Let’s Build a Taliban Alternative, Let’s Not Rely on America

 

(WAJ: 2001年のターリバーン政権打倒後の失敗の原因はなんだったのか。ソ連崩壊後、そして9.11米国多発テロ事件後、アメリカ政府は北部同盟を使ってターリバーン政権を武力で倒し、自信をもってアフガニスタンに民主主義を確立すると宣言した。しかし民主主義を金科玉条としてかかげて武力を行使する米国はもはや、かつてのように「変革」の旗手としてふるまうことはできなくなった。そのような現実をまえに、アフガニスタン自身のなかから、新しい状況を作り出す責任はアフガニスタン人自身にあり、ターリバーンを変えるか、変えられなければ、ターリバーンに代わるものをつくるしかない、との決意が生まれつつある。)

 

By: Samad Payenda
By Hasht-E Subh On Jul 5, 2023

サマッド・パエンダ
ハステ・スブ 2023年7月5日

 

2001年のターリバーン政権の崩壊は、アフガニスタンの人々に希望の光をもたらした。広範な国際キャンペーンを伴った新政府樹立の最初の数カ月は、さまざまな社会階層から温かく迎えられた。また追い落とされたターリバーンはここへ来て、アフガニスタン人の総意から生み出され国際的な支援を受けた新体制を築き、共に生きる用意があると表明した。どっちもどっちで、以来20年以上にわたる戦争と圧政の末、アフガニスタンは廃墟と化し、基本的な生活、行政、教育の要件を達成する可能性は皆無となっている。内部でこの状況を打開する方法はないように思われていた。

さて、ターリバーンとアメリカの対立はターリバーン政権打倒につながり、かつてない好機をもたらした。原始的で専制的な集団の支配下で見捨てられ、忘れ去られていた国民が、突如として強大な国々や国際機関の注目の的になったのだ。ラジオ局は新鮮なニュースで賑わい、あらゆる政治分野の間にかつてない活気が生まれた。新たな同盟が結ばれ、過去の憲法が改正され、政治家たちは急速に進化する新たな力学の中で自らを位置づけるために、色あせた友情や仲間意識に頼った。

ターリバーンを崩壊させたのは突発的に実行された米軍による攻撃だったのだが、その事実は政治的なニュースや新政権樹立に向けた外交努力の中で忘れ去られた。攻撃を直接体験した人々を除いて、一般市民はどのように攻撃が開始されたのか知らないままだった。彼らが米軍の攻撃について議論する機会を得る前に、カンカンガクガクの政治プロセスが始まり、本来語られるべき政治力学は、原理主義が人質に取った国家を守ろうとの世界的なコンセンサスへと変貌した。ジハード指導者(訳注:ソ連軍とたたかったムジャヒディーン各派)、実力者、外国人技術者、高学歴者が参加したことで、このプロセスは比較的包摂的な様相を呈した。国連や世界的な大国の監視のもとに設立された民主的なメカニズムによって、現地の司令官や実力者による独占が徐々に弱まることが期待された。

これによって、国民は自分たちの代表を選ぶことができ、安定した国家体制が確立されるはずだった。暫定政権と移行政権の間、国際的な支援と新しい統治の法的枠組みを導入する努力は、アフガン国民に将来への希望を抱かせた。より良い未来のために働き、闘うという意識が社会全体に浸透した。移民は国に戻り、村人は都市に移り住み、家族は子供たちの教育と成長のために長期的な計画を立てた。影響力のある国々が我々の若者の血と命を狙うべき時代はもはや終わったと一般的に考えられていた。その代わりに、他国はわが国の鉱山、水、交易路への投資を競うはずだった。戦争に関与する政治集団が、民主的な分野での競争は戦争よりも効果的であることに気づくと思われていた。

民主主義と国民の投票を支援する欧米の貢献国の評判は、さらに楽観主義に拍車をかけた。外国人が、自分たちの優先順位を指示したり押し付けたりせず、民主主義システムを促進することに期待を寄せた。国際社会からの財政的・技術的支援は大きかった。最初の10年間は、立法、教育、高等教育、専門スタッフの養成、法的・行政的枠組みの構築においてかなりの進展が見られ、投資や起業も伸びた。しかし、時が経つにつれ、多くの顔からベールが剥がされ、楽観主義の一部は幻想であることが判明した。

幻想のひとつは、ジハードの指導者、司令官、強力な民族集団が民主主義体制でも生き残ったことだった。国民が議会や政府に自分たちの代表を選出する機会を徐々に得て、安定した国家体制が形成されるという期待があった。しかし、残念ながらそれは実現しなかった。それどころか、政府は既得権者や権力者のグループの間で金と地位が分配される場となった。これらの人物は、ジハードや内戦での役割、あるいは国際機関や外国大使館とのつながりによって影響力を持つようになった。新たな貴族層が出現し、部族、州、地区が自分の物だと考えた。こうした請負業者が存在し続けたことが、合法的な国家権力を樹立できなかった重要な要因となった。

