The Daily Hustle: Waiting in Islamabad for evacuation

(WAJ: アフガニスタンにはさまざまな境遇の人びとがおり、国を出る理由もさまざまだ。いま上映中の映画『約束の救出』で描かれているようにアメリが軍に協力した通訳とその家族300人が殺害されており、なお数千人が身を隠している。今回以下の記事で取り上げられているケースは比較的裕福な恵まれた家族の物語だが、それでも共和国時代にアメリカ系NGOに協力していたがために国を離れざるを得なくなった、その悲しさと辛さが赤裸々に表出されている。日本にも日本に協力していた数百人のアフガン人が避難してきているが、いまだアフガニスタンに残された亡命希望者はその十倍はいるとも言われている。日本が、返さなければならない借りが、アフガニスタンにはたくさん残っている。)

アフガニスタン・アナリスト・ネットワーク(ANN)
ロフラー・ソラシュ、ロクサナ・シャポール 2024年3月8日

2021年8月にアフガニスタン・イスラム首長国(訳注:ターリバーンの自称国家名。現在も承認した国は1カ国もない)が政権に復帰すると、NGOで働いていた数千人のアフガニスタン人が、アフガニスタンの新支配者による嫌がらせを恐れたり、あるいは別の場所で新たな生活を始める機会を狙ってアフガニスタンを離れた。多くはすでにヨーロッパ、米国、その他の場所への道を見つけている。亡命申請が審査され、人生の次の章が始まるのを今もパキスタンなどの第三国で待っている人もいる。連載「日々の奮闘」の直近の記事として、AAN のロフラ・ソラッシュが、若い家族とともにイスラマバードに2年近く住んでいるアフガニスタン人男性の話を聞いた。彼は、家族全員が勉強し、スキルを向上させ、人生の小さな喜びを大切にすることで、米国へ行くまでの待ち時間をどのように過ごしているかを教えてくれた。

イスラマバードのエスティクラル・リセ高校に通うアフガニスタン難民の子どもたち。写真:アーミル・クレシ/AFP、2023年10月。

2022年2月、米国国務省から私宛に電子メールが届きました。それによれば避難申請を処理するために私と家族は第三国に行くべきとあり、受理まで12~14カ月かかるとのことでした。カーブルの寒い冬の日のことでした。妻はブハーリ(薪ストーブ)の近くに座って、二人の娘に物語を読み聞かせていました。私は彼女にそのメールが読めるよう携帯電話を渡しました。彼女は深いため息をつき、すでに荷物を詰めおえていたバッグを見てうなずきました。荷物は慎重に梱包され、もう6か月も経っていました。アメリカで新しい生活を始めるために必要なものがすべて入った、1人につき1つずつ、計4個のスーツケースです。パスポート、結婚証明書、出生証明書、学位証明書、雇用記録、そして最も重要な家族の写真や記念品などの書類が入ったバックパックも1個ありました。明日、私たちはまだカーブルに住んでいる数人の家族や友人に別れを告げ、イスラマバードへの陸路の旅の手配を始めることになります。メールが届いてから1か月後、私たちは、イスラマバードで米国への避難を待っている他の何百ものアフガニスタン人家族の一員になりました。

 

カーブルの昔の生活

私は 1996年にカーブルのプレ・スクタ地区にある軍事高校(訳注:1933年トルコ政府の援助で創設された士官育成のための高校で13歳から17歳まで1000人の男子が学ぶ)の近くで生まれました。3人兄弟の末っ子で2人の姉妹とともに、その地区の借家で育ちました。私たちの家庭は幸せな中産階級に属していました。両親は教育を重視し、単なる高校卒業資格で満足するのではなく、大学の学位を取得できるよう努力せよと私たちに勧めました。両親はまた、私たちが英語とコンピューターの使い方を確実に学べるようにしてくれました。これらのスキルは、私たちが社会に出て専門的なキャリアをスタートするときに役立つだろうと父母は言いました。両親は確かに賢明でした。両親が熱心に要求した英語とコンピューターのスキルのおかげで、大学の学費を賄うことができました。つまり私は塾で教え、さらに副業で家庭教師もして、経営学の学士号を取得するために入学した私立大学の授業料を稼いだのです。 2012年に学位を取得し、大学講師や学生に英語のクラスを提供するNGOの財務担当者として働き始めました。そこは米国からの資金提供を受けていました。

