SHITGIVERY – How to Revolt Against the End of the World

“I arise in the morning torn between a desire to save the world and a desire to savor the world.” —E.B. White

 

「朝、目を覚ますと、世界を救いたいという思いと、世界を味わい楽しみたいという思いの間で心が揺れる」
――E・B・ホワイト

 

2026年10月31日
Mr. Fish(ミスター・フィッシュ)

(WAJ: 筆者は若い頃、国家権力への抗議デモには白いシャツを着てでかけた。原点は、子どもの頃の1968年、警官に殴られ、血を流しながらピースサインを掲げる学生の写真を見たことだった。危険を引き受けた行動こそが理念に真実味を与えるのであり、平和主義も名乗るだけでは自己満足になりかねない、と確信した。

今日の抗議運動の衰退は、ネットへの没入だけでなく、権力や大企業の横暴に抵抗する連帯と共同の意思決定を支えてきた文化の崩壊に起因する。生存に必要なものまで商品化され、人々は金と雇用を握る支配層に従属する。しかし、奴隷制廃止や公民権などの成果は、国家の敵とされた人々が、富や身分による序列にあらがって勝ち取ったものだ。

芸術、遊び、友情、共同活動など、利益や地位を目的としない営みには、自律性と人間同士のつながりを取り戻す力がある。それが抑圧への抵抗の土台となる。

こうした期待を抱いて「ノー・キングス」デモへ向かった筆者は、閑散とした会場に失望する。白いシャツを染めたのは血ではなく、喫茶店でこぼしたエスプレッソだった。痛烈な皮肉と自嘲を通じ、言葉だけの抗議を超え、互いと世界を真剣に気にかけ、行動する必要を訴える。

中間選挙をまえにしたアメリカ社会の不条理を、内省をこめて痛烈に批判している。日本にも通ずる感慨だろう。)

<全文>

若い頃、国家権力に「ふざけるな」と抗議する大規模なデモへ行くとき、私は必ず白いシャツを着た。とりわけ、そこかしこに不穏な集団をなして陣取る警察のごろつきどもと参加者との間で、互いへの敵意が煮えたぎり、実際に血が流れそうなときには、なおさらだった。その血は無数のインク壺に吸い上げられ、その日に何が起きたかについて、百万通りもの食い違う記録を書くために使われるのである。

白っぽいシャツを着ることを思いついたのは、子どもの頃に見た一枚の写真がきっかけだった。1968年の反戦デモで、コロンビア大学の学生がピースサインを掲げていた。穏やかでありながら決意を感じさせる顔だった。顔じゅうに血が飛び散り、幾筋もの血が流れていたにもかかわらず、驚くほど平然としていた。頭皮には、少なくとも2つ、ひょっとしたら3つの大きな裂傷がありそうだった。おそらく警官の警棒でつけられた傷である。

どうやら、道徳心がまだアイビーリーグの教育に毒されていない大学生ほど、危険な存在はいないらしい。「意義ある人生を送りたいなら、支配階級に日々踏みにじられる人々を思いやる、金では売り買いできない本能に従うよりも、企業の尻の穴をなめることを優先しろ」。そんなインチキな教えを、まだ吹き込まれていない学生ほど危険な者はいない、というわけだ。

r/OldSchoolCool - Columbia student flashes the peace sign after being beaten by riot police at an antiwar demonstration - April 1968
写真説明:反戦デモで機動隊に殴られたあと、ピースサインを掲げるコロンビア大学の学生。1968年4月。Reddit「r/OldSchoolCool」より。

私はその血を見つめたことを覚えている。反戦青年の頬を伝い、顎から滴り、喉を染め、シャツに大きな染みをつくる血だった。そして思った。「すごい。あのマークが本当の意味を伴って掲げられているのを見たのは、これが最初で最後かもしれない」。

普段のピースサインは、誰がどんな理由で使っても通用する、便利な決まり文句のようなものだ。親指を立てる仕草ほどの深みしかなく、虹や十字架や紙のバレンタインカードと同じく、何を意味するのかも曖昧である。

だから私は、これまで一度も、皮肉のつもりでさえ、あのおなじみのVサインをしたことがない。その目的と必要性を裏づける状況がなければ、ただの見せ物にすぎないと思うからだ。それは、価値が絶えず変わり、誰もが納得する相場などめったに成立しない「思想の市場」を流通する、気まぐれな通貨のひとつなのである。

