Dear John by Fish
“An intellectual says a simple thing in a hard way. An artist says a hard thing in a simple way.” —Charles Bukowski
「知識人は単純なことを難しく語る。芸術家は難しいことを単純に語る。」――チャールズ・ブコウスキー
(WAJ: トランプ大統領が自身をキリストに擬するイラストを発表して顰蹙を買っている。かつて「キリストより人気がある」と発言して批判の矢面に立たされたジョン・レノン。しかしジョンの発言の意図とトランプの意図には天と地ほどの差がある。レノンの発言と行動の重要性は権力者=富者が描く虚構を非特権階級の視点から嘲笑したのである。ミスターフィッシュは最後に、富裕層優遇と階級構造に支配されたアメリカ社会は自己破壊へ向かっていると警告する。真の正義は、権力者自身が特権を放棄し、一般市民と同じ現実と苦難を共有するときにのみ成立するのであり、そうでなければ社会は分断と崩壊を深め続けると結論づける。)
ミスター・フィッシュ(アメリカの政治風刺画家・ライター)
2026年5月8日

これは2027年初頭に発売予定である私の新刊『Which Genocide Are You On?(お前はどちらのジェノサイド側なのか?)』からの抜粋である。以前の投稿でも示した通り、本書は、特権階級に報酬を与え、周縁化され排除された者たちを貶める階層的権力構造への迎合によって成立している主流ナラティブを批判し、嘲笑し、挑戦したために、検閲と迫害に直面した芸術家や作家たちについての本である。楽しんでほしい。
***
1966年の夏までには、アメリカ合衆国に住む人々は、ベトナム戦争の道徳的正統性について疑問を抱き始めていた。この戦争は、北ベトナム側からは「アメリカ戦争」とも呼ばれていた。正式名称は「アメリカに反対し祖国を守る戦争(抗米救国戦争)」を短縮した呼称であった。実際のところ、南ベトナム側からも別の名称が与えられていた――それらはケチャップとマスタードを塗りたくられ、ジョー・マッカーシー式のソーセージを先頭にして押し込まれたあと、星条旗柄の目隠しか、あるいは猿轡か、いずれにせよハエの群がる何かを通って反対側から出てきたような名前であり、広げれば旗というものは実に多用途な代物である――すなわち「反共抵抗戦争」と「自由防衛闘争」であった。そしてさらに、わずか10年前のフランスによる帝国主義的越権を記憶していた者たちは、この紛争を実務的に「第二次インドシナ戦争」と呼んでいた。そして私は、現実とは常に視点の気まぐれによって相対化されるものであり、この戦争がそれらすべての矛盾した性質を同時に備え得たという苛立たしい真実を認識できる程度には意味論に通じているのだが、もし誰もが早い段階で、たとえば「4千万人が住み、自らの運命を自ら決定すべき地域において、アメリカが覇権維持を図る無意味かつ不当な試みを賢明にも回避しようとする戦争」といったような単一の名称の正確性に合意できていたなら、あらゆる流血は回避され、その代わりに、観光だけで十分満たされるような、東南アジアに対する穏当で健全な好奇心の寄せ集めへと置き換わっていたかもしれない。
ともあれ、世論が変化し、ベトナム戦争への反対が中産階級にまで広がるにつれて、自らの虚栄によって世界を奴隷化しようとするアメリカの試みが義務的かつ神意に裏打ちされたものとみなす者たちと、そうではない者たちとの間の亀裂が、国家全体の空気に動揺を撒き散らし始めた。そして、最終的には300万から400万人の死者を生むことになる加速度的な大量虐殺を、まず認識し、次いで非難する必要性がより主流化していった一方で、特権階級に属する者たちが、戦争遂行を公然と支持していたか、あるいは密かに利益を得ていた自らのエリート仲間たちの共犯関係を貶めることについては、依然として自主規制的なモラトリアムが存在していた。まるで富裕層の間には、「贅沢というものは、それに参加できない者たちの抱く軽蔑が嫉妬にのみ根ざしている限りにおいてのみ、贅沢として維持可能である」という暗黙の掟でもあるかのようであった。結局のところ、富に基づく能力主義を正当なものに見せかけ、その富裕層自身が、人間としての価値は物質的繁栄と不可分に結びついているという虚偽の観念を永続化するために構築した制度に対する、いかなる正当な批判をも「嫉妬」の一語で退けるという戦略は、最初に誰かがその手から硬貨を奪われ、社会的追放者に変えられて以来、持てる者たちが持たざる者たちの苦痛に満ちた生を正当化するために用いてきたやり方なのである。
