From Khorasan to “Afghanistan”: History, Politics, and Identity Construction

 

(WAJ: 本論文は、アフガニスタンという国名と国民的アイデンティティの形成過程を歴史的に検証するものである。本サイトのアフガンサイト主筆である著者ファテー・サミ氏は、「アフガニスタン」という名称がアフマド・シャー・ドゥッラーニー期には存在せず、19世紀の英露対立と現地エリートの政治的戦略の中で創出された政治的構築物であると指摘する。20世紀に入り、ザーヒル・シャー(ザヒル・シャー)期の教育政策や「プタ・ハザーナ」写本などの文化装置が単一民族的ナショナリズムを制度化し、非パシュトゥーン系民族を周縁化した。こうした政策は、国家統合よりもむしろ民族的分断を固定化し、アフガニスタンにおける長期的な不平等と不安定性の根源となった、と主張している。アフガニスタンが近代的国民国家として成立していない現実の歴史的根拠を明らかにする重要な論考である。本ファテー・サミ氏がこの間、本サイトに執筆した論説のすべては「ファテー・サミ執筆記事一覧」

 

ファテー・サミ(Fateh Sami):フリーアカデミック研究者
2025年10月4日

概要

本研究は、近代アフガニスタン史における正式国名「アフガニスタン」の成立過程と、国民的アイデンティティ形成のメカニズムを検討するものである。
アフマド・シャー・ドゥッラーニー(在位1747–1772年)の治世における貨幣学的証拠(訳注:コイン、メダル、紙幣、その他の関連アイテムの研究から得られた情報および証拠)によれば、この時期に「アフガニスタン」という名称は正式には使用されていなかった。
この名称は、19世紀の英露間の地政学的対立と、地域エリートの戦略の中で登場したものである。
その後、「プタ・ハザーナ(Puta Khazana)」写本やモハンマド・ザーヒル・シャー王(在位1933–1973)期の教育政策など、文化機関および公的史学プロジェクトが、この呼称を定着させ、単一民族的アイデンティティを推進するうえで重要な役割を果たした。
こうした発展は非パシュトゥーン系諸民族を周縁化し、民族的・歴史的不平等を永続させる結果となった。

 

序論

本研究の中心的目的は、「アフガニスタン」という国名の歴史的進化と、国民的アイデンティティがいかに構築されたかを分析することである。
本論では、この用語が古代的起源をもたず、前近代の公式記録にも登場しないことを指摘する。
むしろその正式採用は、19〜20世紀における外国勢力と地元エリートによる政治・外交的過程、そして体系的な史学形成の結果であった。

 

歴史的名称と地理的文脈

中世から近世にかけて、現在のアフガニスタン地域は歴史的資料の中で「ホラーサーン」「カーブル」「ガズニー」、あるいは時に「トゥラーン」と呼ばれていた(Dupree, 1980; Gregorian, 1969)。
「アフガン」という語は一部のペルシア語・ヒンディー語文献において「パシュトゥーン」と同義で用いられるが、19世紀以前に「アフガニスタン」と呼ばれる政治的実体が存在した証拠はない。
アフマド・シャー・ドゥッラーニー期の貨幣には、「ダール・アル=サルタナ・カーブル(王都カーブル)」あるいは「ホラーサーン」といった銘が刻まれており、「アフガニスタン」という語は登場しない。
たとえば、ヒジュラ暦1167年(西暦1754年)にカーブルで鋳造された銀ルピー貨には「Dar al-Saltana Kabul」と記され、1760年の同種の貨幣にも同様の表記がある。

 

植民地政策と「アフガニスタン」の登場

19世紀、アフガニスタンは英領インドとロシア領中央アジアの間に位置する戦略的緩衝地帯となった。
イギリスはこの地域に対する影響力を強化するため、「アフガニスタン」という名称を用いるようになった(Dalrymple, 2013)。
この名は、政治的意図に基づく文書を通じて意図的に広められ、今日まで論争を呼んでいる。
実際には、アフガニスタンは英領インドとロシア帝国の間に置かれた「代理国家」として機能していた。

