Died on the Fourth of July
Burying the Declaration of Independence in Kitch and Grift

 

(WAJ: アメリカ建国250周年。祝賀ムードに包まれる一方で、「アメリカは建国理念を失った」と厳しく批判する論考も現れている。本稿は、その代表例のひとつである。著者エマニュエル・パストリッチは、建国250周年を「民主主義の祝祭ではなく、その葬儀である」と表現し、古代ローマ帝国の衰退と今日のアメリカを重ね合わせながら警鐘を鳴らしている。評価は読者によって分かれるだろう。しかし、建国理念とは何か、民主主義とは何かを改めて考えさせる論考として紹介したい。パストリッチ氏は国際政治・文明論を専門とする研究者。アメリカおよび東アジアを中心に、民主主義、文明論、国際秩序について数多くの評論を発表している。また2020年、2024年の米国大統領選挙にチャレンジしている活動家でもある。)

 

エマンニュエル・パストリッチ理事 · 一般社団法人・東北亞未来構想研究所

エマニュエル・パストリッチ
2026年7月4日

アメリカ独立宣言は、貴族も国王も存在せず、行政権を持つ教会にも支配されない民主共和国を築こうとした、人類史上初めての壮大な試みであった。それはアメリカ史のみならず、世界史においても画期的な出来事であった。

独立宣言はこう宣言している。

「われわれは、すべての人は平等に造られ、創造主によって生命、自由および幸福追求の権利をはじめとする、奪うことのできない権利を与えられていることを、自明の真理であると信ずる。」

この言葉は、何千年にもわたって続いてきた身分制度に真正面から挑戦した。そしてフランス革命、ハイチ革命、1848年のドイツ革命をはじめ、その後250年に及ぶ民主主義、奴隷制度廃止、労働者の権利獲得、さらには世界各地の植民地独立運動に力を与え続けた。

この言葉と思想は、それを書いた人々自身の限界を超え、人間精神の普遍的な価値へと到達したのである。

しかし、あえて口にする人は少ないものの、今日のアメリカ合衆国の建国記念日は、民主主義の誕生日というより、その葬儀のように感じられる。それはまた、退廃した寡頭支配を礼賛する、醜悪なナルシシストたちによる暗黒の儀式でもある。俗悪な虚飾と野蛮さを織り交ぜた祝賀行事は、史上初めて、大統領職に就いた小児性愛者であり、強姦犯であり、詐欺師であり、ギャングでもある人物を称えるものとなった。同時にそれは、本来なら憲法、議会、司法によって厳しく制約されるべき公職であった大統領職が、放縦な皇帝を取り巻く宮廷へと堕落したことを示している。

もっとも、トランプがいかに嫌悪すべき人物であろうとも、彼はバイデンという「カリギュラ」に対する現代の「ネロ」にすぎない。いま私たちが目撃しているのは、一人ひとりの政治家の問題ではない。政治文化そのもの、国家を支えてきた道徳そのものが崩壊しつつあるのである。

独立宣言が250年にわたり世界中の独立運動を鼓舞してきたのは、そこに次のような言葉があるからである。

「これらの権利を保障するために、政府は人々の間に設けられ、その正当な権力は被治者の同意に由来する。」

この一節は文字どおり世界の政治思想を変えた。それは署名した人々の個人的な欠点を超え、人類共通の政治理念となったのである。

しかし、だからといってアメリカを美化してはならない。独立宣言に込められた理想と、超大国へと成長していく現実のアメリカとの間には、常に大きな隔たりがあった。

アメリカ革命は世界文明に多大な貢献をもたらした。しかし現実には、スティーブン・ダンカン、コーネリアス・ヴァンダービルト、J・P・モルガン、ジョン・D・ロックフェラーらが莫大な富を築いたのは、民主主義や権力分立のおかげではない。彼らは奴隷としてアフリカから連れて来られた人々の労働を搾取し、虐殺され、生き残った者も保留地へ追いやられた先住民族の土地と資源から利益を吸い上げ、さらにイギリス帝国による違法なアヘン貿易の仲介者として中国から莫大な富を得た。その資金はアメリカの鉄道や製造業へ投資され、アメリカを世界経済の中心へ押し上げた。

アメリカを物質的に強大にしたのは、独立宣言でも憲法でもなかった。「明白なる天命(マニフェスト・デスティニー)」の名のもとに犠牲となった人々から富を奪い取った、その巨大な富の移転こそがアメリカを超大国へと押し上げたのである。もちろん、アレクシ・ド・トクヴィルが描いたように、アメリカには他国には見られない優れた民主的伝統も存在した。しかし、それが冷酷な帝国アメリカを築いた原動力ではなかった。

7月4日に祝われる「自由」は、先住民にも黒人にも自由ではなかった。元奴隷であり奴隷制度廃止運動の指導者であったフレデリック・ダグラスは、有名な演説『奴隷にとって7月4日とは何か』でこう語っている。

