“The Afghan Emirate”: Taliban and “Islamic Emirate”

 

(WAJ: いま、ターリバーンとパキスタンの対立があらわになってきている。アフガニスタンの独立系メディアであるSangar(文末参考ー1)に掲載されたこの論考は、ターリバーンが主張する彼らの国名「アフガニスタン・イスラーム首長国」とは何かを追究するシリーズの第1回である。「ターリバーン」とはそもそも宗教を学ぶ者を意味し、「イスラーム首長国」は信徒の長が治める国を指す。著者シャムスルラフマーン・フォルータンは、この2つの名称が運動の成り立ちと目的を覆い隠すと論じる。指導者の多くが学んだパキスタンの宗教学校では聖典の暗記が中心で、対ソ戦の戦闘員が養成された。ソ連軍撤退後、パキスタンの情報機関はこれらの学校を対アフガニスタン戦略に利用した。宗教の権威は、民衆の同意を欠く統治を正当化し、指導者への服従を求める手段となった。ターリバーンが宗教を奉じる組織ではなくアフガニスタン問題をパキスタンに都合よく操作するためにつくられた組織であることをシリーズで明らかにしていく。今回はその第1回。)

 

2026年11月1日
シャムスルラフマーン・フォルータン(Sangar: アフガニスタンの独立系メディア)

 


ターリバーンの指導者の大半は、読み書きができないか、十分な教育を受けておらず、宗教文献を読み解くのに必要な、ごく基礎的な力さえ欠いている。

今日広く行き渡っているのは、ターリバーンをまず宗教組織として捉える見方である。その一方で、この運動がもつ民族主義的な性格や、その背景にある民族の問題には、ほとんど注意が払われてこなかった。本稿で私が検討したいのは、ターリバーンは本当にイスラーム運動なのか、それとも、その本質はアフガン人/パシュトゥーン人(訳注:アフガンという言葉は現在の地政学的アフガン領域をさすがもともとはパシュトゥーン人を意味する英語であるため、本論考中ではこのように連記する)の民族主義を奉じる民族集団なのか、という問いである。この問いをより深く理解するため、4つの論点を取り上げる。

 

第1の論点:「ターリバーン」という言葉と「ターリバーンのイスラーム首長国」という呼称

一般的な解釈では、この組織は宗教運動とみなされている。そのため、多くの人びとは宗教運動という観点からのみターリバーンを分析し、「イスラーム原理主義」とハナフィー派のイスラーム法学、とりわけデオバンド派の教えを基盤として成立した軍事・政治・宗教組織と捉えている。この見方は2つの要因に支えられている。第1は「ターリバーン」という集団そのものの名称であり、第2は彼らが樹立を目指す政体の名称、すなわち「イスラーム首長国」である。

第1の要因は、「ターリバーン」という言葉である。これは「ターリブ」の複数形である。ターリブとは、イスラームの教育機関で宗教諸学を学ぼうとする者を指す。何世紀にもわたり、この言葉はムスリム社会で広く用いられ、イスラーム文化において最も名誉ある呼称のひとつ、おそらくは最も尊ばれる呼称のほとつであった。

かつて、知識を得る機会は限られており、教育を受けるには並々ならぬ苦労が伴った。大多数の人にとって、学問を修めることは、めったに手の届かない特権であった。学問を志す者たちは、学ぶ手立てが得られる数少ない場所を求めて何千キロもの道のりを旅し、幾多の苦難に耐え、家族と離れて何年も過ごした。

当時の学問は、今日ほど多様な分野に分かれ、専門化していたわけではない。イスラーム世界の学問分野の大半は宗教文献と深く結びついており、伝統的な学問の多くは宗教諸学のうちに数えられていた。つまり、神学、哲学、論理学、イスラーム法学、文学など、いずれの分野も宗教的な世界観に立って研究されていた。それゆえ、スーフィー(イスラーム神秘主義)の思想家も、詩人も、哲学者も、その他の知識人も、みな知を求める者、学問に携わる者とみなされた。

実際、学問を志す者や学者たちは、知識を身につけ、それを伝える役割に加えて、宗教的価値を守る役割をも担っていた。彼らが格別の敬意を払われ、名誉を享受していたのは、宗教との結びつきがあり、人間が蓄えてきた知識と学問に携わり、当時とりわけ貴重で得がたいものを求めていたからだといえよう。

