What Columbia’s Protests Reveal About America

 

(WAJ: 1960年代、全米ベトナム反戦運動をリードしたコロンビア大学の学生たちが、再び、ガザへのイスラエルの攻撃、アメリカのイスラエル支援に対する反対運動の先陣を切っている。学生の動きに慎重姿勢を維持していたForeign Policy が学生の動きに理解を示し論調を変更し始めた。

(WAJ: <映像・映画>コーナーの「イスラエル糾弾の先頭に立つ米コロンビア大学の学生たち」と併せてお読みください)

 

ハーワード・W・フレンチ(Howard W. French)
Foreign Policy 2024年4月26日

 

政治家の中には、学生のデモ参加者を脅威と呼ぶ者もいる。だがそれは違う。学生たちは私たち全員に民主主義の教育を施しているのだ。

ここ数日、私の睡眠は著しく妨げられている。夜明け前に私の住むマンハッタン、アッパー・ウエスト・サイドの空をヘリコプターが低空飛行してまわり、けたたましい爆音を立てているのだ。

その後は毎日、異常な取り締まりの対象となったコロンビア大学のキャンパスに行くのに数ブロック北の道を取ることにした。コロンビア大学は私が長年教鞭をとってきた大学で、最近、学生が激しい抗議運動を起こしていた。

コロンビア大学のキャンパスで抗議行動が展開されはじめ、全米の他のキャンパスでも同様の動きが広がっている。それにつれて、大学管理者、政治家、法執行機関がそれぞれ、学生のデモを抑制、阻止、糾弾、取り締まろうとして連鎖反応を起こした。暴力的に取り締まるケースも増えてきた。

この瞬間が私に最も明確に分からせたのは、一部の人々が主張するような学生文化や米国の高等教育の危機ではなく、むしろ米国の政治の危機で、その中心は国の外交政策つまり特段にはイスラエルとの緊密で長年にわたる関係の危機であった。

これから私の考えを進めるまえに、2、3の断りをしておかなければならない。つまり私がこれから述べる事柄は、ヘイトスピーチを擁護するものではない、ということである。アンチセミティズム(反ユダヤ主義)は、人種差別のあらゆる形態と同様、それがどのような風合いのものであれ、深く嫌悪すべきものである。私自身の大学では、かつて白人のプロテスタントを学問的競争から守るため、ユダヤ人の入学と採用を制限していた事実がある。

ここ数日、米国のキャンパスでユダヤ人学生やイスラエルを支持する人々に対する攻撃、嫌がらせ、侮辱が起きていることは間違いない。しかし、私が自分のキャンパスで経験した限りでは、そのようなことは特によくあることではない。

コロンビア大学の正門を出てすぐの地下鉄の駅から出てきたユダヤ人男性に向かって、ハマース支持を叫ぶ威嚇的なひと言の罵声が浴びせられる映像が、1週間くり返しFoxニュースで放映されていたのを見て、私の印象はさらに強まった。この罵声を浴びせた人物が学生であったかどうか明らかではない。さらに、私が通うキャンパスは連日テレビクルーが長時間のシフトを組んでいるので、もしこのような事件が頻発していたら、同じ映像を何度もリプレイせず、たくさんの別映像を見せられていることだろう。

私がキャンパス内で見たものは、ほとんどが模範的な礼節を絵に描いたようなものだった。この9日間、コロンビアで最も大きな図書館であるバトラー図書館の前の芝生の広場に、整然とした学生たちの野営地があり、そのほとんどはのんびりと談笑し、テントを張っている学生もいた。デモをしている学生たちは、立派な行動規範まで掲示している(そして圧倒的にその規範に従っているようだ)。その内容は以下の通りだ: ポイ捨てをしない、ドラッグやアルコールを使用しない、個人の境界線を尊重する、反デモ参加者と関わらない。このうちの最後の項目については、後で触れることにしよう。

これまで何度もそうしてきたのだが、最近バトラー図書館の新古典主義風の柱廊の表面に刻まれた、ヘロドトス、ソフォクレス、プラトン、アリストテレス、キケロ、バーギリウスなどの著名人の名前を改めて読んでみた。そして自問した。コロンビア大学の抗議活動やこれに追随した人々によってもたらされるという、西洋文明、米国の民主主義、さらには高等教育に対する脅威とは何なのか、と。

その答えは、糾弾に走る抗議学生たちへの恐れよりも、かれらの演説姿勢への恐怖により深く根ざしていると思われる。つまりその鍵は、今私が先ほどほのめかした彼らの行動規範の一節にあると思われる: 彼らは誓った、あらゆるデモ反対者はもちろん特に「シオニスト」とはかかわらないと。

ここで、もうひとつ断りがある。私は、多くのユダヤ人がシオニズム(訳注:19世紀にハンガリーのユダヤ人新聞記者が興した運動で、ユダヤ教の約束の地をパレスチナと決め、そこにイスラエルを復活させようとした)を支持することに何の問題も感じていない。彼らの由緒ある信仰は、世界で最も古いもののひとつであり、アイデンティティ、忍耐、生存競争を記録した人類最高の物語のひとつをなしている。その根は旧約聖書にある数々の脱出譚で、それをもとに古代のイスラエルと呼ばれる国は多くのユダヤ人の正当な祖国であるとその宗教は唱えている。そこへヨーロッパでホロコーストが起きた。ユダヤ人がかつてなき規模で殺害され迫害され、多くのユダヤ人が持つシオニズムへの執着が深まり信仰へと昇華した。ところが戦後になっても西側諸国では、ユダヤ人への社会的階級的差別が続いた。その差別によって、おなじことが近年も、ほとんど知られることなく起きているというのが私見である。

