(2026年8月17日)

 日本とアフガニスタン―ふたつの8・15 

~勝者の復古、敗者の反動~

 

 

言うまでもなく、8月15日は日本にとって、アジア・太平洋戦争に敗北した日である。そしてアフガニスタンにとっては、ターリバーンが首都カーブルに入り、政権を奪還した日である。

2026年8月15日、日本は敗戦から81年、アフガニスタンはターリバーン復権から5年を迎える。ちなみに『ウエッブ・アフガン』も創刊5周年である。

『ウエッブ・アフガン』は、その名称に「アフガニスタン」を冠している。しかし私たちの狙いは、アフガニスタンだけを研究し、報道することではない。アフガニスタンを鏡として、日本と世界を「平和・人権・進歩」の視点から見つめることにある。

日本の8・15報道では、日本の敗戦、日本国民が被った戦禍、なかでもヒロシマ・ナガサキの惨禍に焦点が当てられることが多い。それらは決して忘れてはならない。しかし、日本がアジア諸国に対して行った侵略と植民地支配、その結果として生じた数千万規模の犠牲に目を向け、日本の加害責任を問う報道は、依然として十分とはいえない。

まして敗戦を単なる懐古や追悼の対象にとどめず、戦争を引き起こした国家と社会の責任を自覚し、日本が世界平和にどう寄与すべきかを考える契機とする論考は稀少である。

一方、アフガニスタンの8月15日は、ターリバーンが「勝利の日」と呼ぶ日である。20年間に及んだアメリカとNATO諸国の軍事介入に武装闘争で耐え、外国軍を撤退に追い込み、共和国政府を崩壊させた日だからである。

日本の8・15が敗北の日であるのに対し、ターリバーンの8・15は勝利の日である。両者は対極にあるように見える。

しかし、この2つの8・15には、いずれもアメリカが深く関わっている。

日本はアメリカをはじめとする連合国に敗れ、アフガニスタンではターリバーンがアメリカを中心とする外国軍を撤退に追い込んだ。一方はアメリカが勝利した戦争の帰結であり、もう一方はアメリカが敗北した戦争の帰結である。

2つの8・15を比較することは、第2次世界大戦後の世界でアメリカが他国にどのように介入し、どのような国家と社会をつくろうとしてきたのかを考えることでもある。

 

アメリカの2つの戦後処理

アメリカは、敗戦後の日本を占領し、日本の政治、経済、教育、社会制度を大きくつくり替えた。

当初の占領政策には、軍国主義の解体、戦争犯罪人の処罰、財閥解体、農地改革、労働組合の育成、女性参政権の実現など、民主化を促進する重要な改革が含まれていた。日本国憲法は、国民主権、基本的人権、平和主義を掲げ、日本が再び侵略戦争を行うことを禁じた。

しかし冷戦が始まると、アメリカの対日政策は転換した。軍国主義の徹底的な解体よりも、日本を反共陣営の拠点として再建することが優先された。天皇制と旧支配層の一部は温存され、戦争責任の追及は不徹底に終わった。

アメリカは、民主化とアメリカナイズを進める一方、日本を自国の世界戦略に組み込んだ。サンフランシスコ講和条約によって形式的な独立を認めながら、日米安全保障条約によって米軍の駐留を継続し、日本を東アジアにおける軍事的拠点としたのである。

日本の占領統治は、アメリカにとって「成功例」となった。
その成功体験が、アフガニスタンにおける国家建設にも影を落としていたのではないか。

2001年、アメリカは9・11同時多発テロを実行したアル=カーイダの壊滅と、同組織を保護していたターリバーン政権の排除を掲げ、アフガニスタンに軍事介入した。北部同盟などアフガン国内の反ターリバーン勢力と協力し、わずか数週間でターリバーン政権を崩壊させた。

しかし、アル=カーイダの指導者オサマ・ビン・ラーディンを取り逃がしたアメリカは、当初の軍事目標を超えて、アフガニスタンを西洋型の民主国家として再建する事業に乗り出した。ボン会議、東京会議などを通じてNATO諸国や日本を巻き込み、共和国政府をつくり、軍隊、警察、議会、選挙制度、教育制度などを整備した。

ところが、それらの制度はアフガン社会に深く根を下ろさなかった。共和国政府は、汚職、縁故主義、援助への依存、権力者による資源の私物化によって内部から腐敗していた。都市部では教育、報道、女性の社会進出などに大きな成果が生まれたが、その成果を支える国家そのものが脆弱であった。

さらに、外国軍の空爆や夜間襲撃によって多くの民間人が犠牲になり、アメリカと共和国政府への反発が拡大した。アメリカは、民主主義を掲げながら、その民主主義を戦争と外国軍の力によって根づかせようとする矛盾を抱えていた。

