(2023年11月25日)

 ラベル思考の危険性 

~ユダヤやイスラエルやアフガニスタンなどの言葉~

 

言葉の威力と危険性

原水爆やそれを運搬し爆撃につかうミサイルも危険だが、人間を人間たらしめている「言葉」の危険性に比べればものの数ではない。人間を動かしてミサイルを発射するのも根源には「言葉」があるからだ。

「言葉」の危険性はその「ラベル能力」にある。「レッテル能力」と言っても良いかもしれない。

ラベルを貼れば中味を見なくてもある「表象」がイメージされ、以後はそのイメージが独り歩きする。

しかし、「ラベル」がいつも同じ「イメージ」を「表象」するとは限らない。むしろ、ラベルを受け取る人間の数だけ「表象」は異なる、というべきかもしれない。いつ、どこで、誰が、どう使うかでまったく別の表象となるのが言葉なのである。なぜなら、「ラベル」から「イメージ」にいたる道筋は個人的なものであり個人の数だけ異なる道筋、異なる「イメージ」がありうるからである。

例えば、「ユダヤ」という言葉がある。「イスラエル」という単語も言葉だ。このサイトでは共通のイメージ=認識につながっていることを前提(期待)して「アフガニスタン」とか「ターリバーン」という言葉を使っているが、一般的な認識とは大きな差異がある(今回はその点には触れない)。言葉には、概念、内容、内包といった用語もあるが似たような意味をもつ。

なぜこんな面倒なことを言うかというと、社会が、とくにマスメディアの発達によって、「ラベル」から「イメージ」にいたる道筋の単線化が強力に図られるからだ。ネットメディアの発展がその傾向を下から破壊し始めたのだが、AIの進展が進めば、マスメディアをはるかに凌駕する力で単線化が進み、独自な思考の「道筋」は「フェイク」と言われるようになるのかもしれない。

いまほど、ラベル思考やレッテル思考の危険性に注意しなければならない時はない。

 

「本筋」を乱し見えなくさせる「脇道」

ガザやヨルダン川西岸という言葉でさえ同じ。ガザは種子島ほどの細長い狭い地域に200万人以上がつめこまれている。言葉の中味を知れば、天井のない牢獄であったことがわかる。イスラエルとパレスチナの地図として、ガザとともに、ヨルダン川西岸としてピンクで塗られた矩形の地形が示されるが、じつはその内実は、イスラエル側からの侵略と植民がすすみ、パレスチナの自治政府が支配する地域は細切れにされた粒粒の地形。6割以上はイスラエル人の入植地なのだ。ヨルダン川西岸やガザはピンクに塗られたのっぺりとした矩形の領域ではないのだ。

いま問題になっているユダヤ(人)という言葉もそうで、これほど実体と乖離している言葉は少ないのではないだろうか。

ユダヤ人といえば一般には人種のことと思いがちだが、そうではない。ユダヤ人には白人もいれば黒人もいればその他の有色人種もいる。イスラエル人といってもユダヤ人もアラブ人もロシア人もいる。ユダヤ教の信者という定義もあるが後でみるように教義の解釈もいろいろだ。

マスメディアには各種各様の識者が登場して、おびただしい数の解釈(「イメージ」へいたる「道筋」)を述べるから、イスラエル・パレスチナ問題に関心をもつ注意深い読者にとっては、事柄はそんなに単純ではないとの共通認識があるのではないだろうか。

ガザをめぐって起きている事態に直面して、イスラエルとパレスチナの対立、と言われるとイスラエルという言葉が内包する独立したイメージとパレスチナという言葉が内包する独立したイメージが対立抗争していると思うだろう。その対立をめぐって歴史的にも民族的にもかつまた思想的宗教的にも「道筋」を乱すあれやこれやの「事象」が持ち出されてきて、理解困難、解決困難な複雑な事象だ、となってしまうのだ。