幸せな日々でした。私はいつも早起きして、家族と一緒に朝食をとって仕事に向かいました。私は、毎朝私を自宅からオフィスまで送ってくれるタクシー運転手と契約を結んでいました。仕事を終えた夜には近所に住む同僚と歩いて帰宅していました。私たちは一日中机に座りっぱなしだったので、健康維持とダイエットのために、少し運動したいと考えていました。カーブルの通りを長い散歩している間、私たちは温かいパンを分け合い、将来の計画について話し合ったものです。

私は給料が良くて、兄弟も働いていたので、一家は貯金を増やせました。すぐに、兄弟姉妹が次々と結婚するのに十分なお金ができました。私は2015年に私立小学校で教鞭を執る教養ある女性と結婚しました。私の妻は幼い子供たちに教えるのが大好きでした。彼女は日中学校で働きました。午後になると家に帰り、翌日の授業計画を作成し、生徒の宿題に目を通しました。彼女は時間があれば、私の兄弟の妻たちと家事を手伝いました。やがて、私と兄弟は両親の長年の夢を実現するのに十分な貯蓄をしました。そう、私たち3兄弟は家を一軒購入しました。悲しいことに両親はそれを見ることはできませんでしたが。

しかし、彼らは私の美しく聡明な2人の娘に会うことはできました。現在1人は7歳、もう1人は5歳です。両親と同じように、私も子どもたちの将来についてたくさんの計画を立てていました。私は彼らに勉強して、学校で優秀な成績を収めて、自分の家族を持ってもらいたかったのです。最も重要なことは、彼女たちがキャリアウーマンとして成功し、国民に貢献してくれることでした。しかし、綿密に練られた計画でも、個人の制御を超えた力によって翻弄されることはよくあります。遠く離れた所にいる人々の胸先三寸で、最も親密な家族でさえ、地球の四隅に散り散りになる可能性があります。これが私の家族に起こったことです。私の兄弟は全員、家族を連れてすでにアフガニスタンを離れています。私は最年少で、アフガニスタンに最後まで残り、いつかまたみんなで一緒にカーブルの家に住めるという希望を抱き続けていました。しかし、それはすべて過去のことになりました。今日、私はイスラマバードで家族とともにアメリカ行きの飛行機を待っています。そこでは私たちが知っているすべての人々やすべてから遠く離れた新生活が待っています。

 

カーブルを去るときが来た

ターリバーンがカーブルに入った時(2021年8月)へと時計の針を戻します。私はすでに私たちの安全を心配していました。共和国が崩壊する前でさえ、私と兄弟は米国の資金提供を受けたプロジェクトに取り組んでいたという理由で脅迫を受けていました。ターリバーンによって人々が拘束されているという噂を聞き始めるまでに、それほど時間はかかりませんでした。そんなある日、武装した男たちが私と兄弟たちを探して家にやって来ました。幸いなことに、私は家にいませんでした。兄たちは2人とも秋になる前にすでにカーブルを離れていました。カーブルでの生活は私だけでなく家族にとっても危険なものとなりました。そこで、他の多くの人たちと同じように、私は米国政府の避難プログラムに申請しました。私たち家族は家を売却し、部屋に余裕のある親戚の家に引っ越しました。私たちはアフガニスタンからの出国に備えてすべての持ち物を売り始めました。私たちは生活のために必要なお金だけを残し、余った分はヨーロッパにいる兄に送って保管してもらいました。

それから6カ月間、申請の連絡を待ちながら緊張して憂鬱な日々を送りました。私が働いていたNGOは閉鎖されたため、行っても仕事はなく、危険な状況から気を紛らわすものは何もありませんでした。私たちは毎日家に閉じこもり、家事に明け暮れ、子供たちの世話を専らとし、近所ではあまり注目を集めないように、家族で引っ越してきたと悟られぬように過ごしました。

 