そして1966年当時、社会の最も繁栄した成員たちが、徴兵されて砲弾の餌食にされる可能性が最も高い者たちや、そうした運命に見舞われる可能性の高い愛する者を持つ人々に比べて、連邦政府の戦争狂気に公然と反対する傾向が弱かったことは周知の事実であったとはいえ、富裕層という人口集団がこの戦争について、あるいは自らの金箔を施した思い込みの手入れされた囲いの外に存在するあらゆる事柄について、正確に何を考えているのかを知ることは決して容易ではなかった。唯一100パーセント明白だったのは、意見が公然と提示され、挑戦されていたときに、上流階級にとって不可視性がいかに重要であったかという点である。なぜなら、完全な回避という防護的迷彩――そこには、富豪政治の腐臭に群がる追従者、幇助者、利己的日和見主義者たちによる必要不可欠な自己検閲も含まれねばならない――がなければ、階層の上位に住む者たちは、本能的に理解していたのである。もし彼らが公的検証のスポットライトの中へ引きずり出され、日常生活の細々した現実について意見を述べるよう求められたなら、そのような話題に参加する資格を疑問視され、「不可侵者」としての高位の地位を常識と基本的論理によって挑戦され、最終的に正統性を失わされる危険を冒すことになると。なぜなら、この世において階層制度ほど馬鹿げており、不合理で、正当化不能なものはほとんど存在しないからである。明白に本質的同一性を持つ平等な人間たちを、重要性の濃淡によって分類する残酷な慣行を、倒錯的で不正で持続不可能なもの以外として見るには、特別種類の偏見に満ちた無知が必要である。
したがって、ジョン・レノンが――特権的なお偉方や貴族や大立者たちからなるこの排他的クラブへの参加を許されながらも、慎重に自己抑制する模範的人物としての作法を完全には叩き込まれていなかった彼が――『ロンドン・イブニング・スタンダード』紙のモーリーン・クリーヴに対して、アメリカ合衆国大統領ですら及ばないほど多くの読者に向けて、セレブ文化に対する自らの評価、熱狂的流行のはかなさ、世論の移ろいやすさ、そして分別ぶった生活様式の空虚で無意味な中心について心のままに語ったとき、すべてが大混乱に陥ったのである。結局のところ、宇宙の自然秩序とは君主制的構造を持ち、それゆえ富裕とは卓越性の至高の表現であるという嘘を推進するために、何世代にもわたって維持されてきたナラティブの整合性が、いかにして生き延び得たであろうか。人々を経済的地位によって差別するサディズムを正当化していた詐術が暴露されてしまったならば。
歴史を知らない人のために言えば、これは20世紀半ばの保守派インフルエンサーたちによって仕組まれた、またしてもひとつの偽装論争に過ぎなかった。彼らは、アメリカ南部一帯の騙されやすい愚か者や宗教的狂信者たちを扇動し、明白な比喩を故意に曲解させ、それを、すでに十字架上で十分苦しんだ英語化された白人イエス・キリストへの無差別攻撃として再構成したのである。肌があれほど白いのに長時間日差しに晒されねばならなかったのだから、彼も十分苦しんだというわけだ。問題視された発言とは、「[ビートルズは]今やイエスより人気がある」であった。(訳注:この発言は1966年、イギリスの新聞『London Evening Standard』のインタビューで語られたもので、文脈としてはキリスト教の影響力の衰退や若者文化について論じる中で述べられたものであった。アメリカ南部では大きな反発を招き、レコード焼却運動や抗議活動に発展した。)もちろん、文脈において、そしてそれが最初に含まれていた段落から、人差し指を開いた手から切断して中指として宣伝するかのように切り離されない状態で読めば、レノンの意図は、彼の告発者たちが主張したようなものではまったくなかった。問題発言が抜き出された段落を以下に示す。
