(2025年9月5日)
受容の分かれ目、切実さ
~エアコンとウォシュレットを素材に考える~
暑い夏に熱い話題で恐縮だが、避けて通れない話題なので取り上げることにする。
エアコン論議
今号の「世界の声」では、アメリカの社会経済学者ノア・スミス氏のエッセー「」を紹介した。その中で氏は、欧州は冷房の普及を文化的・環境的理由で拒んでいる。その結果、気候変動による熱波からくる熱中症で毎年約17万5千人が死亡していると指摘している。そして次のように述べる。
日本ではほぼ全室にエアコン(ミニスプリット式)が設置されている。それによって、欧州同様の高齢化社会であっても熱中症による死者は激減している。米国では冷房普及後に熱中症死が75%減少した研究結果があり、欧州で非普及世帯にエアコンを広げれば毎年10万人もの命が救える。しかし、欧州では電力使用量とCO₂排出量増加を懸念し、冷房導入が遅れている。人口比で比べるとアメリカの銃による死者の倍の人口がヨーロッパでは死亡している。銃規制が緊急課題であるならば欧州における熱中症死亡問題はもっと深刻かつ緊急課題ではないか。
ノア・スミス氏の記事では「ヨーロッパの冷房忌避」がやや誇張気味に描かれているが、実際に国ごとに事情や背景を整理すると以下のようになる。
<フランス>
公共建築物や学校などでは「室温を外気より15°F(約8℃)以上下げるべきではない」との文化的・行政的指導があり、冷房導入が遅れている。エネルギー節約法規も影響。
<ドイツ>
環境意識が非常に強く、冷房=「無駄な贅沢」「米国的ライフスタイル」とみなされがち。住宅にはエアコンがほとんどなく、猛暑日でも窓を開けて過ごすことが一般的。
<イタリア・スペイン>
南欧は高温だが、伝統的に昼の休息「シエスタ文化」で生活を調整してきたため、住宅冷房の普及率は低め。ただし観光産業向けにはホテルや店舗での導入が進んでいる。
<北欧諸国>
気候的に冷房不要とされてきたため普及率が非常に低い。だが近年は熱波の増加で徐々に導入が増えている。
忌避の理由
エアコンを忌避する背景にどんな判断や思想があるか、まとめてみると;
① 環境・気候変動への懸念:電力消費や二酸化炭素排出増につながるとして、冷房を「気候変動を悪化させる装置」とみなす傾向がある。
② 文化的・歴史的背景:冷房を「米国的な過剰消費」と見る視点が根強く、自然風や建築的工夫(厚い石造り、日よけ)を重視する伝統がある。
③ 健康観念:「冷房病」「サーマルショック」など、急激な温度差が健康に悪いという信念。特にフランスやドイツで強調されている。
④社会的平等観:贅沢な電力消費は不平等や浪費と見なされやすく、特に緊縮志向やエコ志向の強い国では冷房を抑制する社会的プレッシャーが存在する。
思想的背景
以上の理由をあげる思想的根拠としては;
① エコロジー思想/脱炭素主義:「持続可能性」「省エネ」を至上価値とする政策・文化が冷房抑制を正当化。
② 反アメリカ的文化批判:大量消費社会アメリカに対する対抗意識。冷房はその象徴のひとつ。
③合理主義と節制の倫理:「自然に従い、不快でも耐えることが理性的・美徳的」という啓蒙以来の価値観も影響。
中間まとめ
つまり、ヨーロッパの冷房忌避は「単なる技術的遅れ」ではなく、環境意識・歴史的建築文化・健康観念・対米文化意識が絡み合った現象といえる。ただ、近年の気温上昇がつづいた場合、ヨーロッパでエアコン忌避がこのままつづくとは必ずしも思えない。
話題の展開
コロナ禍が一段落してインバウンドがふえ、オーバーツーリズムが話題にされるとともにテレビなどでは「日本すごい」論が盛りあがっている。その話題のひとつが、ウォシュレットだろう。外国人観光客向けのトイレツアーまである。
ヨーロッパにはビデの習慣があり、海外でホテルに宿泊するとどの部屋にもついている。イスラム国にいくとモスクなどでは男子トイレも個室で手持ちシャワー型の手動洗浄用具が設置してあった。
だが、電動ビデないし電動ウオシュレットが日本のように普及している国はない。韓国や台湾は比較的普及しているがそれでも20~30%程度だ。海外での普及が低い理由をTOTOは原因のひとつに水質(日本は軟水、海外は硬水が多い)をあげている。