未来が始まるのを待っている

ここパキスタンでの生活は簡単ではありませんでした。私にはここでは仕事がないので、兄たちが送ってくれるわずかなお金でしのぎをしなければなりません。米国政府が私たちの申請を処理するまでに12~ 14カ月よりもはるかに長い時間がかかりました。実際、イスラマバードに到着してから21カ月後のいま、私たちはやっと受理番号を受け取りました。未来が始まるのを待っていると時間の経過が遅くなり、不確実性が家族全員に精神的な負担を与えます。しかし、私たちはカーブルに戻ることはできません。

まず、カーブルに戻っても誰もいません。私の2人の兄とその家族はすでにアフガニスタンを離れています。妻の健康や娘たちの将来も考慮しなければなりません。アフガニスタンでは、妻は働くことができず、娘たちは小学校を卒業した後、学校に通うことができません。イスラマバードでは、女の子たちは学校に通っており、私の妻は英語とコンピューターのコースを受講しています。しかし、私たちは有効期限が切れたビザでここに住んでおり、パキスタン政府はアフガニスタン人を一斉検挙し、ビザのない人たち、場合によっては有効なビザを持つ人たちも国外追放するキャンペーンを開始しました。 11月、米国大使館は、パキスタン警察が私たちを国外追放しないように、路上で呼び止められた場合にパキスタン警察に見せる書類をくれました。

 

イスラマバードでレモネード作り

レモンを手に入れたら、レモネードを作るべきだとよく言われます。まさにそれが、私と家族がイスラマバードでやってきたことです。私たちはここで得られる機会を最大限に活用し、時間を無駄に過ごさないように努めています。私たちは女の子たちを地元の私立学校に入学させました。そこでも毎日2時間の英語の授業があり、妻は英語とコンピューターの授業を受けています。しかし、私自身が受講するほどのお金はないので、オンラインで英語を上達させたり、新しいスキルを学んだりすることに時間を費やしています。アメリカに到着してすぐに妻と娘たちが全力で取り組めるためには、彼女たちが英語に堪能であることが重要です。

私たちはイスラマバードの快適な地域に住んでおり、そこには他の多くのアフガニスタン人の家族も住んでいます。隣人がたくさんアフガニスタン人だとまるで我が家にいるかのように感じます。彼らのほとんどは私たちと同じ船に乗っています。朝、私は娘たちを学校まで送り、通勤途中の人でいっぱいのにぎやかな通りを進みます。私は朝の散歩を楽しんでいます。特に雨が降った後の公園は空気が柔らかく、濡れた草の香りがします。家に帰る途中、私はいつもアフガニスタン人の顧客を相手にする店にいくつか立ち寄り、妻に食料を買ったり、近所の噂話やアフガニスタンのニュースを聞いたりします。この朝の儀式は人生を面白くし、私を停滞した生活の外の何か、つまり繁栄し、活気に溢れ、可能性に満ちたものと結びつけてくれます。
私たちは非常に限られた予算で生活しているので、お金には注意しなければなりません。私はここパキスタンでは働くことができないので、兄弟たちの寛大さに頼っていますが、それを当然のこととは思っていません。家賃、娘たちの学費、妻の授業料、生活費は足りていますが、娯楽に使えるお金はあまりありません。時々、時間とお金に余裕があるときは、イスラマバードに数多くある美しい宗教的、文化的、歴史的名所のひとつを訪れますが、たいていは家の近くの公園で自由時間を過ごします。重要なことは、私たち全員が安全な場所にいることです。私たちの頭上には屋根があり、女の子たちは学校に通うことができます。

今のところ、これで十分です。そうでなければなりません。待つ以外に何もすることはありません。そして、私たちが待っている間も人生は続き、決して取り戻すことのできない貴重な日々や瞬間があります。時間が経ち、子供たちは成長します。私たちは絶望に屈するわけにはいきません。やるべきことは、与えられた条件を最大限に活用し、時間を有効に活用し、将来の計画を立てることだけです。私たちのケースを通して、子供たちは、乗り越えられない不幸はないこと、酸っぱくて甘いレモネードの味は人生において避けられないものであることを学ぶでしょう。

編集:ロクサナ・シャプール

この記事の最終更新日は 2024年3月8日

原文(英語)を読む