The true toll of the war in Ukraine is measured in bodies. This man brings them home, one at a time
(WAJ: 戦争とはつまるところ人が人を大量に殺しあう争いに他ならない。殺された兵士には無事を願い帰りを待つ家族がいる。しかし死んだ遺体は一人では帰れない。誰かが連れ帰らなければならない。このルポはロシアによるウクライナ侵略戦争で死んだ兵士の遺体回収の物語である。ウクライナは映画『ひまわり』で描かれた印象的なシーン、うねうねと地平線にまでつづく丘陵をびっしりと埋め尽くす十字架の群れが示すように、回収されなかったおびただしい数の兵士が命を落としそこで土となった。いままたウクライナは戦場となり双方で十万人以上が死んでいる。ウクライナ人であれロシア人であれ、自らも傷つきながら遺体をひとりずつ回収するボランティアがいる。涙なしには読めないルポだ。原文には目をそむけたくなるような写真もあるが、そちらはぜひ原文にアクセスしてほしい。以下、本文を抜粋紹介する。)
エリカ・キネッツ、ソロミーア・ヘラ
2024年4月4日
【ウクライナ、ドヴェンケ発AP】格闘技インストラクターのオレクシイ・ユコフ(38歳)はウクライナでボランティアの死体回収チームを率いている。死体を積み込んだトラック車内の匂いは病的で甘い。泥と廃墟の中に長く放置された死体の、犬が食い尽くさなかった死体の、強烈な匂いだ。
ユコフはある兵士の母親と電話中だ。母親は息子が戦闘で負傷し、置き去りにされたと聞いたが今どこにいるのかはわからない、と言う。
「息子は放置されて死にました。なのに今になって『英雄として死んだ!』とは一体・・・」と母親は言葉を詰まらせすすり泣く。
「泣かないで」とユコフ。 「弱音を吐いても誰も彼を救ってくれない・・・。泣かないで、誰の前でも! 涙がもったいない。泣くのは息子さんの墓の前だけにしてください。」
「全員連れ戻します」と彼は約束した。 「少し時間が必要ですが。」
ユコフはどんな母親にも同じことを言う。亡くなった子供たちのことを話してくれ、と。彼らが忘れられぬように。そんなユコフが特に忘れがたい人物がいる。その名はオレクサンドル・ロマノヴィチ・フリシウク。母親のオルハにとってはかわいいサーシャだ。
ユコフは昨年オルハと暗号化された音声メッセージで話したとき、サーシャの昔話を話すよう促した。「誰でも体験できる話じゃないんです」、と。
しかし、彼の方からは話の最も重要な部分を伝えなかった。つまりサーシャを家に連れ帰るのにどんなコストを払ったかを。
遺体を数える
ウクライナ戦争の本当のコスト — つまり双方が乗り越えるべき困難 — は、死体の数で測ることができる。
西側報道機関の推計によれば、ウクライナでの2年間の戦争で50万人以上が死傷したが、この人的被害は第二次世界大戦後ヨーロッパでは見られなかった規模だ。どちらが勝つかという問題は、どちらがより大きな損失を許容できるかに、ますますかかってきつつある。
その基準で言えば、モスクワが優勢だ。
アナリストらは、国際パートナーからの多大な援助がなければ、数十万人の死傷者にもかかわらず増強を続けるロシア軍にウクライナが勝つのは難しいだろうと述べている。一方、前線での弾薬不足にもかかわらず、米議会はウクライナへの600億ドルの援助を承認していない。
「時々、叫びたくなることがあります。叫ぶこと。それがどれほどの狂気と苦痛であるかを理解しているからです。死者を捜すこの仕事を完遂するには命が足りません」とユコフは言う。
「プーチンの政治は民主主義に非ず」とロシア・ウクライナ担当の元国防総省高官で現在はアリゾナ州立大学マケイン研究所所長のエブリン・ファルカスは語る。「プーチンは、もっと図太くなれるし、死体数を無視できるゆとりがある。」
一方、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は、より民主的な体制を率いており、「政府が戦争を機械的に遂行する最も強力な後押しは国民の意志だ」。
