No, College Curriculums Aren’t Too Focused on Decolonization

Critics of campus demonstrations are aiming at the wrong target. We need to study more history, not less.

しかり、大学のカリキュラムは脱植民地化にもっと焦点を
キャンパスデモを批判する人々は、ターゲットを間違っている。もっともっと歴史を勉強すべきだ。

 

 

(WAJ: 本サイトでは、パレスチナ問題が宗教問題や歴史問題や人種差別問題ではなく、パレスチナという他人の土地にあらゆる口実を設けてなされる侵略=入植者植民地主義が引き起こしてきた問題である、と主張してきた。宗教問題や歴史問題や人種差別問題は侵略=植民の本質を覆い隠すベールでしかない。ガザへのジェノサイド、米国のイスラエルへの軍事・経済支援に抗議する学生の行動には、大学における偏向した教育への批判がある。日本はこのようなアメリカでの自国の政策のみならず教育への厳しい批判がなされていることにもっともっと注目すべきだ。)

 

ハワード・W・フレンチ、 Foreign Policy誌 コラムニスト
2024年5月2日

1955年4月18日、インドネシアのスカルノ大統領は、これまでに会集したことのない面々を前に壇上に上り演説した。 「われわれの時代は恐ろしいほどダイナミックだ。われわれは、アフリカとアジアのすべての精神的、すべての道徳的、すべての政治的力を、平和のために動員することができるのだ。そうだ、われわれだ。われわれなのだ! われわれ、アジアとアフリカの人民なのだ!」

その日、インドネシアの地方都市に29か国からやってきた参加者は、きわめて多様な背景に彩られていた、言語、宗教、信念、政治は彼らが身につけた民族衣装と同じくらい多彩だった。参加者全員が共有していたのは、スカルノのいう「どのような形であれ植民地主義への共通の嫌悪」であり、参加者の出身国人口を合わせると世界人口の半分以上を占めていた。

スカルノは代表たちに「どうすれば植民地主義に無関心でいられるのか?」と反語を投げかけた。彼の沈思には十分な理由があった。インドネシアの唯一の英字新聞であるオブザーバー紙のその日の第1面の見出しには、「米国はアジア・アフリカ会議へのメッセージ送付を拒否した」とあからさまに述べられていたのだ。

<参考サイト> スカルノの開会演説
https://www.cvce.eu/en/obj/opening_address_given_by_sukarno_bandung_18_april_1955-en-88d3f71c-c9f9-415a-b397-b27b8581a4f5.html

 

後にバンドン会議として知られるこの会議を前にしたインタビューで、当時のジョン・フォスター・ダレス米国務長官は、ワシントンはバンドンに誰かを派遣するつもりはない。そんなことをしてこのイベントを権威づけるつもりはない、ときっぱりと述べた。さらに悪いことに、ダレス長官の側近らはプライベートでこの集会に対し人種差別的な軽蔑の念を表明した。このイベントを「ダークタウン・ストラッターズ・ボール(黒人街の見栄っ張りの舞踏会)」と嘲笑したと伝えられている。(訳注:“the Darktown Strutter’s Ball.”は 1917年に発表されたシェルトン・ブルックスの人気ジャズスタンダードタイトル。これに引っ掛けて「汚い街(黒人街)などでもったいぶって踊る連中」のような意味合いを持たせたと思われる。)

すぐにバンドンは、帝国支配から解放された数多くの国々がゆるやかに結集する非同盟運動の画期的な創設地として広く知られるようになった。インドネシアに集まった代表たちは、新興国家の権利を擁護し、多大な犠牲と危険を伴う冷戦の争いの中でどちらかを選ぶようにという、当時の2つの超大国からの圧力に抵抗することを誓った。彼らはまた、とりわけ、すべての人種の平等の尊重、小国の主権、平和的手段による国際紛争の解決を要求した。

このバンドン時代のことが過去4年間ほぼずっと私の脳裏を占めていた。アフリカ大陸における独立の到来に関する本の完成が近づいていたからだ。ところが今それが、まったく違った意味合いで私の考えの最前線に躍り出た。ここに来て、米国の複数の大学で(発端は私自身がいるコロンビア大学だったが)運動が立ち上がり心を奪われた。学生たちはガザでの戦争の終結とパレスチナ人のための新しく自由な政治秩序を求めたのだ。

<参考記事> フレンチの著作への書評
https://www.theguardian.com/books/2021/oct/26/born-in-blackness-howard-w-french-review-africa-africans-and-the-making-of-the-modern-world

 

