The Daily Hustle: Afghans flee the Iran-Israel war

 

(WAJ: イランには600万人のアフガン難民(移民)がいると推定されている(https://webafghan.jp/topics/#20250622a)。多くは身の安全と安心、生活、そして娘たちの教育のためだ。アフガニスタン・アナリスト・ネットワーク(AAN)はあるアフガン人へのインタビューを通して、政情不安や戦争に苦しむ民衆の境遇をあぶり出している。)

 

ヌール・ハーン・ヒマット 、 ロクサーナ・シャプール
2025年6月30日

<AANのリード>
イスラエルとイランの紛争が激化するにつれ、イランに居住していた多くのアフガン人が、身の安全を懸念し、アフガニスタンへの帰国を選択した。イラン政府によるアフガン人の国外追放政策は、既に「帰還」のペースを加速させていた。しかし、自国で長年の紛争を経験してきたアフガン人にとって、戦争の不吉な兆候はイランからの脱出を促す強力なきっかけとなった。AANのヌール・ハーン・ヒマット記者は、テヘランの自宅を離れ、家族と共にアフガニスタンに帰国した男性から話を聞いた。彼は、バルフ州の故郷へ戻る前に、ヘラートにある帰還者キャンプで取材に応じた。


荷物を脇に休むイランから強制送還されたアフガン人家族。イスラム・カラ国境検問所で。写真:ワキル・コフサール/AFP、2025年6月28日

私はバルフ州キシェンダ地区出身です。7年前、アフガニスタンで仕事が見つからず、家族と共にイランへ移住しました。11歳の娘と7歳と4歳の息子が2人います。2人ともイラン生まれです。私たちはテヘランのジャワディヤ地区に定住しました。そこは危険な場所との評判です。しかし実際には、住宅価格が手頃で、家賃を期日通りに支払いさえすれば、家主も誰に貸すかにこだわらないという理由で、多くのアフガ二スタン人家族が暮らす、ただの寂れた地域です。幸運なことに、私は熟練の溶接工です。溶接工は需要の高い職業で、建設現場で仕事を見つけるのは簡単でした。一生懸命働いて、それなりの収入を得ることができました。また、国勢調査登録証(bargeh-ye sarshomari)と呼ばれる一時的な居住許可証も取得できました。まもなく、家の頭金が貯まりました。約3600ドルです。土地の所有者から非公式の住宅ローンを借りて、私たちは自分の家を購入しました。テヘランで空から爆弾が落ち始めた時、私たちはこの家を後にしました。

爆弾が降り始めて

生活は順調でした。安定した仕事があり、上の2人の子どもは学校に通っていました。戦争が始まる数週間前、イクラジ(国外退去命令)を受け、イランを出てアフガニスタンに戻るよう命じられた時、すべては一変してしまいました。私は役所に行き、家を所有しており、出国前に財政を整理する必要があると主張しました。担当官は、事情を理解し整理する時間を与えてくれました。しかし、イスラエルとイランの緊張は高まり、ついにイスラエルはイラン爆撃を開始しました。アフガニスタンとパキスタンの間でも短期間の衝突がありました。その時は数回の空爆やミサイル攻撃で、すぐに収まりました。今度もそうだろうと思いましたが爆撃は何日も続き、私たちがイランを去った後もまだ続いていました。

<参考記事> パキスタンのアフガニスタン空爆で46人が死亡、ターリバーン当局者が発表
https://www.reuters.com/world/asia-pacific/least-46-killed-pakistani-bombardment-afghanistan-afghan-taliban-spokesperson-2024-12-25/

 

イスラエルは、私たちの住むジャワディヤを攻撃しました。近くに軍事基地があったからです。爆風で家が揺れ、窓が割れて私たちや子供たちが怪我するのではないか心配でした。子供たちはずっと怯えていて、下の息子は泣き止みませんでした。そのため、私たちは毎晩家の近くの野原で寝泊まりするしかありませんでした。最終的に、私たちは母国に戻るという難しい決断をしました。事態が早く落ち着くことを願っていましたが、1週間経っても終息の兆しが見えず、アメリカの介入も噂されていたため、アフガニスタンに戻ることを決意しました。

 

家を後にして

住宅ローンで家を売ってくれていた男性に、家を買い戻してお金を返してくれないかと頼みました。しかし、彼はお金はないと言いました。彼は動揺し心配していました。この戦争によって自分の家族が、そしてイランの将来がどうなるのか、と。彼は私の置かれた状況に同情してくれましたが、空を見上げて「空からミサイルが降り注いでいるのに、どうやってお金を手に入れればいいんだ?」と嘆きました。彼は私たちの旅の成功を祈り、戦争が終わったら戻っておいで、それで解決しようと言いました。幸いにも、私は家に貯金があり、妻と娘が宝飾品として身につけられる金にも投資していました。私たちは家も持ち物もすべて残し、貯金と着ている服、そして命だけを携えて脱出しました。

 

テヘランからイスラム・カラへ

マシュハドのウルドゥガー(帰還者キャンプ)に着くまで3日かかりました。アフガニスタンに帰国する人々は、帰国前に登録するためにキャンプに向かいます。キャンプは、国外追放される家族や爆撃から逃れてきた家族、あるいはその両方で溢れていました。キャンプを運営するイラン人たちは迅速かつ効率的に対応してくれました。アフガニスタンへの送還を待つ人々が、キャンプで1週間も過ごすこともあると聞いていました。しかし、私たちは、ありがたいことに、たった一晩の滞在ですみました。そこにはまともな設備はなく、暑さは耐え難く、食べ物もありませんでした。