ガザをめぐって起きている事態の本質は、しかしそんなに複雑なものではない。「ユダヤ」とか「パレスチナ」とかの言葉はまったく関係ない事態なのだ。この問題の本質は、75年前に、人の土地に押し入ってきた侵入者が先住民を力ずくで立ち退かせ、もとからの土地や財産、さらにはそれに抵抗する先住民の命まで奪っている、侵略と占領と植民にすぎないのだ。「ユダヤ」とか「パレスチナ」とかの言葉、歴史的、民族的、思想的、宗教的な「道筋」はすべて問題の本質を隠蔽し、はぐらかす詐術の道具にすぎない。

「ユダヤ」=「イスラエル」=「悲劇の民」という「ラベル思考」の危険性

本サイトに掲載した「真実が暴かれる:パレスチナとイスラエルの複雑さに関する神話」は「一方が大量虐殺を行っているときに「複雑さ」は存在しない。」と一言で断じている。

イスラエルという国名の政府は他のどの国よりも多くの国連安全保障理事会決議に違反している。
イスラエルという国名の政府は占領地からの撤退を求めた国連安保理決議242号(1967年)、同338号(1973年)に違反し、占領を継続。さらにその占領地にイスラエル人の住宅(=入植地)を拡大。現在の占領地であるヨルダン川西岸の60%の土地の行政権と治安維管理を維持している。

さらにその記事は、
●争われているすべての主要な問題について、複雑さはなく、法的正当性は土地を奪われた先住民の側にある
●パレスチナ人と呼ばれる先住難民はもとの自分の土地に帰還する権利をもっているが、後から武力で押し入ってきた入植者の存在が既成事実化されている。しかしそれは不法占領にすぎない。追い出された先住民こそが自衛権と自己決定権をもっている。複雑さはなく、明快さだけがある。
あとから押し入ってきて政府をなのる集団はアパルトヘイトという犯罪を犯していることが、いまや明白である。主要な人権団体はすべて、歴史的にイスラエルという国名をつかった一団がパレスチナ人と呼ばれる先住民に人種隔離と支配の制度を課していると結論付けている。

言葉からイメージにいたる道筋の余分な枝葉をそぎ落として思考すれば、以上のとおりなのだ。

 

「ユダヤ」人そのものがイスラエルに「ユダヤ」の名を使うな、と主張

もっと端的で説得的な例を示すと、10月27日にユダヤ人団体の呼びかけでニューヨークのグランド・セントラル(Grand Central)駅中央コンコースを数千人のユダヤ人を中心とする市民が占拠し、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)への攻撃に抗議する座り込みがある。このときにユダヤ人らが掲げたスローガンは「ユダヤ人の名前をつかうな!」だった。座り込みを敢行した人々は、「パレスチナに自由を!」「今すぐ停戦を」と叫んだ。(詳細な記事はここを参照

Democracy Nowが伝えるその熱狂ぶりを見れば、「ユダヤ人とパレスチナ人・アラブ人の対立」という言葉がいかに浅はかなものであるかが理解できるだろう。

このシットイン(座り込み)の参加者が、問題の発端は75年前、つまりイスラエル建国のときであり、それが他人の土地への侵略の開始であったと明言している。

アメリカでの最近の動きは、イスラエル軍のあまりにも酷い攻撃を戦争犯罪と断定する抗議行動が主流になっているが、良識をもつユダヤ人がその中心に存在している

このグランド・セントラルでのシットインの前の10月18日、ワシントンの連邦議会議事堂でもアメリカ在住のユダヤ人団体“Jewish Voice for PeaceJVP:平和のためのユダヤ人の声)”が抗議活動を行なっている。わずか数日の告知で全米から5000人もが集まり数百人が逮捕された。そのなかには25人のラビ(ユダヤ教の宗教指導者)がいたという。

 