2020年、アメリカは、自ら支援してきた共和国政府を正式な交渉当事者から外し、武装闘争を続けていたターリバーンと直接交渉して、外国軍撤退の道筋を定めた。

そして2021年、アメリカ軍が撤退を始めると、共和国政府と国軍は算を乱して崩壊した。本来ならターリバーンとの政治交渉を通じて移行体制を模索すべき立場にあったアシュラフ・ガニー大統領は国外へ逃亡し、8月15日、ターリバーンはほとんど戦闘を行わず首都カーブルを掌握した。

アメリカは日本では戦後体制の構築に成功したが、アフガニスタンでは失敗した。軍事力によって政権を倒すことはできても、他国の歴史、文化、社会構造を外部からつくり替えることはできなかったのである。

20年に及ぶアフガニスタン戦争は、軍事力の巨大さが政治的統治力を保証するものではないことを、世界にあらためて示した。

 

ターリバーン――勝者による前近代への復古

ターリバーンは、アメリカとの戦争には勝利した。
しかし、外国軍を撤退させたことと、アフガン人民を幸福にする国家を建設することとは、まったく別の問題である。

ターリバーンは政権掌握直後、旧政府関係者への恩赦、包摂的な統治、女性の権利の尊重、外国へのテロ攻撃にアフガニスタン領土を利用させないことなどを、国内外に表明した。

だが、国内に残った抵抗勢力を武力で抑え込むと、それらの公約や声明を次々に反故にした。選挙も議会も存在せず、権力は最高指導者と宗教指導者集団に集中した。統治機構から女性や非ターリバーン勢力を排除し、第1次ターリバーン政権に劣らない復古的な神権政治を再建したのである。

ターリバーンの統治は、パシュトゥーン社会の一部に残る家父長的慣行と、独自の極端なイスラーム解釈とを結びつけたものである。

「徳を勧め、悪を禁じ、苦情を聴取する省」、いわゆる「勧善懲悪省」を復活させ、服装、外出、教育、就労、報道、音楽、芸術、娯楽など、人々の生活と文化の広い領域を宗教的規範によって統制している。公開処刑、公開むち打ち、恣意的拘束などの恐怖によって、その規範を社会に強制している。

なかでも深刻なのが、女性と少女に対する体系的な差別である。
ターリバーンによる女性差別は、単独の禁止令や一時的措置の寄せ集めではない。それは女性を教育、労働、政治、司法、文化、報道、公共空間から段階的に排除し、男性保護者の管理下に置く統治体系である。その主な内容は、次の通りである。

1.中等・高等教育からの排除
2.就労と経済活動からの排除
3.移動と外出の制限
4.服装、身体、声への統制
5.公共空間、文化、娯楽からの排除
6.政治、行政、意思決定からの排除
7.言論、報道、抗議活動の弾圧
8.医療を受ける権利の制限
9.司法上の差別と暴力被害者の保護撤廃
10.婚姻と家庭生活における従属

地域や担当官によって執行の程度には差がある。しかし、それらを総体として見れば、女性を社会的主体として認めず、その姿と声を公共生活から消し去ろうとする一貫した政策であることが分かる。

それゆえ国連の専門家や人権団体は、ターリバーン支配下の状況を「制度化されたジェンダー迫害」「ジェンダー・アパルトヘイト」と表現している。

ターリバーンによれば、これらの政策は単なる蛮行ではない。彼らは、それを西洋的近代、世俗主義、男女平等、人権思想に対する自らのアンチテーゼだと考えている。女性を家庭に置くことは差別ではなく「保護」であり、シャリーア法に基づく正しい秩序の回復だと主張する。

しかし、その実態は、イスラームの多様で豊かな思想的伝統を切り捨てた極端な宗教解釈と、地域社会に残る家父長制とを結合した統治体系にすぎない。

西洋的近代に矛盾や限界があるからといって、それを前近代的な神権政治によって乗り越えることはできない。近代が生み出した自由、平等、教育、人権という成果を否定しても、その先に新しい文明は生まれない。

ターリバーンの5年間は、「勝者」が必ずしも進歩をもたらすとは限らず、軍事的勝利が歴史的前進を意味するものでもないことを示している。

 

日本――敗者による戦後理念のなし崩し

ターリバーンの復古主義は露骨である。彼らは、自らの宗教的・政治的立場を公然と掲げ、それを武力によって社会に強制している。

それに対して、日本における歴史逆行は、異なる形で進んできた。
日本の8・15は、軍国主義と帝国主義の敗北による再出発であった。日本は、植民地支配と侵略戦争を反省し、国民主権、基本的人権、平和主義を掲げる国家として生まれ変わるはずであった。

ところが、敗戦処理を担った東久邇宮稔彦内閣は、「一億総懺悔」を唱えた。その実態は、侵略戦争を計画・遂行した国家指導部の責任を明らかにするものではなかった。国民全体に敗戦責任を分散させ、戦争に勝てなかった「臣民」として天皇に懺悔するという、戦前の支配思想を引きずるものであった。