第2の要因は、ターリバーン運動が樹立を目指す政体の名称、すなわち「イスラーム首長国」である。ターリバーンにとって、この呼称は宗教的かつ政治的なスローガンであり、運動が公に掲げる目標は、「イスラーム首長国の樹立」と「シャリーア(イスラーム法)の施行」である。

「首長国」とは、アミール(首長)の権威が及ぶ領域、すなわち「アミール」、あるいは「信徒の長」を意味する「アミール・アル=ムウミニーン」が統治する地域を指す。イスラーム文化において、この称号には明確な宗教的意味があり、主としてムスリムの政治的・宗教的指導者に用いられる。こうした称号を見れば、ターリバーンは宗教運動だと考えるのも一見もっともであり、その結論には筋も根拠もあるように思われる。しかし、立ち入って検討すれば、その解釈が必ずしも実態を捉えてはいないことがわかる。ある現象の外見とその本質とは、区別しなければならない。

パキスタンにはおよそ3万から3万6千のマドラサ(宗教学校)があり、少なくとも表向きは、アフガン難民にイスラーム諸学を教えるために設立されたことになっていた。そこに通う学生は「ターリブ」と呼ばれた。この呼称には人を引きつける意味と響きがあり、何千人もの若者をマドラサに呼び寄せる1因となった。こうして、何万人ものアフガニスタン人が、これらの学校で宗教諸学を学ぶためにパキスタンへ渡った。入学資格は建前上どの国の人にも開かれていたが、初級課程の学生の大半はアフガニスタン出身者で、パキスタン人を含め、他国の出身者は比較的少なかった。

これらのマドラサでは、教育の質も学習環境もきわめて劣悪で、教育の体をなしていない場合さえあった。各校にはアフガニスタン出身の十代の少年が数十人と、教師が数人おり、教師の大半もアフガニスタン出身であった。統一された教育課程はなかった。教師たちには、指導に必要な学問上の素養はおろか、宗教を教える資格さえ欠けており、体系的にきちんと教えるための条件も整っていなかった。学生の大半は、クルアーンから選ばれた章句の暗記に時間を費やした。しかし、教師自身が聖典の内容を理解しておらず、その意味を学生に伝えることもできなかった。

イスラーム神学や哲学をはじめ、イスラーム諸学のうち理性を働かせて考究する分野は、ほとんど学ばれず、理解もされていなかった。教科書はアラビア語で書かれていたが、教師の圧倒的多数はアラビア語を知らなかった。初級課程ではクルアーンを暗記し、上級課程に進むと、イスラーム法学(フィクフ)とハディース(預言者伝承)のごく初歩をいくらか教わった。これらのマドラサの教育水準は、きわめて低いままであった。

宗教を学ぼうと何十万人ものアフガニスタン人がここで学んだにもかかわらず、これらのマドラサは、学問と宗教の両面で十分な素養を備えた卒業生を、ひとりとしてアフガニスタンに送り出せなかった。その卒業生を見渡しても、中級程度の宗教文献を読みこなせる者も、イスラーム諸学をしっかり身につけた者も見当たらない。

そのことを端的に示すのが、ターリバーン運動の指導者たちである。その大半がこれらのマドラサに学んだ。彼らの多くは読み書きができないか、十分な教育を受けておらず、宗教文献を理解し解釈するのに必要な、ごく基礎的な力さえ欠いている。自分にはファトワー(イスラーム法上の見解)を出す資格があると考えている最高位の指導者でさえ、宗教文献についての理解は表面的で、きわめて限られている。神学、哲学、スーフィズム、クルアーン解釈学、ハディース学、論理学、ペルシア文学とアラビア文学、そしてイスラーム史。いずれもイスラームという宗教を理解するのに欠かせない学問だが、彼らにはその初歩の知識すらない。ターリバーンで最も名の通った宗教指導者でさえ、口にするのはいつもイスラーム法学とハディースのごく初歩的な事柄に限られる。

したがって、世間に広く行き渡っている見方とは逆に、ターリバーンはデオバンド派の教えも、ハナフィー派のイスラーム法学も、さらには宗教文献やイスラーム諸学全般についても、正しく理解していないといえる。

これらのマドラサでは、生活環境も惨憺たるものであった。学生たちは「ワズィーファ」と呼ばれる慣行によって食事の大半を賄った。毎日、近隣の家々を訪ね、パンをひとつ、あるいは調理した食べ物を少し分けてもらうのである。ここで暮らす少年たちの心身の安全を守る法的保障はなかった。また、校内の一部の者による犯罪行為を防ぐだけの倫理的な規律もなかった。時には、イスラームの価値観にも、人類に普遍的な価値観にも真っ向から反する、おぞましい行為が校内で起きた。

