(2024年4月25日)
1人でもゼロを1にできる
~ガザの虐殺を止める方法~
年に1度、あるいは毎月のある日に決め事をする。ルーティンワークをこなしたり、生活にメリハリをつけるうえで日付を伴う行事はとても大切だ.
4月22日は「世界アースデイ」だという。しかしピンとこない。調べてみると結構古くからある記念日で、1970年にアメリカで実施されいまもつづいている。2009年には国連総会でも採択された「地球のことを考えて行動する日(国際マザーアース・デー)」。「環境・平和・社会貢献・フェアトレードなど」がテーマだ。
昔、若かりし頃は、4.28とか、6.15とか、10.21だとか、反戦平和をもとめて集会やデモをする日々があった。だが今はすたれている。だとすれば、ハマースの攻撃、イスラエルの反撃と猛爆撃、爆弾の雨、ジェノサイド、その半年以上200日を目前にしたこの日、イスラエルの虐殺・ジェノサイドともいうべき残虐非道な振る舞いに抗議する日としてはうってつけではないか。
2024年4月22日(月)、「大久保ひかりのうま 特別公演「ガザ・パレスチナへの詩と歌」~第二のナクバに対して~」に参加した。
このイベントは、表題通り、詩歌芸能のジャンルから声を上げようというもの。呼びかけたのは桜井真樹子さん。彼女は平安朝の昔に始まった日本古来の芸能である白拍子を現代に復元させようと奮闘している。白拍子とは主に男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞ったものを指す(Wikipedia)らしいが、不肖にしてよく知らない。しかし、この日のイベントを企画推進した桜井真樹子さんは、われわれが昨年8月15日に『詩の檻はない』を発行した時に真っ先にそれを評価し、彼女のnoteに丁寧な書評を書いてくれた人だった。翌日8月15日に、野口も自分のFBサイトにその批評をシェアした。
桜井さんとわれわれの出会い、今回のイベントにいたる経過は、『詩の檻はない』詩人グループの大田美和さんが「世界の声」で特集した「詩と歌で、イスラエルのガザ攻撃に抗議」で詳細に述べてくれた。要は、『詩の檻はない』の発刊とソマイア・ラミシュさんを招いて実施した昨年12月のことぶきシンポは、アフガン・パレスチナ・ガザとつながる必然性に導かれていたのだった。
同じく『詩の檻はない』詩人グループの高細玄一さんが当日の熱気あふれるイベントのルポを書いてくれた。ぜひ読んでほしい。そしてこれも同じく『詩の檻はない』詩人グループの岡和田晃さんが、怒りをこめて、ガザで起きている事件と、黙してそれを許している言論、芸術、メディアの責任を厳しく問うた。朗読動画も掲載した。
ガザの事態は昨年初めて起きたわけではない。根本的には1948年にパレスチナ人が難民となったナクバの日から、イスラエルは国際的な支援をよりどころに、パレスチナ人の土地財産家屋人命を奪う植民者植民地主義(セトラー・コロニアリズム)を実行してきた。2008年にはイスラエルはガザへの大規模攻撃を開始し継続してきた。桜井さんはガザ殉教者のための「ガザ法要」をつづけてきたが、その行為は自己満足にすぎないのではないかと思いつつ15年が過ぎ、ついに昨年の10月が来た、と語る。
大田さんも、詩人になにができるのか、ひとりでなにができるのか、と自問自答しつつ、「詩には力がある」「詩人には社会で果たすべき役割がある」というアフガニスタンの詩人ソマイア・ラミシュさんが日本に蒔いた種を想う、その大田さんが桜井さんと会い、この日のイベントに発展した。
イベントの規模は問題ではない。陳腐かもしれないが、問題は中味だ、絶望を見て明日を見失うのか、今日絶望を見つめて明日へ向かうのか。
大田さんは朗読の中で近藤好美の「人間が人間であることの絶望を昨日に見たり過ぎしというな」を引用したうえで、「一人の詩人になにができるか、皆さんと考え続けたい。」として自作のつぎの短歌で朗読を締めくくった。
「殉教者埋めて均した大地より清らかな水が今も湧き出る」
イベントからの帰り、乗り換えの渋谷駅でスクランブル交差点に出た。相変わらずの人人人。しかも外国人だらけ。まさに「国際地球デー」だ。ひとりの女性が旗を持って立っていた。パレスチナの旗。スカーフで髪を隠した見慣れた姿の女性と子供がいる。パレスチナに自由を、とかったっている。ファナックがドローンをつくるロボットをイスラエルに輸出しているやめさせたい、とも。写真を撮らしてもらい、しばらく立ち話をした。
モスレムの女性と日本の女性との、東京の一隅での小さな連帯。それ自体はほとんどゼロに等しい無力な行為なのかもしれない。しかし、限りなくゼロに近くてもゼロではない。勇気あるひとつの行動なのだ。ひとりでもゼロを1にできる。それしか虐殺を止める方法はない。
【野口壽一】