日本が本来問うべきだったのは、国民を一様に懺悔させることではなく、侵略を計画・遂行した国家指導部の責任と、それを許し支えた社会の構造であった。

明治維新後、日本は殖産興業、富国強兵を掲げ、短期間に近代国家を形成した。日露戦争に勝利したことは、欧米列強の植民地支配に苦しむアジアやアフリカの人々に衝撃と勇気を与えた。第1次世界大戦後のパリ講和会議では、人種差別撤廃を提案した。
しかし日本自身は、欧米帝国主義に対抗してアジアを解放する国にはならなかった。台湾と朝鮮を植民地支配し、中国への侵略を拡大し、満州国を建設した。「大東亜共栄圏」「八紘一宇」を掲げながら、その実態は、日本が欧米列強に代わってアジアの盟主となろうとする帝国主義、植民地主義であった。

日本は、アジアを欧米の植民地支配から解放するのではなく、自らが植民地帝国となった。そして、アジアと太平洋をめぐる利害争奪において、アメリカ、イギリス、オランダなどの帝国主義国と正面衝突し、敗北した。

敗戦によって、日本にはこの道から脱却する歴史的な機会が与えられた。その到達点が日本国憲法であった。

しかし戦後日本は、憲法の明文改訂を避けながら、解釈変更と個別立法によって、平和主義、基本的人権、国民主権の内実を少しずつ後退させてきた。

敗戦直後、吉田茂首相は憲法9条を対米交渉の盾として利用し、朝鮮戦争への派兵要求を拒んだ。しかし警察予備隊、保安隊、自衛隊へと再軍備が進み、1960年の新日米安全保障条約と日米地位協定によって、米軍の長期駐留が制度化された。地位協定の運用を協議する日米合同委員会は、重要な問題を国会や国民の監視が届きにくい場で処理する仕組みとなった。

佐藤栄作首相は1967年、非核3原則を表明した。しかし後に、核兵器を搭載した米艦船の寄港や、沖縄への核兵器再持ち込みをめぐる密約の存在が明らかになった。

1972年、田中角栄政権は中国との国交を正常化し、「恒久的な平和友好関係」を掲げた。

だが冷戦終結後、とりわけ近年の自民党政権は、中国を主要な軍事的脅威と位置づけ、南西諸島へのミサイル配備や日米共同作戦を進めている。日本の対中政策は、友好と経済協力から、抑止と軍事的対抗へと重心を移した。

1991年、自衛隊は湾岸戦争後のペルシア湾へ派遣された。翌年のPKO協力法以降、カンボジア、インド洋、イラクなどへと活動範囲を拡大した。有事法制、特定秘密保護法、2015年の安全保障法制によって、歴代政府が憲法上認められないとしてきた集団的自衛権の行使まで、限定的ながら容認された。

2022年12月、政府は「国家安全保障戦略」「国家防衛戦略」「防衛力整備計画」の安保3文書を閣議決定した。そこには反撃能力、すなわち敵基地攻撃能力の保有と、防衛費をGDP比2%水準へ増額する方針が明記された。

2026年には国家情報会議設置法、国旗損壊処罰法、皇室典範改正法が成立し、さらにスパイ防止法制の検討が進められている。これらには、情報機関に対する民主的統制、表現の自由、皇位継承における男女平等などの面から、重大な懸念がある。

こうして日本は、憲法9条を正面から改正しないまま、対米軍事協力と国家統制を強め、「戦争をしない国」から「アメリカとともに戦争に参加できる国」へと、段階的に変質してきた。

日本国憲法は、独立国としての自衛権まで否定したものではない。問題は、自衛の範囲が際限なく拡張され、他国を攻撃する能力や、アメリカが始める戦争への参加までが「自衛」の名で正当化されることである。

第2次世界大戦後に起きた戦争の多くが、「自衛」「安全保障」「テロとの戦い」などを名目として開始された。アメリカのアフガニスタン介入も、ロシアのウクライナ侵攻も、イスラエルの軍事行動も、それぞれの政府によって「自衛」と説明されてきた。

だからこそ日本の安全保障は、軍事力の増強だけでなく、戦争を生み出す国際的な対立をいかに緩和し、外交によって攻撃される理由そのものを減らすかという観点から考えなければならない。

米軍基地の集中は、米国が関与する戦争に際して、日本が攻撃対象となる危険を高める。とりわけ沖縄と南西諸島に、その負担と危険が集中している。日本各地にある原子力施設や、高度に複雑化した都市、交通、通信、電力網は、現代戦に対してきわめて脆弱である。

