ギャンブル狂時代

大谷選手の元通訳水原一平氏(39)が3月25日に違法賭博で訴追された事件は衝撃的なニュースだった。大谷選手を巡る初めてのスキャンダルだけに、関係者やファンは大きなショックを受けた。大谷は26日に声明を発表し、「自分自身が賭けたり、誰かに代わってスポーツイベントに賭けたり、それを頼んだりしたことも、ブックメーカーに送金するよう誰かに依頼したこともない」と、この事件への関与を全面的に否定した。この発言をファンは当然だと受け取ったが、一抹の不安があった。もし、彼が水原の賭博行為を知った上で負債を肩代わりしたのであれば、日本では美談になっても、米国では共謀罪に問われる可能性があったからだ。大谷が水原の賭博や、それに伴う巨額の借金の存在を初めて知ったのは、20日にソウルであったパドレスとの開幕戦後だったという。チームミーティングで水原が「自分はギャンブル依存症だ」と発言したことだったという。それをきっかけに調査が進み、水原が違法賭博の損失を埋めるために、大谷の銀行口座から1600万ドル(約24億5千万円)をブックメーカー(賭屋)に送金していたことが分かった。捜査を進めてきた連邦検察は4月11日、水原を銀行詐欺容疑で訴追し、同時に「この事件で、大谷選手は完全な被害者とみなされる」と発表した。これで大谷の嫌疑は晴れることになった。これに安どしているのはファンだけではない。大リーグ機構(MLB)もそうだ。米国で野球は、アメフトやバスケに比べ動きが乏しく試合時間も長いため、若者の間で野球離れが進んでいた。そこに大谷が登場して、二刀流として大きな話題を呼び、MLBの人気を盛り上げてきた。大谷は、MLBにとってはかけがえのないドル箱であり、最大の人気を誇る不世出(ふせいしゅつ)の選手なだけに胸をなぜおろしているに違いない。疑惑が晴れた背景には、大谷が最後まで「正直さ」と「率直さ」を貫き通したことがあると思われる。なにしろ、彼は自分の個人的な通話を記録したスマホまで自発的に捜査機関に提出している。「正直は最善の策」であることを証明した。

 

水原はどのような方法で大谷の口座からブックメーカー(賭け屋)に送金したのだろうか。その手口について連邦検察は明らかにしている。それによると、大谷がメジャー1年目に入ったばかりのときにキャンプ地アリゾナ州で年俸を受け取るための口座開設を手伝っており、口座に関する詳細設定も通訳していた。水原は2021年9月から違法賭博にかかわるようになり、数カ月後にはかなりの金額を失い始めた。それ以降、彼は大谷の銀行口座の連絡先情報を変更し、自身の権限でアクセスし利用できるようにして、ギャンブルで損した金額を胴元に送金していたという。ギャンブルを始めてから2年間で、水原は通訳業のかたわら1日平均25回も賭けていたというから尋常ではない。それを可能にしたのは、カジノに行く必要のないオンライン賭博だったからだ。文明の利器が彼を破滅させたともいる。それにしても、水原はどうしてそれほどまでに違法賭博にはまっていったのだろうか。彼の知人は「父親もギャンブル好きで知られ、負けが込んで自己破産をしているので、親譲りではないか」という。身近にそんな父親がいたために水原の思考がまひし、「負けを繰り返しても『勝てば取り返せる。最悪、自己破産で借金を帳消しにできる』と考えたのではないか」とその知人は言う。確かに、ギャンブル好きは遺伝すると言われているからそんなこともあるのかもしれない。しかし、一発逆転を狙った水原のもくろみは崩れて、訪れたのは破滅だった。大谷は、そんな彼が運転するブレーキの効かない車に乗せられて命拾いをしてしまったのだ。そんな目にあいながらも、大谷は水原を心の中で100%切り捨てることはできないで悩んでいるのではないか。なにしろ米国に渡って以来、公私ともに面倒を見てもらった人物である。心の葛藤を抱え、野球に集中できないこともあるだろう。そんなハンディを背負って大谷は今シーズンを迎えている。でも、彼は「メンタルのことを言い訳にしたくない」と言っているというから、それを乗り越えて我々ファンを楽しませてくれるに違いない。一回り大きくなった大谷を見たいと思う。

