(2024年7月25日)

 沖縄を生きる勝ちゃん 

~戦後の歴史を心身に刻んで~

 

艦砲射撃の食い残し

沖縄戦の端緒を切った全艦一斉の艦砲射撃。いつまでも降り続く爆弾と劫火の海。逃げ惑う島民。全島民の1/4が殺された。
戦後うまれの沖縄民謡「艦砲ぬ喰ぇー残さー(かんぽうぬくぇーぬくさー)」、生き延びた島民は「艦砲射撃の食い残し」だという歌だ。沖縄では、中高年の年代層でこの唄を知らない者はおそらくいない、戦後沖縄民謡を代表する曲だ。

勝ちゃんは、自身を描いた映画「勝ちゃん 沖縄の戦後」の東京試写会で、上映後三線(さんしん)を弾きながら歌ってくれた。ウチナンチュー(沖縄人)の三線の音に乗ってなんどもなんども迫ってくるサビをかぶりつきで聴いた衝撃。初めての体験だった。

「艦砲射撃から かろうじて生き残った あなたもわたしも おまえも俺も 艦砲の喰い残し」のサビの繰り返しが胸に刺さる。勝ちゃんそのひとが、「艦砲の喰い残し」たる壮絶な人生を送ってきたひとだった。そのことを映画で知ったばかりだったから。

 

映画『勝ちゃん 沖縄の戦後』

勝ちゃんこと山城義勝さんは、沖縄本島北部、国頭村(くにがみそん)の漁師です。「一人追込み漁」を編み出し、数百キロのグルクン(タカサゴ)の群れをたった一人で捕る、世界でただ一人の人です。

勝ちゃんは1944年10月4日生まれ。生まれて6日後が、沖縄戦の最初の大規模空襲、10・10空襲でした。逃げ込んだガマ(洞穴)で日本兵に「子供を黙らせろ(殺せ)」と言われた勝ちゃんの両親は、勝ちゃんを抱いてガマを出て米軍の捕虜となり、生き延びました。艦砲射撃の食い残しになったのです。しかし体には射撃で受けた傷跡がいまでも残っています。両ももを指さして見せてくれました。中学生の時には米軍機墜落事件に巻き込まれますが危うく命拾いします。勝ちゃんはその後、やくざの親分となり刑務所に収監され、そこでも鎌で背中を刺されたりしました。受けた傷を含め、体中の傷跡を惜しげもなく見せてくれます。水中からあがるときの減圧でお腹が破裂して腸が飛び出し病院に担ぎ込まれたときの様子もスクリーンに映し出されます。

戦後、焼け野原となった沖縄で、勝ちゃんはじめ沖縄の人びとは自らの力で生き延びるしかありませんでした。陸のものは全て焼かれ、土地も畑も、米軍に取られ基地にされてしまいました。陸でさまざまな生きる努力をした後に、勝ちゃんが見つけた生きるための宝が海でした。漁師、勝ちゃんの原点です。

海に潜る前も、勝ちゃんの人生は苦闘と苦渋の連続でした。米兵相手のタクシー運転手、米軍基地の物資を盗み出す「戦果アギヤー」、コザ暴動では現地で車を燃やしました。勝ちゃんの半生は、沖縄の庶民の戦後そのものです。

 

ウチナンチューとヤマトンチュー

 

三線片手にときおり体の傷を見せながら語る勝ちゃん

スクリーンの勝ちゃんも目の前の勝ちゃんも淡々とたまには冗談を交えて自身と沖縄の苦悶の歴史と現実を語ります。沖縄の人たちは自分たちをウチナンチューと呼びます。それ以外の日本人はヤマトンチューです。ヤマトンチューは戦後の苦難のほとんどを沖縄に押し付け、敗戦の現実を日常生活で感じることなく、高度成長と経済的繁栄に酔いしれました。勝ちゃんはそんなヤマトンチューを糾弾するような言葉を一言も吐きません。しかし、じっとその優しい、達観した笑顔をまえに語りを聴いていると、ヤマトンチューのひとりとしての罪の意識を感じざるをえませんでした。

作品は、勝ちゃんの人生と重ね合わせて、戦後の沖縄を描きます。そして、どんな時代も勝ちゃんの人生を支えてきたのは、沖縄の海でした。優れた漁師の本気の世界。「海」そのものでした。勝ちゃんの壮絶な生き方の最後の舞台となった沖縄の海の美しさを伝えてくれるのも、この映画の最大の魅力のひとつではないでしょうか。

 

