Pashtun Leadership Dispute: How Mullahs Outmaneuvered the Khans

 

(WAJ: 優れて重要で簡明な記事。それまでのアフガニスタンの伝統的な集落を支配していたのは、族長、長老、イスラム僧、軍長らであった。特に族長、イスラム僧、軍長の3者による支配が特徴的であった。1978年の四月革命(人民民主党の権力奪取)後、革命に反対する3者は革命政府へ武力反撃するとともに、ソ連軍が軍事支援に乗り出すと村民ぐるみ集落を放棄してパキスタンに逃れ国際的な支援を得て武力闘争を継続した。本論文は、このようなジハード期(外国軍異教徒軍との戦い)の過程において族長(ハーン)からイスラム僧(宗教学者、聖職者、ムッラー)が権力を奪取するプロセス、そこにおけるパキスタンの役割を活写している極めて貴重な論文であるといえる。ちなみに、「軍長」らがグループを形成して「軍閥」となったが現在ではターリバーンの武力によって解体されている。(注:本論考中、「islam」の単体使用の場合「イスラーム」、連結使用の場合「例:イスラム教徒」「イスラム」と表記します。また、「khans」はハーン、ハーンら、ハーン派、ハーン層等々と文脈に応じて適宜混在使用します。))

 

By Hashte Subh On Mar 11, 2023
By: Abu Muslim Khurasani

ハシュテ・スブ 2023年3月11日
アブ・ムスリム・クラサン

 

人間社会の構造変化は、社会的、政治的、経済的な要因に影響されることが多く、それらは内的、外的な観点から検討することが可能である。本稿は、パシュトゥーン諸部族の指導権をめぐるハーン(訳注:部族長一派)とムッラー(訳注:イスラム指導者一派)の抗争と、ムッラーの成功に寄与した内的・外的要因を説明しようとするものである。今のところ、ムッラーが兵士を従えてハーンの地位を奪い取り、民衆を食い物にしているのだが、政治的な根拠はというと、現在「アミール・アル=ムウミニーン」(訳注:イスラム教徒たちの長)のベールをかけられたシャー(訳注:元来イラン系の「王」を意味するペルシャ語だったが、広くイラン・イスラム圏で使用されるようになった)に帰するということは、良く知られている。ではなぜ、どのようにしてムッラーがパシュトゥーン部族(訳注:アフガン国内の最大部族とされ、ターリバーンの出自)の複雑な構造を乗り越え、ハーンを支配することができたのかを理解することが、現在の状況を説明するのに役立つはずである。

パシュトゥーン族の辞書によると、「ハーン」という名前は特にアフガン南部で、中位ないし高位の権力層に対して二重の輝きを放っている。ハーンは財力に結びつくとともに、域内における政治的パワーを携え、手下や戦士を従え、時には巨大な権力を備えた完全に機能する独裁者として君臨する。君主に支配されている部族の場合でも、そのハーンに従う(Elfinstone, 1815)。ハーンの連合は、18世紀にアフマド・シャー・ドゥラーニー(Ahmad Shah Durrani/1720?〜1772)が政治的権力を築いた基盤として機能したという。ただし、現代のイギリス人歴史家でアフガニスタン専門家のジョナサン・リーによると、アフマド・シャー・アブダリ(Ahmad Shah Abdali)(訳注:アフマド・シャー・ドゥラーニーの別名)の権力獲得は軍事クーデターの結果であり、サバー・シャー・カブリ(Saber Shah Kabul)(訳注:アブダリを王に任じた修行僧)が民族ジルガで小麦の茎によってアフマドに戴冠したという話はパシュトゥーン民族主義者の空想の産物であり、実際の出来事としては何の根拠もないとのことだ。

<参考サイト:マウントスチュアート・エルフィンストーンの著作>
https://www.cambridge.org/core/books/abs/account-of-the-kingdom-of-caubul-and-its-dependencies-in-persia-tartary-and-india/divisions-and-government-of-the-afghaun-nation/214654306B4EF404EF89745C6A666520

<歴史家ジョナサン・リー(ニュージーランド在住)>
https://independent.academia.edu/JonathanLee2

 