イスラエル建国をめぐるユダヤ人内部の意見の相違

ムハンマドの教えを、時代遅れで極端な解釈をしそれを人々に強制し困らせているターリバーン治世下のアフガニスタンで、勇敢な論陣を張って頑張っているメディアがある。「ハシュテ・スブ」。そこに掲載され、本サイトで訳文が紹介されている「イスラエル・パレスチナ紛争における宗教と政治の絡み合い」に面白い指摘がある。

それによれば、パレスチナ/イスラエル間で現在争われている土地は;

●ユダヤ教徒にとっては約束の地でありソロモン神殿の跡地であり、
●イスラム教徒にとってはメッカと同等なものと考えられている3大聖地のひとつであり、預言者ムハンマドが夜の旅をした場所であり、最初のキブラ(祈りの方角)でもある。
●キリスト教徒にとって、この地はイエス・キリストの生誕地であり、キリスト教史上最も神聖な教会である復活教会がある場所である。

「聖地」という言葉は同じだが内容には上記のような相容れない相違がある。

さらに、

● 過激派キリスト教徒は、自分たちのメシアがやってきて、ユダヤ人の裏切りによりイエスが十字架にかけられたことへの復讐を期待している。
● 過激派ユダヤ教徒は、パレスチナだけがメシアが現れる約束の地であり、自分たちのためにダビデ王国を復活させてくれると考えている。
● イスラム原理主義者たちは、ユダヤ人に対する最後の戦いを導くメシアを待ち望んでいる。
●正統派ユダヤ教徒は、自分たちの宗教的記述に忠実ではあるが、約束されたメシアが現れるまで待つべきだという意味に解釈している。これは、隠された、人間の意志を超えた問題であり、メシアが現れる前に政府を形成すべきではないメシア以外の誰にも、神が望む政府を樹立する資格はないと考えている。

「メシア(救世主)」というもっとも重要な言葉にもこれだけの相違がある。つまり、それぞれの立場の人間集団が自分たちに都合のよいように解釈(道筋)しイメージ(結論)しているわけである。言葉の意味は、どこで、誰が、いつ、どのように使うかでいかようにも変化しうる、という格好の証左である。ここには絶対に相容れない主張が述べられており、そこには話し合いによる解決の余地はない。この記事の筆者は、「しかし、メシアは現れず、地上で起こることは、より多くの孤児、未亡人となった女性、悲嘆にくれる父親と母親、そして予測不可能な世界規模の戦争の可能性である。

と分析し、「政治を宗教の領域から遠ざけ、いかなる差別もない公正な法的枠組みの中で、パレスチナとイスラエルに2つの国家を樹立し、互いの宗教的遺跡を尊重することが、この血なまぐさい紛争に対する唯一の解決策である。」と結論づける。

イギリスをはじめとするヨーロッパの帝国主義・植民地主義者の二枚舌、三枚舌の犠牲者となって自分たちの土地と財産を奪われたパレスチナ人の中には、悔しさをかみしめ、断腸の思いで、居直り強盗にすぎないイスラエルの存在を認めて2国家共存の妥協案を受容する人々が存在する。ユダヤ人の中にも、そのようなパレスチナ人の存在を認める人々がいる。ネタニヤフとハマースだけが当事者ではない

さらにまた、75年前強引にイスラエルを建国した時、ユダヤ人のすべてがシオニストであったわけではない。パレスチナ以外の地に建国することもありうる、と主張するユダヤ人もいた。第2次世界大戦で大国となりソ連とならんで世界をふたつに分けて支配するようになったアメリカが、それまでかかわりのあまりなかった中東でイスラエル建国を後押しして押し入ってきた。その時からこの地での混乱が始まったのである。

表面的な「ラベル」で言葉をとらえて論理展開するのでなく、現実に起きている事柄を直視して原因をさぐれば、問題の本質は複雑なものではない。そこにあるのは、侵略と占領と植民と、それに抵抗する先住民への武力による非人道的な弾圧なのだ。

野口壽一

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