(2024年6月25日)

 脱植民地主義の途 精神篇 

~上皇上皇后ご夫妻の想い~

 

記憶の再帰、スリランカ紀行

先号のアフガンニュースレターで長谷川隆さんの「スリランカ紀行:日本を分割占領から救った『愛』の演説」(ユーラシア欄「ネパール今昔ほか、元青年海外協力隊員の諸国訪問記」)を紹介した。スリランカを訪問すると伺っていたので、帰国されたら紀行文を寄せてください、と頼んでおいたのだった。

41年ぶりの訪問と伺っていた。さぞ時代の移り変わりを報告されるのか、と思っていた。私は経済困難でデフォルト状態に陥っているスリランカの社会・経済状況がどうなのか、にまず興味の先が向いていた。

ところが、長谷川さんの紀行文は、寺院訪問記はそこそこに、のっけからあまり知られていない日本に関する元セイロン代表の演説の紹介だった。それは1951年、サンフランシスコ講和会議に参加した故ジャヤワルダナ元大統領の演説。そして紀行文全体がその演説にからむ話に終始した。一読して感動。戦後日本が国際社会に再登場することになったサンフランシスコ講和会議について、私は、アメリカ主導で対ソ冷戦を仕掛けるアメリカの意向に沿った国際会議、の視点から発言をしてきた。

長谷川さんのレポートを読んで、歴史の記憶が蘇るとともに、その記憶を現代に生かす必要性を痛感した。

 

憎悪は憎悪によって止むことはない

故ジャヤワルダナ元大統領は「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む(hatred ceases not by hatred, but by love)という仏陀の言葉を引用し、対日賠償請求権の放棄を明らかにするとともに、わが国(注:日本のこと)を国際社会の一員として受け入れるよう訴える演説を行った」と長谷川さんは書き、さらに「この演説は、当時わが国に対し厳しい制裁処置を求めていた一部の戦勝国をも動かしたとも言われ、その後のわが国の国際社会復帰への道につながるひとつの象徴的出来事として記憶されています」と書いている。

当時、日本政府は戦勝国からの巨額賠償金請求や米・英・ソ・中による4分割統治プラン等に脅えていた。ところが、セイロン(現在のスリランカ)代表の演説によって会議の雰囲気が一変し、敗戦国日本を穏便に扱い、平和で力強い「仲間」にしようということになった。

日本が「八紘一宇」や「大東亜共栄圏」のスローガンをかかげて大陸や南方に進出した歴史は誰でも知っている。しかしそれに対する評価はさまざまだ。「足を踏まれたものの痛みは踏んだものにはわからない」という格言がある。この真実には後半がある。踏んだ事実を知らされて、踏まれた痛みを想像して反省する人間と、事実を知らされて無視または逆上する人間がいる。ところが、そんな人間がいることを承知の上で、踏んだ人間を許す人もいるのだ。そのひとりが故ジャヤワルダナ元大統領だった。

ところで、足を踏んだのは日本だけではなかった。イギリスやオランダやスペインやポルトガルやフランスやドイツやアメリは大航海時代以降、世界中を踏みつけにし、荒らしまくり、略奪の限りを尽くしてきた。地球を半周してアジア・東アジアを踏みつけ回っているうちに日本と衝突した。踏まれた人々はさまざまな方法で戦った。戦禍を交えたものもいたし、ガンジーのように非暴力を貫いた人もいた。西洋の野蛮な圧力に日本の力をかりて闘おうとする人びとも現れた。

日本は奇跡的に、英仏米の干渉を排して明治維新を達成し、南下してくるロシアをはねのけて独立を維持した。ところが列強のまねごとをして台湾、韓国、大陸へと進出し、欧米列強(植民地主義・帝国主義国)と資源の争奪、植民地の争奪をするまでになった。

