(2026年8月24日)
フェモナショナリズムとは
~女は女の味方なのか~
毎日新聞の23日の朝のニュースレターで『台頭する極右の女性指導者 パリ在住の研究者語る「偽の解放論」』と題する記事が送られてきた。

4人の女性リーダーの写真をかかげて次のように読者を誘う。
極右・保守派の女性指導者が存在感を高めています。 欧州ではジェンダー平等に否定的な極右政党が女性を前面に打ち出し、一部は女性からの支持を得ています。 なぜでしょうか。フランスの大学院で哲学・社会思想を研究する森野咲さんは「矛盾を理解する鍵はフェモナショナリズムにある」と言います。
森野咲氏は、この毎日新聞のインタビューや集英社新書プラス等の連載において、「男性中心的で伝統的な性別役割を重視する極右政党が、なぜ女性政治家を前面に出し、女性の支持を集めているのか」という一見相反する矛盾を説明する鍵として「フェモナショナリズム」を挙げている。
フェモナショナリズム(Femonationalism)とは、フェミニズム(女性の権利擁護)とナショナリズム(排外主義)を結合させた概念・現象を現わす造語である。イタリア出身の社会学者サラ・R・ファリスが2012年に提唱し、2017年の著書『女性の権利の名の下に ― フェモナショナリズムの台頭』で体系化したと言われ、極右や右派勢力が「ジェンダー平等」や「女性の安全」といった語りを持ち出し、移民やムスリム(イスラーム教徒)を「女性を脅かす存在」として差別・排除する言説を指す。
矛盾のメカニズム
森野氏はつぎの3点をあげる。
①「女性の安全」を口実にした排外主義
本来、極右思想は男性中心主義的であり、女性を「家父長制的な家庭や国を支える存在」として捉える(ターリバーンはその典型例のひとつ)。しかし、「女性の権利や安全」を前面に押し出すのは「非白人・移民男性から国内の女性を守る」という文脈においてのみである。
②過激な思想の「マイルド化」
女性政治家がトップに立ったり運動の顔となったりすることで、極右運動の持つ暴力性や過激さを和らげ、一般市民(特に女性票)に対して「普通で親しみやすい保護者」に見せる役割を果たしている。
③「解放」ではなく「保護」の提示
女性の権利主張(フェミニズム本来の自律的解放)をそのまま受け入れるのではなく、「ナショナルな枠組みの中で女性を守る」という「保護(再生産保護主義)」の言説に置き換えることで、伝統的な性別役割を維持しながら女性からの支持を取り込んでいる。
森野氏は、このように、極右が女性を「守るべき対象」と述べながら移民排除の口実としてフェミニズムを利用する構造こそが、極右と女性の結びつきという矛盾を読み解く鍵であると論じている。
この構造は日本でも
日本で自民党の中でも右派と見なされていた高市氏が総裁に選ばれ、解散総選挙で異例の得票を得た背景に、参政党を筆頭として多くの政党・候補者が在日外国人排斥の論陣を張っている現実がある。
女が女の味方とはかぎらない。
本サイトの読者には自明なことだろうが、ターリバーンが女性の社会参加制限を「差別ではなく、イスラムに基づく女性保護」と説明する構造と、不気味な共通性がある。ターリバーン運動の側には西側「先進国」のような女性リーダーはいないが、ターリバーンを支持する一般女性は存在する。男のターリバーンが女性を抑圧する政策の口実も「女性を保護するため」である。実態はイスラーム教義の歪曲と、既存の中世的遺制である家父長制とが結合したアマルガムにすぎない。
アメリカでは女性が女性の参政権を否定し、1920年に獲得した権利(憲法修正第19条)を廃止せよとの主張まで再登場(20世紀初めに一度存在)してきている(「Repeal the 19th(修正第19条を廃止せよ)」というスローガン)。SNSの時代になってひとつの潮流にまでなっている。この例では「女が女の敵」とすらなっている。
存在が意識を規定するとは限らない。
第1次トランプ政権の成立時、ラストベルトの白人労働者がトランプ氏を支持したことが取りざたされた。「労働者はほんらい革新的で連帯するはず」といった概念が、見事に裏切られた。
「女性は女性の味方のはずだ」「労働者は労働者として団結するはずだ」といった、「存在が意識を規定する」というテーゼが、一見、破綻しているように見える。なぜだろうか?