「奴隷にとって、あなた方の祝祭は茶番にすぎない。あなた方が誇る自由は神をも恐れぬ放縦であり、国家の偉大さは膨れ上がった虚栄にすぎない。歓喜の声は空虚で心がなく、暴君を非難する言葉は厚顔無恥である。自由と平等を叫ぶ声は中身のない嘲笑であり、祈りも賛美歌も説教も感謝も、その壮麗な宗教的儀式のすべてが、奴隷にとっては誇張、欺瞞、詐欺、不信心、そして偽善にほかならない。」

ダグラスがこの言葉を語った後、アメリカでは数多くの改革が行われた。しかし、今日のアメリカの姿を見れば、私たちは再びあの暗い時代へ逆戻りしつつあることを認めざるを得ない。

南北戦争から9・11までの時代には大きな進歩があったとはいえ、その間にもベトナム戦争や朝鮮戦争という悲劇があった。そして近年では銀行と多国籍企業が絶対的な力を握り、法律も憲法も、自家用飛行機で私有島から私有牧場へ飛び回るような人々にはもはや適用されなくなってしまった。

連邦政府の腐敗は加速度的に進んでいる。監察官、科学者、規制当局の専門家たちは次々と排除され、トランプとその取り巻きは、アメリカ史上最大規模ともいうべき政府資産の略奪と政策腐敗をほとんど抵抗なく進めることができた。その規模は世界史に照らしても異例と言ってよい。

では、この「大統領皇帝」ドナルド・トランプは、建国250周年をどのように祝おうとしたのだろうか。

彼はホワイトハウスへ戻ったその日から、このけばけばしい独立記念日の準備を始めた。それまで節度と簡素さを特徴としていた建物の壁という壁に金箔の装飾を施し、ホワイトハウスを、ラスベガスのカジノとチンギス・ハーンの宮殿を掛け合わせたような異様な建物へと変えてしまった。さらに彼は、ベルサイユ宮殿にでもふさわしい巨大な舞踏場を増築し、そこでもっぱら億万長者の支持者たちをもてなそうとしている。その地下には、熱烈なシオニストである巨大富豪ラリー・エリソンが建設した情報機関の司令部まで設けられた。

彼は6月14日、自身の80歳の誕生日を盛大に祝うことで、建国250周年記念行事の幕を開けた。それは、大統領皇帝の誕生日は国家の誕生日と同じほど重要なのだということを世界に示す演出でもあった。

国家とは彼自身なのである。「朕は国家なり(L’État, c’est moi.)」

こうした姿勢は、トランプが退任すれば終わる一時的な悪夢ではない。彼は億万長者の支持者たちの利益のために、アメリカの政治環境そのものを恒久的に汚染した。その結果、倫理と憲法に基づく健全な政府を再び築くことは、きわめて困難になってしまった。

トランプはホワイトハウス前に巨大な囲いを設け、その上に歪んだ凱旋門を築き、「クロウ(鉤爪)」と名付けた。そこでは「アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ(UFC)」の名のもと、プロレスラーたちが血まみれで闘う見世物が繰り広げられた。この現代の剣闘士競技は、もはやトランプ個人の趣味ではなく、彼をはるかに超えた巨大な勢力によって「大衆文化」として押し広げられている。

何人もの選手が深刻な負傷を負った。しかしトランプは、その光景を心から楽しんだ。彼だけではない。彼の側近たちも、共和党・民主党を問わず支配層の多くもまた、他人の苦しみを娯楽として消費している。

古代ギリシア・ローマ文明の最良の精神ではなく、ローマ帝国末期のもっとも退廃した文化が、いまやアメリカ社会の標準になりつつあるのである。

トランプは7月4日までの一週間、ナショナル・モールで連日大規模な野外コンサートを開催する計画を立てていた。しかし、忠実なMAGA支持者を全国から集め、個人崇拝の儀式ともいうべき演出を行うことが明らかになると、多くの芸術家が出演を辞退した。それでもトランプはひるまなかった。

代わりに、史上最大規模の花火大会を計画したのである。だが、それは祝祭ではなく、軍事演習だった。大量の花火によって有害な化学物質が大気中に散布され、市民はその煙を吸わされた。一方で政府高官には防護マスクの着用が指示されていた。

気候変動による異常な猛暑の中でさえ、トランプ政権は石炭と石油こそ最良の富の源泉であると宣伝し続けた。

独立宣言という本来の理念が空虚な個人崇拝へと置き換えられてしまった以上、その祝祭にはもはや中身がなかった。その空白を埋めるために、トランプは軍隊を総動員した。戦闘機による祝賀飛行。軍楽隊による演奏。そして、自らをワシントンやリンカーンになぞらえる誇大な演説。

