The hijab conundrum in Iran, Afghanistan and India
(WAJ: このエッセーは昨年に書かれた少し古いものだが、ますます今日的な価値を高めているので、翻訳紹介した。ヒジャブのかぶり方を問題にされ拘束され殺されたイランのマフサ・アミニさんの死をきっかけに始まった昨年秋からの大衆的な抗議行動については『ウエッブ・アフガン』トピックス欄で昨年9月頃の一連の記事を参考にしてほしい。また、インドにおけるミソジニー(女性嫌悪、女性蔑視)についても本サイトでしばしば言及したが、最新の状況については読書コーナーで紹介の投稿があった。こちらもぜひ参考にしていただきたい。)
September 29, 2022, 10:58 PM IST
Ashali Varma in No Free Lunch, Lifestyle, TOI
2022年9月29日
タイムズ・オブ・インディア 生活欄
アシャリ・ヴァルマのブログ「無料ランチなんてない」
アシャリ・ヴァルマ:フリージャーナリスト。父である故PSバガット中将の伝記『ヴィクトリア十字勲章:ある愛の物語』を執筆:1990年、ニューヨークのInternational Commentary Service Incでエグゼクティブ・プロデューサーを務める。1992年から98年まで、ニューヨークのアースタイムズのエグゼクティブ・パブリッシャー。国連開発計画「チョイス」誌の編集者。人権、人口、持続可能な開発など、さまざまな問題について執筆活動を行っている。
ザ・タイムズ・オブ・インディア(The Times of India)は、インドの日刊の英字新聞である。英字新聞としての発行数は世界最多。2022年時点で世界の新聞発行数4位の約300万部が発行されている。
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ここ数週間、イランでの抗議行動に対し、聖職者たちが暴力的に弾圧し、治安部隊によって40人以上の若者が射殺されるに至ったと報じられている。22歳の女性マフサ・アミニは、ヒジャブを正しく着用しなかったという理由で、名誉警察によって残酷に殺された。ほとんどの国では犯罪とはみなされなかっただろうが、イランやアフガニスタンではヒジャブ、あるいはブルカまでもが女性を特徴づけるものなのだ。
彼女の残酷な死がきっかけとなり始まった抗議は、老若男女が道徳の名の下での取り締まりにうんざりしたことを示し、イランのいくつかの都市や町で、数千人のデモが巻き起こり、イスラム独裁政権にはもはや支配されたくないとの声を上げた。
この動きは、しばらく醸成されてきてはいたが、例の抑圧的法律が国の女性を低きに抑えつける役目を果たした。頭に包帯を巻かれ、口に酸素チューブを入れられたアミニの写真を見て、私は気落ちした。彼女の立場にいる自分を簡単には想像できないが、イランでは何百万人もの女性たちが警察に逆らい、髪を切って火をつけ、古臭い女性差別的な法律のために理由もなく殺された1人の少女に同情を示している。今日、地球上には30億人以上の女性がいる。もし彼女たちすべての声が、今日ほんの数カ国だけに通用するターリバーンのような魂に届き、伝わったならば、どんな衝撃を与えるだろうか。
私たち全員が団結し、特にそのほとんどが男性である世界中の権力者が、イランやアフガニスタンのような国々に対し「あなたの時代遅れの考え方は21世紀の世界には居場所がない」と言うべきではないか。
私の心に焼き付いているもう一つの写真は、兄弟の葬儀に出席したイラン女性の写真。彼も抗議活動に参加したとして警察によって残忍に射殺された。彼女は遺体に覆いかぶさって泣き、必至で長い髪を彼の上半身にぶつけて音を立てた。彼女の必死の行動を見るだけで、私の心臓は凍り付いた。その瞬間、私は彼女と一緒にいた。私は彼女の気持ちを感じることができた。けれども、何もすることができなかった。私の体は何千マイルも離れていたため、できるのは泣くことだけだった。 7世紀に生きた男どもが統治する国々で、女性に対して行われている恐ろしい不当行為に、みなで泣け。
なぜ、女性や少女の頭にかぶせられた一枚の布に、それほど大きな意味があるべきなのだろうか? なぜ女性は髪を見せることが出来ないのか? なぜアフガニスタンでのように顔を隠し、黒で覆われ、わずかなスリット越しに周りを見なくてはならないのか。どれだけ閉塞感に苦しまねばならないのか? なぜそうと決めた男性自身ががブルカをかぶり、女性は放っておかないのか?
これについては、これまで多くの議論がある。たいていの人は、特にクルアーンを読んだことのある女性は、ヒジャブは強制的なものではないと言う。ところが、男がしゃしゃり出てルールを決めているようだ。なぜなのか?
なぜ信じる女性がアッラーと独自に契約を結んで、信じる正しい装いをクルアーンに見いだしてはいけないのか?
イランの抗議デモは以前より大きくなっているが、聖職者たちは一歩も引かない。同じ出自たる治安警察が、どうして自分の仲間を殺すことができるのか、私は不思議に思う。
彼らにはデモに参加している兄弟や姉妹、家族はいないのだろうか。どうして彼らに発砲したり、残忍にも拷問の場へしょっ引くことができるのだろうか。自分たちも同じ側にいると気づき、聖職者たちを呪い始めるのに、あと何人が死なねばならないのか。
何百万人もの若い女性たちがヒジャブを脱ぎ捨てようと命をかけて闘っている。またインドでは少数の女性たちが、逆にヒジャブを着用したがっている。宗教的シンボルを一切許さない厳格な制服規定がある学校で。学校外での着用は許可されているのだから、彼女らはただシステムに逆らって思い通りにやりたいだけなのだ。
おそらく、イランやアフガニスタンでのように強制されれば、彼女たちもかの地の女性たちと全く同じように反抗するかもしれない。
数日前、ムンバイでヒンドゥー教徒の少女が、ブルカを着ることを拒んだためにイスラム教徒の夫に殺された事件があった。彼女のヒンドゥー名はルパリで、夫が彼女の喉を切り裂いた。イスラム教徒の妻はブルカを被るべきだという自分の価値観に従わせようと、夫は彼女を殴り続けていたのだ。
インドにさえ、ヒジャブは宗教の必要な一部だと言う聖職者がいる。
議論に次ぐ議論だ。彼らは若いイスラーム教徒の女性たちを非難する。女性たちは彼らに反抗し、自分たちはクルアーンに書かれた自分たちの権利を知っている、時代遅れの考えを私たちに押し付けるな、私たちのアッラーを代弁するな、と勇敢に主張している。
この姉妹たちにブラボーと言いたい。彼らにあなたがたをいじめさせてはならない。
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