(WAJ: ターリバーンは、今年5月23日づけで、アフガニスタンの村落運営機関として導入されていた「コミュニティ開発評議会」の解散・廃止を命令した。これはアフガニスタンの村落の運営手法を改造して村落をターリバーンの直接支配下に置こうとするものにほかならない。本レポートはドイツに拠点をおく(AAN)アフガニスタン・アナリスト・ネットワークのエレナ・ビエリカ研究員らが2022年11月から2024年6月の間に数回にわたりアフガニスタンの21の州で40人以上の男性を対象に50件以上のインタビューを実施し、まとめたものである。2021年8月のターリバーン復権後に、アフガニスタンの農村がどのような状態に置かれているのかを明らかにする興味深いフィールド・ワークである。同時に、ターリバーンが、旧共和国時代に国家プロジェクトとして設立されたコミュニティ開発評議会(CDC)を廃止し、「ウレマ評議会」による農村のターリバーン直接支配を構築しようとしているその現実にも光を当てている。アフガニスタンの農村はアフガン人口の80%以上を占めるといわれる。ターリバーンが、女性隔離政策とともに、その農村政策によってアフガニスタンをどう変えようとしてるかを見るうえで貴重な研究である。以下、レポート原文(英語)とWordおよびgoogleの自動翻訳を援用した日本語仮訳を掲載し、解説を加える。なお、この研究は、米国平和研究所(USIP)によって資金提供されている。)

エレナ・ビエリカ(Jelena Bjelica)
アフガニスタン・アナリスト・ネットワーク

【原文】THE FATE OF VILLAGE COUNCILS: The Emirate’s effort to institute hegemony over rural Afghanistan

日本文(Wordおよびgoogleの自動翻訳を援用した仮訳)pdf】村議会の運命:アフガニスタンの農村部に対する覇権を確立するための首長国の取り組み 政治的な風景

 

 解 説 

AANレポートの概要

本年5月23日付でターリバーンが解散命令を発した「コミュニティ開発評議会(CDC:Afghanistan’s Community Development Councils)」はイスラム共和国の下で国家連帯プログラムとその後継である市民憲章によって設立された。ターリバーンはこれを廃止して「ウレマ評議会」により国家開発プロジェクトを進める、としている。

しかし、アフガニスタンには、CDCが設立される以前より、草の根、集団、意思決定、問題解決のための村議会とも言うべきジルガ(パシュトゥ語)とかシューラ(ダリー語、またはシューラ―)とよばれる長年の伝統がある。

本AANレポートの研究チームは、部族の長老、尊敬されるコミュニティのメンバー、ジャーナリスト、農民、教師、21の州のその他の村人たちに詳細なインタビューを行い、従来の伝統的な「村議会」システムや米英NATO軍駐留下で進められてきたCDCによる変革の実施、それらが2021年のターリバーン復権後どのように変更されつつあるか、つまり従来のシステムを破棄してターリバーンが直接支配を実現しようとしている現状を実証している。

従来、アフガニスタンの村落は、地域の王であるハーンやシャーや有力部族長、村代表であるマリクまたはアルバブ、宗教指導者であるムッラー、水の分配を組織する責任者ミラブ、軍司令官などによって支配されてきた。その支配構造は18世紀半ばにアフガニスタン国家が創設された後も生き延びてきた。

さらにはソ連軍駐留下のアフガニスタン人民民主党(PDPA)時代(1978~1992)、ムジャヒディーン政権時代(1992~1996)、第1次ターリバーン時代(1996~2001)をへて、米英NATO駐留下の共和国時代(2001~2021)には、アメリカ指導によるアフガニスタンの民主化(近代化)政策が遂行された。その政策を遂行するための機構の一環として農村部ではコミュニティ開発評議会が設立された。この評議会は伝統的なシューラ(ジルガ)と並立して村落の開発を進めてきた(実際はターリバーンの妨害、戦闘行為によりさまざまな困難があったが)。

第2次ターリバーン支配下で、ターリバーンのアフガニスタン・イスラム首長国(IEA)が新たな関与方法を模索する過程で、CDCの大部分が格下げされたり、人員が削減されたり、主に名目だけのものになったり、機能しなくなったりしてきた。そして、本年5月23日には、ターリバーン最高指導部(アミール)によるCDC廃止命令が出されたのである。