軍事力を増強すれば安全になるとは限らない。軍事拠点を増やすことが、逆に攻撃目標を増やすことにもなる。この矛盾を含め、日本の防衛と日米同盟のあり方は、国民的議論に付されなければならない。

 

2つの逆流が問いかける「進歩とは何か」

ターリバーンと日本は、同じではない。
ターリバーンは、宗教的権威と武力によって人民を支配し、女性を社会から排除する神権政治を行っている。日本には選挙があり、議会があり、言論・報道の自由があり、市民が政府を批判することもできる。両者を単純に同一視することはできない。

しかし、両国には共通する問題がある。
それは、すでに獲得された自由、人権、平等、平和という歴史的成果を後退させ、過去の秩序を復活させようとする動きである。

ターリバーンは、西洋近代の矛盾を批判しながら、女性差別と家父長制という前近代的秩序へ回帰した。日本は、戦後体制の矛盾を乗り越えるのではなく、戦前の国家主義、軍事主義、男性中心主義へと重心を戻しつつある。

一方は「勝者による復古」であり、もう一方は「敗者による戦後理念のなし崩し」である。

ターリバーンは近代を否定することによって過去へ戻ろうとする。日本の保守勢力は、平和憲法を表向き維持しながら、その中身を解釈と立法によって変質させようとする。
方法は異なるが、いずれも人類が獲得してきた自由と人権を狭める方向に作用している。

だが、西洋的近代に限界があることと、近代以前へ回帰することとは同じではない。
近代は、植民地主義、帝国主義、資本による搾取、環境破壊、2度の世界大戦を生んだ。
その限界は徹底的に批判されなければならない。しかし同時に近代は、基本的人権、国民主権、法の下の平等、女性解放、労働権、民族自決、政教分離、科学的思考を発展させた。

近代の超克とは、近代が生んだこれらの成果を捨てることではない。その成果を守り、さらに発展させながら、近代が生んだ戦争、支配、差別、搾取を乗り越えることでなければならない。

進歩とは、新しい技術を手にすることだけではない。経済規模が拡大することでも、軍事力が強大になることでもない。

人間が恐怖と暴力から解放されること。女性も男性も等しく学び、働き、発言し、社会の意思決定に参加できること。国家が個人を支配するのではなく、市民が国家を監視し統制すること。異なる民族、宗教、文化を持つ人々が、互いを排除せず共存できること。
人間の自由と可能性が拡大することこそ、進歩なのである。

この基準から見れば、アメリカに勝利したターリバーンの統治も、経済的・軍事的に強大になろうとする日本の右傾化も、進歩とは呼べない。

 

歴史の進歩は自動ではない

歴史は一直線には進まない。
自由と人権を保障する制度は、戦争、独裁、差別、保守反動によって実際に後退し、ときには破壊される。ターリバーン支配下のアフガニスタンと、戦後体制の転換が進む日本は、そのことを示している。

しかし、一度人類が獲得した自由、平等、人権という理念まで、歴史から消し去ることはできない。
古代ギリシャの民主政は滅びたが、民主主義の思想は近代市民革命に継承された。フランス革命は王政復古と反革命に見舞われたが、「自由・平等・友愛」は世界共通の理念となった。
奴隷解放後も人種差別は続いた。しかし奴隷制そのものを公然と正当化する体制に戻ることはできなかった。女性参政権、労働権、植民地からの民族独立も、弾圧と逆流を経験しながら世界に広がった。
ファシズムは民主主義を破壊した。しかしその敗北は、国際連合、世界人権宣言、国際的な人権保障体制を生み出した。

歴史には、後退に見える局面がある。いや、「見える」だけではなく、実際に人々の権利が奪われ、生活が破壊され、命が失われる後退が存在する。

それでも、それは過去への完全な復帰ではない。
人類が一度知った自由と尊厳は、人々の記憶に残る。奪われれば、再び要求される。アフガニスタンの女性たちは、拘束、拷問、死の危険にさらされながらも、教育と労働の権利を求め続けている。日本でも、平和憲法を守り、戦争への道を拒み、国家による言論統制に反対する市民の運動が続いている。

歴史の進歩は、自動的に約束されたものではない。科学技術が発達すれば、社会も自然に自由で平等になるわけではない。AIが発達すれば、人類が自動的に賢明になるわけでもない。

進歩は、獲得された権利を守り、奪われた権利を取り戻し、まだ権利を得ていない人々へとその範囲を広げる、人間の意識的な行動によってつくられる。

現在、世界各地で跋扈している保守ポピュリズムも、ターリバーンの神権政治も、この人類史的な可能性を永久に封じることはできない。

歴史とは、不可逆的に前進する一本の直線ではない。逆流するたびに進歩の意味を問い直し、人間の自由と可能性を再び拡大していく、終わりのない闘争の過程なのである。

ふたつの8・15は、私たちにそのことを問いかけている。

野口壽一