好き勝手、やらせてもらった息子の8.15
2026年8月15日
金子 明
しばらく前の夜、行きつけの南行徳の「味館」で、お茶ハイを飲んでいると、カウンターの奥に鎮座するテレビが子供向けの恐竜番組を流していました。それが9時前になると、高校野球に。しかも「生」です。ナイターなのでカクテル光線に照らされかっこいいか、というとそうでもありません。
カメラの性能が上がったせいか、照明がLEDに変わったせいか、店のテレビの設定なのか、全体にしろっぽいのです。まるで白夜の中でやっているみたい。いぶかって帰宅後ググると、近年は熟慮の末、デフォルトで「夜まで試合」とありました。応援団も大変ですね。
甲子園には興味がありませんが、ふと気になるのが終戦記念日のモクトウです。たしかお昼頃やっていたような。今年もやるのでしょうか?そりゃあ、天下の「朝日」だから、やるのでしょうね。
81年前、森松という田舎にすむ小原和子(我が母)は17歳でした。その日「大事な発表がある」とラジオの前に集められたそうです。受信機の性能か、送信塔から離れていたせいか、電波の状態がわるく、中身は「よ〜わからなんだ」といいます。「勝ったんじゃろか、負けたんじゃろか」が拝聴したあとの感想とは、のんきなものです。
ただ、周囲の大人はわかっていました。「負けた」と彼女に伝えます。現人神は厳かな口調をたもち、けっして「やぶれたよ」とは言わなかったので、いまでもこの日は「終戦記念日」なのでしょう。その後、米軍の大男と並んで写真を撮られたり、「人間だもの」と当たり前のことを宣言させられたりして、陛下も大変でしたね。調べると、とうじまだ40代の半ば。その心中を拝察するに国民として深く同情いたします。
いっぽう18歳となった和子の方は、進駐してきた米軍によって髪にDDTを振りかけられ、夏期にわくシラミを駆逐。その秋は、例の戦後の食糧難で、まいにち松茸を食べさせられ「もういらん」となりました。とまれ、「やっぱりアメリカさんが勝ってよかった」というから、若きナデシコが物心ついて初めて味わう平和はさぞや尊かったのでしょう。
そんな我がはは和子より1歳上、同世代の女性に茨木のり子がいます。かなり有名な詩人です。さいきん彼女に「わたしが一番きれいだったとき」という詩があることを知り、それを読む前に、その肖像をググると、確かに数年後の写真でしょうが、「きれい」です。面食いの私の好きな顔、というべきでしょうか。
その美形をながめつつ、10年前に死んだ母のことを考えました。メガネをかけやせた和子(はたち前後)の白黒写真を見たことがあります。ピンとは来ないが母も実は「きれい」だったかも、と今になって思います。
母は生前いっぱいハガキをよこしましたが、細かい字にあきれて、読みもしなかったので、彼女が書いたものは手元に(そして多分この世界に)いっさい残っていません。そこでレベルはだんちですが、せめてもの罪滅ぼしにと、茨木のり子の作品を最近よみふけっています。8.15については、何年もかけて書いたとおぼしき島の木の枝の話(「木の実」1975)が一番好きです。
プロの書く詩には、たぶん結びがいるのでしょう。締め方を思いつかず、ペンを置いてどれくらい悩んだのでしょうか? 文才のあるのり子は、結局、その「思いつかんわ」を吐露して作品に仕上げました。お上手ですね。さて、そんな詩を母が読んだら、どう思ったでしょう?
戦後30年、当時50歳手前の母は辛気くさい南の島の遺骨さがしなどには全く興味がなかったろうし、旅する金も時間も確実になかったので、「ふん」といちべつ読みもしなかった、というのが相場でしょうか。そして、しらみのことはすっかり棚に上げて「あの頃の方がみんな元気で、生き生きしとった」と言い放った母のこと、「どうもいなげなことになってしまった」というのが、その後の繁栄した社会への感想だろうと容易に想像できます。あんなに甘えん坊だったのに、長ずるや決して思い通りにならなかった息子に関する無念も含めて。
さてこの文章の上手ではない「締め」ですが:夢多かるべき青春時代を戦争に奪われ思い通りに生きられなかった両親が、戦後手塩にかけた息子には好き勝手やらせてくれました。その恩は、生きている限り決して忘れません。
![]()