(2024年12月5日)

 兵庫県知事選、どんでん返しのどんでん返し? 

~硬直、老朽、利権化した社会の変革が求められている~

 

前回<視点>では「マスメディアとSNS ~敗因はメディアの差なのか?~」のタイトルで、日本での最近の3つの大きな選挙およびアメリカの大統領選の結果について書いた。その趣旨は、予想を外したマスメディアが敗因としてSNSの影響を強調しているが果たしてそうか、と疑問を呈することにあった。SNSの影響が大きいことは間違いないが、それ以上にマスメディアの報道内容に問題があり、SNSは若い世代を中心とする広範な有権者のマスメディア不信を反映していたとの<視点>を提示した。

 

名古屋市長選でも自公推薦候補敗北

その後、名古屋市長選(11月24日投開票)があり、ここでも自公推薦候補が落選した。
地域政党として実績のある河村たかし氏と二人三脚でのぞんだ広沢陣営は、推薦団体ではあっても発言に問題を引き起こす百田氏の保守党の露出は控え、「減税日本」を前面に押しだし、選挙戦に臨んだ。この選挙でもSNSで拡散された情報が有権者の投票行動に大きな影響を与えた(11月26日、時事通信)との見方が有力だ。

兵庫県知事選挙(11月17日、投開票)までの流れや名古屋市長選の結果をみれば、自公既存政権党の劣勢、SNSの影響大という傾向は確定的なものとして定着してきたと言ってよい。このような情勢をうけて、石破首相は、3日、衆参両院本会議の代表質問に答えてSNSではニセや誤った情報が流されている、として公選法改修の意図をにじませた。(4日、日経新聞)

 

SNSで流布された情報はニセ・誤情報なのか

<視点:118>では、兵庫県知事選のことについて触れた。出口調査にふれて、朝日放送の出口データ(共同通信でも同じ)にみられる見事な傾向を提示し。10代から30代までは70%近くが斎藤氏、40代50代でも過半数が支持、として下記の図表を引用した。

 

既存政党の劣勢、マスメディアの事前予報がことごとく外れた、これまでの選挙結果が示すものは、SNSの偽誤情報の成せるわざではなく、既得権益層の利権に奉仕する既存マスコミ、意識操作システムのほころび、一般大衆とくに若い層の不信感の増大が原因だった。

たとえば、ネット世代に広範なユーザーをもつ「まぐまぐニュース!」はつぎのような論調で兵庫県知事選を総括している。
――2024年11月の兵庫県知事選で再出馬した斎藤元彦氏は、パワハラやおねだり疑惑が噴出していたにも関わらず、大逆転で当選しました。選挙前、テレビを中心としたマスコミは「おねだり知事」「パワハラ知事」と斎藤氏に不利な報道を展開。一方、SNSでは「マスコミは偏っている」「SNSが真実」との声が上がり、メディアとSNSの対立が鮮明に。この結果は、既存メディアの影響力が弱まり、SNSが新たな情報の主戦場として台頭するなかで、情報発信と受信の在り方に一石を投じる選挙となりました。

同じく「まぐまぐニュース!」は、「オールドメディアで40年間飯を食ってきた業界人として今、人々に伝えたいこと」題する辛坊治郎氏のエッセーを配信している。そのなかで、辛坊氏はオールドメディアこそウソをまき散らす大罪を犯してきた、「既存メディアこそ「視聴率」や「部数」の数字偏重で論調をゆがめてきた」と断定している。これは彼だけの主張ではなく、いまや大多数の日本人の偽らざる感想だろう。

 

ふたたびどんでん返しか?

