Akira OKAWADA 岡和田晃
現代詩作家・文芸評論家、東海大学講師
1981年、北海道生まれ。著書に『「世界内戦」とわずかな希望』(第5回日本SF評論賞優秀賞受賞作を含む、アトリエサー
ド)、『反ヘイト・反新自由主義の批評精神』(第50回北海道新聞文学賞佳作の改題、寿郎社)、『掠れた曙光』(2019年度
茨城文学賞、書苑新社)ほか多数。「清水博司論」(『清水博司詩集』収録、土曜美術社出版販売)および「村田正夫論」(「潮流詩派」267号)で、2021年度潮流詩派賞評論部門年間最優秀作品賞を受賞。詩作としては形而上詩とプロレタリア詩の両方を手掛ける。代表作に「道徳の彼岸から弾き出された悲願」(『日本現代詩選2022』、日本詩人クラブ)、「宿便」(「現代詩手帖」2021年2月号)ほか。批評では「世界」2023年7月号の「「侮辱」の感覚を手放さない対位法的な詩学――大江健三郎『晩年様式集』」、「図書新聞」での文芸時評、「フラジゃイル」での「現代北海道文学研究」等の寄稿・連載多数。

なお、本サイト「<視点:077> 詩の持つ力を信じて~岡和田晃さんに聞く~」では、本年8月24日に旭川市で開かれた『詩の檻はない』の出版記念会における岡和田氏の講演に基づいて野口がインタビューする形式で再現した。
(旭川市でひらかれた『詩の檻はない』の出版記念会の最新報告はココをクリック。)

『詩の檻はない』の主唱者でBaamdaadの代表ソマイア・ラミシュ氏を招いて横浜ことぶき協働スペースで12月19日に開かれたシンポジュウム「アフガニスタンと日本の詩人による知性対話 言論の自由と女性の地位、社会の解放について」ではパネラー兼司会を担当。

 

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病院に爆弾を落とすな!
岡和田晃
2023年12月21日、Facebook初出

 

――ガザの病院に爆弾が落とされ、
数えきれないほどの子どもが、
そう、子どもが、あえなく、死んだ!
子どもだけじゃない、
重症の患者たちまで、殺されたのだ!
彼らだけじゃない、
医療従事者まで 殺されたのだ!
無惨にも、殺戮されたのである!
高性能兵器を、試し撃ちするかのように、
あるいは、対象を絞るのが面倒だから、
とにかく皆殺しにしたい、かのように。
すでに殺戮は娯楽になっていて、
明らかに狙い撃ちにされたのである!

――イスラエル政府は、こう主張している。
これは〈イスラム聖戦〉による、
誤射であり、やったのは過激派なのだと。
だがしかし……地元の地理に精通している
面々が、わざわざ病院に誤射するわけなかろう!
にもかかわらず、日本のメディアは、
わざわざ「過激派」に誘拐された被害者を
クローズアップすることで、虐殺を
どっちもどっちの論理へと導いて恥じない。
もはや批判精神など、どこにもないのである!
このメディアこそが、非対称的な構造を、
いっそう強調して恥じないものなのだ。

――私は心底、幻滅し果てた!
そう、ユルゲン・ハーバーマスの論理にである。
私はハーバーマス流の「熟議民主主義」を
尊敬していた。けれども彼は、イスラエルの
虐殺を、公然と支持して恥じないのだ!
甘かった、私はハーバーマスが、ユーゴの空爆を
正当化していたのも知っていた、だが!
それは何かの間違いで、どこかに深謀遠慮が、
あったのではないかと、疑っていたわけだ!
リアルタイムで目にしては、なかったからである。
しかし、甘かった!
この惨状を目にして、どうしてイスラエルを
支持できようか。「公共性の構造転換」を、
訴える前に、まずは現状認識を、徹底的に、
転換すべきではないのか!
たとえ、ホロコーストで虐殺された民族でも、
別の民族を「浄化」してよいわけがない!
ハーバーマスの論理の、奥の奥にある、
エリート主義を、きちんと見抜き、
批判したジャック・ランシエールは、
圧倒的に正しかったということだろう!
彼は「晩節を汚した」わけではないのだ!

――連日、殺戮の光景が流れてくる!
娯楽と化した、一方的な殺しの風景だ。
今日はイスラエルの兵士たちが、
ガザのフェンスのなかにいる子どもを、
ライフルでわざわざ狙い撃ちにし、実際に殺して、
歓声を上げていた!
どうしたら、ここまで共感性が消えるのか。
生命の重さに貴賤はないにせよ、イスラエルの死者と
パレスチナの死者の数は、もう桁違いに異なる!
殺されるのが当たり前だと、数字の感覚が麻痺して
しまう。だとしたら、もはやガザは、
アウシュヴィッツと同じだと、言うほかない!
『パレスチナ/イスラエル論』の著者、早尾貴紀氏が
述べていたが、イスラエル軍の新兵器さえあれば、
パレスチナ人を百万人殺すのは朝飯前だ。
だが、そこまではしていない。なぜか?
背筋が寒くなるような結論ではあるが、彼らは、
国際社会がどこまで見て見ぬふりをするのか、
それを見極めるべく、ボーダーラインを
探っているというのだ!

――アフガンの亡命詩人ソマイア・ラミシュが
来日時に指摘して、私はそれを訳したものだが、
曰く、タリバンによる女性の性奴隷化は、
支配という形容すら、すでにして生ぬるい。
あらゆる権利の剥奪に対して、
黙殺しているのは、もはや犯罪であり、
歴史に裁かれることになろう、という話だった!
西欧社会にある自由の階層化、つまり分断と、
人権の二重基準(ダブル・スタンダード)とを、我々は鋭く、
見抜いていかねばならないわけだ!
この点において、パレスチナの事件は、
もう、まったく同じであると言えるのである!

――ここで私が主張したいのは、パレスチナと、
北海道が似ている、ということである。
それはセトラー・コロニアリズム、すなわち、
入植植民地という状況において、である。
移動を余儀なくされるほどの、社会的弱者が、
さらなる弱者たる先住民を蹂躙する、
そうした社会状況のことを指す言葉だ。
一九四七年、大狩部のアイヌ「給与地」は、
和人富農の「小作人」が実質的に簒奪しており、
GHQによる農地改革は、それを追認せんとしていた。
アイヌたちは異議申し立てを行ったが、認められず、
闘争は敗北した。けれども、貧農とアイヌは、
結果として「階級的組織化」がなされ、
厚賀には貧しい者のための診療所が作られたのだ!
薬の包み紙をアイヌにのみ使いまわそうとしたり、
そもそもアイヌの集落の周辺にのみ、水道が
敷かれていなかったりしていた、その場所において、
貧しい者たちの病院が作られたのだ!
医療器具も顕微鏡や聴診器しかないところからの
出発だった、にもかかわらず、その病院は、
「アカの巣窟」とみなされ、単なる映画上映会が、
アメリカに抵抗する反戦集会だとみなされ、
弾圧の対象になったのである!
私には、こうした歴史が、ガザの現状と、
二重写しになっているように見えてならない!

――だからこそ、何度でも言いたい。
病院に爆弾を落とすな、子どもを殺すな、
障害者を殺すな、医療従事者を殺すな、
そもそも、誰であっても殺すな、と!
詩の影響力は微々たるものかもしれないが、
ゼロを1にするだけの決定的な力があり、
それこそが、詩が畏怖される原因なのだ、と!

(本作品は『壘』19号に掲載予定)

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