世界銀行のデータによると、2022年時点でロシアにおける戦闘年齢にある男性数はウクライナの3.7倍もあった。これは、西側情報機関による推計通りロシアがウクライナのほぼ2倍の死傷者を出していても、割合的にはロシアの損失は依然としてウクライナよりも少ないことを意味する。
ロンドンのシンクタンクである王立統合サービス協会(RUSI)の評価によると、現在の徴兵効率を維持できれば、クレムリンは2025年まで兵員喪失率を現在のレベルに押しとどめられるという。一方、ウクライナは今週、兵員補充のため、徴兵年齢を27歳から25歳に引き下げるという政治的に困難な措置を講じた。
ユコフは、遠くで眺める人々にとって、戦争は地政学で、戦死者はただの数字で、金は人よりも重要であることを理解している。しかし、彼の知識はそれを超える。
「戦争にはまた別の顔があります」と彼は語った。「それは死と愚かさと恐怖です。」
神は最良のものを取り去る
オルハ・フリシウクが息子と最後に話したとき、サーシャは春の作付け、菜園、飼っている馬や牛について質問した。鶏はたくさん卵を産んでいるか? まるで世界中の時間を独り占めしたかのような会話が続いた。 2022年5月15日のことだった。
サーシャは翌日消えた。
3日間、オルハにはなんの報せもなかった。母親は我慢した。任務中だから連絡が取れなくなるかもしれない、とサーシャは彼女に伝えていたから。
4日目、彼女は村長に電話した。村長は最寄りの軍事務所に電話し、サーシャの属する部隊に連絡した。答えは行方不明とのことだった。
サーシャは生まれつきの戦士ではなかった。2022年4月3日に徴兵されたが、アスリートだった彼は理学療法を学んでいた。出征したとき、オルハは息子に銀の十字架のネックレスを与えた。
笑顔が優しく、耳がとんがり、走るのが大好きな、母親も数え切れないほどたくさんの友達がいた息子は今どこにいるのだろうかと彼女はいぶかった。まだ見ぬ家族のために家を建てることを夢見ていた息子はどこにいったのだろうか?
「ウクライナには、神は最良のものを奪うという言い伝えがあります」とオルハは述べた。「その通りだと思います。」
サーシャの妻はソーシャルメディアで情報を求めた後、夫の部隊の兵士数人と直接話すことに成功した。
サーシャは死んだと言われた。砲撃が激しすぎたので、彼らは、サーシャの遺体を持ち帰ることができず、ロシア軍の手に落ちたウクライナ東部の田舎の集落ドヴェンケの地下室に遺体を隠すことしかできなかった。とても残念だった。サーシャを愛しているので、その後、発射する砲弾に彼の名前を書いた。彼は英雄だった、と兵士らは言った。
27歳のサーシャが戦地にいたのはきっかり6週間。つまり帰還する日だった。息子を取り戻せないからには、どんな形だろうがその証が欲しい。
しかし、どうやって?
オルハは電話をかけつづけた。その数が多すぎて記録するためにノートを買わなければならないほどだった。ウクライナ赤十字社、赤十字国際委員会、ウクライナ国家情報局、ウクライナ軍、捕虜治療調整本部、さがしだせる限りのあらゆるホットラインやボランティアグループに彼女は電話した。人権擁護委員に電子メールを送り、国防省、さらにはゼレンスキー大統領その人にも手紙を書いた。
彼女は誰が答えたのか、誰が答えなかったのか、そして誰が彼女に「待て、待て、待て」と言ったのかを書き留めた。オルハは6か月間、努力した。
「努力なしには生きていけませんでした。子供の骨さえ見られないなんて、どうしてあり得るのでしょう! 私自身もドヴェンケに行く準備ができていました!」と彼女は言った。
結局、人々は彼女に、ブラックチューリップがサーシャを家に連れて帰れないなら、誰も連れて帰れないと言った。
「私たちは埋葬されなければならない」
ブラックチューリップは、ロシアがクリミアを占領し、ウクライナ東部に進出した2014年にユコフが協力したボランティア遺体収集ネットワークの名前だ。ブラックチューリップはその後解散したが、その名前は記憶された。ユコフはブラックチューリップの使命を継続するために、「橋頭堡」を意味するプラッツダームと呼ばれる自身のグループを設立して活動してきた。