アブダリの正統性が軍事クーデターによるものか、ハーンらとの同盟によるものかは別として、アブダリに続くパシュトゥーン諸侯の権力獲得には、ハーンらや英国、帝政ロシアの後ろ盾が不可欠であったことを認識する必要がある。アフガニスタンの政治的権威を得るために3世紀以上にわたって争いと残虐行為が繰り返された結果、アフマド・シャー・アブダリとパシュトゥーン諸侯が保持していた地位を、ターリバーンのマスクをかぶった指導者であるムッラー・ハイバトゥラー(Mullah Hebatullah)が占めているのだ。正統性を得た根拠は、前者は時々の植民大国の支援によって、後者はドーハ協定に基づくアメリカの秘密支援によってと似たり寄ったり。ただし、アブダリや後のドゥラーニー家の王子たちが、ハーンらの同盟に支えられたのに対し、ハイバトゥラーはムッラーらの同盟に支えられている点は異なる。そこで、根本的な問いがある。政治的黒幕としてムッラーらがパシュトゥーンのハーンらに取って代わったのはなぜか、そしてその変化はどのようにもたらされたのか。

 

 

ハーンとは何者か、ムッラーはどこから来たのか?

ハーンの意味論的歴史上の起源は、モンゴルの侵略が古代イランへ及ぼした影響にまで遡ることができ、トルコ・モンゴル系のルーツを持つ(Kiawand, 1989)。ここでいうハーンとは、政治的・社会的権力構造において中位の地位を占める人々を指し、現地の土地所有者や村の領主、さらには最も強力な氏族指導者にまで至る。またハーンはアフガニスタンにおけるシャー(王)の最も近い同盟者であった(Ebrahimi, 2019)。彼らは農村共同体をひとまとめのネットワークに組織し、王に代わって税金を徴収した(Sharan, 2017)。実際には、シャーはハーンらの忠誠を求め、ハーンらは利害を共にする人々の多くが奉仕することを求めた。この構造は数百年前から衰退し始め、現在ではすっかり廃れている。当時の村落では、ムッラーでさえも、ハーンの命令に従い、主要な都市では王の命令に従った。金曜日の礼拝では王の名のもとに演説を行い、ハーンの強さ、王の政治的影響力を礼賛した。

アフガン経済は伝統的な土地に根ざしたシステムだったので、ハーンの経済的、政治的な重要性は大きかった。彼らは、国王を頂点とした部族ネットワークを築いて、地域の経済と政治を支配するとともに、国民の代表でもあってその声や願いを王のもとへと伝えた。つまり双方向の関係だった。各地のムッラーらもハーンの権威にひれ伏した。こうした関係はすべて非公式かつ伝統的な方法で結ばれ、双方の利益のみが共通課題だった。つまり共通の利益こそが、ハーンと国民と行政が交流する基盤であり、それを域内の部族制度が構造的に裏打ちした。ハーンたちは域内経済の大動脈を管理し、それによって自らの主権を発揮した。経済的側面の重要性を彼らは肝に命じたのだ。

アフガニスタンにおける聖職者の宗教的・社会的歴史は長く、イスラームの伝来にまでさかのぼる。「ムッラー」「マウラウィ」「カリ」「モスクの導師(イマーム)」「礼拝指導者」という言葉はいずれも宗教を広く科学として学ぶ人々を指し(Salehi, 2018)、排他的な機関や「魂」を介して宗教を教える人々を意味する「聖職者」とは一線を画す(Yagoubi, 2012)。ムッラーはアフガニスタンにおいて影響力のある社会階層であり、歴史的に政治的権威を持ち、また教育、立法、司法に積極的にかかわってきた。特に、ムッラーらがアマヌッラー・ハーン(Amanullah Khan)の改革主義政権を倒すに至っては(訳注:1929年タジク人の反乱がきっかけとなり、イギリスが介入して政権崩壊。バッチャ・サカオの乱)、内部結束力が高く民衆を組織して政権を倒すこともできる力を見せつけた。

政治に法的権威を与える機能を持ち、そのため政治体制への介入も可能なムッラーではあったが、広範な経済ネットワークや国際的なつながりがないため、ハーンやシャーの命令に背くことができなかった。かつてムッラーはあまり政治的な活動をせず、自分たちの利益にしか関心がなかった。政府も彼らの要求を少しは聞き入れ尊重したため、骨抜きにされたムッラーはハーンの命令に従い続けていたのである。言い換えれば、アマヌッラーを打倒した蜂起は、ムッラーとハーンという脱税仲間たちによる共同蜂起であり、国王の改革に反対することで自分たちの正当性を守り世論に訴えようとしたのである。このときムッラーらは政府を支配するよりも、自分たちの利益になるような政府を望んだだけだった。ところが共産主義(訳注:アフガニスタン人民民主党:PDPA)政権がアフガニスタンを支配するに及んで事態は大きく変わり始めた(訳注:1978年の4月革命から1992年まで)