さらに私は、頭を殴られる危険を冒してまで守るつもりのない道徳的原則は、そもそも原則ではないと、ずっと感じてきた。それは、立派な人間になりたいという願望――いや、自分を立派に見せたいという虚栄心!――からでっちあげた、根拠のない意見にすぎない。

多くの人にとって平和主義とは、実際に試されたことのない美徳である。紙の王冠ほどに実体がなく、「パンケーキよりワッフルのほうが好きだ」と恐れず断言するのと同じ程度の、ありふれた、狭い世界の好みにすぎない。

実際、自称平和主義者の多くは、気取った香水でも振りかけるように、「ハト派」の看板を身にまとう。そして、自分がなりたいと願う、イエスのように無私の人間――少なくとも、他人にはそう思われたい人間――を世間に宣伝する立派そうな身振りさえすれば、実際の行動を通して鍛えられ、確かな骨組みを備えた信念と同じ価値があると思っている。

ここは理解してほしい。私は、暴力より非暴力を選ぶ人々を非難しているのではない。私たちは誰もが、実際にどんな人間であるかより、「こうありたい」という願望をもとに自分の人物像をつくり上げやすい。そのことを率直に見つめているのである。本当の自分の性質は、準備もしていない場面で、本能や生来の振る舞いが思わず現れたときにこそ、否応なく明らかになる。

そもそも、偶然に起こる出来事は1つひとつ違い、その多様さは、私たちが信念に抱く自信をいつでも裏切る。私たちは自分の心を統制しようとし、そのうえ、気まぐれに変わる自分の気分を優先してくれる、秩序だった宇宙を望む。それを高尚な願いであり、実現可能な目標でもあると思い込む。

そんな試みは無意味であるばかりか、誕生日ケーキのろうそくを吹き消せば、身を売って生きる自分への見返りとして、金や快適な暮らしや過分なお世辞が降ってくると思うのと同じくらい、ばかげた幻想である。

はっきり言えば――言うまでもないことだが!――どれほど意志の力を振り絞っても、偶然を飼いならし、すべてを予測可能にできるという証拠は、どこにもない。

祈りもまた、宇宙に向かって意味もなく吠えているようなものだ。宇宙は、「ありとあらゆるものが、いっぺんに、これでもかと鳴り響く」壮大なオーケストラに夢中なのである。わざわざ身をかがめ、私たちのちっぽけで思い上がったつぶやきに耳を傾け、「褒めてほしい、自分の望みどおりになってほしい」という哀れな願いをありがたがる茶番に付き合う必要など、感じるはずもない。

ともあれ、年月とともに、平和行進の最中に脳みそを流し、その姿を写真に撮られるという、めったにない美しい特権にあずかる可能性は、ずいぶん小さくなった。

年を取り、現状に満足するようになって、「徹底した人間尊重の思想に貢献するには、戦場で人々の心を奮い立たせる殉教者になるより、家にこもる芸術家でいるほうがいい」と、ようやく悟ったからではない。人前で頭を殴られかねないほど、あからさまに異議を申し立てる情熱そのものが、近年、ほとんど感じられなくなったからである。

つまり、出かけていくような大規模な抗議活動が、もはや見当たらないのだ。

地域や社会に根ざす運動が衰えてきたのは、無数の仮想現実がつくられ、人々を街頭から連れ去ったからだ、と多くの人は言う。私たちはネット空間へと誘い込まれ、そこで消費の冒険を楽しむ。そして、自分をできるだけ立派に映してくれる鏡が欲しいという、自我の切実な欲望に、その消費行動を結びつける。

しかし、もっと本質的な理由がある。そして、それを考えるのは、はるかに気が重い。いつも私たちが責任を押しつける、私利私欲にまみれたお偉方よりも、ほかならぬ「われら人民」に、無関心な市民となった現状の責任を問うことになるからだ。

それは、政治の横暴、宗教による収奪、大企業の侵食を食い止める防壁だった文化が、すっかり崩れてしまったことである。

言い換えれば、この社会に暮らす私たちは、普遍的な真実、正義、愛を声高に擁護する責任を放棄した。下からの計画づくり、団体交渉、共同での意思決定という、決定的に大切な営みへの参加を促す責任を放棄した。

その結果、文字どおり、自分たちの日々の暮らしを、自分たちのものではなくしてしまった。「払った分しか手に入らない」と私たち全員を信じ込ませた権力構造に、その主導権を渡してしまったのである。

