(2024年12月5日)

 伝統社会と都市社会 

~アフガニスタン映画「狼と羊」を観て~

 

冬と聞けばどんよりと曇った重い空を思い浮かべる。
暗く重く冷たく頭上を覆う灰色の天井。
ところがここのところ東京や千葉では雲ひとつない、ぬけるようなまっ青な空が広がる。
小春日和、師走の7日。それにしてもスッキリした透明感のある清純な青だ。
多磨、調布飛行場武蔵野の森公園に隣接する、東京外国語大学のアゴラ・グローバルプロメテウス・ホールで、この映画を観た。

 

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「狼と羊」はアフガニスタンの若き女性監督シャフルバヌ・サダトの長編第1作である。彼女のこの映画の続編「カーブルの孤児院」は、ターリバーンがカーブルを再占拠した年のその4か月後、渋谷で観て感想を書いた

対照的なこのふたつの映画は、アフガニスタンが抱える、伝統社会と都市社会の現代の矛盾に真正面から向き合う映画である。今回は、サダト監督の映画を、いま、日本人のわれわれが観る意味を考えてみたい。

 

「狼と羊」の世界

まず映し出される映像は土気色の大地とホコリをかぶった、決して鮮やかとは言えないかすれた青の空。山から砂埃を巻き上げながら駆け降りてくる羊の群れと牧童たち。牧童の中には主人公の女の子もいる。

本来、夏のアフガニスタンの空の色は、日本のそれと異なり、深く激しい濃紺のコバルト色である。それに引き換え、映画は、山岳地帯の緑少なく、住む家でさえ泥を固めて作った土色一色だ。家の土壁に牛糞をたたきつけて作った燃料で外のかまどで食事をつくる。

伝統的な山村共同体の生活が主人公の女の子や男の子たちの視点から描かれる。村の生活は羊や牛の酪農ややせこけた土地での農業である。おそらく何百年、何千年とさして変わらぬ伝統的な暮らしなのではなかろうか。

冒頭、羊を作法に従って殺して血抜きするシーン。村の経済が羊やヤギや牛の飼育で成り立つことが映し出される。女性たちは家事・育児に忙しく子供を産む。男の子を産むのが仕事で女しか産めない女は疎まれる。しかし、産めない女は、嫁に出せばお金がはいると居直る。男の子らは投石機で女の子らは手遊びやおしゃべりで遊び、男女ともに同じ川で水遊びをしていても決して交わらない。作品はこの集落で育った男の子の日記にもとづいている。監督のサダトも子供時代をそのようなアフガニスタン中部山岳地帯のハザラ族の村落で過ごした。

山村にやってくる外の世界といえば、日用雑貨を商う行商人だけ。地面に広げられた商品を女たちが囲む。商品の代価は貨幣ではなく「タマゴ」。たまご1個、2個をめぐって女たちと行商人の物々交換の売り買いの駆け引きが繰り広げられる。

アフガニスタン中央部の山岳地帯のハザラ族の集落の伝統的な村落を貫くストーリーは先祖代々口伝の民話や言い伝え。障害となる目が見えなくなったり足が悪くなったりの疾病も祟りや呪いのせいにされる。狭い集落を支配する「掟」、因習と伝統。迷信。狼は羊を食い荒らす「悪」であるとともに、外の集落からやってくる嫁=女でもある。白蛇の伝説になったり狼の被り物をかぶった「嫁」であったりする。シーンの随所にそのイメージがスポットのようにして挿入される。

土気色の陰鬱な山村の生活が淡々と描かれる。そして終幕。突然外から害悪=狼が羊の集落に襲い掛かる。村を支配する外からの力だ。それは、因習の底に沈む村落を開放する力ではなく、さらに村人たちを支配する別の力。住民は着の身着のまま最低限の家財を担いで逃げるしかない。

<予告編>

 

あこがれの未来社会

一方、「カーブルの孤児院」は、「狼と羊」と同じく少年少女視点の物語だが、舞台は打って変わって都市。しかし時代は同じく1980年代。40年以上昔といっても当時のアフガニスタンは、アフガニスタン人民民主党政権下でソ連軍がバックアップしていて開けていた。米英NATO支配の20年間の変化と比べると、近代建築が増えたことなどを差し引けば、社会システムは先進的だった。その様子を、「カーブルの孤児院」は、孤児院の世界を描くことによって明らかにする。

このことは「映画『カーブルの孤児院』を観て想う」として<視点:16>で書いた

映画の時代設定は1989年から1992年(ソ連軍撤退完了からPDPA政権崩壊まで)のカーブル。映画は、長年にわたって軍事介入していたソ連軍の撤退が迫る1989年。街の映画館はそのときは賑わっていた。主人公に設定されたインド映画が大好きなクドラット少年は学校にも行かずダフ屋をしていた。逮捕され孤児院に入れられる。そこには不良もいるが、理解ある教師がいて、親友もでき、モスクワにも行ける。孤児院は、当時のソ連の支援により、社会主義の理想のイデオロギーである男女平等の進んだ教育を実践する施設として描かれる。

孤児院での日常が、ナレーションなしで淡々と、会話と映像を積み重ねるドキュメンタリータッチの手法で描かれる。少年(一部少女)たちと職員(中年婦人から若い女性教員)たちも登場し、少年たちの性のめざめの描写もあり、リアルだ。一方、主人公の夢のなかの妄想場面では、一転してインド映画特有の歌と踊りのミュージカル場面が登場したり、冒頭の映画館のシーンでは、ブルース・リーのカンフー映画もどきのシーンで迫力を堪能させたり、エンタメ要素で観客を楽しませる。