アフガニスタンにおけるPDPAの台頭は、政治構造、地域秩序、経済変化、そして最も重要な社会秩序の大変革をもたらした。その後の内戦、ムジャヒディーンの時代、ターリバーンの台頭によって、この国はさらに変化し、ムッラーらをはじめとする反政府勢力を結集させるという意図しない結果を招いた。つまりムッラーがハーンにとって代わり、ハーンの政治や経済への影響力が低下していった。PDPA支配以前は、ムッラーは政府を樹立することに関心がなかったが、政治的イスラームが世界的規模で台頭してくると、それでは済まされない。ターリバーンに象徴されるように、ムッラーが政府を樹立することになった。かつてはムッラー・オマル(Mullah Omar)が、現在はハイバトゥラーがこの国を指揮している。こうした変化がどのように起こり、どのような影響を及ぼしているのかが問題である。

 

グローバルな視点:ナショナリズムか、イスラム主義か?

20世紀は、世界的なイデオロギーの対立、ナショナリズムの台頭、数々の紛争が起こり、世界はさまざまな戦略や戦術による対処に追われた。この文脈において、筆者は西側世界、つまり国際舞台で大きな影響力を持つ強国群のことを論ずるに至る。彼ら「自由世界」なるものは、イスラム・アラブ諸国における民族主義を押さえ込まんとイスラム主義を支持し、沢山の経済、政治、メディア上の資源を提供した。その裏には、もちろん別のややマイナーな理由もあったろうが、主には次の2つの理由へと収斂される。第一の要因は、共産主義の蔓延に対する闘いであった。西側諸国は、政治的なイスラームが当時最も有効な反共手段だと知っていた。

共産主義との闘いにおけるイスラム主義への国際的な支援の例としては、イラン・イスラム共和国への介入や、ソ連が支援するカーブル政府と闘うアフガニスタンのムジャヒディーンへの援助が挙げられる。また、20世紀初頭のアラブ世界では、汎アラブ主義とナショナリズムが台頭し、リビア、イラク、シリア、エジプトといったアラブの強国が域内において大きな力を持つに至った(訳注:アラブ諸国連盟)。このナショナリズム的視点は、やがて新たに建国されるイスラエルにとって脅威となった。アラブのムスリムを統合し、強力な同盟関係を構築する可能性があったためだ。

そこでイスラム主義を蔓延させれば、この事態に対抗できると考えた。ムスリムとアラブ人を分裂させ、過激主義に向かわせる戦略だ。これは、主要な新植民地勢力にとっても有益であり、石油資源の支配権の獲得を可能にした。その上イスラエルに真の脅威を与える可能性のあるアラブ・イスラム同盟を防ぐことができた。西側にとって中東と言えば、肝いりで生み出したイスラエルのことでしかないのだ(Avdel Bari Atwan, 2016)。こうしてイスラム主義への国際的な支援によって、アフガニスタンではムッラーの台頭がお膳立てされ、権力の獲得を目指す過激な政治僧を助長する環境も整えられた。

 

域内レベルでのパキスタンとパシュトゥーン人

世界をマクロ的に見渡すと、ムッラーと原理主義勢力への集中的援助は、反共産圏の短期的な目標に貢献するものであった。パキスタンにとっては、地域レベルでパシュトゥーン民族主義を弱体化させるためにも、この戦略は有効だった。パキスタンとパシュトゥーン人との間には難しい関係が存在するのだ(訳注:デュアランドラインで分断されたが、アフガニスタンとパキスタンのパシュトゥーン人は同一の民族)。パキスタンは、アフガニスタンとパキスタンの両方でパシュトゥーン民族主義が台頭することを懸念しており、その思想の鎮圧に全精力を傾けている。しかし、アフガニスタンの地方レベルでは、パシュトゥーン人が不倶戴天のタジク人を含む他の民族と衝突し、パシュトゥーン主義や地方ナショナリズムを醸成している。それはかつて、パキスタン軍を率いるパルヴェーズ・ムシャラフ将軍がアフマド・シャー・マスード(Ahmad Shah Massoud)(訳注:タジク人ムジャヒディーン)をパシュトゥーン人の敵とみなし、タジク人の政治参加を糾弾したことからも見て取れる。後にムシャラフはインタビューで、「パキスタンはパシュトゥーン人の勝利に改めて邁進すべきであり、パキスタン人の願いは、アフガニスタンでターリバーンのごとき反インド・パシュトゥーン・イスラム主義政権を再び打ち立てることである」と述べている(訳注:皮肉にもムシャラフ大統領は米軍による第1次ターリバーン政権の掃討作戦に協力した)。ターリバーンのアフガン進出は、パキスタンのインド戦略と歩みををそろえて確立されていった。

