(2025年12月24日)

 Think global, act localと Planetarity 

~ アフガニスタン、日本、市民的知の実践を結ぶ視点 ~

 

きっかけは千葉のある会合

先週、ある会合に招かれて、いろいろと考えるきっかけを与えられた。「『ちば産学官連携プラットフォーム』2025年度活動報告会」だ。

考えさせられたのは、その会合に出席して、表題に掲げた「Think global, act local」という言葉を思い出したところから始まった。

出席する前「産学官連携」という言葉から、工業地帯千葉の産業を構成する大小さまざまな企業と大学や行政の連携をイメージしていた。というのは、私はアフガニスタン問題に取り組む過程で会社をおこし世田谷区で行政とも連携し「246コミュニティ」という企業支援の活動をしたり、東京工業大学の同窓会組織である蔵前工業会で大田区や大田区産業プラザPiOをつうじて大田区の企業と交流したりした経験があったからだ。

ところが報告会で取り上げられていたテーマは、、就学、就職、生涯学習支援、子育て、デジタル教育、シニアケアなどの社会事業など、地域社会で取り組まれる生活上のさまざまな課題に地元の大学が地道に取り組んでいるその活動だった。出席してみて、千葉明徳短期大学の施設をお借りして実践している、アフガン女性への日本語学習支援、その子供たちの託児活動をしているわれわれに、なぜ声がかかったのかを得心した。報告会の概要は別稿に書いたのでそちらを参照してほしい。

日本最大の、というより世界でも有数の工業地帯である千葉市や市川市の住民の切実な生活ニーズに大学がどう貢献するか、そこではそれが問われていた。

 

インターネット黎明期に

「Think global, act local」のスローガンを知ったのは、私がアフガニスタンとの貿易業務をメインとする株式会社キャラバンという会社をつくって活動した1980年代後半から90年代にかけてだった。貿易ははかばかしく進まなかったが、併行してはじめたDTP(コンピュータをつかった製版・印刷)業務は予想外の進展を遂げた。Appleのマッキントッシュシステムの導入から始めた。Appleは当時スティーブ・ジョブスが「Think defferent」を唱えて業界を席巻していたが、同時にアメリカからもたらされたスローガンが「Think global, act local」だった。

このスローガンは、「世界規模で考え、地域規模で行動せよ」と呼びかけるものだった。インターネットの黎明期だったこの時期、アメリカが世界的に展開する経済活動をグローバリズムと表現する傾向とあいまって、日本でも流布した。

グローバリズムはアメリカナイズに他ならないとして批判する視点は当時からあった。しかし私は、グローバリズムそのものは資本の本源的な性質であり、歴史的に避けられない動向である、「Act local」とセットにすることによって、ナショナリズムを克服する契機となりうるのではないか、とそのスローガンの積極面をみる立場に立った。

 

グローバリズムの進展のなかで

環境保護運動の標語としても知られる「Think global, act local」(世界規模で考え、地域規模で行動せよ)は、アフガニスタン問題を日本で考える際にも、きわめて重要な視点をあたえる、と私は考えていた。本サイトの名称を「ウエッブ・アフガン・イン・ジャパン(WAJ):アフガニスタンと世界の平和、人権、平和のために」としたのもそのような考えからだった。

アフガニスタンはしばしば、「宗教」「部族」「過激主義」といった単純な言葉(レッテル)で語られがちだ。しかし現実には、20世紀までの帝国主義、冷戦、対テロ戦争、そして現在の国際政治が複雑に絡み合う、世界史の只中に置かれてきた国である。アフガニスタンを理解するためには、まず世界史的・地政学的な構造――すなわち「Think global」が不可欠である。

しかし、世界構造を理解するだけでは十分ではない。大国の論理や抽象的理念だけで語られるとき、アフガニスタンの人びとの足元の生活や声は、簡単に見えなくなってしまう。そこで必要になるのが、Act localという姿勢である。翻訳し、記録し、日本語で伝え、議論する。小さく見えるこれらの行為こそが、アフガニスタンを「遠い出来事」から、日本社会の中で考えるべき現実へと引き寄せる、と考えた。