みんなを連れ戻すのがユコフの仕事だ。彼は木々の間に飛び散った死者の破片を集め、その破片を兵士の母親に返した。また、くすぶっているヘリコプターから焼けた人間の遺体を引っぱり出した。かつて、ある母親から息子の腕を回収してほしいと頼まれた。彼女はその腕がある木の枝にぶら下がったままになっていると聞いたのだ。そして回収した。野豚の糞便をかき分け、食べられた兵士たちの指の骨や歯を回収した。
「そうでしょう。もしあなたの子供が殺されたなら、糞便を歯で噛み砕いてでも埋葬のために遺体を探すでしょう」と彼は言った。
ユコフにとって死体が食い荒らされる前にすべての魂を持ち帰るのは時間との闘いだ。しかし、死体は多すぎる。すべてを車に乗せることはできない。ルーフに縛り付けても、両手で運んでも。その数に圧倒される。
「時おり、ただただ叫びたくなります。悲鳴を上げるのです。ひどい狂気と苦痛にさいなまれて」と彼は言った。「死者を捜すこの仕事を完遂するには命が足りないと分かっています。」
ユコフの物語は、何世代にもわたる紛争によって風景までもが変わってしまったウクライナの血塗られた土地に根付いた物語である。彼はウクライナ東部のスロヴィアンスクで、5人兄弟のうちの1人として寒さに震え空腹を抱えながら育った。彼らは兄のサンドバッグに詰められた乾燥エンドウ豆をかじってある冬を生き延びた。学んだのは分かち合うこと。最後のパン一切れまでも。
ユコフが6歳くらいのとき、新しい小児病院を建設するために地元の墓地が掘り起こされた。ブルドーザーが死者の衣服や骨を山に積み上げた。子どもたちは頭蓋骨を棒の先に突き指して走り回って遊んだ。
だがユコフは掘り出された死者の前に立ち、ショックを受け、恥ずかしく思った。「骨を見て、『くそ…これは人間だ!』と思った」とユコフは振り返る。 「もし自分の親戚がこの場所に埋葬されていたとしたらどうしよう?」
ユコフが子供時代を過ごした森には、第二次世界大戦時のドイツとソ連の兵士の骨がたくさんあり、それらはあまりに多く、真っ白に散らばり、雪のように見える場所もあった。
彼は13歳のときから死者の捜索を始めたが、最初は失敗もした。彼が傷つけた、あるいは見つけられなかった魂が彼につきまとった。彼は肋骨を突かれるのを感じて眠りから覚めると、めまいがして鼻血を出していた。
「なぜ来つづけるのだ?」と彼は幽霊に問うた。「何が欲しいんだ?」
少年の頃に夢を見た。森の中を走り、穴ぼこや溝を飛び越え、奈落に落ち、ルビー色の光の中に深く落ちていく。まず匂い、そして数々の死体。足下の骨が滑り体が沈んでいった。
夢の中で「誰かが私の首筋をつかみ『俺たちを埋葬してくれ』とささやいた」のを彼は覚えている。
目が覚めた。汗だくだった。そのとき、自分が何をしなければならないかを知った。
「伝統や儀式に則って埋葬されるまで、魂は苦しみます。したがって、たとえそれが敵であっても、彼らを家に返して適切に埋葬し、彼らの魂を落ち着かせることが私にとって非常に重要なのです」とユコフは語った。 「地元の人たちは私たちを『魂の収集家』と呼んでいます。」
運命の触雷
2022 年の夏の終わり、オルハとサーシャの兄弟がユコフに助けを求めた。二人はサーシャとそのタトゥーの写真、そして彼のおおよその位置を示す衛星画像を送ってきた。
ユコフはロシア軍が去って間もない9月にドヴェンケに到着した。建物の90%以上が破壊または損傷しており、サーシャの部隊が彼を置いてきたと主張する地下室を見つけるのは困難だった。また、地雷もあった。
彼らは何日もかけて探した。 9月19日、ユコフが一歩踏み出すと、カチッという音が聞こえた。爆発の力で彼は地面に倒れた。
ユコフは語る。「その場に倒れていました。両足がないと感じました」とユコフは言った。「なぜか『大丈夫、義足を付けよう』って思いました。でも、両足の傷から血が噴き出しているのが見えました。またなぜか『大丈夫、足はあるぜ。』すると突然、片目が見えないのに気づきました。目がないのです。」
彼のチームが叫びながら彼に向かって走って来た。「ストップ! 走るな、止まれ!」ユコフは彼らも地雷に吹っ飛ばされると心配して叫んだ。 「止血帯と担架を持ってきてくれ!」
隊員は、無言でしかし急いで彼を病院に連れて行った。エンジンの大きな音に驚いた探査犬が車内で吠えた。止血帯で足を締め付けられユコフは、後部座席でぐったりしていた。右目があった場所の血の付いた白い布を慎重に触った。