しかし、手動から電動化は、社会発展の必然的流れだから(と私は信じる)から、ウォシュレットもこれから世界に広がるはずである。
新規なるものの受容と西洋拝跪の終焉
エアコンとウォシュレット。近代生活の象徴のようなふたつの事例を考慮して思いつくのは私の好きな谷崎潤一郎のエッセー「陰翳礼賛」である。
谷崎潤一郎は明治維新後圧倒的な力で日本社会を変えていく西洋の文化・思想・伝統に屈伏していく日本の状況に対抗して日本的なるものを突き詰めようと努力した作家である。代表作「痴人の愛」は私の母校東京工業大学出身のエンジニアがナオミという西洋をメタファーする女性を調教しようとして失敗、ついにはナオミに屈伏していく物語である。
「陰翳礼賛」では、西洋的なるものを一律に否定するものではなく、それの良い点を評価しつつ、しかし西洋が人間生活の向上のために実現した新しい機能を日本的な観点・美学・哲学を用いて実現したらどうなるか、と突き詰めてゆく。
建築物や様々な工芸品、芸能、料理、あらゆるものを、何もかも白日の下にあるかの如く明るく照らし出す西洋にたいして、ほの明るいゆらめく照明によって陰翳を繊細に表現する日本の美の美しさを、さまざまな対象とシチュエーションにおいて解明していく。それは単なる日本礼賛ではなく、日本文化をベースに西洋が作り出したものと同じものをつくり出せばどうなるか、といった思考実験でもある。
例えば、身近なものの代表である万年筆について次のように書いている。
仮に万年筆と云うものを昔の日本人か支那人が考案したとしたならば、必ず穂先をペンにしないで毛筆にしたであろう。そしてインキもあゝ云う青い色でなく、墨汁に近い液体にして、それが軸から毛の方へ染み出るように工夫したであろう。さすれば紙も西洋紙のようなものでは不便であるから、大量生産で製造するとしても、和紙に似た紙質のもの、改良半紙のようなものが最も要求されたであろう。
谷崎はこのような結論を導き出して、さらにこの身近な本当にささいな文房具が非西洋的なものとして発明され普及した場合社会がどうなるか考察を進める。
紙や墨汁や毛筆がそう云う風に発達していたら、ペンやインキが今日の如き流行を見ることはなかったであろうし、従ってまたローマ字論などが幅を利かすことも出来まいし、漢字や仮名文字に対する一般の愛着も強かったであろう。いや、そればかりでない、我等の思想や文字さえも、或いはこうまで西洋を模倣せず、もっと独創的な新天地へ突き進んでいたかも知れない。かく考えて来ると、些細な文房具ではあるが、その影響の及ぶところは無辺際に大きいのである。
谷崎が言いたかった神髄はここに集約されている。「日本的伝統・美学・思想に立脚して、西洋の模倣ではない、もっと独創的な新天地」をつくろうと呼びかけているのである。
「陰翳礼賛」では、トイレ、日本でいうところの「厠(かわや)」が、わざわざ1章を割いて論じられている。興味深く面白いエッセーなので一読をおすすめする。
ところで、ここでながながと谷崎潤一郎を引用したのは、エアコンやトイレにかんして西洋と日本とでかつてと逆転したかのような様相が興味深かったからである。
日本は電気製品や文房具や雑貨などの新製品を世界に対して洪水のように提供してきた。いまや韓国や中国にそのお株を奪われている側面もあるが、マンガやアニメやゲームなどでは一頭地を抜いている。
欧州ではエアコンを「アメリカ文化」の象徴として忌避していると紹介されたが、極めて興味深い現象だ。
人間生活の利便性を追求していけばそこには当然今までの人間の歴史になかったものが登場してくる。それをどう受容するか、それは受容する側の力量に関わるのだろう。
『ウエッブ・アフガン』としてひとこと付け加えておくと、1400年前のイスラム教の勃興の時代に戻ろうと復古主義をかかげ、近代的発明を「異教」として排斥するターリバーンの思想と行動は、進歩を求める人間の本性に逆らうものであり、敗北を運命づけられているに違いない。
【野口壽一】