2月3日(月)、イーグルアフガン明徳カレッジ(EAMC)の江藤セデカ校長が、千葉県佐倉市の佐倉国際交流基金が主催する「日本語講師向けセミナー」に呼ばれ、講演しました。聞きに来た人のほとんどは同基金が市内の各公民会で開いている日本語教室の先生たちでした。

佐倉市では市内に暮らす外国人向けに長く無料の日本語教室を開いています。

 

佐倉国際交流基金のホームページ(写真をクリックすればHPを閲覧できます)

そして昨年9月には女性専用の教室もオープンしました(ただし、生徒の出身国は問わず)。それもあって、全体で70名ほどのアフガン人が生徒登録し、そのうち6割強が女性とのことです。

日本には6000人を超えるアフガン人が暮らし、うち千葉県に約2300人、佐倉市と四街道市を合わせて1800人ほどがいます。つまり、この地で女性向けの日本語学校を開く意義は大きかったのです。でも、モスレムであるアフガン女性たちとの交流は難しそう・・・実際、先生たちにはいろんな悩みもあるようでした。

そこでアフガン女性専用の日本語学校としては先輩のEAMCからセデカ校長が招かれ、アフガン文化や彼女たちへの日本語教育のコツについて話した次第です。ウエッブ・アフガンでは、3回に分けて講演の内容を報告します。まずは第1回「セデカ校長はどんな人?」

 

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<連載第1回> セデカ校長はどんな人?

 

私はカーブル出身で、皆さんご存知のようにアフガニスタンでは女性は学校に行きませんでした。でも私はアフガニスタンで最初にできた女子校のひとつで学びました。カーブル大学に入学し、卒業した1981年からは商務省の仕事を始めました。

大学時代に日本人と知り合い、プロポーズを受けました。やがて日本に呼ばれ1983年3月に来日し結婚。アフガン女性として初めて日本人と結婚したわけで、それは革命的事件でした。実はアフガニスタンでは男性はいくらでも外国人の女性と結婚できるんですが、女性は許されません。

 

結婚した後、東京のアフガニスタン大使館から、日本人と結婚しているからアフガン国籍は捨てたということになる、日本政府と交渉せよと言われ、その日から無国籍になりました。日本語学校で日本語を学び、日本の国籍を申請し、1988年にやっと日本国籍をいただきました。

 

ところが翌年、夫が亡くなり、そのうえアフガニスタンでは内戦が激しくなりました。(注:1989年2月にソ連軍がアフガニスタンから撤退、以降長く群雄割拠の内戦状態となった)また帰国しても外国人と結婚した私はどういう扱いを受けるか分からないので、家族から「帰らない方がいい」と言われ、日本に留まりました。

とある児童館で、外国出身者で初めてアシスタントとして仕事を始めました。1990年には、ある外国の貿易会社からペルシャ語と日本語が分かる人に来てほしいと依頼があって、子どもを育てながらその会社に勤めることになりました。

 

会社に勤めながら、同じ年に東京地裁に認定された法廷通訳人としての仕事を始め、それから警察、検察庁、入管、メディア、弁護士会でも通訳として仕事を受けました。その当時は、日本で困っているイラン人がすごく多かったので(注:当時、入国条件が緩和されたことにより大量のイラン人が来日し、代々木公園を埋め尽くした写真は広く報道された)、私は通訳として外国人の役に立つことが自分の役割だと思って、会社を辞め通訳の仕事を選びました。1991年、自分で会社を設立し、通訳・翻訳の仕事を引き受けつつ、イラン、アフガニスタンに産業機械を輸出する事業にも乗り出しました。

 

翌年、アフガン人への支援活動を始めました。アフガン人は1991年頃から大勢が世界中に難民として逃れ、イラン、パキスタンにも大勢の家族ぐるみの越境者が増え、教育や生活面で困難を抱える人たちがいました。そこで、個人的に友達の日本人に声をかけたり、アフガニスタンの状況を伝えて物資を支援していただき、日本から必要な物資を送っていました。

私自身もパキスタン、イラン、インドへアフガニスタン難民の状況を見に行き、自分で直接、皆さんに物資を渡したりもしました。日本からパキスタンやイランに物資を送る時は、正式団体じゃないと現地の税関が受け入れてくれなかったので、団体を設立しました(注:それがのちの2003年NPOイーグル・アフガン復興協会の設立へと繋がった)

 

こうして、90年代、2000年代に、パキスタン、インドなどでアフガニスタン人の支援活動をしてきましたが、たくさんのアフガン女性から各所で相談をたくさん受けました。つまり物心両面で彼女たちの支援を行ってきました。

2001年からは(注:11月にターリバーン政権が米軍によって倒された)、直接アフガニスタンに向けての活動も始めました。学校に行けなかった女性たちへの教育支援をしました。生徒たちのノート、文房具、学校の機材、衣類も送りました。内戦によって壊れた学校のトイレとか窓ガラスなども、寄付によって直しました。

 

2008年から2017年には、私はNHK国際放送ラジオアナウンサーとしても働き(注:NHKはアフガン人向けにペルシャ語で東京からラジオニュースを伝えている)、本当に忙しくなりましたが、日本で頑張っているアフガン人にインタビューをして、それを母国の家族に聴かせることができる、そういう活動ができました。

 


   こんな活動もやりました。☝

そして2021年8月15日から、再びターリバーン政権が復活し、アフガニスタンの役所で働いた人は、迫害を恐れて国外に逃れました。その中で500人ぐらい、外務省、JICA、それと、日本のいろんな企業の関係者を日本に受け入れていただきました。

 

2021年以降来日した人たちは、日本のルールとか生活が色々わからなくて、支援が必要でした。しばらくは政府が皆さんの生活支援をしましたが、その後、皆さんの暮らしはやっぱり仕事もない。あと空っぽの家に引っ越しても家財道具もない。そういう困った生活をするアフガン人家族を、イーグル・アフガン復興協会の集めたお金で、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、布団、そういうものを買って、また友達や、いろんな人から頂いた食器とかを、皆さんに差し上げました。

 

新品は買えませんが、家族の代表の男性を5人とか6人、リサイクルショップや家庭用品店に引き連れていって、そこで皆さんが選んだものを買って、皆さんに届けるところまでやりました。その家族ですが、ご主人たちはなんとかアルバイトについてるんですけど、そうじゃない人もたくさんいるんです。やっぱり日本語わからないから、なかなか仕事につけない。

そして奥さんたちは、学校の連絡とか、病院に行く時とか、よく私に、本当に1日何回も電話をかけてきます。もう私一人では手が回らない。ボランティアの皆さんもいるんですけど、やっぱりお母さんが子供の教育について自分で直接先生と連絡したり、学校の問題を直接自分たちでお話しすることが大事だと思って、2023年、日本語学校を始めました。

2024年開校式でお話しする江藤セデカ校長(4月)

(つづく)