孤児院の日常では、チェスのコンピュータゲームが出てきたり、モスクワに招待されてキャンプを楽しんだりの楽しく明るい場面があったり、当時の厳しい政治軍事情勢や孤児同士のいじめや孤独による精神異常者病棟や孤児の自殺という深刻な状況もでてくる。しかし、監督が描くのは、「狼と羊」に描かれた固陋な因習に縛られた陰鬱な山村集落ではなく、男女平等と近代的な生活が保障される未来社会の目覚めである。

「カーブルの孤児院」の終幕は、アフガニスタン人民民主党政権が倒されて米英アラブ反動派に支援されたムジャヒディーンが政権を取り、孤児院を接収しに来るシーン。ムジャヒディーンが隊列を組んで孤児院にやってくる場面で、日ごろは対立することもあった舎監の先生が、孤児たちの眼前で銃で撃たれて殺されるや、主人公のクドラット少年は、ブルースリーに変身、素手でムジャヒディーンの一団を蹴散らかす。そこでエンドマークが画面いっぱいに広がる。まさに監督の願望を絵にかいたような作品である。

<予告編>

 

あこがれは実現するのか

「カーブルの孤児院」が製作されたのは2019年。米英のアフガニスタン民主化の試みに敵対してターリバーンが自爆テロをふくむ過酷な武力闘争で米英NATO軍とガニー政権を追い詰めていた時期である。サダト監督はパリに拠点を置く映画製作者協会アトリエ・ヴァランのカーブル・ワークショップでドキュメンタリー映画製作を学び、最初の長編映画『狼と羊』を2016年に完成させている。彼女自身は西側陣営の支援によって誕生した作家だ。その作家が、あこがれの未来の一端を「カーブルの孤児院」に描き込んだと言える。

アフガニスタンの歴史は国としてのまとまりを作り出す営為を縦糸とし近代化にむけた苦闘を横糸とする、アフガニスタン特有の血の色をした分厚い絨毯のように見える。

イギリスとロシアがせめぎ合うグレートゲームのなかで、パシュトゥーン族をバックとする王族が18世紀半ばにまずアフガニスタンの形をつくる。アフガンとはパシュトゥーン族の英語名称である。その後3度のイギリスとの戦争の末、1919年、国王アマヌッラー=ハーンの時代に最終的な独立を果たす。アマヌッラー=ハーンは、1917年のロシア社会主義革命によって成立したソビエト政権を世界に先駆けて承認し、モスクワを訪れレーニンと会見している。それ以来アフガニスタンはソ連の中央アジアの同民族国家(タジキスタン、ウズベクスタン、トルクメニスタン、カザフスタンなど)の発展をみながらソ連にまなび、社会発展をはかる路線と西側との連携を求めるバランス外交による国づくりをしてきた。

そのバランスが決定的にソ連寄りに傾いたのが、1978年の軍事クーデターによる四月革命とアフガニスタン人民民主党(PDPA)政権の誕生である。社会主義の建前が幻想であったことはのちに判明するのだが、このときアフガニスタンはあこがれの未来として社会主義(民族民主主義革命)の理想を掲げた。「額に汗する者の政権」「耕すものに土地を」が2大スローガンだった。初期の急進主義的行き過ぎの過ちで倒壊の危機に瀕したPDPAはソ連軍の支援を要請。パキスタンや西側諸国やアラブ諸国の支援を得たムジャヒディーンとの内戦となった。サダト監督の2つの映画の時代背景はこの80年代である。

その後、ムジャヒディーン政権は内部対立をターリバーンに突かれ敗北。第1次ターリバーン政権の成立、9.11事件の発生、米英NATO軍のアフガニスタン駐留、そのもとでのアフガニスタン民主化努力、そしてその失敗、とつづいた。

この100年以上に及ぶ歴史過程で、アフガニスタンの権力は、王族(ハーンやシャー)⇒部族長軍長(PDPAやムジャヒディーン)⇒イスラム僧(ターリバーン)と変遷してきた。
近代化に力を入れた王様もいれば、PDPAのようにソ連型の近代化を目指す勢力も生まれた。それに対して、村落共同体の伝統や因習や掟が反動として立ち上がり、ムジャヒディーンやターリバーンが立ちふさがった。

そしていま、アフガニスタンは復古主義、原理主義を掲げる過激派ムッラーが支配する国となっている。

この過程と背景は、「パシュトゥーンの指導者争い。ムッラーはいかにしてハーンを出し抜いたか?」で詳しく解明されている。

 

過去が未来を支配することはできない

「狼と羊」が描き出した村落共同体の伝統や因習や掟もターリバーンが体現しているイスラームの復古主義も、過去の産物である。それは早晩消滅するか形を変えざるを得ない運命にある。それができなければ、共同体そのものが消滅するだけだろう。

「カーブルの孤児院」が目指した未来は、はるかなる先、明後日の願望だった。英米NATOが実現しようとした「民主化」でさえ、アフガニスタンの現実から見れば明日の願望だったと言える。

しかし、外部世界からの情報の流入があり、そこに住む人びとが自らの生活の改善を願って努力するかぎり、かならず変化はやってくる。カーブルという都市の願望は村落共同体の昨日と今日の現実の前に一時的にとん挫しただけ、とみることはできないだろうか。

アフガニスタンの変革にとって、外部世界のわれわれの存在の意義は大きい。

【野口壽一】