この数カ月間、大学キャンパスでのこのような運動の誕生は、脱植民地化(decolonization)のテーマを軽んじる社説や論評を次々と生み出してきた。いわく、イスラエルとパレスチナの悲劇的な憎悪関係とこれは別物だと。そしておそらく最も驚くべきことだが、私の大学のような米国の大学でデモや騒動が起きているのは、大学のカリキュラムにおける反植民地主義(anti-colonialism)への過度な重視にこそその原因があると非難している。

脱植民地化というトピックに対するこの見栄っ張りな軽蔑は、たいがい政治的に引き出されたもので、怪しげな忠誠心から来ている。また、一見より知的な非難の流れもある。しかし、どちらもとんでもない見当違いである。米国では、知る限りの記憶に残る最も重要な偉業は「偉大なる世代」が成し遂げたと長い間、公衆を信じ込ませてきた。ハリウッドや大衆受けする歴史家がそれを煽った。偉大なる世代とは西洋人を指す。その代表たる白人が第二次世界大戦でナチス・ドイツおよび日本の全体主義を打ち破ったとされているが、それは実際の記録に反する不当な評価だ。

Dデイや、ジョージ・パットン米陸軍大将やバーナード・ロー・モンゴメリー英陸軍大将といった人物を強調することで、この紛争に関する一般的な描写は、ドイツのアドルフ・ヒトラーを打ち負かした米英の貢献を誇張した印象を助長している。この紛争が起きた当時から、真面目な学者たちは、ナチス・ドイツとの戦いの矢面に立ったのはそれ自体が全体主義国家のソビエト連邦であったことを知っていた。

ここで言いたいのは、あの戦争で戦った欧米人の勇気や犠牲を否定することではないし、特にナチスを倒すことの必然性に疑義を挟むことでもない。むしろ訴えたいのは、欧米人がいかにして自分たちの歴史を讃えることで、20世紀のもうひとつの自由の物語を示す絵を不当に曇らせ、体を張って排除してきたかである。欧米の大衆には衝撃的に映るかもしれないが、この物語は少なくとも第二次世界大戦における連合国の勝利と同じくらい重要であったし、異論もあろうがそれよりも偉大だった。

このもうひとつの自由の物語は、今日では完全に軽蔑されているわけではないものの、ひどく軽視されており、デューク大学の著名な歴史家プラセンジット・ドゥアラの言葉を借りれば、「帝国主義に対する道徳的正義と政治的団結の運動」の勝利であり、これには脱植民地化(decolonization)という見出しがふさわしい。

1945年から1965年にかけて、この運動によって50以上の国々が、場合によっては5世紀にも遡るヨーロッパの支配から脱却した。彼らは力を合わせ、新たな国旗と国歌のもとで正式な独立を達成しただけでなく、国際政治の民主化にも貢献した。国連総会はおもむきを変え、おおかたが何かというと特権を振りかざす安全保障理事国の帝国主義的権力を少なくとも部分的に牽制するものとなった。

こうした願望は国連にとどまらず、当時計画されていた新しい世界金融制度にも及んだ。1944年のブレトンウッズ会議には、後に第三世界として一般に知られるようになる国々から代表団が派遣された。この会議が新しい世界経済システムの基礎となり、世界銀行と国際通貨基金の設立に繋がった。英国の著名な経済学者ジョン・メイナード・ケインズは代表団の一員だったが、この歴史的なニューハンプシャーの会合に非西洋人が参加したことを嘆き、それは「この何年もの間で最も汚らわしい猿どもの会議場となった」と不満を述べた。

しかし、よりにもよってアメリカが、世界的な脱植民地化の物語を受け入れる、いや、むしろ祝福する姿勢をほとんど見出せないのはなぜだろう? 最近の論客の多くが、脱植民地化をほとんど禁句のように扱っているのはなぜだろう? そもそも、米国自身の国家としての成り立ちは植民地支配からの脱却だった。例のバンドン会議の演説でスカルノは言及した、「たかだか180年前の1775年、同じ4月18日のことでした。ポール・リビアは真夜中にニューイングランドの田園地帯を駆け抜け、イギリス軍の接近を警告し、アメリカ独立戦争の開戦を宣言しました。それは歴史上初めて成功した反植民地戦争だったのです。」(訳注:ポール・リビア:アメリカ独立戦争時の愛国者。レキシントン・コンコードの戦いにおける伝令の役割を担ったことで、リビアはその死後も不朽の名声を与えられ、リビアの名前と「真夜中の騎行」という言葉は愛国者の象徴としてアメリカ合衆国中に知れ渡っている。)

