2023年7月27日
ジャーナリスト/姫田小夏
終戦から10年以上が経過したとはいえ、昭和30年代初頭の日本の一般市民はまだまだ貧しさから抜け切れていなかったと想像します。そんな時代に、アフガニスタンに単身赴任する一人の日本人がいました。私の祖父方の親戚に当たる人物です。遠い親戚の故人を、ここではI氏と呼ばせてもらうことにします。I氏が祖父に宛てた手紙からは、当時のアフガニスタンでの赴任生活や赴任前にいた中国での往来の様子など、その片鱗を読み取ることができます。
まずはその手紙を原文に忠実に起こしてみました。
「御元気でおすごしでせうか。日本出発以来すっかり御ぶさたしています。私も大過なくカブールで丁度一年すごしました。この中世紀的な中央アジアの町(人口は十五万位といいます)に開館のため着任しましたのは一年前の十二月二十八日でした。ヒンズークシの連山はすでに雪をいただいて一際きびしく見えましたし、私はニュー・デリーから乗ったDC3型の飛行機の中で、『失われた地平線』に出てくるシャングリラの国とはこんな国ではないかと思いました。夏の間は雲もない晴天が続き、雨も半年位は降っていませんが、この頃になって白雲が去来することがあり、そろそろ雨期になりました(雨というより雪がふるわけです)昨冬の雪の降ったある朝、町を歩いて思い出したことは満州の興安嶺の麓にある札蘭屯という避暑地の冬でした。一寸似たところがあります。また夏のカブールは張家口にも似ていると思います。
気候はインド、パキスタンに比べてしのぎやすいのが、何よりです。
しかし乾燥の度はカブールの方がひどいようです。
工業はないといってよく、カーペット製造位でせう。羊の群れと共に避暑に応じて山野を移動する遊牧民が多く、この頃はカブールの近郊でもそのような群をよく見かけます。テントを積んだラクダ、鶏を一羽背中にとまらしたロバ、羊の大群といった風景です。
一雪ふると飛行場(舗装がしていないので)使用できなくなり、外界との連絡が切れて、何となく心細い気がしてきます。
昨年はカラチ=カブール間のKLMは冬季間止まっていましたが、今年の冬は何とか飛ばすと言っています。いろいろと書きたいことも沢山ありますが、またの機会にゆずります。この一年間の御無沙汰をおわびし、あわせてこのような刷りもので失礼ではありますが近況を御知らせ致します。
どうかよい新年をおむかへ下さい。
昭和三十一年十二月十四日
カブールにて
(以下、「刷りもの(複写式の紙)」の欄外に書かれた走り書きより)
今では僅かなことでも心の落付きを失った昔のことが思い出されて、これから先には今の様な苦しい気持ちも小さなことになるかもしれないと希望して毎日すごしています。ロシアの諺に『何も私が初めてではなく最後でもない』(そんなことは世の中にたくさんある)という言葉をよく思い出します。」
I氏は外交官として1955年にアフガニスタンの首都カブールに日本国大使館を開館するために赴任しました。この手紙は赴任から1年経った12月14日に書かれたものです。12月29日に東京に到着しているので、アフガニスタンの日本国大使館から出された封書は2週間ほどで到着したことがわかります。
I氏のご子息からは、「当時、アフガニスタンはソ連の中央アジアと国境を接しており、父の赴任当時は親ソ連政権が成立していた」、「昭和31年10月19日の日ソ国交回復までにソ連に赴任できなかったロシア担当の外務省職員が、ソ連に近かったアフガニスタンに赴任することになったようだ」といった情報を得ることができました。
興味深いのは、I氏はロシア語を中国黒竜江省の「ハルビン学院」で身につけたということです。ウィキペディアによれば「ハルビン学院」は1920年に日露協会が設立し、設立当初は外務省所管の旧制専門学校でしたが、1940年以後は満州国所管の国立大学となったといいます。I氏はここに国費留学生として派遣され、ロシア語を学んでいましたが終戦で廃校となり、日本に帰国しました。
ハルビン学院からはロシア語学者や翻訳者、外交官が輩出されました。外交官の杉原千畝氏もここの卒業生です。ハルビンは革命を逃れたロシア人が住んでおり、杉原千畝氏はこの土地でロシア人女性と結婚したといいます。ハルビンは当時、ロシア語、満州語、日本語が入り乱れる一大都市でした。
さて、冒頭にも触れましたが、昭和30年代のアフガニスタンは、物心両面において過酷な赴任生活だったと推察します。2000年代の中国上海赴任でさえも、駐在員に「僻地手当」をつけていた企業もありましたが、2000年代の上海が「僻地」だとしたら昭和30年代のアフガニスタンへの赴任をどう表現したらいいものでしょうか。
手紙の中に出てくる「外界との連絡が切れて、何となく心細い気がしてきます」というくだりからは、救いの手も及ばない閉ざされた世界を想像することができます。大使館から出す文書は「複写式」だったのでしょう、その“オフィシャルな文章”とは別に、手紙の余白に加えられた走り書きからは言葉にできない苦渋が滲みます。「心の落付きを失った」という表現もまた、不安と背中合わせの日々を送っていることがわかります。
また、「気候はインド、パキスタンに比べて・・・」とありますが、I氏は赴任中に発症した気胸のためにインドを訪れていたといいます。国境を越えなければ受けることができない治療もあったわけです。
I氏は「夏のカブールは張家口にも似ている」と記しています。昭和13年、日本は中国に興亜院という国家機関を作りました。占領地の行政を推進するため、東京に本部を置き、北京、上海、張家口、厦門の4カ所に連絡部を設けました。こうした土地にもI氏は訪れていたのです。
大蔵官僚だった大平正芳元首相は「私の履歴書」(日本経済新聞社・1978年)の中で「張家口という街は、木の全くないいわば『土の街』である。夏は涼しいが、冬はとくに寒いわけでもない。時折、サソリが出没する。それでも、ウランバートルと北京を結ぶ通商上の要衝で、政治や軍事の中心でもあった」と記しています。大平氏は興亜院で大陸経営にかかわり、1939-1940年に張家口に勤務していました。
I氏は日本に無事帰国しましたが、カブールでの苦労がたたったのが、精神的安定を欠き、しばらく東京の祖父のもとで養生していたと聞きます。
一方で、2年前の2021年8月15日、タリバンはアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言しました。在アフガニスタン日本国大使館も同日から一時閉鎖の状態に置かれ、現在に至っています。
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(WAJ: 姫田小夏さんは、
アジア・ビズ・フォーラム主宰。上海財経大学公共経済管理学院・公共経営修士(MPA)。およそ15年滞在した上海で情報誌創刊、“市井の息遣い”から時代の変遷をウォッチ。「中国取材はデッサンと同じ。あらゆる角度から取材して光と影で実像をつかむ」を持論に30年近く中国に向き合う。近年は中国からの人や資本の流入をフォロー。ダイヤモンド・オンライン「ChinaReport」は10年を超える長寿コラム。
著書に『中国で勝てる中小企業の人材戦略』(テン・ブックス)、『インバウンドの罠』(時事出版)『バングラデシュ成長企業』(共著、カナリアコミュニケーションズ)、『ポストコロナと中国の世界観』(集広舎)ほか。内外情勢調査会、関西経営管理協会登録講師。宅地建物取引士。3匹の猫の里親。)
【DIAMOND online より】