2週間後、ユコフはサーシャを見つけるため、片目に海賊のようにパッチを当て、松葉杖をつき、よろめきながら、全員をドヴェンケに連れ帰った。しかし、依然として危険すぎた。地雷が除去されるまでさらに数週間待たなければならなかった。その時には、ユコフには新しいガラスの目がはめられていた。指ではじいて確認しないと騙されるほど本物そっくりの義眼だった。
サーシャ探索でドヴェンケに戻ったとき、鼻を負傷した灰色の子猫がユコフの肩に飛び乗り、鼻をすり寄せてきた。猫は瓦礫の中の一点をひとまわりした。隊員らはそこを掘り始めた。
「魂がやって来て、私たちの隣をさまよっているのです」とユコフは説明した。「子猫はサインでした。彼がどこに横たわっているかを知らせたのです・・・彼は家に帰りたがっています。お母さんが待っています。」
サーシャは倒壊した建物の瓦礫の下敷きになっていた。現場は焼け焦げだった。 120mm迫撃砲の破片と大規模な爆発の痕跡があった。
コンクリートの最後の層を削り壊す頃には、あたりは暗くなっていた。ユコフがかつてキックボクシングのコーチとして教えていた21歳のデニス・ソスネンコは、穴に降りて指で土を慎重に探り、骨を探した。
ヘルメットの残骸が見つかった。ユコフはデニスに、サーシャの頭の破片をまとめてヘルメットの中にいれておくように言った。彼は濡れて黄ばんだサーシャの頭蓋骨の一部をヘルメットごとユコフに手渡した。ユコフはそれを大きな白い袋にそっと入れた。真っ暗で懐中電灯の光だけで作業していた。すべての断片を回収するのは困難だった。
デニスは、土がこびりついた銀の十字架を掘り出して脇に置き、次にスプーンと時計を掘り出した。
ユコフは続けて、サーシャの遺骨の大まかな解剖学的目録を作成した。腕。背骨。骨盤。大腿骨。肘。
ユコフは言った。「待て。もう一方の腕と肩甲骨はどこだ?」
2022年11月25日のことだった。
2か月後、デニスは遺体捜索中に地雷を踏んで死亡した。
ロシア人11名と片足
ほとんどの戦争と同様、双方とも損失を軽視するか隠蔽している。本当の損失は何年先まで分からない可能性がある。しかし空から見ると、すでに大勢の死者が風景を変えつつある。(掲載された墓地の写真では)かつては空き地だった空間が、今では新鮮な墓石のパッチワークで埋め尽くされている。
ゼレンスキー大統領は最近、この戦争でウクライナ兵士が3万1000人死亡したが、それは西側情報機関の推定の半分にも満たないと述べた。ロシアの損失はウクライナの約2倍と考えられている。
AP通信は、衛星画像と現地調査の結果から、戦没者が大規模に集積しているロシアとウクライナのいくつかの主要な場所で兵士の墓が急速に拡大していることを記録している。
3月までに、2年前まで空き地だったリヴィウ郊外の一画に650人以上の兵士が埋葬され、キエフの墓地には800人以上の新たな兵士の墓が作られた。衛星画像によると、2022年2月から2023年9月にかけて、ハリコフ墓地の2つの兵士用区画に約700の墓が出現した。 AP通信はまた、3月にドニプロペトロウシクの墓地に新しい兵士の墓を少なくとも1345基まで数えた。さらにその脇には、つぎの遺体を待つ6列の整然とした区画が整えられている。
さらに多くの死者がウクライナとロシアの両国に散在し、民間人の墓の中にひっそりと埋もれている。
ロシアの独立報道機関「メディアゾナ」は、戦没者で膨れ上がった数十のロシア人墓地の場所を特定した。 BBCのロシア放送局とボランティアのネットワークとともに、彼らは本格的な侵攻以来約5万人のロシア兵の死亡を確認しており、おそらく本当の死者数はその2倍以上であると彼らは述べている。この人数には、ウクライナの占領地で死んだロシア兵は含まれていない。
ユコフは、2年前に本格的な侵攻が始まって以来、1000体以上の遺体を回収しており、その半数以上がロシア人だったという。
「私たちは死者と戦っているわけではありません」と彼は言った。 「私はロシア兵とウクライナ兵の遺体を差別しません。どちらもすべて私にとって魂なのです。」
10月のある夜、ユコフは車の屋根に黒い遺体袋を縛り付けて、スロヴィアンスク近郊の任務から戻ってきた。彼が遺体安置所に荷物を届けようと急いでいたとき、荷物はデコボコ道で危険なほど跳ね返った。