この視点は、日本の市民社会にも当てはまる。日本はアフガニスタンやガザやウクライナなどの戦場から遠い場所にあるように見えるが、エネルギー、経済、安全保障、難民問題を通じて、すでに深く世界と結びついている。世界の問題をただ消費するのではなく、日本語の言論空間で咀嚼し、共有すること――それは、日本に生きる私たちにできる、最も現実的な国際関与のひとつではないだろうか。

「Think global, act local」とは、過激な思想を煽る言葉でも、無力感に甘んじる言葉でもない。世界の複雑さを直視しながら、自分の立つ場所で責任を引き受けるための知的態度である。ウエッブ・アフガン の活動もまた、世界史的な問題を、日本のわれわれが考え、議論できる「場」に引き寄せるという意味で、この言葉の実践にほかならない。

日本の市民社会において、アフガニスタン(やパレスチナやウクライナ・ロシア)や世界を理解しようとするのは、同時に、私たち自身の社会のあり方を問い直すことでもある。日本はすでに深くグローバル構造に組み込まれている。世界の問題を「遠い出来事」として消費するのではなく、日本社会の言論空間で咀嚼し、共有し、議論可能な知へと翻訳すること――これはローカルな行動でありながら、グローバルな責任を引き受ける行為である。『ウエッブ・アフガン』のような市民的メディアや小規模な知的共同体の役割は、ここにあると言える。

学術・言論活動の領域では、この言葉は方法論そのものを示している。理論や思想を普遍的真理として提示するのではなく、それが生まれた歴史的・政治的条件を見極め、同時にわれわれが生きる場所で意味を持つ形に再構成すること。これは、グローバルな知の体系をローカルな言語と文脈に移植する営みであり、学問の社会的責任でもある。思想を「輸入」するのではなく、「翻訳し、位置づけ、問い直し、創り上げる」ことが求められている。

以上を貫くのは、抽象化や曖昧化やシニシズムへの抵抗でもある。世界を単純化せず、しかし無力感に陥らず、自分が関われる場所で行動する。「Think global, act local」 とは、過激な理念でも、内向きの現実主義でもない。むしろそれは、帝国主義や植民地主義、イデオロギーが見落としてきた「人間のスケール」を取り戻すための、成熟した知的・倫理的態度なのである。

 

「Think global」のその先

しかし「Think global」の思想は、20世紀末から21世紀にかけて、資本主義の行き詰まりおよび軍産複合体および世界金融による地球支配の現実の前に限界が露呈してきた。

「グローバル」という言葉は、一見すると中立的で包摂的に見える。だが実際には、それは多くの場合、<国家><国際機関><安全保障><市場><開発モデル>などといった、人間中心・制度中心・管理可能な世界像を前提としてきた。つまり「グローバル」とは、把握できる世界、地図化できる世界、境界線で区画された統治可能な世界を意味してきたのである。

アフガニスタンをめぐる議論でも、この限界は繰り返し露呈してきた。
民主化、国家建設、テロ対策、人権――いずれも「グローバルな正義」の名のもとに語られたが、その多くは、土地の記憶、非合理に見える慣行、語られない喪失、声にならない経験、宗教的現実を切り捨ててきた。

ここに「グローバルに考える」ことの到達点、同時に行き詰まりがある。ではその限界をどう乗り越えるのか。「Think global」を内包しつつ超える概念はないのか。あるのだ。それが「Planetarity(プラネタリティ)」(惑星思考)である。

本サイトに初めてこの言葉を登場させたのは、<視点:077>の岡和田晃さんへのインタビュー「詩の持つ力を信じて~岡和田晃さんに聞く~」だった。アフガニスタンの抵抗詩人ソマイア・ラミシュさんの呼びかけに応える日本の詩人たちの先頭に立った彼が提唱し、実践する思想である。

ソマイア・ラミシュさんの呼びかけに応えて出版された各国語版『詩の檻はない』や2024年に一日で地球を一周する詩の朗読会「グローバル・ポエトリーナイト」はまさに「Planetarity(プラネタリティ)」(惑星思考)の実践例だった。

次号以降、この視点をさらに掘り下げて考えてみたい。

【野口壽一】