Where Does the Taliban’s Educational Ideology Come From?

(WAJ: ターリバーンの思想的な成立基盤がイスラームの教えに対する偏狭で固陋な誤った解釈およびパシュトゥーン族の同じく古めかしい因習とのアマルガムであると本サイトでは事あるごとに主張してきた。本論考はそれをさらに詳しく後づけるとともに、パシュトゥーン族に外部から持ち込まれてきた教育論、とくにジハード教育論がベースになっていると強調している。その実例として紹介されている「Jはジハード」「Mはムジャヒディーン」というスローガンは象徴的である。ま、日本も「鬼畜米英」とか「打ちてし止まん」とか1945年8月14日まで全国の学校で教えてたんだけどね。それが「教育」)

 

筆者: アリ・アフマディ
ハシュテ・スブ 2024年2月23日

ターリバーンの歴史は世俗教育に対する激しい敵意によって特徴づけられており、世俗教育を阻止するために厳格な措置を講じてきた。この傾向は女子教育に関してより顕著だ。たとえば、最初の統治時代(1996年から2001年)には、女子教育を全面的に禁止し、若い女性のための学校を閉鎖し、非宗教的な教育機関をマドラサ(訳注:宗教学校)に変えた。また、女子の高等教育も禁止され、女性教育者が教えることも禁止された。カーブル大学医学部も例外ではなく、統治期間中は開校し続けたものの女子学生は排除された。同様に、彼らは小中高校と大学の両方のレベルでカリキュラムを操作し、世俗的な教科を犠牲にして宗教的な教科を優先させた。

<参考サイト> カーブル大学医学部の歴史
https://kums.edu.af/en/history-kums

 

現代教育に対するターリバーンのこの嫌悪感は反政府勢力となっていた期間もずっと続き、学校現場、教師、生徒、職員に対する容赦ない暴力攻撃を繰り広げた。たとえば、2006年には、世俗的な学校で教師として働くことを禁止するだけでなく、そうした教師や職員を進んで暴力的に攻撃せよとのレイハ(行動規範)を公布した。これにより、学校現場に対する攻撃の数が大幅に増加した。たとえば、2007年にはほぼ毎日平均1人の生徒または教師が殺害され、南部の田舎にある学校のほぼ半数が暴力のため、2008年までに閉鎖を余儀なくされた。このことについては当時のアフガニスタン教育省も「反乱の影響を最も受けた地域で2008年10月までに約800校が閉鎖せざるをえなかった」と認めている。

2021年8月にターリバーンがカーブルを占領した後、歴史は繰り返された。ターリバーンは女子のためのすべての中等学校を閉鎖し、アフガニスタンは女子が中等教育を受けられない世界で唯一の国となった。また、「市民教育」などの現代科目をカリキュラムから削除し、代わりによりイスラーム的な科目を導入した。彼らはさらに進み、2022年12月に国内のすべての女性の高等教育と労働を無期限に禁止するとの決定を下した。

現代教育に対するこのような敵対的な態度は、ターリバーンの司法長官アブドゥル・ハキム・ハッカーニ(Abdul Hakim Haqqani)の著書『イスラム首長国とその統治システム』にも反映されている。この本はターリバーンの現行のマニフェストとして広く知られている。それによると、自宅における男性家族からのイスラーム教育のみが女性と少女には許されるという。ハッカーニはまた、あらゆる現代教育に反対し、その許容は「致命的」であると否定している。

「経験によれば、現代的・世俗的な科学に浸ることは、人々の信念と行動の両方にとって致命的だ。これらの科学の教師や学生は、コーランやスンナ(訳注:イスラームの慣行)、各先人やイマーム(訳注:宗教的指導者)たちの教えを放棄する傾向がある。彼らは知的推論に依存し、イスラームの要求を放棄する。実際、かつてアフガニスタン政府を襲った無神論の波は、アフガニスタンの教育機関で宗教科学よりも現代科学に重きをおいたことに端を発したと考えられる。」

なぜ彼らは現代教育を嫌うのか? この記事はその点に光を当て、彼らの嫌悪の起源に迫り、この対立の裏にイデオロギー的、文化的、歴史的要因が織物のように深く広く根付いていることを論考する。

現代教育に対する彼らの嫌悪感が宗教的イデオロギーに由来しているとの考えは根強い。つまりこうだ。ターリバーンのイデオロギーはデオバンド・ダルル・ウルルーム(神学校)にまで遡る。デオバンド・ダルル・ウルルームは1867年に英領インドで設立され、イスラームの復興と非イスラーム思想への反対を目的とした反植民地運動だった。この学校の主な目的は、モスレムの若者に「厳格かつ草創期の」イスラームを教え込むことだった。

したがって、この学校は当初から西洋化と西洋教育に対して強い嫌悪感を抱いていた。これらの神学校は印パ分割後、特にパキスタン・アフガニスタン国境を越えて南アジア全域に広がった。米国とソ連、その後イランとサウジアラビアの間のイデオロギー闘争が激化するにつれ、これらのマドラサはサウジ、パキスタン、米国から巨額の資金と支援を受けた。特に1979年のソ連のアフガニスタン侵攻後は顕著だった。米国とパキスタンの両国にとってはこの学校がリクルート源で、育てた兵士をそれぞれアフガニスタンとカシミールに送り込んだ。またサウジアラビアは、この領域に彼らが信じるイスラームの一流派であるワッハーブ主義(訳注:コーランとスンナの厳格な適用を求め、サウジの国是となっている)を広めたかった。イランの影響力に対抗するためである。