いまや非同盟世界となった植民地の過去の本当の記録を開衿して読めば、私たちは何を学ぶことができるだろうか。私たちは、イギリスとフランスを中心とするヨーロッパ諸国が、20世紀におけるヨーロッパの自由という大義のために、アジアやアフリカの植民地臣民を労働に従事させ、戦わせ、そして大量に死なせたことを知るだろう。ヨーロッパの旧大国が、第二次世界大戦の荒廃から復興せんとして、アジアやアフリカの鉱山労働者や農民の背中に一方的にすがりついたことを知るだろう。ヨーロッパの国庫は、彼らが輸出する錫、マンガン、ココア、ゴム、その他多くの商品によって満たされたのだ。

私たちは、戦後においても、一部のヨーロッパ諸国が、アフリカ人に対する強制労働の体制を一時的に維持していたことを知るだろう。ケニアでは1950年代、ごく少数のイギリス人入植者が大規模な暴力を振るい、原住民を厳しい警察管理の収容所に閉じ込め、この国で最も豊かな農地を支配していた。1930年代には、空爆と毒マスタードガスによってエチオピアの人口の8分の1を殺害した。何世紀にもわたる植民地支配を終えてもなお飽き足らないポルトガルが、1970年代まで現在のアンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウの植民地支配を維持しようと戦い、その過程でアパルトヘイトを支配する南アフリカと同盟を結んだことも知るだろう。

ヨーロッパ人が支配していたアフリカの植民地において、教育、医療、基本的なインフラへの投資がいかに少なかったかを理解し、今日のアフリカ大陸が相対的に貧困で不安定な理由が少しはミステリーでなくなるだろう。

1884年から1885年のベルリン会議(訳注:列強のコンゴ植民地化をめぐる対立の収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された)で、ヨーロッパがアフリカとその富に対する取り分を正当化したことを我々は知るだろう。その見返りは自分勝手な「白人の責務」の履行だけだった。家庭教師気取りの列国は、大陸に教育をもたらすことを約束した。しかし、20世紀初頭の数十年間、例えばゴールドコースト(現在のガーナ)など英国統治下の地域では、小学校に通う子どもの割合はほんのわずかだった。その上、植民地政府は高等学校を一校たりとも開こうとしなかった。その後1960年、ベルギーから独立し新しい国家として登場するに及んで、コンゴ民主共和国の総人口1500万のうち、大卒者はわずか30人だった。そのためブリュッセルはコンゴの分離独立運動をほぼ即座に支援し、コンゴの恐ろしいほど豊富な鉱物の貯蔵庫を支配できたのだ。

西洋の学校教育、特に高等教育がこのような主題に重点を置きすぎているというのは本当なのだろうか? これはほんのわずかな例にすぎない――私は、インドにおける壊滅的な植民地時代の飢餓や、植民地時代のナミビアでドイツ人がおこなった虐殺行為、あるいは19世紀と20世紀のヨーロッパ列強による中国分割と、英国によるそこでのアヘン中毒の促進については何も述べていない。米国の多くの人は、自国も中国へのアヘン密売に加担しており、それがアスター、ルーズベルト、フォーブスなどの名家の初期の富の源だったことを知れば驚くだろう。(訳注:満州国の裏面史として日本も中国でのアヘン販売で大儲けをした。)

あるいは、むしろ私たちのほとんどが、この植民地支配の過去や世界中で帝国支配が克服された裏に自由の壮大な物語があることを、ろくにまたは全く習っていないというのが真相なのか? 過去4分の3世紀に独立を果たした数多くの国々の政治的背景は、もちろん複雑だが、西洋のそれも似たようなものだということを私たちは同じく学ばねばならない。

反植民地学習に対する不安から来る批判の多くは、イスラエルを醜く悲劇的な歴史に巻き込まないようにしたいという願望に突き動かされているのだと信じる。その願いは理解できるが、現在の問題は最終的には議論よりも事実によって解決されるだろう。イスラエルはかつて誇りをもって反植民地主義を掲げ、1950年代から60年代にかけてアフリカの新生国家と強固な関係を築き、国家建設の教訓や技術を共有するために奔走した。このことも、今ではほとんど知られていない。イスラエルが将来、植民地問題の正しい側に立つための最善の保証は、何百万人ものパレスチナ人に対する支配を終わらせ、新たな独立国家の誕生を手助けすることにかかっている。

2024年5月3日更新: この記事は、アヘン取引で利益を得た米国の名家の例を追加するために更新された。(訳注:日本においても満州国経営に携わった多くの人物がアヘン取引にかかわった事実が解明されている。追及を逃れて戦後首相となった人物だけでも岸信介、大平正芳らがいる。佐野真一『阿片王 満州の夜と霧』新潮社、『満州 アヘンでできた”理想郷”』朝日新聞デジタル X 満州アヘンスクワッド https://www.asahi.com/special/manchukuo-opium/

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