斉藤氏の当選が決まるや否や、斉藤選挙を支援していたPR会社の社長のネットへの書き込みでマスメディア(ネット書き込みも)は色めき立った。彼女の主張が公選法違反を自供する証拠に他ならない、というのである。「まぐまぐニュース!」も、斉藤知事勝利のどんでん返しのさらにどんでん返しについて、次のように述べている。

――しかし、斎藤知事側から依頼を受けたとされるPR会社の女性代表が、投稿サイトに「SNS戦略」等の内幕を自ら“暴露”する形で公表したことで事態は一変します。つまり、SNS上にあふれていた斎藤知事を擁護するコメントの多くが「戦略的に作られたもの」だった可能性が出てきたのです。しかも、この行為自体が「公職選挙法違反」(買収)に抵触する可能性まで浮上しています。この一件は図らずも、私たちが何を見て、何を感じ、どう判断するかを自ら問うための好例となってしまいました。

既存マスメディはここぞと当選した斉藤知事の公選法違反を書き立てている。現行法規に照らして、PR会社と斉藤知事との関りがどうであったかはこれからの捜査に待つべきだが、既得権益勢力は「公選法違反」「SNS規制」「公選法改正」のキャンペーンを張っていくだろう。

 

問題はメディアなのか制度なのか?

一方、次のような見解も「まぐまぐニュース!」は掲載している。
――オールドメディアも酷いが、だからといってニューメディアがいいというわけでは全くない。もっと酷いメディアが誕生してしまっただけ」「「一億総白痴化」をも上回る「一億総狂人化」」(小林よしのり氏

小林氏は、県知事選に立候補しながら「自分には投票するな、斎藤氏に投票せよ」と呼びかけた立花氏をきびしく批判している。当たっている批判がある半面、マスメディアが報道しない、また、斎藤氏が様々な制約で反論しえない事柄をつぎつぎと暴露し、それによって斉藤叩き、引きずり下ろし策動の薄汚い裏工作を明らかにした立花氏の活動が斉藤候補のバックアップになったことは間違いない。
しかし、この奇策は、現行公選法が想定していない活動であった。さらに立花氏が、これまでいくつかの選挙に立候補し、法の裏、ないし隙間をついて数々の奇策を弄してきたことは多くの人が知る処だ。
このことは小林氏も指摘している。当然なすべき批判だ。
「だが立花はその法律の不備をさらに悪用し、先の都知事選では一人しか当選しないところに24人も立候補させて、ポスター掲示板をジャックして選挙とは関係のない同じポスターをずらっと並べて貼り、そのポスター掲示枠を事実上「販売」して利益を得ようとまでした」と。

 

メディアも制度もツール

法律は、いくら文言を連ねても、法の精神を尊重する共通の姿勢がなければ必ず法の不備をつく人間が出てくる。そもそも民主主義とセットで語られる選挙(代理性)そのものが本質的に不完全を生むのだ。したがって常により良いものをもとめる営為が不可欠だ。だから、選挙におけるSNSの活用について新しい合意を探る努力自体は否定すべきものではない。問題は、誰が何のためにルールを、どのよう変える、ないし、つくるか、である。

選挙制度も、オールドメディアであるマスメディアも支配階級=既得権益者の支配の道具である。そこにインターネットとSNSが登場した。このニュー・ニューメディアは、たった一人でも世界に向けて発信できる画期的な技術だった。そこに、これまでにない革命性があった。日本だけでなく、世界的なポピュリズムの流れは、この通信技術の革命と無縁ではない。今までは一方的に情報の受け手でしかなかった一般大衆が「発信者」のポジションを手にしたのである。世界史のなかでもこの十数年の出来事である。
いま問われているのは、「発信者」となった一般大衆のネット・リテラシーである。インターネットの勃興期には「ネチケット」という用語で語られたエチケットやコモンセンスである。社会制度は構成員があらゆる分野においてリテラシーやコモンセンスやエチケットを持っていることが前提だ。

メディアやシステムが悪いわけではない。それを運用する人間と社会に問題がある。第2次世界大戦以降、とくに冷戦終結以降、西側世界=資本主義社会の行き詰まりと利権化があぶりだされた。岸田政権でさえ、そのような矛盾を隠すことができず、「新しい資本主義」を政策の基軸に据える、といわざるを得なかったほどだ。しかしほとんど成果らしい成果を上げることができていない。そのような現実への不満が、蓄積されているが、既存の政治システム、政治家たちは、打開の方向性を提示しえていない。

われわれはそのような現実を踏まえ、ではどうするのか、と自問自答せざるを得ない。
引き続きこの問題について考えていきたい。

野口壽一