こうした血なまぐさいイデオロギー闘争のさなかに、ターリバーン運動はパキスタンのマドラサで誕生した。そのため、ワッハーブ主義の影響を強く受けた。ワッハーブ主義は、18世紀のサウジアラビアの神学者、ムハンマド・イブン・アブドゥル・ワッハーブの名を冠した、スンニ派イスラームの超保守的な流派のひとつだ。サウジアラビアの国教に定められており、今日もそこで実践されている。以上が多数派の論である。

<参考サイト>「デーオバンド派」とは何か-南アジアのイスラーム過激派?
https://www.spf.org/apbi/news/a_180703.html

 

ところが、この考えに異を唱える学者たちも多い。たとえばデオバンド・ダルル・ウルームの卒業生であるジョン・バット(訳注:もとヒッピーだが、1984年に卒業した初の西洋人で、イスラーム学者として活動中)。彼は以下のように主張する。ターリバーンが教育を嫌うのは、もっぱらアフガニスタンにその要因がある。デオバンド・ダルル・ウルームの創設者や学者たちは、現代教育に対して言われるほど敵意を抱いていない。 開校からわずか2年後の1869年にダルル・ウルームの講義要綱を定める委員会は修業期間を10年から6年に短縮した。それは「卒業生の希望者が還俗して世に尽くすには、現代科学を学ぶことも必要であり、そのための十分な時間を与える措置」だった。

つまり世俗教育に対するターリバーンの敵意の源は別にある。それは、家父長制的価値観に基づく「パシュトゥーンワリ」と呼ばれる地元の部族規範だ。 「パシュトゥーンワリ」はパシュトゥーン族の文化規範で、要は部族の掟、生活様式、価値観の体系であり、本来は地域性が強い。そのパシュトゥーン文化が中央政府の権威や、ひいては国内隅々までの法的構造に影を落としている。たとえばパシュトゥーンワリで女性はとても尊重されているが、社会に出て自ら積極的な役割を果たすことはできない。せいぜい家父長的価値観を守る男性たちの支援のみ。ターリバーンは主にパシュトゥーン人の部族運動であり、パシュトゥーンワリが最も顕著であるアフガニスタン南部の村から最初に出現した。だから彼らは現代教育を認めない。

こうしたバットの指摘に加え、さらに特筆すべき点がある。過去、特に20世紀におけるこの国の近代化教育のトラウマである。当時世俗学習が、事もあろうかイデオロギーの一部として課題化され、一般に広められた。それが反発を招いた。例えば、アマヌッラー・ハーン国王( King Amanullah Khan /在位1920~1929年)は、トルコのアタチュルクに触発されて、国民の声や利害関係者を考慮することなく、国内最大の教育西洋化プロジェクトを開始した。これは地方から激しい反発を招き、1929年の追放につながった。さらに、ソ連支援政権が政権を握っていた1970年から1979年にかけて、この国の教育制度は共産主義イデオロギーの要素をカリキュラムや教育制度に組み込む操作がなされた。たとえば、生徒たちは「革命」、「人民民主主義」、「労働者の権利」などの新しい語彙を学び始めた。生徒たちは社会主義賛歌を歌い、宗教的信念はもう使用済みだと両親に語り始めた。

もうひとつの注目すべき例は、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻後、米国とパキスタンが協力して、アフガニスタンの学生向けにジハードと反共産主義の言説を詰め込んだ「J for Jihadカリキュラム」として知られる新しい教科書を開発したことである。新しい教科書は、ネブラスカ大学オマハ大学(UNO)の支援を受けて開発され、中央情報局(CIA)とパキスタンの軍情報局(ISI)が設計し、米国国際開発庁(USAID)の資金提供を受けて作成された。これらの教科書は当初、パキスタンで難民となったアフガニスタン人に配布されたが、ムジャヒディーン(訳注:ソ連の支配に対し聖戦を仕掛けた「聖戦士」で、多くはパキスタンから越境し活動した)が領土を獲得し始めるとすぐにアフガニスタンの学校に広まった。これらの教科書は、聖戦、戦闘行為、暴力をあからさまに奨励していた。以下に、3年生と4年生の数学の教科書から2つの例を示そう。

① 聖戦士の1団がロシア兵50人を攻撃した。この攻撃でロシア人20人が死亡した。何人のロシア人が逃げた?

② カラシニコフ弾の速度は秒速800メートル。ロシア人が聖戦士から3200メートルの距離にいて、聖戦士がそのロシア人の頭を狙った場合、弾丸がロシア人の額に当たるまでに何秒かかるかを計算しなさい。

いかがだろうか?多くの学者は、これらの歴史的出来事こそが現在のターリバーンの「現代」教育に対する反発に影響を与えていると主張している。

結論として、ターリバーンの見解は常に世俗教育に対するあからさまな反発であり、宗教的なマドラサ型の教育システムに重点を置いている。 1990年代にこのグループが出現して以来、この見解に大きな変化はない。彼らは依然として「現代」教育を「致命的」なものとみなしており、教育は「宗教」教育の枠組みの中でなされるべきだと信じている。この見解をターリバーンの宗教イデオロギーであるデオバンディ・イスラームに帰すると主張する人もいるが、そう単純ではない。他の多くの歴史的要因がターリバーンの見解に寄与していると主張したい。上に述べた1920年代のアフガニスタンにおける世俗教育のトップダウンの弊害、ソ連支援政権の教育制度、冷戦中に国内で展開された「J for Jihad」カリキュラム(訳注:参照サイトhttps://www.nbcnews.com/id/wbna3067359、ターリバーンの部族規範、つまり「パシュトゥーンワリ」などである。 これらが相まって教育に対するターリバーンのかたくなな姿勢を後押ししている。

 

著者について:
アリ・アフマディ(Ali Ahmadi) は独立した研究者であり、英国のイースト アングリア大学 (UEA) で開発研究の修士号を取得しています。

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