しかも、この言葉を突きつけられる前に、食料、住まい、社会の一員として受け入れられることといった、生きるための最も基本的な必要まで、金を払わなければ手に入らない商品にされていた。

もちろん、その購買力を得るために、私たちは、肥え太った資本家や金権支配者のもとで、仕事に就かざるを得ない。そして彼らには、最大限の敬意と、心からの感謝を示さなければならない。

なぜか。現金を絶えず手に入れられなければ、生きていけなくなるという、究極の屈辱が待っているからだ。すべての資本の出どころを握るエリートへの批判は、自殺も同然なのである。

こう考えてみてほしい。アメリカの歴史で、社会正義を求める運動が勝ち取ってきた成果を振り返るのだ。奴隷制廃止運動、女性参政権運動、労働運動、公民権運動、反戦運動、環境正義運動、LGBTQ+の権利運動。よく知られた代表的なものだけでも、これだけ挙げられる。

これらはどれも、人としての良識に反し、法律のうえでも、人間に生来備わる権利という点でも、機会の平等、権利の平等、扱いの平等を著しくないがしろにする政策に、真っ向から反対するために構想され、組織され、実行された運動だった。

それだけではない。いずれも、政府や民間部門の権力者による激しい国家暴力と制裁にさらされた。そうした権力者の力は、正当に勝ち取られたことなどめったになく、ほとんどの場合、苛酷な制度によって認められていた。共同体より社会的・経済的地位を、多様な人々の共存よりエリート支配を、正義より力を優先する制度である。

実際、どんな正義のための闘いも、地域、州、国家の支配者に対する組織的な抵抗から生まれた。外から入り込もうとする脅威を退けるために、国民が一丸となった結果ではない。

勘違いしてはならない。マーティン・ルーサー・キング、ユージン・デブス、スーザン・B・アンソニー、レイチェル・カーソン、アンジェラ・デイヴィス、フランク・カメニー、アビー・ホフマンは、みな民主主義を脅かす者、国家の敵と見なされていた。

理由は単純だ。彼らは、上下関係で支配する仕組みより、対等な立場からつながる仕組みを支持した。そして、人種、信条、肌の色、年齢、家系、障害、民族、性別、性自認、性表現、宗教、経済状況、性的指向にかかわらず、普通の人々の基本的な自由を脅かす法律、規則、長年の慣習を改め、あるいは廃止しようとしたのである。

つまり彼らは革命家だった。その急進性の根本には、20世紀、21世紀に人類が生き延びるための道筋を考えるにあたり、現金をため込むことを不可欠な目標、まして正当な優先事項とは認めない姿勢があった。

さらに、社会の道徳的良心を体現して社会正義のために闘う者は、平等主義への深い軽蔑を権威の源とする者たちから、いつでも厄介者扱いされる。

この社会を維持する指揮命令の中枢は、魂も道徳心もない機械が、カチカチと効率よく動く様子を手本にしている。しかも、君主制をなぞるよう、意図的につくられている。権威も、人を従わせる力も、すべて上から下へ流れる。王座への服従は、村八分、貧困、あるいはもっとひどい仕打ちをちらつかせて、強制され、義務づけられるのである。

もちろん、細分化を続けるニュース、ソーシャルメディア、ネット通販が、あらかじめかみ砕き、ばらばらにし、短く切り詰めた話ばかりを供給する影響も大きい。それ以外のまとまった話に注意を向け、まして集中して考える力は弱まっている。重大で中身のある問題について、全体を捉え、筋道を立てて真剣に気にかけ続ける粘り強さを、私たちが失っている理由の相当部分は、そこにあるに違いない。

そもそも、私たちが暮らすのはデジタルではない世界だ。その維持と保護には、私たち自身や、木々、川、海、山、谷、空気、動物の世話と同じように、直接手をかける、いわばアナログな働きが必要なのである。残念ながら、それさえ十分にできているわけではない。

そんな世界に、この技術を持ち込み、隅々にまで広げた政治と商業の指導者たちは、よく承知していたのではないか。人間をドルやセント、クリックやスワイプ、1と0に置き換えてしまえば、行動を予測しやすくなり、そのぶん管理もしやすくなるということを。

結局、人々を人種、信条、肌の色、年齢、家系、障害、民族、性別、性自認、性表現、宗教、経済状況、性的指向によって価値の等級に分け、それぞれの交換相場を、ある程度予測できる実用的な基準として定めてしまえば、どうなるか。金持ちのクソ野郎の資産一覧に載った金融商品と同じように、人間を浪費し、派手に使い、こまごまと使い潰し、ため込み、無駄遣いできるようになるのだ。