アメリカ建国の父たちが学んだギリシア・ローマ哲学の最良の精神は消え去り、その代わりにローマ帝国末期のもっとも醜悪な遺産――「パンとサーカス」、すなわち、大衆を短期的利益と娯楽で支配する政治が、トランプ政権の標準的な統治手法となってしまったのである。

建国250周年は、ひとつの国家の葬儀である。しかも、それは死者への敬意すら欠いた葬儀だ。アメリカの約束は根元から腐り始めている。もちろん、なお良識を守ろうと立ち上がる人々は存在する。しかし、トランプ主義というナルシシズムの文化は、国家という身体を内側から蝕む壊疽のように広がっている。

しかも、トランプ主義には民主党版も存在する。民主党は、その体制を支える補完勢力、あるいは管理された反対勢力にすぎない。国土安全保障機関の関係者によって動かされる政党に、いったい何を期待できるというのだろうか。

では、7月4日の祝賀騒ぎの陰で、人知れず進んでいた出来事にも目を向けよう。

連邦最高裁判所は、大統領には事実上、独裁者として振る舞う権限があるとの判断を示した。大統領は連邦政府の誰であれ自由に任命し、自由に解任できるというのである。その結果、トランプは独立機関である連邦取引委員会(FTC)の委員レベッカ・ケリー・スローターを、正当な理由を一切示すことなく解任することが認められた。これは、政府のどの機関も大統領、あるいは将来現れる「雇われ大統領」に対して歯止めをかけられないことを意味する。

その一方で、現役のアメリカ空軍少佐ジェイソン・ワトソンは、制服姿のまま連邦議会議事堂前で演説し、トランプの弾劾と有罪判決を求めた。彼は演説を終えると、ただちに警察によって逮捕された。群衆は警官たちに向かって皮肉を込めて叫んだ。「お前たちは誰に仕えているのだ。」

現役将校が制服姿で逮捕されたという事実は、重大な意味を持っている。それは、国家機構の中でなお抵抗する力を残しているのは軍だけであり、この少佐はトランプを最高司令官として認めない上官たちの命令に従って行動した可能性を示唆しているからである。

もちろん、そのような抵抗は歓迎されるべきだ。しかし、市民がスマートフォンの快楽とナルシシズムに溺れ、本当の抵抗を軍隊だけに委ねるならば、そこに明るい未来を期待することはできない。

いま必要なのは、週末ごとの抗議デモを繰り返すことではない。地域社会に根ざした本物の組織を築き、より高い次元で、しかも倫理に基づく一貫した抵抗を育てることである。

私たちは、この一年、トランプが暗号資産事業によって何十億ドルもの利益を手にしたことを知った。その資金はアメリカ国民の負担によって生み出され、さらにさまざまな資金源から流れ込んだものである。

こうした「略奪の一年」のニュースが流される目的は、人々を勇気づけることではない。

人々に「自分たちは無力だ」という絶望感を植え付けることである。

さらにトランプは、責任を負わない世界統治の青写真として「平和委員会(Board of Peace)」構想を発表し、ガザを誰にも責任を負うことなく統治する計画を打ち出した。

それは、将来世界全体をどのように統治するかを試す実験でもある。

「平和委員会」は次のように述べている。

ガザ地区は、公共サービスと自治体行政の日常業務を担う、非政治的・専門家中心のパレスチナ人委員会によって暫定的に統治される。この委員会は有能なパレスチナ人と国際的専門家によって構成される。その上位には、新たな国際暫定機関「平和委員会」が置かれ、その議長はドナルド・J・トランプ大統領が務める。他の国家元首級メンバーについては後日発表される予定であり、その中には元英国首相トニー・ブレアも含まれる。

このような責任を負わない世界統治への動きと並行して、アメリカ軍とイスラエル軍、さらに両国の情報機関を事実上一体化する法案も、連邦議会で審議されている。共和国の葬儀が行われている、まさにその時に。

前日、トランプは忠実なMAGA支持者たちに向かって、7月4日の演説についてこう語った。「耐え難い暑さの中で行うことになる。お前たちは最後まで私と一緒に苦しむことになる。」

その意味は明白である。この個人崇拝は、トランプ一人に限らない。それはヴァンスにも、ルビオにも、あるいはマムダニにも容易に受け継がれていく。それは血の犠牲を要求する死のカルトなのである。

建国250周年の祝賀で完全に姿を消していたものがひとつある。

それは、アメリカ独立宣言の核心であり、この国の伝統に価値を与えてきた最も重要な一節である。

「濫用と権力の簒奪が長年にわたって繰り返され、一貫して人民を絶対的専制の下に屈服させようとする意図が明らかであるならば、そのような政府を打倒し、自らの将来の安全を保障する新たな制度を樹立することは、人民の権利であるだけではない。人民の義務でもある。」

 

 

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