マドラサの学生たちは、外の世界からほぼ完全に隔絶された生活を送っていた。パキスタン国内のほかの地域に出かける許可も、そのための手段もないことが多かった。これらの学校はパキスタン社会から切り離されており、学生たちには、自分たちが暮らす国の文化や社会の価値観に触れる機会がほとんどなかった。

これらの学校は、特定の国に向けて特定の「製品」をつくるために設計された、一種独特の工場に似ていた。マドラサでアフガニスタン人学生に教え込まれたイスラームは、パキスタン本国で実践されているイスラームとは異なるものであった。パキスタンの宗教教育機関で学ぶ学生と、マドラサを卒業してアフガニスタンに送り込まれた者との間に大きな違いがあるのは、そのためである。マンスールはこう書いている。

「パキスタンのターリバーンは、長年にわたって選挙で選ばれた政府を支持し、その活動にも加わってきた。ところが、アフガニスタンにいる彼らの教え子たちは、選挙を禁じられた行為だと宣言している。この種の例はいくらでもある。」(Mansour, 2022–2023)

これらのマドラサの大半は、パキスタン国内のパシュトゥーン人居住地域に設立された。そこで支配的であった宗教観は、おおむねアフガン人/パシュトゥーン人の諸部族に特有のイスラーム解釈に沿うものであった。こうした事情が、それぞれの学校の雰囲気を形づくっていた。ここまでに述べたことは、宗教諸学を学ぶためにパキスタンへ渡り、これらのマドラサに長く在籍した人々から、私自身が聞いた話に基づいている。

このように、どの角度から検討しても、これらの学校がおよそ本来の宗教教育機関とはかけ離れていたことは明らかである。こうした実態を踏まえれば、その主たる目的が宗教的知識とイスラームの価値観を広めることにあったという主張は、受け入れがたい。

実際には、これらのマドラサは設立当初から、政治上、安全保障上の目的を追求するためのものであった。40年以上にわたり、まさにそのために利用されてきた。宗教諸学の教授は、決して設立の主目的ではなかった。宗教教育という外観の下に、真の目的が隠されていたのである。

これらのマドラサが主に設立されたのは1980年代である。アフガニスタンの人々がソ連に対するジハード(聖戦)を戦い、数百万人のアフガン難民がパキスタンに流入したのを受けてのことであった。その活動はその後も続いた。これらの学校の主な役割は、戦闘員の養成であった。マドラサは、戦闘員を募り、部隊に組み入れ、訓練する主要な拠点となった。訓練を受けた戦闘員はアフガニスタンに送り込まれ、対ソ戦に加わった(Blanchard, 2008)。

この計画に資金を提供したのはサウジアラビアであり、軍事的・政治的な支援を担ったのは米国であった。そして計画を組織する役割を担ったのが、パキスタンの軍統合情報局(ISI)である。

「米国と英国が果たした役割も、サウジアラビアによる資金援助も、国際メディアの報道によって明るみに出た。もはや、これらの事実をすべて覆い隠すことはできない。」(Mansour, 2022–2023)

「ジハード」のさなかには、こうした事情はさほど注目されなかった。アフガニスタン社会では多くの人々が、これらのマドラサの設立を、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗して戦うムジャーヒディーン諸組織に対する、パキスタンの支援のひとつと受け止めていた。

しかし、ソ連軍がアフガニスタンから撤退すると、これらの学校の目的も役割も、ますますパキスタン自身の利益に沿うものとなった。マドラサは、パキスタン政府が対アフガニスタン軍事・政治戦略と安全保障政策を遂行するための手段のひとつとなった。

パキスタンの情報機関は、これらのマドラサを、特定の思想を教え込み、治安機関、武装組織、政治組織に送り込む要員を募って訓練する拠点へと変えた。過去数十年にわたり、パキスタンがアフガニスタンで追求してきた目標のほとんどすべてが、こうしたマドラサで訓練された人員を通じて追求されてきた。ターリバーン運動をつくり、その構成員をアフガニスタン領内に送り込んだことも、その一例である。