ならば、一介の大学生が反戦デモで頭をたたき割られたとしても、何の不思議があるだろうか。そのデモが問いただしていたのは、敵味方の双方で、殺される人々の圧倒的多数が、徴兵された貧困層や恵まれない人々であるような戦争の正当性なのだ。

何しろ、その学生は、私たち1人ひとりを額面の異なる貨幣に見立てて組み込んだ経済制度を、公然と非難しているのである。それは、倫理や人格や道徳よりも、どれだけ金を持っているかが人間の価値を決めるという、人をおとしめるインチキを存続させるために、上流階級がつくり上げた制度だ。それほどあからさまに盾突けば、頭に1発くらい食らって当然、というわけである。

想像してみてほしい。すべての1セント硬貨が突然、「自分たちにも20ドル札や100ドル札、1000ドル札と同じ価値を認めろ」と要求し始め、財務長官がそれを受け入れたらどうなるか。アメリカ経済の足元の危うさが、どれほどむき出しになることだろう。

では、あらゆるものに貼られた値札や格付けよりも、それぞれに本来備わる真の価値を認めるほかなくなったら、私たちはどんな世界に暮らすことになるだろうか。その値札や格付けを押しつけているのは、偽物の序列の頂点に居座る者たちである。彼らは、現実の事実とはまるで無関係な、すべてがでっちあげのピラミッド構造の下層へと追いやった、自分たち以外のすべてを見下し、操っている。そして、その扱いをいつまでも正当化し続けなければならないのだ。(ヒントを言えば、そんな世界がどんなものか、私たちに確かめさせないのには理由がある。)

さて、話を白いシャツの私に戻そう。私は先頃、フィラデルフィア中心部の「ノー・キングス」デモ行進へ向かった。

フィラデルフィアは、アメリカ民主主義の偉大な発祥地として、人々が口をぽかんと開け、目を潤ませながらたたえる街である。まるで、得体の知れない獣が生まれてきた毛むくじゃらの穴なら、何でも無条件に称賛し、ありがたがるべきだと言わんばかりだ。

国の性質を知りたければ、その遺伝子と祖先を調べるほうがいい。その国が、どんな慈悲深い聖人や罪人の忍耐をも使い果たすほど長い犯罪歴を積み重ねず、まともに大人になれそうかどうかを見極めるためにも。

もちろん、アメリカがいま、世界支配と白人キリスト教ナショナリズムに熱を上げていることも、その親の素性を考えれば、ある程度は理解できる。

一方の祖先は17世紀のピューリタン亡命者だ。彼らはイギリス政府を倒し、厳格な神権政治を打ち立て、『ヨハネの黙示録』の残酷で抑圧的な解釈を人々に押しつけようとして、イングランドから追われた。それを穏やかな言葉で「聖人の統治」と呼んでいた。

もう一方の祖先は、大量虐殺を重ねたヨーロッパ帝国主義者たちの化身である。「発見の法理」をさまざまな形で利用し、非キリスト教徒の住む土地を、当然の権利として自分たちのものだと主張した者たちだ。

そんな血筋から生まれた国なら、まともな社会をつくろうとしても、階級のない反権威主義の方向より、むしろ『スター・トレック』の戦闘民族クリンゴンが救世軍をつくったらこうなる、という代物に近づきそうではないか。

それでも、私たちには過去を振り返る利点があり、そこから学んで先を見通す知恵もあるはずだ。それなのに、白人キリスト教ナショナリズムのようなものが、今日なお、世界の自由民主主義を脅かしているのは、どうしてなのか。

まして、MAGA運動に組み込まれた露骨なファシズム、イスラエルのシオニズム運動の醜悪な人種差別、そして現代のパレスチナで本格的なジェノサイドを引き起こした数々の事柄については、なおさらである。

間違いなく、その一因は、私たちが驚くほど頻繁に、政治の実力者たちに不相応な特権を与え続けていることだ。私たちは何者なのか。何をするべきか。どこへ向かうべきか。そうした公の議論のほとんどすべてについて、何をどう論じるかの枠組みを、彼らに決めさせているのである。

ここでも重要なのは、富と特権につながる者たちは、尊敬に値しないとしても、少なくとも厳格に服従するに値する、という前提だ。その前提を疑えば厳しい罰が待っていると、私たちは思い込まされてきた。