<参考文献:インドとパキスタン>
file:///Users/a/Downloads/TPC004500_005.pdf

 

パシュトゥーン人はパキスタン国内で日常的に差別を受けているため、ムシャラフのようなパキスタンの将軍の存在はこうした緊張を悪化させることになった。パキスタンの陸軍をはじめとする軍事機関は、パンジャブ人とその他の民族のメンバーで構成されている。ムシャラフは、BBCペルシャ特派員(当時)のハルーン・ナジャフィザダによるインタビューで、「アフガン軍はタジク人で構成されている」、「アフガニスタンはパシュトゥーン人主導の政権にすべき」と述べた。このような戦略をとることで、パキスタンは部族ナショナリズムに基づくパシュトゥーン人の国境を越えた団結追求に対して空気抜きを行い、アフガニスタンではパシュトゥーン人の恨みを買い、ムッラーらの台頭とハーンらの没落に道を開くことになった。パシュトゥーン人保護運動の指導者マンゾール・パシュティンは演説で、1400人のパシュトゥーン人の長老やハーンを殺害した責任は誰にあるのかと問いかけ、イスラム主義者やムッラーらと連携したパキスタン政府にある、と述べた。

アフガニスタンにおけるインドの影響力に対抗するため、パキスタンはあらゆる手段を活用しようとしてきた(C. Christine Fair, 2017)。これには、インド人と宗教的に敵対する要素を後援することも含まれている。例えば、初期のパシュトゥーン人ハーンらである。彼らは伝統的な世俗主義者で、インド人を悪魔としながらも、友好的な交流、コミュニケーション、有意義で持続的な関係を築くこともできると考えた。これら地元の有力者たちは、ナショナリスト的思考の成長に火をつけ、デュアランド・ライン(訳注:1893年、イギリス領インド帝国の外相モーティマー・デュアランドとアフガニスタン国王アブドゥッラフマーン・ハーンの間で調印された条約に基づく境界線)の両側にいるパシュトゥーン人の関係づくりに貢献した。困ったパキスタンはアフガニスタンのムッラーらの大きな勢力に注目し、政治・社会構造へ取り込み、彼らに権限を付与した。こうしてインドとの戦争の道が選ばれ、細々とはいえ保障され続いていた部族主導による、パシュトゥーン中心のナショナリストの物語は実現されずに終わった。

 

国家レベルでの構造の変化、戦争、経済、ムッラー支配

ジハード時代(訳注:ソ連の支配に抗った1980年代後半から第1次ターリバーン政権が出来る1990年代半ばまで、および2001年から2021年までの米NATOなどの駐留時代)にはイスラム主義が台頭し、アフガニスタンは全般的な構造転換を遂げた。ハーンと農民を基盤としていた伝統的な農業経済は、世界中から流入したブラックマネーによって破壊され、そのあとにはジハード主義者とムッラーが登場し、一部の軍閥も居残って、社会政治構造を支配した。軍の司令官たちは、そのほとんどがムッラー層で、政治的イスラームとジハード物語の支持者であり、パシュトゥーン人のハーンらから地方的権威を奪い取った。さらに、地元の仲間を守る王がいなくなったアフガニスタンでは、貧農、土地、小麦の価値が下がり、地元の経済システムが崩壊し、他国から数百万ドル相当の援助パッケージを受け取ることになった。

より純粋な政治的イスラームを標榜するムッラーらと、ターリバーンに率いられた部族的農民層が、社会的・政治的権威の源としてのハーンの支配を事実上終わらせた。両者の争いは、最終的にムッラー・ハイバトゥラーが勝利し、パシュトゥーン社会における伝統的なハーンの役割を引き継いだ。これは、国際的な政策がいかに国の状況に大きな影響を与えるかを示す一例となる。かつてハーンが徴収していた税金やザカート(訳注:喜捨)、寄付金などの資金を手に入れ、宗教学者として、民族紛争の解決官としての役割を受け継いだのがターリバーンである。最も重要なことは、彼らが各地の権力、資源へのアクセス、政治的な地位を得たことである。彼らは、「アミール・アル=ムウミニーン」とロヤ・ジルガ(訳注:国王や国の代表などを選出したり重要な政治問題を解決するためのアフガニスタン独特(主にはパシュトゥーン族)の部族代表による大会議)の名を用いて、自分たちに逆らう者は反逆者であり、死に値すると宣言するファトワ(訳注:イスラム法学に基づく勧告)まで発行している。