「存在が意識を規定する」というテーゼが破綻して見えるのは、人間の社会的存在が、性別や階級というひとつの属性だけでは決まらず、しかも存在から意識へ至る過程が直接的・機械的ではないからである。
女性であるから女性の権利を支持する、労働者であるから労働者階級の利益を支持する、という必然的な関係はない。
第1に、人間は複数の社会的属性を同時に持っている。ある人は女性であると同時に、白人、キリスト教徒、富裕層、経営者の妻、保守的地域の住民でもある。女性としての共通利益より、宗教、民族、家庭、階層上の利益を優先することがありうる。米国の保守派女性が女性参政権や中絶の権利を否定するのは、自分を「女性一般」の一員としてではなく、「神に従うキリスト教徒」「夫と一体となった妻」「白人キリスト教文明の担い手」として認識しているからである。
労働者の場合も同じである。労働者は賃金生活者であると同時に、白人、男性、国民、退役軍人、地方住民、キリスト教徒などである。階級的連帯よりも、人種的・民族的優越感や国家への帰属意識を選ぶことがある。
第2に、「客観的利益」と「自覚された利益」は一致しない。賃金、医療、社会保障、労働組合という面では労働者に有利な政策があっても、本人が移民排斥、銃所持、宗教、人工妊娠中絶などを優先すれば、それとは逆の政党に投票する。人間は経済的利益だけで政治的選択をするのではない。尊厳、道徳、所属感、恐怖、誇りもまた、人を動かす。
第3に、支配される側にも「相対的な特権」がある。白人男性労働者は資本家に対しては従属していても、黒人、移民、女性に対しては優位に立つことができる。女性も家父長制に従属しながら、白人、富裕層、自国民として、移民女性や貧困女性より優位に立つことがある。人は自らを抑圧する秩序であっても、その内部で得られる小さな優位を守ろうとする。
第4に、人間は現実の自分ではなく、「将来なりたい自分」に同一化する。貧しい労働者が労働者階級ではなく億万長者に共感し、富裕層への課税に反対することがある。自分もいつか成功者になるという期待や、成功できないのは制度ではなく本人の努力不足だという物語を受け入れるからである。保守派女性も、男性支配の被害者としてではなく、「尊敬され、夫に守られる良き妻」という理想像に自己を重ねる。
第5に、支配は暴力だけでなく、意味の体系を通じて行われる。学校、教会、家庭、企業、マスメディア、SNSは、「何が自然か」「誰が敵か」「何が正義か」を教える。グラムシがいうヘゲモニーである。支配的価値観が常識として内面化されれば、被支配者は支配者の命令に仕方なく従うのではなく、その秩序を自ら正しいと信じ、擁護するようになる。
ここで重要なのは、マルクスのテーゼを「女性なら女性的意識を持つ」「労働者なら階級意識を持つ」という意味に理解すること自体が誤りだということである。
マルクスが述べたのは、個人の意識がその人の単純な属性によって自動的に決定されるということではない。人間の意識は、生産関係、所有制度、家族、宗教、国家、教育、階級闘争などを含む社会的関係の総体のなかで形成される、ということである。「規定する」は、1対1で結果を決めるという意味ではなく、意識が形成される条件と可能性の範囲をつくるという意味に近い。
マルクス自身も、労働者は存在するだけで階級意識を持つとは考えていなかった。『共産党宣言』のなかでも資本家階級のイデオロギーに冒された労働者や「ルンペン労働者」の存在に触れている。共通の境遇に置かれただけの「即自的階級」が、闘争、組織化、教育、経験を通じて、共通利害を自覚する「対自的階級」へ変わらなければならない。つまり、階級的存在から階級意識が自然発生するのではない。
さらに、個人にとっては支配への服従が合理的な場合もある。家父長制社会で、夫に従う女性が宗教共同体から承認され、生活保障と社会的地位を得ているなら、その秩序を否定することには大きな代償が伴う。労働者が組合に加入すれば解雇される社会では、団結しないことが短期的な自己防衛になる。全員が団結すれば利益になるとしても、ひとりだけ行動すれば損をする。これは集合行為の問題である。
したがって、破綻するのは「存在が意識を規定する」という命題ではなく、命題を次のようなステレオタイプ化された機械論に変えた理解である。
・女性という存在 → フェミニズム
・労働者という存在 → 階級的団結
・被抑圧者という存在 → 解放思想
現実の関係は、もっと複雑である。
存在は意識の材料と条件を与える。しかし、その存在がどのような言葉で解釈され、誰との共通性が発見され、何が敵として提示されるかによって、まったく異なる意識が生まれる。
だからこそ、女性の連帯も労働者の団結も、自然に発生するものではない。差異を超える共通利益を言語化し、経験を共有し、組織をつくり、支配的な「常識」に対抗する思想を形成する必要がある。
結論を一言でいえば、
存在は意識を自動的に生み出さない。存在が思想、制度、文化、組織、闘争によって解釈されたとき、初めて政治的意識となる。
階級意識や抑圧された者同士の解放に向けた連帯は、存在から与えられるものではなく、存在を自覚的に読み替える実践によって獲得されるものなのである。
【野口壽一】