残念なことに、この国づくりの機会を捉える国内の能力は低く、国民は独占者や請負業者に対抗するのに必要な能力を欠いていた。国際社会は、アフガニスタン人の国家建設を支援するという使命を公式に宣言したものの、現地の権力者と交流し妥協するという単純なアプローチを選んだ。決定的役割を果たすべき政府は、財政的・政治的支援を得るために独立した政治チャンネルをせっせと構築し、あらゆる分野で並行事務所が林立した。これが分裂、派閥争い、脱法行為、財政汚職を助長する環境を作り出した。

テロとの戦いやアフガニスタン政府支援の名目で、さまざまなところから多額の資金が流れ込み、手に負えないマフィアのルートが長年にわたって作られることになった。汚職は公然の秘密となり、アフガニスタンにおけるテロとの戦いや国家建設を支援するキャンペーンは、汚職の温床となり、崩壊の原因となった。残念なことに、悪に立ち向かうべき人々が、自ら汚職に感染してしまったのだ。

当初は合法的で民主的なシステムを確立するための国内的、国際的な努力のように見えたものが、次第に反民主主義的なキャンペーンへと変貌し、テロリストとの交渉や交流を求める競争へと変わっていった。カタールにターリバーンのための事務所を設置し、ターリバーンの指導者たちを孤立した逃亡者からアフガニスタンの将来の行政のための誇り高き交渉者に変えたのは、アメリカだけではなかった。国内外の著名な政党もターリバーンとの接触と対話に乗り出し、この新たなキャンペーンは 「和平プロセス」と銘打たれた。

ジョー・バイデン米大統領がターリバーンへの対処における自国の勝利について発言したことを受け(訳注:バイデン大統領が今年6月30日になってようやく「アフガニスタン事後レポート」[ Afghanistan After Action Review report ]を出し、会見で「アル=カーイダはもういない」的言葉を言い放ったことを指す)、ターリバーンに権力を明け渡した米政府の役割に対する批判が強まっている。米国がこのプロセスの主役であったことは否定できないが、アフガニスタンの政治家や国民が果たした役割抜きで、ワシントンがあらかじめ決められたシナリオをわが国に押し付けたと考えるのは正しくない。アフガニスタンに関するボン会議以降、アフガニスタンに安定した合法的な行政を構築するための国内および国際的な努力は、結局失敗に終わった。

<参考記事>下記cnn記事はバイデンが「読みなさい」と言ったレポートの公表が遅れた理由そのほかを取り上げている
https://edition.cnn.com/2023/06/30/politics/state-deparment-afghanistan-withdrawal-report/index.html

 

この挫折の原因を列挙すると、こうした努力のための最初の計画自体に無理があった、アフガニスタン人が政治的・民族的権力保持者や請負業者から脱皮できなかった、情報競争、域内の混乱、その他多くの要因がある。

しかし、この失敗の責任は主にアフガニスタン人とアメリカ政府にある。ソ連崩壊後、アメリカ政府は民主主義確立への誓約を宣言し、傲慢な自信をもっていくつかの他国の政治体制を変えた。そして世界中で「春」(訳注:アラブの春。2011年初頭から中東・北アフリカ地域で本格化した一連の民主化運動)と「カラー革命」(訳注:2000年ころから民主化を掲げて旧共産圏諸国で起こされた一連の政権交代))を起こした。しかし、今や民主主義を代表する独占権を失い、倫理と外交の面で大きな失敗を犯した。米国はもはや、かつてのように「変革」のための国際キャンペーンを展開することはできず、われらが域内の伝統的な友好国も進路を変え、新たな同盟に加わっているようだ。民主主義と法治は、われわれの時代にとって貴重な歴史的目標であり、アフガニスタンはいずれその道に戻るはずだ。しかし、ここ数十年、こうした歴史的成果を餌として掲げたことで、苦い記憶ばかりが残った。残念なことに、われわれは真っ当な国々の仲間に入れなかった。そこでは支配者の秩序がシャリーア法によって左右されず、国家の重要な決定が有効な法的課程を踏んで行われる。また国民が投票権を持ち、個人的・社会的自由を享受しているのだ。

その軍事力と経済力をもってすれば、米国は脅威をチャンスに変えることができる。経済的インセンティブと軍事力を駆使することで、最も反抗的なテロリスト集団ですらも好きに抑止または勧誘することができる。バイデン大統領が勝利について語るとき、さまざまな状況に適応する自国の能力を指しており、個別の計画を回顧しているのではない。もし明日、アフガニスタンの人々がターリバーンに代わる選択肢を生み出すことができれば、米国をはじめとする世界の大国が、ターリバーンの温存にこだわらず、新たな状況を利用するための手段を講じることは考えられる。新しい状況を作り出す責任はアフガニスタン人自身にあり、外国からの働きかけが主な決定要因になるのは、2001年9月11日以降の出来事のような例外的な場合に限られることを理解することが重要である。

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Let’s Build a Taliban Alternative, Let’s Not Rely on America

One thought on “アメリカに頼らずターリバーンに代わるものをつくろう”
  1. […] 今号(8月5日号)を編集していて、一番こころに残った記事は、「アフガンの声」に掲載した「アメリカに頼らずターリバーンに代わるものをつくろう」だった。 […]

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