」と書く。この「自国」は日本軍のはずだ。そうであれば、ここの叙述は極めて重要な指摘でかつ正しい。ところが、この指摘に直結させて「こうした人道危機は、いまもウクライナやパレスチナなど世界で絶えない。とりわけ強制連行などのロシアの非人道性は日ソ戦争の時代と変わらないようにみえる」とつづける。いつのまにか、日本軍が民間人を置き去りにして逃亡した事実によって生み出された惨状が、ソ連軍の民間人への暴行や連行などの「スターリンの悪行」にすり替えられている。このすり替え論法は、詐術である。

「自国の軍隊が作戦を優先して民間人の保護を後回しにするとどうなるのか」と指弾するのなら、もっときちんと「自国」を対象にすべきだろう。ソ連軍の突然の参戦に慌てふためき民間人を置き去りにして逃亡した関東軍の行為だけでなく、それ以前の沖縄戦。島民の命を無視した日本軍の作戦はどうだったのか。それ以前に、制空権を完全に失っても「本土決戦」を呼号し竹やり訓練など狂ったとしか思えない作戦に民間人を動員し、本土全土の国民、なかんずく東京都では大空襲でおびただしい数の民間人を殺し、広島・長崎の市民を見殺しにした「自国」はどこの国だ。

後で述べるが、ソ連が日ソ中立条約を破棄して参戦してきてからの数十日間だけが「日ソ戦争」ではない。日ソ戦争はその前、ノモンハン事件、さらにさかのぼれば1917年のロシア革命直後のシベリア出兵から見ていかなければ正しい認識にはたどり着けない。もちろん、日露戦争の復讐を煽るスターリン的誤謬による「惨状」が発生したことも無視すべきではない。

日経主張子は、結論を「ロシアの非人道性」に帰着させ、次には、その決めつけをうけて「相手を侵略する意思がなくても侵略されることは歴史上ままある。日ソ戦争にはまだ引き出す教訓が多い」という前後の文脈から切り離された意味不明の引用を行う。この指摘の狙いは「台湾有事にも当てはまろう」と結論することから明白になる。つまり、台湾や日本が中国に侵略する意図はなくても、中国やロシアから侵略される可能性がある、と言いたいのである。何たる飛躍、我田引水。主張子のおつむの程度を疑いたくなるが、実はそれは「頭の悪さ」のせいではなく、見え透いた下手な詐術のしからしむるところなのだ。

主張子は最後に次のように結論する。「戦争をより多面的に見ることができれば、それを防ぐ道筋もさまざまな角度から考えられるはずだ。大切なのはあの戦争をいつまでも「さきの大戦」にしておくことである」と。

これでは、たとえ不十分な論考であっても、「さきの大戦」を4つに分けてそれぞの原因と実相と解決方法を考える契機をせっかく手にしかかっていたのに、わけのわからないヌエ的な言葉で真実のすべてに蓋をかぶせてしまった。読者の論理的な思考をストップさせて、反ロシア、反中国の感情をあおることに主張子の狙いがあったとしても、上等なやりかたとは思えない。

言葉は、大東亜戦争でも、太平洋戦争でも、対米戦争でも、対ソ戦争でも、アジア・太平洋戦争でも、日中戦争でも、第2次世界大戦でも、何でもいい。せっかく日経新聞が「さきの戦争」を4つに分割し、「考えよう」と言ってくれたのだから、その4つの戦争について、じっくり、理性的、論理的に考えてみようではないか。

加えて、「さきの大戦」を「終戦」といい「敗戦」と呼ばない問題はもっと大きな偽計、虚偽、詐術の類だ。これについても次号以降で突き詰めていきたい。

虚と実をだます「言の葉」の力を恐れよう。

4つの戦争を徹底的に分析・解明し、戦後79年の歴史と明治維新157年の歴史を吟味し、日本の間違いを正すことなくして正道を歩むことはできない。

野口壽一