アフガニスタンの歴代政府や国際機関もまた、これらの学校が洗脳と宗教的過激主義の扇動の拠点となり、アフガニスタン国内でのテロ攻撃や自爆攻撃のお膳立てをしていると、繰り返し非難してきた(Jumhur News Agency, 2012–2013)。

これらのマドラサから生まれたターリバーン運動そのものが、当初からパキスタンの支援を受けて立ち上げられた軍事・政治計画であった。

「ターリバーン運動はパキスタンがつくり出したものであり、同国の目的を達するために組織され、動員された。ターリバーンの創設にパキスタンが果たした役割をめぐる同国のベーナズィール・ブットー元首相の発言は、この点に疑いの余地を残さない。ターリバーンの結成はパキスタンの軍情報機関の内部で構想された。運動の運営と指揮は、今もそこで行われている。」(Mansour, 2022–2023)

ベーナズィール・ブットーに加え、独立した専門家たちも、ターリバーン運動をつくったのはパキスタンであると繰り返し述べてきた。

つまり、これらのマドラサに宗教的な名称をつけたこと、パキスタンの支援を受けてそこで訓練された軍事・政治勢力を「ターリブ」と呼んだこと、彼らが樹立を目指す政体に「イスラーム首長国」という名を選んだことは、いずれもパキスタンの軍事・政治戦略に欠かせない要素であった。これらの名称や呼称はすべて、パキスタンの治安機関の当局者が明確な意図をもって慎重に選んだものである。

実際、ターリバーン運動の創設者たちは、意識してこれらの名称を選んだ。その主眼は、イスラーム国家を樹立してシャリーアを施行することよりも、むしろアフガニスタンの人々を欺き、ターリバーン運動の活動に正統性を与え、宗教的価値を政治と安全保障のために利用することにあった。これらの名称は、イスラーム本来の価値を表すというより、パキスタンとその同盟国が政治的・戦略的な目標を達成するための手段として働いたのである。

さらに、こうした宗教的称号を用いることで、ターリバーンは、民衆の同意を得ず、民衆に対して責任を負うこともなく統治できるようになった。その一方で、民衆にはターリバーンの指導者への忠誠を誓い、運動の決定に従う義務を課したのである。

この点については、次の指摘もある。

「ターリバーン政権を『イスラーム首長国』と呼ぶことには、宗教、政治、人権、国際法のいずれの観点からも重大な異議がある。抑圧的な統治を行い、人権を広範に侵害し、国内外の承認を欠くこの政権を、イスラーム本来の統治を体現するものとみなすことはできない。イスラームは、人間を中心に据える普遍的な宗教であり、正義、平等、人権の尊重といった原則を掲げている。ところが、ターリバーンは自らの行動によってこれらの原則を踏みにじってきた。多くの国や国際機関がターリバーンの統治を『イスラーム首長国』として承認することを拒んでいるのは、このためである。」(Beheshti, 2024)

以上から、ターリバーンという運動の名称も、それが樹立を目指す政体の名称も、もっぱらパキスタンの政治上、安全保障上の目的を推し進めるために選ばれたものであり、イスラームの価値や原則とは本来何のつながりもないといえる。この点からみて、ターリバーン運動を現代イスラーム世界の思想運動や政治運動のひとつに数えることはできない。

ある政治運動をイスラーム運動と呼ぶには、それらしい名を冠し、それに見合う宣言を掲げるだけでは足りない。イスラームには固有の価値と原則がある。ターリバーンはそれらを正しく理解しておらず、実際の行動でも守っていない。したがって、ターリバーン運動が宗教組織ではないことは明らかである。(次回につづく)

【原文(英語)を読む】

 

<参考-1>

「Sangar(サンガル、سنگر)」は、ダリー語(アフガニスタンのペルシア語)で「塹壕」「防御陣地」を意味する。 戦場で兵士が地面を掘ったり、土や石を積んだりして、敵の銃火から身を守る場所を指す。転じて「砦」の意味でも用いられる。واژه یاب

媒体名に込めた意味は、編集長自身がインタビューで説明している。2021年8月のターリバーン復権を、編集部はアフガニスタンと中央アジア全体の自由と安全にかかわる問題と捉えた。そこで、記者や研究者、知識人が報道と論考を通じて、自由、独立、正義、人間の尊厳を守るための「防衛線」となることを、この名に託したという。日本語でその趣旨を伝えるなら、「言論の砦」あるいは「情報バリケード」 のような表現が考えられる。『Sangar』編集長インタビュー sangar.info