「アミール」という称号は、シャー・アリー、アブドゥル・ラフマン、ハビーブッラーらの支配者に付与され、彼らの正統性はイラン、英領インド、ロシアといった地域大国からの承認に依存していた(Kakar, 1979)。
アメリカの支援を受けたターリバーン政権も同様のモデルに従い、「アフガニスタン・イスラム首長国(Islamic Emirate of Afghanistan)」を称し、その指導者ハイバトゥッラーを「アミール」と呼んでいる。

 

ザーヒル・シャー期の公式史学と文化的介入

ザーヒル・シャー(在位1933–1973)の治世は、アフガニスタンのアイデンティティ政策における転換点であった。
1936年の王令により、パシュトゥー語が公用語とされ、「パシュトー・トラーナ(Pashto Tolana)」が設立され、教育・学術書籍の編纂が進められた。
教育政策は非パシュトゥーン地域においてもパシュトー語での授業を義務づけ、これら地域の住民に学術的不利をもたらした(Gregorian, 1969)。

アマヌッラー・ハーン(在位1919–1929)の治世下でも、義父マフムード・タルジーの指導により、ペルシア語の影響を減じパシュトー語の地位を高める文化改革が行われた。
しかし、アマヌッラーやその後継者ダーウード・ハーンらはパシュトー語に十分精通しておらず、彼らの行政手法や改革戦略はアブドゥル・ラフマン・ハーンやナーディル・ハーンとは大きく異なっていた(Ewans, 2001)。

教科書やカリキュラムは、「アフガニスタンは千年の歴史をもつ」とする物語を描き、ホラーサーンや「東イラン」といった呼称を最小化した。
これらの歴史叙述はしばしば学者によって異議を唱えられ、「歴史の捏造」の手段として批判された(Dupree, 1980)。

 

国民統合と民族的周縁化

これらの政策は、非パシュトゥーン系を排除する単一民族的国家建設の意図を反映していた。
その結果、民族的分断が深まり、全民族を平等に統合する法的枠組みの成立が妨げられた。
人口移動、財産の没収、社会的排除など、異なる時代における多くの事例が、この過程の連続性を裏づけている(Gregorian, 1969; Kakar, 1979)。

 

プタ・ハザーナ写本と歴史の捏造

アブドゥル・ハイ・ハビービが1944年に発表した『プタ・ハザーナ(隠された宝庫)』は、パシュトー語詩が8世紀にまで遡ると主張した。
しかし国内外の学者たちはその真正性を強く疑問視した(Habibi, 1944)。
デイヴィッド・マッケンジーは、同写本に用いられた書体が1936年のパシュトー文字改革後に標準化されたものであると指摘した。
また、アフガンの批評家たちも、詩の文体が主張される時代のものとは一致しないと主張した。
原本は書誌学的研究に供されたことがなく、真正な原写本の存在も確認されていない(Mackenzie, 1970)。

 

結論

証拠が示すところによれば、「アフガニスタン」という名称は古代からの歴史的呼称ではなく、根本的に政治的・植民地主義的な創作物である。
その正式採用には、イギリスおよび地元エリートの役割が大きかった。
プタ・ハザーナやザーヒル・シャー期の教育政策など、文化機関と公的史学プロジェクトは、この過程を制度的に固定化する道具となった。
こうした単一民族的アイデンティティ構築は、国民的統合を促すどころか、民族・言語の分断を深め、安定した国家形成を阻害する結果となった。

 

参考文献(英語)
Dalrymple, W. (2013). Return of a King: The Battle for Afghanistan. Bloomsbury Publishing.
Dupree, L. (1980). Afghanistan. Princeton University Press.
Ewans, M. (2001). Afghanistan: A Short History of Its People and Politics. HarperCollins.
Gregorian, V. (1969). The Emergence of Modern Afghanistan: Politics of Reform and Modernization, 1880–1946. Stanford University Press.
Kakar, M.H. (1979). Government and Society in Afghanistan: The Reign of Amir Abd al-Rahman Khan. University of Texas Press.
Mackenzie, D.N. (1970). A Standard Pashto-English Dictionary. SOAS, London.
Numista/Wikimedia Commons, n.d. Coins of Ahmad Shah Durrani.

参考文献(ペルシア語)
Habibi, A.H. (1944). پټه خزانه(プタ・ハザーナ). カーブル: 歴史協会刊。
گندمک条約, 1879年。