午前中、イラン政府の手配でアフガン側の国境イスラム・カラまで行けました。しかし、バス代は自己負担でした。バス代の高騰に驚きました。以前は6歳以下の子供は無料でした。しかし今は全員が有料で、しかも運賃は3倍以上に値上がりしています。こういう状況では、必ずと言っていいほど、金もうけのチャンスを狙う悪徳業者がいます。それでも、私たちには他に選択肢がありませんでした。料金を払ってアフガニスタンへ向かうしかありませんでした。

イスラム・カラからターリバーンが私たちをここ、名前を知らない帰還者キャンプに連れてきたんです。イランから帰還するアフガニスタン人の多くは、故郷の州へ戻る前にまずここに来ます。ここでは1人当たり2000アフガニ(約28ドル)と3食の食事が支給されます。

ここに到着する頃には、末の息子は暑さと旅の疲れで体調を崩していました。キャンプの責任者に息子の状態を伝えると、すぐに救急車が呼ばれ、近くの診療所に連れて行ってくれました。幸い息子は今は元気です。しかし、子どもたちは震え上がっています。何が起こっているのか理解できていません。テヘランに戻りたいのです。友達やおもちゃ、妻が育てている小さな菜園の元へ。家に帰りたいのです。すべてが元に戻ることを切望しています。

故郷までの交通費を賄うカードがもらえると言われました。今はそれを待っています。カードが届いたら、バルフ(アフガニスタン北部の州)に戻ります。バルフには私たちの地区に家があります。イランへ出発してから家が荒廃していると聞きました。ですから、到着したらすぐに修理に取り掛かり、家族が快適に暮らせるようにしなければなりません。これが私の最優先事項です。突然の引っ越しで子供たちが不遇な思いをしないように、できるだけ早く元の生活に戻さなければなりません。テヘランでは家があり、私は安定した仕事に就き、子供たちは学校に通い、生活は普通でした。一夜にして、私たちは家から埃っぽいキャンプに移り住み、バルフ行きのバス代を払うカードを誰かがくれるのを待っていました。妻も私も、戦争が起こると物事がいかに早く崩壊するかを知っていますが、私は子供たちにこんな思いをさせたくありませんでした。

 

アフガニスタンの未来

アメリカがイランの核施設に大きな爆弾を落とし(6月21日:https://webafghan.jp/topics/#20250623)、戦争が終わって平和になったと聞きました。でも、それが本当かどうかは分かりません。ひとつ確かなのは、戦争が終わったら、お金を取りにイランに戻らなければならないことです。でも、今回は家族を連れて行きません。今では、アフガン人がイランで暮らすのはほぼ不可能です。ほとんどの人は居住許可証を取得できず、私と家族はいずれにしても国外追放される運命でした。時間の問題でした。

ひとりで戻って、家を売ってくれた男からお金を取り戻そうと思います。彼は後で何とかしようと約束してくれました。私が戻る時に彼がまだ生きていて、約束を守ってくれることを願っています。たとえ景気が良い時でも、多くのアフガン人が悪徳雇用主に給料を騙し取られたり、住宅ローンの所有者が契約を履行しなかったために財産を失ったりしています。戦争によってこの状況がさらに悪化するのではないかと心配しています。

でも、私はイランに留まるつもりはありません。たとえ事態が落ち着いたとしても。7年間イランに住み、仕事と安全な居住地を得られたことに感謝はしていますが、結局のところ私たちは部外者です。常に客人であり、常に一時的な滞在者であり、いつでも立ち退きを命じられる可能性があるのです。

 

板挟み

アフガニスタンへ戻る道中、そしてその後2つのキャンプで、私は多くのアフガン人と話をしました。彼らの経験は私とよく似ていました。彼らは生計を立てるためにイランへ渡ったのです。家族と渡った人たちは、子供たちにより良い生活――安全と安心、そして娘たちの教育――を望んでいました。ひとりで渡った人たちは、故郷の家族に送金し、将来のために少しでも貯蓄をしたいと考えていました。

ほとんどがひとり旅の男性でしたが、わざわざキャンプに行くことさえせず、家族のいる故郷へ直行した人もいました。また、家族連れの人は、国外追放されたか、戦争を恐れて帰国しました。ほとんどの人はイランには戻りたくないと言っていました。私とおなじように非公式の住宅ローンで家を購入した何人かと話をしました。彼らも、イランに戻って家計を整理し家主から住宅購入資金を回収するつもりだと言っていましたが、家族は連れて行かないと言っていました。事態が落ち着いたらイランに仕事に戻ると言っていた人たちでさえ、家族は連れて行かないと言いました。彼らはただひとりで行き、お金を稼いで家族に仕送りするつもりなのです。

貧しい人々は常に板挟みの生活を強いられています。(私たちが帰ってきたのは)食べる必要があるのに仕事がない国です。

Edited by Roxanna Shapour and Kate Clark
編集:ロクサーナ・シャプール、ケイト・クラーク

最終更新:2025年6月30日

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