上映後の勝ちゃんの語り

勝ちゃんこと山城義勝さんは、潜水漁の達人であるだけでなく、米軍物資盗みの達人、タクシー運転の名人、やくざの親分、三線のシンガーソングライターであり、琉球空手の使い手でもあります。とくに空手は、ヌンチャク以外の武器をつかわず、中国や日本やアメリカの支配に抗して、自分たちを守り抜いてきた琉球人の生きるための武器でした。
勝ちゃんの琉球空手の「演武」も映画で描かれる一シーンです。語りの時間になって、会場の女性から「空手がよかったよ~、セクシー!」と進次郎張り合いの手が入ると、スポーツになってしまった琉球空手は「おどり」だ、あれじゃ人は倒せない、と勝ちゃんは実演を始めました。
なんと相手に指名されたのが、かぶりつき席にいた『ウエッブ・アフガン』編集主幹の金子明。大男の米兵相手に戦うときは「こう肘を入れて倒す」、「足はけりを入れて膝を折る」と演技の相手にされてしまいました。

金子編集主幹に禁じ手・肘撃ちをきめる勝ちゃん

勝ちゃんが生きるために自分の持てるすべての能力を発揮して全力で生きてきたのがわかります。これが沖縄だったのでしょう。

この作品は10月12日(土)より東京東中野のポレポレ坐でロードショーが始まります。その後、日本全国巡回上映が始まります。必見の作品です。

 

アフガニスタンで黄金の秘宝を撮影

沖縄のひとびとは沖縄の「先住民」です。どこにも逃げられず沖縄にへばりついて生きてきました。この映画を作った「森の映画社」は沖縄にこだわり続け、いまはその視野を北米にまで広げ、サケ漁に生きる先住民たちの生きざまと地球環境の問題に切り込む作品作りを行っています。アイヌは北海道の先住民でしたし、いまロマンを持って語られている縄文人も、アイヌや弥生人や渡来人に滅ぼされた、ないしは飲み込まれた日本列島の先住民だったのかもしれません。
森の映画社はそのような先住民をテーマのひとつにしつづけている映画社です。

映画『勝ちゃん』は二人の監督、影山あさ子さんと藤本幸久さんによる共同編集です。影山さんは森の映画社の社長で藤本さんは監督兼プロデューサーの位置づけです。
実は野口は、藤本さんとは36年前にアフガニスタンと日本の合作記録映画『よみがえれ カレーズ』をつくった時からの知り合いです。彼は土本典昭さんが監督をしたこの映画の助監督でした。野口は原案者兼製作スタッフとしてアフガニスタンや東京で一緒に仕事をしました。藤本監督は、日本で屈指のドキュメンタリー映画監督である土本さんの弟子として映画製作理論を実践的に学び、『勝ちゃん』の映画制作でも土本監督の技法と思想を立派に引き継いでいます。

アフガニスタンの大統領官邸地下の保存庫にあったシバルガンの秘宝、撮影シーン
写真左上のスタッフ3人ののうち一番右が藤本助監督(当時)


この撮影時のより詳しい情報はここをクリック

「実は」のついでに言わせていただくと、野口は1969年4月28日の沖縄返還闘争(いわゆるヨンニッパー)で逮捕・起訴され、その後8年間東京地裁で裁判闘争を闘い懲役1年執行猶予1年を「いただき」ました。そのためよけい、藤本監督らの沖縄へのこだわりと継続した映画活動に共感と羨望を覚えるのです。

藤本監督が沖縄にこだわり、現場にへばりついて最新作『琉球弧』まで首尾一貫して沖縄のドキュメンタリー映画を造り続けてきた姿勢は、土本監督が水俣にこだわり水俣を撮影し続けてきた精神を引き継ぐものです。そしてついに、日本を代表するドキュメンタリー作品のひとつに数えられるであろうこの作品を世に出しました。(『琉球弧』に込めた想い ➡ ここをクリック。(作品は完成しています))

影山あさ子監督はアラスカでの取材および撮影から帰ったばかり。これから編集にかかるそうです。(より詳しい情報は ➡ ここをクリック

アフガニスタンもある意味、先住民の苦闘の歴史を背負ってきたといえます。数千年間、ユーラシア大陸の中心、シルクロードの十字路という地政学的な重要地点で、東西南北から攻められた、グレート・ゲームの舞台で生きていた人びとの営為ではなかったでしょうか。

『ウエッブ・アフガン』は、森の映画社のその一部を、私たちの仕事としてかかわり続けていくつもりです。皆様もぞうどよろしく、暖かい目で支援の手を差し伸べてくださるよう、お願いいたします。

野口壽一