つまり私たちは、この世界の最も基本的な真実を理解するとき、まず次のことを当然の前提として受け入れるよう求められているのだ。富裕層と権力者の優位は、神が定めた磁石の両極のように、固定され、永遠に変わらない。服従する者を引き寄せ、従わない者をはじき出す力は、宇宙の不変の法則であり、個々の事情はすべて、それに照らして初めて意味を与えられる、と。

だが、無理な仮定の上に動かしがたい事実を載せ、何とか釣り合わせようとしたことがある人なら、誰でも知っているはずだ。嘘が生き延び、数々の揺るぎない真実を押しのけて作り話がもっともらしく見えるためには、私たちが、舞台の照明の向こうに何があるかを気にしないことが必要なのである。

私たちはみな、その舞台で、由緒正しく崇められる劇団の持ち主たちから、勝手に割り当てられた役を演じるよう期待されている。一挙手一投足にまぶしい照明を当てられても、気にするな、と。その光はあまりに強く、劇場の奥の非常口さえ見えない。そもそも、この芝居に意味があると認めてくれる観客が、本当にいるのかどうかさえ確かではない。

こうした宿命論に進んで身を委ねれば、自分のことを自分で決める責任をすっかり投げ出して、まどろむような満足に浸れる。

それでも、自分の意志で生きようとする生来の衝動は、完全には消えない。本、レコード、美術館、映画、演劇、ポルノ、料理のレシピ、酒場、カフェ、喫煙室、寺院、教会、神社、庭園、ダンスホール、スポーツの試合、コメディクラブ、自由に演説できる街角、試聴ブース、釣り場、結婚式、葬式、ジム、スパ、分娩室、どこまでも続く道、裁縫の集まり、ヨガマット、キャンプファイア、木の上の小屋、感覚を遮断して浮かぶタンク、ブランコ、滑り台、砂場、友人、家族、ペット、詩、座り込み、座り込みストライキ、抗議の退場、抗議集会がある限りは。

これは、まだ何千と挙げられる「課外活動」の、ごく短い一覧である。「課外」と呼ぶのは、すべて自分で選んで行うことだからだ。そして、社会の決まりや職場の力関係に従うことばかりを市民の務めとして押しつけられ、追い立てられる暮らしのなかで、自分を取り戻し、釣り合いを保つために、たいていは人目を忍んで楽しむものだからである。

私たちがこうした営みを探し求めるのは、金になるからでも、社会的地位が上がるからでもない。互いとのつながりを保ち、同時に、生きて呼吸する世界そのものの骨や筋に触れるためである。

私と、あなたと、私たち。その相互依存こそが、守る価値のある、唯一の肝心な真実だ。巨大金融も、国家を操る手練手管も、強制された賃金奴隷制も、その道徳的破綻もろとも、くたばってしまえ。

実際、私たちを繰り返し救ってきたのは、この、多種多様な営みが結びつく、すばらしく胸躍る連合なのである。金では売り買いできない――いっそ「お上の許しなど得ていない」と呼ぼう!――「放っておけない」という思いの、さまざまな表れだ。

それこそが、政府の抑圧から私たちを救い、利益のために縫われ、売られる旗や横断幕に向かって、忠誠を演じ、魂を差し出せと迫る支配層の呼び声から、私たちを救ってきたのである。

私は白いシャツで電車を降り、止まったエスカレーターの、動かない背骨のような段を上って、地上の駅出口へ向かった。反トランプの思いを、全国一斉の行動に持ち寄るのが楽しみだった。「ノー・キングス」の主催者は、中間選挙前に行われる左派の連帯行動として、史上最大になるかもしれないと呼びかけていた。

ところが、そこで私が向き合ったのは、恐怖そのものというより、「恐怖」というものを目に見える形にしたかのような光景だった。反乱の舞台になるはずの市庁舎周辺が、文字どおり、がらんとしていた。その空白は、現実とは思えないほど広く、不気味だった。

一瞬、日付を間違えたのかと思った。ソーシャルメディアの告知を読み違えたのだろうか。

「ノー・キングス――期日前投票をしよう、抗議しよう、行進しよう!」と読んだつもりだったが、本当は「誰かに当たる心配は一切なし! フリスビーをどこまで遠くへ投げられるか、神様に見せてやろう!」だったのかもしれない。