大リーグ機構は規約の中で、選手や審判、球団関係者が野球賭博に関わることを厳しく規制している。それに違反すると永久追放されたり、自分が関与しない場合でも1年間の資格停止処分を受けることになっている。もし水原が関与した賭博の中に一つでも「野球関連」のものがあった場合、MLBとしても関係した人物に厳しい処分をせざるを得なくなっていたから、大谷も何らかのペナルティを受ける可能性があった。それだけに、水原が野球賭博をしていなかったことは、大谷にとっては「不幸中の幸い」だったと言える。野球賭博では、米国も日本も過去に苦い経験を味わっている。米国では、大リーグ最多安打記録を持ち、安打製造機と言われたピート・ローズが、監督時代を含めて長年にわたって野球賭博にかかわったことが分かり、1989年に野球界から永久追放の処分を受けている。一方、日本でも野球賭博で1969年に西鉄ライオンズ(当時)の選手と、2016年に巨人軍の選手がそれぞれ八百長や賭博にかかわっていたことが分かり大きな社会問題となった。また、韓国や台湾でもこうした野球賭博や八百長事件は起きている。野球は人気スポーツだけに、賭けの対象になりやすい。また人気選手には、常に反社会的勢力が接近しようとするため、野球賭博の誘惑は、プロ野球界には常に存在しているといえる。しかし、それが一度発覚すると、野球界は回復不能なほどのダメージを負うことになる。米国でもピート・ローズ事件以来、野球人気が長い間低迷した。台湾、韓国でも人気が急落し、野球の発展を疎外する要因になった。

 

賭博と言えば、大王製紙元会長の井川意高(もとだか)氏(58)に触れないわけにはいかない。彼は、ギャンブルによる子会社からの巨額借り入れ(106億8000万円)事件で、2011年に会社法違反と特別背任で逮捕され、2016年に仮釈放された人物だ。その彼が、ギャンブルにのめり込んだ経緯を雑誌のインタビューで語ったことがある。その中で、彼は「どうしてそんなにギャンブルにのめり込むのかとよく聞かれるが、ギャンブルをしない人に説明するのは難しい。『ギャンブルを知らない人がカジノ法案を作ったり、童貞がポルノ映画をつくるようなものだからだ』と答えたことがある。よく仕事のプレッシャーやストレスのせいでギャンブルに依存するのだろう、とピントが外れたようなことを言われることもあるが、それも関係ない。ギャンブル自体がとても面白いゲームだからやるのであって、釣りや登山が楽しいからやる人と同じだ。『金の問題』もあんまり関係ない。カジノでギャンブルをしているときに、積み上げてるチップがお金に見える人はギャンブルに向いてない。『今100万円分勝ってるから、あといくらで車が買える』とか『大勝ちしたらマンションが買える』とか。そういうお金のためではなく、ゲームとして楽しむ人が、本当にギャンブルにのめり込む」と語っている。井川氏は創業家3代目として事業での成功体験を持ちながらも、ギャンブルにのめり込み、「将来ある人生」を棒に振ってしまった。それほど、ギャンブルには人をのめり込ませる「魔性」が潜んでいるのだ。賭博に溺れると、アルコールや薬物中毒と同じように「脳がハイジャック」され、「わかっちゃいるけどやめられない」状態になってしまう、と専門家は言う。