遅かりしといえど、最後の分水嶺は、大アジア主義をとなえていた孫文が、欧米の覇道に追随するのかそれとも東洋の王道を示すのか、と神戸で演説し、日本に問うた1924年(大正13年)だったのではないだろうか。日本は資源と領土をもとめて八紘一宇をとなえ大東亜共栄圏建設に突っ走る。満州へは植民者を送り込み領土となす植民者植民地主義(現在のイスラエルが行っている蛮行)を敢行する。明治以降日本は北海道でこの植民者植民地主義(屯田兵制度)を実行し経験済みであった。

第2次世界大戦は第1次世界大戦に敗れたドイツなどの諸国が領土や植民地の奪還をもとめて戦った戦争だった。それが、ナチスドイツがソ連攻撃に走りヨーロッパ全域を飲み込む戦争になった。そしてそれだけでなく戦争はアフリカやアジアに拡大し世界戦争となった。英米仏ソ連はその戦争をナチズムや日本軍国主義にたいする「反ファシズム戦争」と位置づけた。

西洋列強におくれて植民地争奪戦に参加していた大日本帝国は、優勢に戦いを進める失地回復組のドイツやイタリアと同盟をむすびアジアの利権を確保しようと試みた。

それが日本の言う大東亜戦争だった。1943年に、日本は大東亜会議を開き、欧米の人種差別的な支配に抗してアジアの独立と平和共存をはかろうとした。参加国は日本の他は中華民国(汪兆銘政権)、満州国、フィリピン、ビルマ、タイの6カ国であった。東遊運動(トンズー運動)などで親日的な運動が盛んであったベトナムはなどインドシナ各国は招かれなかった。なぜなら当時のインドシナ三国はナチスに負けて親ナチスとなったフランス・のフィジー政権下の植民地だったからである。大東亜共栄圏構想の「植民地からの独立」なるスローガンがいかにインチキなものであったか、この一事だけからも明瞭に見て取れる。馬脚を現すとはこういうことを言うのであろう。

 

「反ファシズム戦争」から世界的植民地独立の大波へ

しかし、第2次世界大戦は、帝国主義国同士の領土・植民地争奪の戦争から、反ファシズムの戦争に性格が変わるにつれて、植民地諸国人民の独立への渇望を覚醒させた。第2次世界大戦終了後直後のベトナムやインドネシアや中国やフィリピンやインドなどのアジア諸国やアフリカの植民地とされていた諸国の怒涛のごとき独立の波は欧米植民地主義国のくびきからの解放でもあったのである。

それを印象付ける史実がある。インドネシアが1945年8月17日の独立宣言の日付に西暦でなく皇紀(2605年)を使ったことである。その理由としては諸説があるが、背景には、西洋列強にたいして日本が抗った歴史が反映されていることは明らかだろう。

同じような例は、東京裁判におけるパール判事の意見がある。同判事は東条英機以下全被告の「無罪」を主張した。しかしこの「無罪」主張は大日本帝国が行った軍事行動を「無罪」としたわけではない。むしろその行動は「欧米」が行ってきた植民地政策、植民地争奪の戦争行為と同じく「有罪」であるが、戦勝国が戦後法に基づいてさばくこと(遡及処分)はできない、という当然の意見なのである。「勝てば官軍」の論理を否定しただけである。パール判事はインド出身であり、植民された人民としての感覚と意思をもって官軍処分に反対したのであった。

スリランカの故ジャヤワルダナ元大統領の「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む」の精神に基づく戦争賠償の放棄は、1972年の日中国交回復交渉でも表明された。日中の政治判断が「愛の精神」に満ちたものであったかどうかはさておき、踏まれた側からの「許し」の表明であったことは間違いない。問題はその後の日本の「靖国」問題や「南京虐殺」事件など日中両国の外交事案処理のまずさにあったのではないのだろうか。

 