経験は彼にわずかな疑念の種しか蒔かなかった。彼の精神が閉ざされているわけではないが、その時々に彼が信じているものの周囲を囲むように閉ざされているのである。「キリスト教はいずれ消える」と彼は言った。「それは消滅し、縮小する。私はそのことで議論する必要はない。私は正しいし、正しいことが証明されるだろう。今では僕らの方がイエスより人気がある。ロックンロールとキリスト教のどちらが先に消えるのかはわからない。イエス自身は悪くなかったが、弟子たちは愚鈍で凡庸だった。彼らがそれをねじ曲げるから、僕には台無しになるんだ。」彼は宗教について広範に読書している。
この事件に対し、そしてビートルズの収益源が損なわれる可能性を恐れたレノンのマネジメントチームは、彼の芸術的衝動の寛大さと、急進的な慈善精神の気前の良さを、数百万ドルの価値を持つブランド・アイデンティティへと変換することに成功していたのであるが、歌手本人が偽造された謝罪を発することができるよう記者会見を組織し、それによって当時音楽産業でもっとも利益を生む金のなる木と見なされていた存在へのさらなる経済的損害を回避しようとした。しかしレノンは、単に謝罪するには誠実さを持ちすぎていた――より正確には、空虚な礼儀作法的身振りに対する忍耐力があまりにも乏しかった――ため、全面的謝罪を拒否し、その場を利用して自らの発言を説明しようと試みた。ただしその相手は、名声、ポップカルチャー、宗教、預言者的悲観論について、流通産業複合体から現れた著名人がこれほど率直に語るのを見たり聞いたりした経験がほとんどない大衆であった。その結果は半々であり、ページの外で行使される言論の自由に最も脅威を感じた者たちは依然として彼を許さず、一方で自分たちの英雄が中規模の炎上を無傷で切り抜け、脚本化され事前承認された輝きだけが許される舞台の「踊る熊」スポットライトへ戻る姿を必要としていた者たちもいた。もちろん、記者会見の数日後、レノンはベトナム戦争について尋ねられた際、より露骨に反抗心を示さずにはいられなかった。
インタビュアー:ベトナムについて……質問されるのは嫌ですか――こういうことは意味があると思いますか?
レノン:アメリカにいて、誰もベトナムについて触れないっていうのは、まるで何も起きていないみたいで、ちょっと馬鹿げてるように思えるね。
でも、なんでそんなことを聞かなきゃなんないの?
だってアメリカ人はいつだって芸能人にいろんなことについてどう思うか聞くじゃないか。イギリス人だってそうだ。ショービズって、そういうもんだろ。でもさ、世界で起きてる[あらゆる]ことについて、ただ黙っているわけにはいかないんだ、修道士でもない限りは。(間を置き、芝居がかったふざけた謝罪をしながら)ごめん修道士たち、そういう意味じゃなかった――つまり実際には……
レノンは、「大衆は無知で単純だ」という想定そのものを嘲笑していた。しかも彼は、そのような“大衆像”が本当に実在するものではなく、むしろ、主流的正統観念や伝統的イデオロギー、さらには正統性なき支配体制そのものを傷つけかねないあらゆる言論を検閲することを正当化するために、階層秩序の管理者たちによって作り上げられた虚構であることを理解していたのである。
そしてレノンは、発言より沈黙を、参加より傍観を優先するような倫理規範を、嘲笑し、さらには侮辱することの本当の喜びを、自ら実例を示すことで表現していたのである。実際、これこそが、なぜ特権階級には自らの卓越性を語るための演説台が与えられ、非特権階級にはそれが与えられないのかを示す明白な例である。
なぜなら、特権階級はその場を、自分自身を称賛するためだけに使う一方で、非特権階級は、おそらく「なぜこのような不公平な発言権配分制度を維持する必要があるのか」という疑問や懸念を語るために、その演説台を使うだろうからである。