国内、域内、国際レベルで権力を握るために必要な条件をクリアしたターリバーンは、ムスリムの支持の下、自らの優位性を維持できる政策を実行し始めた。この目的のために、彼らは組織や官僚的な階層の違いにかかわらず連携可能なムッラー間のネットワークを構築した。ネットワークに反対したムッラー、あるいは他の部族出身で権力を用いてそのネットワークに挑戦する可能性のあるムッラーは暗殺された。アフガニスタンのマンデガル新聞の2015年の記事によると、過去14年間でムッラーのネットワークに敵対的であるとみなされた約100人の宗教学者が殺害されたという。近年、このような殺人事件が増加している。ターリバーンは、数百人の宗教学者を殺害し、ムッラーのネットワークが支配する余地を増やした。殺害された学術関係者のかなりの部分は前政権下で暮らしていた一般市民だった。

このネットワークの確立後、ターリバーンはムッラーの指導の下、地元組織内での権力拡大を妨げるあらゆる勢力を殺害、破壊した。このプロセスのかなりの部分には、パシュトゥーン人の人口が集中する地区における強力な部族的ハーンの殺害と打倒が含まれていた。このプロセスは2006年以降に始まり、2021年8月15日を迎えた。ハーンらに実権を掌握させぬよう、ターリバーンはすでにその暗殺を開始していたのだ。パキスタンのパシュトゥーン保護局長マンズール・パシュティンが以前述べたように、ハーン殺害と重要人物暗殺の波を起こしたのはムッラーらで、目的はアフガニスタンと域内にいる部族たちの伝統的な最後の砦を排除するためだった。残念ながら、ターリバーンによって殺害されたハーンやその他の地元の重要な指導者の数を示す統計は存在しない。アフガニスタンとパキスタンの両国にまたがるパシュトゥーン人コミュニティは、ムッラーをパキスタンの戦略的利益に貢献させるため権力の座に就かせようとするパキスタンの企みの標的となった。

ターリバーンは、パシュトゥーン人が居住する地域で影響力のあるハーンらが支配権を取り戻さないうちに、彼らを暗殺したようだ。この結果、北部州を含むさまざまな場所で地元の領主、ジハード戦士の指導者、反対派のムッラーらが排除され、ターリバーンのアフガニスタン支配に対する有力な挑戦者は不在となった。テロリズムの利用、内部ネットワークの結束、パキスタンからの援助、そして世界中の政治的イスラム勢力の支援を通じて、ムッラーらはパシュトゥーン人のハーンを打倒し、権力を掌握することができた。聖戦とアフガニスタン戦争への資金提供、政治経済構造の変化、その他の要因によりこうしたプロセスが加速され、現在の悲惨な状況が出現している。有力な挑戦者がいない中、ムッラーたちは自ら影響力を高めようと政治活動を続けている。

 

References: 

 

1- Elphinstone, 1815 (An Account of the Kingdom of Cabul, and its Dependencies in Persia, Tartary, and India)

1994 (Afghans, place, culture, race), translated by Asif Fikrat, Tehran.

2- Kiawand, 2001 (Politics, Government, Nomads) Tehran: Sanam Publishing.

3- Sharan, T., 2016 (Network Government) translated by Hasan Rezaei, Kabul: Nash Faradh.

4- Abrahimi, Y., 2020, (Difficulty of political development in Afghanistan) Kabul, Haht-e-Subh Daily.

5- Salehi, A., 2019, (Religion and Shah Amanullah) Herat: Online publication.

6- Yaqoubi, A., 2012 (Semantics of the word “Clergy”), Tehran: Social Knowledge Magazine.

7- Pahlawan, Ch., 1998, (The Mujahideen Era and the Rise of the Taliban), Tehran: Nash Qatra.

8- Atwan, 2016, (Digital Caliphate) translated by Reza Elfat, Tehran: Kalogh Publishing.

9- C. Christine Fair., 2017, (Battle to the last breath), translated by Khaled Khosrow, Kabul: Amiri Publishing House.

10- Giustozzi, A, 2012, (Afghanistan, War, Politics and Society), translated by Asadullah Shefahi, Kabul.

 

原文(英語)を読む

Pashtun Leadership Dispute: How Mullahs Outmaneuvered the Khans

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