レポートはその間の村落での実際の変化を調査し、つぎのような結論および将来への見通しを示している。

「未来がどうなるにせよ、歴史が何らかの指標となるならば、シューラはアフガニスタンの社会構造の不可欠な部分として、主要な地方の自己組織化および自治構造として再浮上するだろう。アミール(ターリバーン最高指導者)の禁止令の最初の衝撃が薄れれば、私たちは、村のシューラが、以前と同様に、新しい旗の下で、そしておそらく再定義された地平線で自分自身を再生させている姿を見るかもしれない。」

ロヤ・ジルガ、ジルガとシューラ

アフガニスタン村落のジルガやシューラを統合するものとしてロヤ・ジルガがある。ロヤ・ジルガは国全体の運営をつかさどる機関で必要に応じてカーブルに招集される。そこでは、歴史的に、新国王の選出や憲法の制定、その他重要な政治問題(イギリスなど外敵との戦争)などを合議するために招集されてきた。国家運営上の最高機関として重視され続けてきた古い伝統を持つ。

野口は1980年、西側諸国から激しいバッシングを受けて正常な取材活動が制限されていたアフガニスタンを訪問し、40日間、カーブル周辺とガズニ―の農業地帯を取材することができた。(このときの取材記録は『新生アフガニスタンへの旅 シルクロードの国の革命』として出版した。ネットの古書店で入手できるが、全文をネットで閲覧できる

訪れた1980年8月のアフガニスタンは、まだムジャヒディーンの武力抵抗はそれほど激しくなかった。首都カーブルではPDPA(アフガニスタン人民民主党)が目指す民族民主主義革命の方針のもと、首都や地方で革命を推進する現場組織が組織されつつあった。圧倒的に少数だが政府職員や軽工業や伝統的手工芸産業などの労働者も組織していた。メインの絨毯産業では生産者組合もできていた。農村でもおなじく、ガズニ―では羊毛皮革業者の組織も視察した。だが、農村地帯では激しい抵抗が始まっていた。
農村は城壁で囲まれている。(ガズニー周辺の農村地帯(野口撮影))

住民はこの城壁の中で銃で武装して生活している。シルクロードの時代、アフガニスタンホスピタリティーと称賛される民族性を持つ一方、周囲は敵だらけで村落は塀を巡らせ自衛武装していた。歴代政府もこの城壁の中に入り込むのは至難のわざで、部族長、宗教指導者、地主、水主、コマンダーら、ジルガ・シューラ指導者らに支持されなければ、村落の中で活動はできないのだ。アフガニスタンで現在も国勢調査を実行できないのは、各村落、住居が塀に囲まれた秘密の閉鎖空間だからだ。村落を拠点にした抵抗運動が激化するにつれ、村落への爆撃も激しくなり、村落の住民全体が部族長ら村落指導者ごと逃散(ちょうさん)する、という事態も起こった。PDPAは「耕す農民に土地を」とスローガンを呼号し、小作農民に土地を与える政策を取ろうとしたが、農民は土地だけもらっても、種や肥料はなく、農耕器具や農耕知識もなく、水さえない。族長や地主の言うことを聞かなければ生きていけなかった半奴隷状態にあったのである。

日本にいては実感できなかったアフガニスタンにおける革命の困難を短い取材期間だったが知ることができた。そして、同時に、「遅れた半封建部族社会」といわれていたアフガニスタンにアフガニスタン独特の「民主主義的」伝統があることも知った。それがジルガ(シューラ)だった。PDPAは「教条的な」革命組織作りがうまくいかないことに気づき、ジルガの伝統を国家運営に取り入れようとしたが、アメリカ、パキスタン、アラブ諸国など外国勢力は膨大な金と武器を反革命勢力に与えつづけ、PDPAの支配を転覆させようとした。武力抵抗が強まるにつれ、PDPAは社会改革どころではなくなってしまった。(アル=カーイダのビン・ラーディンもこの過程でパキスタンで育てられた。)

AANレポートでは2001年以降の米英NATO駐留下でジルガ・シューラと併存して導入されたCDC機構のその後が調査されている。(CDCプロジェクトには日本政府、JICAも参加した。つまり、日本の税金も投入された。