繰り返すが、ビートルズ論争を重要なものにしたのは、それが自然発生的な状況から生じたこと、そして民主的と称される社会における影響力、主体性、特権意識の本質について、まさに何を暴露したかという点にあった。レノンは、セレブリティ王家の新入生メンバーであったため、まだ十分長くジェントリ階級の麻酔的香煙の中で教化されておらず、上流階級は、声なき抑圧された人々に「自分たちの意見も聞かれるに値する」と思わせるようなことをしてはならず、言ってもならないという厳格な行動規範を学びきっていなかったのである。恐れられていたのは、一度でも下層階級――経済的理由から哲学的理由まで、さまざまな理由でそう名付けられた人々――との対話のための共同空間を認可してしまえば、そもそも彼らを隔てるために設けられた境界線の存在意義そのものを無効化する危険を冒すことになる、ということであった。結局のところ、もし誰もが平等を持ってしまったなら、平等に何の価値があるのか――それが富裕層側の理屈なのである。最後に残った極端な偏見、すなわち、人間としての価値を、その人が所得を生み出し、文字通り他者に金を払って自分を価値ある存在として見させる能力と同一視するという、焼き固められた差別慣行を無効化してしまえば――他にどう表現できるだろうか、人間の最も基本的な生存欲求の商品化を強いる状況を。つまり、収入がなければ、食べることも、風雨をしのぐことも、他者の中で尊厳を持って生きることもできないという意味なのだから――我々には、扱いきれないほどの自由、思いやり、自律性が残されることになる。人間性にもっとも欠けた計算法を用いて他者の愛情を容易に操作する誘因は消え去るであろう。その計算法が最悪の偏見であるのは、その残虐性が、他の悪意ある偏見とは異なり、しばしば内面へ向けられるからである。たとえば白人至上主義者は、自分自身の肌の色を理由に自らを憎むことはまずないだろう。一方、貧しい人間は、生涯にわたって恥辱と自己嫌悪に苛まれる可能性が高い。価値がないと感じる耐え難い苦痛は、単に自分の財政的困窮を反映しているだけでなく、自分が失敗した人間であることそのものの尺度なのだと信じ込まされるよう条件づけられているからである。
その結果として我々に残されるものは何かと言えば、富裕層を不均衡に優遇し、富裕層になろうと志す者たちの権利と特権を優先するアメリカである――そしてもちろん、そのような人々こそ、自分たちが豪奢な少数派の一員になる可能性を損なうような、階級層化の冒涜的慣行を非難する可能性がもっとも低いのであり、不幸にもそれは下層・中流階級のほぼ全員になってしまっている――そのような社会は自己破壊へ向けて溝を刻まれ、崩壊する運命にある。なぜなら、自己省察のあらゆる機構が解体され、公共善のための意思決定方法がすべて集団的検討から取り除かれ、史上もっとも金権的な階層構造の頂点に君臨する、もっとも卑劣で傲慢な貴族たちへと委ねられてしまったからである。こうした男女が、自ら構築した制度――彼らが檻に閉じ込めた者たちより自分たちは優れているという倒錯した妄想を記念碑化する制度――を改修しようなどとは、百万年経っても考えないであろう。まるでその行為の残虐性が、噛む玩具や新鮮な水や、真の自由以外のあらゆる気晴らしによって、閉じ込められた者たちに「自分は最高の人生を送っている」と感じさせることで帳消しにできるかのように。しかし実際には、富豪政治の差別的要件は、それが彼らにとって唯一の人生であることを確実にしているのである。したがって、政府、学界、あるいはビジネスの指導的地位にある者たちが、自発的に自らを平準化された庶民大衆へ降格させることなど期待すべきではない。たとえ、公平性と中立性を規則や法令の起草・実施において保証する唯一の方法が、それらの適用を自分自身も受ける立場に身を置くことだと十分承知していたとしても、である。
言い換えれば、権力を持つ者たちが、ある種の普遍的法令を作り、自らの特権の一部を放棄し、我々全員と同じ現実を共有する目的のために、同じ苦難を、富という壁や快適さという濠によって逸らされることなく耐え、相互犠牲に伴う同じ結果を誰もが引き受けるようになって初めて、正義は存在し得るのである。そのような仕組みがなければ、我々は、自分たちと何ひとつ共通経験を持たず、しかも我々の利益を真に考えて行動していると信じる理由もない者たちによって、統治され、操作され、罰せられ、賞賛され続けることになる。そのような仕組みがなければ、我々は、隔離によって承認された混乱した蛇梯子遊び(訳注:「ヘビとはしご(Snakes and Ladders)」として知られるボードゲーム。サイコロによる偶然によって急上昇したり転落したりするゲーム)の中に永続的に閉じ込められ、そして砕け散ったカボチャを元通りの動的全体へ復元するのと同じくらい困難な状態に陥る運命にある。