その日の遺体はロシア人11人と片足で、その足はブーツから判断するとおそらくウクライナ人のものだった。彼らの受けた傷は記録されるだろう。彼らが持っていたもの、効果のなかったお守り、子供の絵、家族の写真、愛と絶望の手紙などは収集され、カタログ化された。必要に応じて彼らのDNAが検査され、彼らの身元が政府のデータベースに記録される。
ウクライナ人たちの遺体が故郷に送られることがユコフの願いだ。ロシア人の遺体は定期的な戦死者交換でウクライナ人の遺体との交換通貨となるだろう。
「誰かが『戦争にはうんざりだ』と言えば、同意します。皆疲れているし」 とユコフは言う。「しかし、理解してほしいのです。助けてくれということを。知らぬ振りは止めてください。戦争には国境がないし、戦争はあなたの戸口にもやって来ます。」
彼は遺体袋の中を覗いた。ロシア兵の亡骸は日にさらされ、顔の肉の一部がミイラ化していた。ユコフは、彼らが死んでから約3か月が経過していると考えた。
突然怒りがこみ上げた。ユコフは興奮してロシア語で話し始めた。
「誰がこの子をお腹に宿したのだ。ロシア人の息子たちは今、ここ、ウクライナの地に横たわっているんだ。なぜ彼らをここに来させたのだ? これはどういうことなんだ、彼らが殺し、殺されるということは分かっていたはずだ。」
ユコフは夜草の上に横たわる遺体を見下ろした。「いつも最後はこうして終わる」と彼は言った。
彼は背を向けて少し笑い声を上げ、その後話すのをやめて黙って首を横に振った。
「わからない・・・愚かだ。」
天空を共に支える
オルハは長い間、行方不明は生きているんだ、と願っていた。しかし、ユコフがドヴェンケの地下室で見つけたネックレスの写真を送ると、オルハはすぐにそれを認めた。それはサーシャが出征するときに与えたものと同じ銀のイエスだった。今ではそれが展示品番号3118とされ、泥まみれの死者の証拠となっていた。
オルハは二度と息子の顔を見ることができなかった。遺体を取り戻した時、サーシャにはもう顔がなかった。これは彼女にとって大事だっだった。なぜなら、何かの間違いではないかという、小さな、痛みを伴う希望が育まれたからだ。
ユコフは母親たちにとって希望の破壊者だ。しかし、母親たちはとにかく彼に感謝している。
ユコフはサーシャを見つけた後、「なんとかやり遂げることができてほっとしています」とオルハにメッセージを送った。 「私たちはあなたを抱きしめて願います。サーシャについてもっと知るためにあなたに会えることを。私たちはあなたと共に天空を支えているのです。」
「あなたの仕事はかけがえのないものです」と彼女は返事した。
オルハは2023年3月16日、サーシャの遺品を村の墓地に、花を飾りリボンを巻っきつけた十字架の下に埋葬した。
「彼の遺体が私の傍らにあると知ることは私にとってとても重要です」とオルハは語った。「私たち全員が勝利を待っています。私にとって、それが最も重要なことです。私たちが勝てなかったら、私の息子は何のために死んだのでしょう? そして他の多くの息子たちは何のために死んだのでしょうか?」
ユコフはオルハに、息子を探す途中で片目を失ったことを決して告げなかった。
後に何が起こったのかを聞かされると、彼女はかすかにうなずき、眉間の表情は無限の悲しみへと深まった。
「言葉では言い表せないほど感謝しています」と彼女は語った。彼女は手を広げて顔を上げ、喪失の大きさを伝える言葉を探した。 「とてもショックです・・・私と私の家族のために彼が払ってくれた犠牲を、私は生きている限り忘れることはありません。」
オルハは毎日サーシャの墓を訪れ、彼と一緒に座り、話をし、彼、そしておそらく彼女自身が安らぎを見つけられるように祈っている。
オルハは語った。「人々が何と言おうと、サーシャが家に帰りたかったのはわかっています。時々、テレビ、インターネット、TikTokなどを見て、こう思います。『そうね、負けたのね』と。諦めそうになります・・・でも、オレクシイ(ユコフ)の動画を見ていると、ずっと応援したくなります。オレクシイのような人がいるなら、ウクライナではまだ何も失われません。」