ジルガやシューラは部族社会における寄合(よりあい)の一種だともいえる。
日本は「村社会」と悪口を言われるが、それはアフガニスタンのパシュトゥーン・ワリ(パシュトゥーン族の掟)を遅れた因習としてしかみない一面性と共通の偏見ではないか。
日本の村落には「寄合と議定」とよばれる伝統があり「日本的民主主義」ともいうべき全員参加型の村会議、そこできめられる「村法」のようなものがあった。(下記<参考サイト>参照)。アフガニスタンのジルガ/シューラやパシュトゥーン・ワリもそれに似たところがある。ただ、アフガニスタンの場合、現在でも個々の村人が銃で武装しており、村会議の最中に決議をまたず相手を銃殺してしまう個人的相対決済がなされることさえあるという。日本でも刀狩りがなされる前、室町・戦国時代までの中世の村では村人が武装しており「自検断」という制度があった。アフガニスタンでも村民が警察権を行使して罪を犯した者を裁く権利が実在したという。アフガニスタン社会は、刀狩り以前の「村社会」の母斑を残していると言えるのかもしれない。

 <参考>村の寄合(よりあい)と議定
 https://www.manabi.pref.aichi.jp/contents/10003363/0/kouza/section2.html

 

共和国時代のシューラ創設活動

一方、共和国政府下でのシューラ(シューラー)創設活動を取材(2003年11月)した記録がある(鈴木均編著「ハンドブック 現代アフガニスタン」明石書店2005年6月刊)。AANが調査したシューラのいくつかは同書で紹介されているような活動によって創設されたものでもあっただろう。断片的な紹介になるが、同書でロヤ・ジルガとジルガ/シューラについて述べられた箇所を紹介する。

鈴木(著者):聞いたところによれば、この地域のジルガ、そしてロヤ・ジルガの制度は長い歴史を持っているそうですね。20世紀初めに新しい政府が樹立されたときにもアフガニスタンで最初の憲法のためにロヤ・ジルガが開催されましたが、その歴史はさらに長いものです。つまりあなたの考えでは、一つの国や政府を樹立するために何であれ、ジルガという制度があって、例えば上にロヤ・ジルガがあって、下に地域のジルガがある、というものでしょうか? それとも別の形なのでしょうか?

シャキーブ(現地活動家):いいえ、重用なのは地域のジルガとロヤ・ジルガが異なっていることです。ロヤ・ジルガは一度きり行われ、それに国民の代表者たちが投票し、自分たちの政府、自分たちの運命を自分たちで決定しなければなりません。政府が樹立されて大統領が選挙で選ばれれば、ロヤ・ジルガはその目的を終えます。しかし地域のジルガは継続的で恒常的なものです。これらはある環境の下にずっとなければならず、国連が彼ら自身の中から採用したシューラ―の係が彼らの相談役、あるいは彼らの内部全体の代表者として彼らの社会や環境を村(カルエ)として維持します。ロヤ・ジルガは地域のジルガが助けることはできますが、しかしそれの一部となることはできません。なぜならロヤ・ジルガは一度だけのものですが、ジルガは一度だけ集まって問題を解決するようなものではないからです。

鈴木:もしジルガを議会(shūrā)と翻訳するならば、比較として例えばイランであれば村(nūstā)議会があり地方(mahallī)議会、または地域(bakhsh)議会、郡(shahrestān)議会があり、都市(shahr)にも別に議会があります。それから州(ostān)全体にもこの制度では議会があると思います。そしてもちろん国の議会もあります。要するにいくつかの段階にそれがあるのです。アフガニスタンでもこのような制度を予測していますか? つまりあなた方はこのようなシステムをつくろうとしているのですか、それとも別な考え方をお持ちですか?

シャキーブ:いいえ、実際あなたのおっしゃったことは的を射ています。というのもジルガはパシュトー語であり、シューラーはペルシャ語、ダリー語です。それらは同じものです。また、ロヤ・ジルガはすなわち国民の大議会を指しています。その意味で、確かにジルガはジルガであり、シューラーはシューラーです。しかしそれらは上はロヤ・ジルガから下はカルエや地区のジルガ、地区議会へと段階に分かれています。あなたのおっしゃったことによればイランには地区や市や村の議会などがあるようです。しかしそれらはペルシャ語に翻訳することもでき、それらはそのような意味です。

AANのレポートでは、このような会話を通して設立された、アフガン村落における議会の設立とその役割が述べられている。注目すべきは、そこでの役員選出において女性が男性と同権に扱われ、投票においては女性用の投票箱が準備され男性とは別に投票できるようになっているとのこと。さらには、国連や諸外国から寄せられた支援物資の個々の村人への配給もシューラやCDCを通じて行われていた事実だ。

20年かけて変革されてきた村の自治が、いま、男性のみの、ターリバーン独自の解釈によるイスラム法の支配によって変えられようとしている。由々しき事態であると言わざるをえない。

【野口壽一】