グレイトフル・デッドのオリジナルメンバーと一緒に、ひげに漂うパチョリの香りや着圧ソックスについて歌う催しが先に入っていて、デモの会場が変更されたのだろうか。

カウンターカルチャーは、お堅い主流社会から見事に離脱しすぎて、ついに影も形もなくなったのか。

この国の現状に対する無関心は、これほど見事に足並みがそろい、これほど鮮やかな「何も起こらない催し」を生み出せるほどになったのか。

「抗議疲れ」では説明できない、と私は思った。何しろ「ノー・キングス」の主催者は、春も夏も休むという――何ともすばらしい!――判断をしていたのだから。

ただひとつ、確かなことはあった。人間を大切にし、社会を前へ進めようとする思想の回路が、国家の虚無主義に奉仕する武器と化した既製の機械の中で、何をしでかすか分からない亡霊が動かす回路と、見分けがつかなくなり始めたら、私は不安になる。

しばらく歩き回った末に、ようやく何人かの抗議参加者を見つけた。道の向こうには、自転車に乗った警官の一団がいた。この人たちが、ぼそぼそと善行を説き、ひと口サイズの利他主義を掲げて、民主主義を解体し、アメリカという実験を台無しにするのを防ぐために、派遣されてきたのだろう。

私は写真を2、3枚撮って、コーヒー店へ向かった。その場にいない革命仲間たちに何と言えばいいか、午後いっぱい考えてみようと思った。

大勢が集まる行動を何度か起こせば、あれほど大量のインクや、数えきれないほどのキーボードの打ち込みを、みんなで簡単に省けるはずなのに。そのことが分かっているだけに、いらだたしかった。

結局、その日、私はエスプレッソ4杯分を入れたコーヒーを膝にこぼしてしまった。私は即座に飛び上がり、文字どおり、座っていた椅子をはねのけた。

焼けるような肌の痛みに襲われた瞬間の衝撃が、ようやく収まる。びっくりした「爬虫類脳」――反射的に身を守ろうとする脳の部分――も落ち着きを取り戻す。そして、世界は、パニックに閉じ込められているときに感じるより、ずっと広いのだと分かり始める。

そのとき私は思った。宇宙はいつも、私たちに何かを伝えようとしているのではないか。そんなかすかな予感について、私たち1人ひとりは、どれほどしばしば、立ち止まって考える時間を取らずにいるのだろうか。

【原文(英語)を読む】

 

<参考> Mr. Fish について

Mr. Fish(ミスター・フィッシュ)は、アメリカの著名な政治風刺漫画家、フリーランスの文筆家。本名はドウェイン・ブース(Dwayne Booth)。

主な特徴や経歴は以下の通りです。

  • 作風と特徴: アメリカの政治、社会の偽善、権力構造、資本主義の矛盾などを、痛烈な皮肉とユーモア、そして深い哲学的・文学的考察を交えて描き出す。自身の政治エッセーやコラムに、強烈なインパクトを持つ風刺イラストを添えるスタイルで知られ、政治風刺漫画で数々の賞を受けている。

  • 主な発表媒体: 『Harper’s Magazine』や『The Nation』、『Truthdig』、『The Nib』といった、アメリカの主要なリベラル系・論壇メディアに作品や文章を長く寄稿している。

  • 活動領域: 風刺漫画家やライターとしての活動に加え、大学などでコミュニケーション論の講師を務めるなど、多方面で表現活動や教育を行っている。

社会の不正義や権威主義に対して一歩も引かない挑発的な表現や、市民の無関心を鋭く突くエッセーによって、米国のインテリ層やカウンターカルチャーの間で広く知られている人物。

ペンシルベニア大学(アネンバーグ・スクール・オブ・コミュニケーション)で講師を務めていましたが、2025年3月に解雇(契約解除)された。

主な経緯や理由は以下の通りです。

  • 風刺画をめぐる批判と論争: ガザ紛争などをテーマにした彼の政治風刺画やイラスト(ジャーナリストのクリス・ヘッジズの寄稿記事などに添えられたもの)が、反ユダヤ主義や血の中傷(ブラッド・リベル)の表現・比喩に該当するのではないかとして、親イスラエル派や学内外の団体から強い非難を浴びた。

  • 大学側の対応と解雇: 騒動当初、大学側は「表現の自由」を理由に擁護・防衛していたが、その後、大学に対する政治的な圧力や外部からの批判が一段と強まる中、2025年3月に解雇に至った。

この一件は、米国の大学における政治的表現の自由、パレスチナ問題に関する言論統制、そしてキャンパス内での「表現と差別」の境界線をめぐる激しい論争の象徴的な出来事として大きく報じられた。(Apple Podcasts)