米国でのスポーツ賭博の広がりは爆発的だ。それに巻き込まれた一人が水原と言うことなる。カジノ産業などの業界団体「米国ゲーミング協会(AGA)」によると、スポーツ賭博は現在では全米50州のうち38州と首都ワシントンで合法になっている。2023年には全米で1198億ドル(約18兆5231億円)が賭けられ、業界収益は約109億ドル(約1兆6856億円)に達するという。違法賭博の問題もある。AGAの2022年の報告書によると、違法胴元や海外のサイトを通じた違法スポーツ賭博の賭け金は年間638億ドル(約9兆8500億円)に上る。日本でもオンライン賭博でギャンブル依存症になる若者に関する相談が急増している、と公益社団法人「ギャンブル依存症問題を考える会」(田中紀子代表)が発表した。同団体は米国で起きた水原違法賭博事件を受けて急きょ発表することにしたという。急増の背景に、新型コロナ禍でのオンライン賭博の普及があると分析。オンラインで常に手軽に賭博が出来ることから、借金額や犯罪への関与も深刻化していると指摘する。同団体にあった2023年の相談479件のうち、当事者の年齢は20~30代が78%(2019年同期比14ポイント増)を占めた。賭博の種別では、スポーツ賭博を含むオンラインカジノが20.3%(同16ポイント増)だった。一方、公営賭博では競艇が28.0%(同22.7ポイント増)、競輪が18.2%(同15.5ポイント増)だった。相談内容では、多額の借金や、犯罪に関するものが増えた。2023年の平均借金額は855万円。ヤミ金融への借金や、会社や家族のお金を勝手に使うといった犯罪がらみの相談は28.2%あった。田中代表によると、違法オンラインカジノへのアクセス数が2018~21年で100倍以上増え、公営競技でもオンライン賭博が売り上げの70~90%を占めるようになったとする、民間のデータ分析会社や国の調査結果があるという。同会は対策として、違法にもかかわらずオンラインカジノやスポーツ賭博を紹介する、ユーチューブや広告の取り締まりを強化する新法成立を求めている。公営ギャンブルについても、最初は無料のポイントで賭けられたり、ユーチューブで年齢制限もなく視聴できたりするなど、「ハードルが下がり、依存症の若者は増加の一途をたどると予想される」として、規制強化を求めている。田中代表は、水原容疑者の事件のような巨額な金銭までは及ばずとも「小さな同種事件は、国内でも日常茶飯事になってきている」と危機感を示す。

こうした賭博問題が深刻になっているにもかかわらず、日本政府はそれを煽るような政策をとっている。昨年4月、大阪市・府にカジノを含む統合型リゾート(IR)の開設を日本で初めて承認した。計画によると、大阪万博が来年開かれる大阪湾の人工島「夢洲(ゆめしま)」にカジノ施設のほか、国際会議場やホテルを整備する。年間の売り上げは5200億円を見込み、このうち8割をカジノの収益でまかなうという。年間の来訪者数は約2千万人、国内客が7割と想定している。なんとも壮大な計画であるが、喜んでいるわけにはいかない。規模が大きくなればなるほど多くのギャンブル依存症患者を生み出すことになるからだ。それも、法律ではIRを全国で3カ所まで開設可能としているから、大阪以外にもう2カ所つくられる可能性がある。日本では賭博行為は刑法で違法とされている。ところが、競馬、競艇、パチンコ、宝くじ、などは「公営ギャンブル」と呼ばれ、その対象外に置かれている。そこにカジノが新たに加わることになった。カジノ誘致の批判に対して、吉村洋文大阪府知事は「ギャンブル依存症に正面から向き合っていく」と語り、その対策の一環として、若者への予防強化のために、高校などで啓発授業をするほか、IR開業までに依存症の相談や治療を専門とする「大阪依存症センター」を設置すると述べている。それでも、メディアのアンケート調査では、大阪市民・府民の47%が反対している。ギャンブル狂の人達が街にあふれ、日常生活が脅かされるのを恐れているのだ。反対するのも当然といえる。治療施設をつくるのは正解のように思われるが、そう単純な話ではない。「病気の原因を作っておきながら、病院を建てたからそれで済む問題ではない」「そんなことはどうでもいいから、初めからカジノなどつくな」と批判する人は多い。知事がすべきことは、賭博依存症患者をつくることではなく、住民の健康と安寧を図ることだ。大きなイベントで地域経済の活性化を図るこれまでの手法は、利害が輻輳(ふくそう)して成功する可能性が低くなっている。大阪万博も費用の膨張と工事の遅れで大きな問題を抱えている。東京オリンピックに至っては汚職と談合のスキャンダルが絶えなかった。札幌市も冬季オリンピックの誘致を断念した。カジノビジネスに欠かせないのが中国富裕層の存在だ。ところが、それを当てにすることができなくなってしまった。というのは、中国政府が賭博目的での海外渡航を禁止する法律を作ったのだ。そうなると大きな市場を失うことになり、カジノ開設自体が大きなリスクを伴う「捕らぬ狸の皮算用」になりかねない。何とも皮肉な話と言わなければならない。

(中楯健二さん、2024年5月3日)