「足を踏んだ」自覚をもつことの重要性

ここまで長々と書いてきたのは、「足を踏んだ」側が「足を踏んだ」との自覚をもつことの重要性を強調するためである。日本の敗戦直後、政治家は保守・革新を問わずその自覚を持ったものが多かったと思う。むしろ「思わされていた」あるいは「思っているふりをした」のかもしれない。それがいつのまにか「美しい日本をとりもどす」というキャンペーンによって「踏んだ」記憶を忘れるどころか欧米によって「踏まれた」との意識すら芽生えてきている。

そんなときであるからこそ、本サイトでは、「世界の声」に「しかり、大学のカリキュラムは脱植民地化にもっと焦点を」(ハワード・W・フレンチ) を掲載した。その内容を一言でいえば、現代において台頭しつつある「グローバルサウル」諸国との連携をもとめるなら「『脱植民地化』の思想を徹底せよ」「大学教育の場でもそこに焦点を当てよ」ということである。つまり、欧米日本など植民地主義列強が「足を踏んだ」ことを自覚し、「『許し』を与えてくれた諸国人民に応える行動をとれ」、ということである。

いま、ウクライナ戦争でロシアの侵略を糾弾している先進諸国といわれる国々がパレスチナ問題ではガザで非人道的行為の数々を犯しているイスラエルを支持・支援している。イスラエルが戦争によって獲得しようとしているのは「拉致された人々の奪還」ではない。真の狙いはガザの土地であり、ガザからパレスチナ人を消し去ることである。これこそ、アメリカがアメリカ大陸でおこない、日本が北海道でおこない、満州で行おうとして失敗した植民者植民地主義にほかならない。

足を踏まれ続けてきたグローバルサウスの人びとは足を踏み続けてきた国々の動向を見つめている。本サイトが書評で紹介した「中国 第二の大陸アフリカ 100万の移民が築く新たな帝国」で、ハワード・W・フレンチは、「足を踏まれた」経験をもつ中国が、「先進植民地主義とは異なる」と自称するアフリカ政策が果たして日本がかつて北海道へ、満州へ、ハワイへ、北米アメリカへ、南米へおこってきた「移民政策」=次男三男の棄民政策=植民者植民地主義とどこが違うのか? と問うている。日本の経験は失敗したが膨大な人口(日本の10倍以上)を持ち、海外へ移住しその地に定着してコロニーをつくる民族性をもつ中国は、日本とはけた違いの影響を世界に与えるに違いない。そしてその影響は中国国内にブーメランのごとく返ってくる。

スペイン、ポルトガル、イギリス、フランス、ドイツと続いてきた旧植民地主義、イギリス、フランスの北米への植民者植民地主義=アメリカの建国、第2次世界大戦後の新植民地主義。形態はさまざまに変貌してきた。しかし現在、先進国と新興・途上国と呼ばれるグローバルサウスとの対比が顕現してきた。G7に集う諸国が、中ロと異なる世界のリーダーとなりたいのであれば、「他人の足を踏み続けてきた過去」を「脱」して、自国の利益を実現するためだけの「二枚舌」外交を止めなければならない。

★ 最後に、本サイトが出発にあたって掲げた論文を紹介しておきたい。それは、戦後「足を踏みつけた国の元首として」慰霊の旅を続けられた現上皇ご夫妻に関して、防衛省研究者が執筆した論文である。タイトルは「上皇上皇后両陛下のフィリピン御訪問-『慰霊の旅』の集大成として」。

この論文ではフィリピンの当時のアキノ大統領にして「両陛下は生まれながらにしてこうした重荷を担い、両国の歴史に影を落とした時期に他者が下した決断の重みを背負ってこられねばならなかった」と言わせしめた事実が述べられ、「足を踏んだものの償い」を行動で示した両陛下の『慰霊の旅』の意味を心にとめ、常に想起し継承する必要が強調されている。

戦争に直接の責任のないわれわれの世代だとはいえ、戦争に最大の責任をもつ天皇の子として生まれた運命を背負い行動された上皇上皇后陛下の精神的あり方を共有しなければならない。

野口壽一