しかし、コロンビア大学から生まれた現在進行中のキャンパス運動は、一部の人々が言うような反ユダヤ主義から生じたものではない。10月7日、推定1200人のイスラエル人を殺害したハマースによるテロ攻撃をきっかけに、イスラエルがパレスチナ人に見舞った醜悪かつ無差別な暴力に対する深い衝撃から生まれたものだ。抗議する学生たちは、米国の敵である中国やロシアの危険でナイーブなネコの手先、あるいは最も野蛮なジョージ・ソロスの手先と蔑まれ、嘲笑されてきた。さらに悪いことに、彼らは米国の有力政治家を含む批評家たちから、反ユダヤ憎悪主義者だと誤解されている。

抗議運動の初期には、コロンビア大学のネマト・シャフィク学長が彼らの野営地を「明白で現存する危険」と語り、警察の行動を促した後、100人以上の学生が警察によって手錠をかけられ連行された。それ以来、他のキャンパスでは、この平和運動が広がるにつれ、学生たちは殴打され、催涙ガスを浴びせられた。インディアナ大学とオハイオ州立大学の学生らは、キャンパス内に狙撃兵が配置されているのを目撃したと主張したが、オハイオ州の広報担当者は、彼らは「フットボールの試合の日と同じように、監視位置にいる州警察官」だと述べた。サポート教員が警察に暴行を受けたり、地面に叩きつけられたり、手錠をかけられたり、連行されたりする場面が連日続いている。

アメリカ人は、イスラエルとパレスチナの話題を別の話題に置き換えて考える時が来ている。もしこのような学生抗議運動が他国でこれほど大規模に起こっていたら、アメリカはどう反応するだろうかと問うべき時だ。私がすぐに想像できるのは、国務省報道官による声高な非難や、権威主義的不寛容や民主主義の衰退に関する米国の主要マスコミの冷笑的な社説だ。

他にも差し迫った疑問がたくさんある。たとえば、ガザで私たちが見ている大規模な恐怖に対するあるべき市民の反応とはどんなものだろうか? 米国政府はイスラエルの現地での攻撃を完全には支持せぬものの、実質的には使用制限なしで大量の新兵器をイスラエルに供給してきたが、その件にはただ冷静に反応した。それにもかかわらず、米国の一部の政治家はデモ参加者を脅威として扱っている。またデモ参加者がデモに参加しない学生、一種のサイレントマジョリティーの教育を妨害していると警告する者もいるが、それはベトナム戦争に対する学生運動でおなじみのフレーズである。

これはまさに後退だ。平和的に抗議活動を行うことで、コロンビア大学やますます多くの他のキャンパスの学生たちは、米国社会そして実際には世界に、民主主義と市民権に関する教育を施しているのだ。私はこのことを、中国やその他の国々からの中学生たちを野営地の脇に連れ出して会話し、実感した。彼らはコロンビア大学の学生たちの抗議能力に驚嘆していた。残虐行為を目の当たりにしても学生たちは言葉を止めず、そしてほとんどの場合、平和的に語りかけている。彼らは、恐怖に立ち向かうには、議員に手紙を書くキャンペーンに励んだり、次の選挙の投票を辛抱強く待つよりも、緊急行動が必要だと主張している。

ガザが世界で唯一の恐怖というわけではない。私たち全員がこれらの学生たちの道徳的緊急行動と礼儀正しさをもっと活用できるはずだ。彼らは、コミュニティのまさに基盤を形成している教育機関に対して、学生として最も容易にできる範囲で訴えかけている。ガザでの暴力、そしてほとんど無視されつつあるヨルダン川西岸での暴力を止めるために米国政府に何らかの行動をとらせることができないとしても、少なくとも大学に暴力への支援をやめさせることはできる。これがダイベストメント(投資引き上げ)要求の意味するところである。イスラエルの戦争努力へ投資して組織的に支援することの拒絶である。和平が実現するまで。多くの批評家は、これは非現実的であり、決して機能しないと反対している。しかし、国民の適切な対応とは何だろうか? 諦めて手をこまねいて座っているだけだろうか?

シオニズムへの疑問はもう終わりにしたい。何十年にもわたって、米国および世界の多くの世論は、この概念、つまりユダヤ人の民族的・宗教的故郷としてイスラエルが存在する特別な権利という概念を支持してきた。個人的には、高校時代のユダヤ人の友人たちが、数十年前のより罪のない時代にキブツやその他の立場でイスラエルの建設を支援するために熱心に出かけているのを見て、彼らに対して感じた興奮を思い出す。(訳注:訳者としてもいたく同感)。しかし、今日の世界でシオニズムを脅かしているのは、米国のキャンパスでデモを行う学生たちではない。ではシオニズムに対する最大の脅威は、あの忌まわしい攻撃をイスラエルに向けたハマースからもたらされるのか? いやそれも違う。私が言いたいのは、最大の脅威は、境界線が全く見えなくなることで首をもたげる。それは、シオニズムがイコール、パレスチナ人の命および未来の希望の圧殺を意味する時だ。デモに参加している学生たちがこのメッセージを送っている限り、彼らはイスラエルの友人だ。

ハワード・W・フレンチはフォーリン・ポリシー誌のコラムニスト、コロンビア大学ジャーナリズム大学院の教授、長年の海外特派員。彼の最新の著書は『Born in Blackness: Africa, Africans and the Making of the Modern World, 1471 to the Second World War』。 Twitter: @hofrench

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