(2026年4月26日)

 「ごっこ遊び」で政治は変わらない? 

~「口舌の徒」が恐れるもの~

 

 口は災いの元か?

「ごっこ遊び」なんて言葉が政治の世界に飛び出してきた。
「ペンライトを振りかざして社会変革なんてできるんかい」というあざけりだ。
CNNがインスタグラムでウェーブする現地の雰囲気を伝えている

「ごっこ遊び」の言葉を発したのは自民党の門寛子(かどひろこ)衆院議員(東京8区)。
ときは4月14日放送のインターネット番組「ABEMA Prime」。
そこである番組出演者が「社会を根本から変えるには暴力が必要だ」という趣旨の主張を展開した。
それに対し門議員は、「暴力が必要だと言いながら、ペンライトを振っているだけでは政権は変わらない」「やった気になっているだけで、厳しいことを言えば『ごっこ遊び』にしか見えない」と切り返した。
この「ごっこ遊び」という言葉が、暴力革命を肯定する人物への反論という文脈を離れ、「デモ活動そのものを軽視している」としてSNS等で大きな批判(炎上)を招いた。
門議員はその後、自身のXで「デモは日本ではもっと気軽にやられるべきで、表現の自由は守るべき」といった趣旨の釈明を行っているそうだ。

 

 敵対者を煽る「口舌の徒」

政治屋は敵対者をつくって自論を守る。
古い話になるが60年安保改定反対闘争の国会前デモをさして「プロ野球の球場には声なき声の国民がいる」と叫んだ首相がいた。
その孫は街頭演説で自分に反対する声に対して「あの人たちには負けません」と指さした。
その孫の弟子を自認する現首相は「国論を二分する政策を行う」と豪語する。
その最大の典型例は、仮想敵国をつくり戦争の危機感を煽り内政の矛盾を糊塗するやり口だ。

政治家に求められるはずの「徳」も「仁」も「信」も「寛」もここにはない。トランプも含めれば「叡」も「智」も感じられない。

 

波紋を広げた理由

元になったのは、4月8日の、高石政権の戦争へののめり込みや憲法改悪に反対する国会前の大規模デモへの反応だ。
主催者発表によれば3万人も集まったこのデモを、NHKはまったく報道しなかった。

日本ではもともと、暴動化でもしないと、政権批判デモや集会は報道されない傾向がある。しかし、国際情勢の不穏化や高市政権の無思慮な振る舞いにたいする怒りは日に日に高まっていた。報道によれば、国会周辺には2月下旬に約4000人、3月中旬は約8000人、同下旬には約2万4000人が集まり、規模は拡大傾向にあった。

当然、ネット上では、デモの呼びかけや報告とともに「ごっこ遊び」発言批判が飛び交っていた。冒頭で紹介したように米CNNは8日のデモを現場から報道していた。だから、日本のオールド・メディアの選択的な姿勢が際立った。

そしてついに、オールドメディア中のオールドメディア『朝日新聞』までが昨日(25日)、コラム「多事奏論」でNHKを批判した。いわく「放送されなかったデモ 議論なきNHKの『自主判断』」。コピーを「延安の娘」「蟻の兵隊」の監督・池谷薫氏のFacebookからシェアさせていただく。

反対デモの動きをオールドメディアが無視できなくなったのは、回ごとに増大する「ペンライト」の光の輪だ。

オールドメディアにあって、真実の報道をもとめて苦労している人びとを否定はしないが、政府や権力に忖度したり、「つづきを読みたきゃ金を出せ」とせまる商業主義言論をありがたがりたくはない。オールドメディアが「オールド」として凋落しているのはそんな「コピーライト」の姿勢であって、時代は「コピーレフト」に向っている。「コピーレフト論」の展開は別の機会に譲るとして、「ペンライト」騒動を巻き起こしたデモの動きをもう少し追ってみよう。

 

 解釈より行動 

現代は、発言がSNSで瞬時に拡散される時代。発言が行動に直結する。
政治屋とは、他人の金で生活する稼業、口先三寸で。大衆を騙したり脅したりして生活している。

一般市民=人民大衆は自分で自分を養わないと生きていけないから普段は政治屋のアホな発言に接しても、しかめっ面したり、舌打ちしたり、無視したりするのが関の山だから、何千人、何万人もが一斉に同じ行動をはじめるというのは、普通のことではない。

国会前で繰り広げられている国会前デモは10代から40代が中心の新しいタイプの市民運動だとオールドメディアからも言われている。

中心になっているのは政党や既存団体に属さない、ゆるい市民ネットワーク「We Want Our Future(WWOF)」。一昔前の「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動:Students Emergency Action for Liberal Democracy -s)」やはるか以前の「ベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)」のような運動だ。この3つの運動を比較すると現代の特徴と歴史変化を垣間見せてとても興味深い。だがそのその研究も別の機会にゆずり、今回はおもにWWOFの特徴をみて、明日、あさってにわれわれはどうすればよいかを考えてみる。

 

結論は「解釈より行動」

デモの特徴をネットでの書き込みや報道などを参考にアトランダムに列挙してみると;

・SNSなどで呼びかけ → オフラインで集結
・司令塔のもとに動くのでなく、下からの自発的な行動
・従来の反戦デモなどより参加者が若い
・テーマは「憲法改悪反対」「軍事拡大/武器輸出 反対」「戦争関与への懸念」「民主主義への危機感」
・現場の特徴は「ペンライト/音楽/コール&レスポンス」「デザインされたプラカード」「SNS映え → 写真・動画多用」

SEALDsは2015年の安保法制反対に集中した運動で学生主体(大学生中心)一方、明確な組織・顔(リーダー)がいた。ベ平連も「ベトナム戦争反対」の安保がらみの単一テーマでここにも明確なリーダーがいた。しかし今回のWWOFは、リーダーやデモの形態などで、前2者と大きな違いがある。ここには、ネットが高度に発達し普及していると現代と、運動の歴史的な敗因を踏まえた進化の反映がみられる。

 

 日常作法に「対話の日常0化」を 

「ペンライトごっこ」と揶揄されている今回のデモ行動は、

・憲法改悪
・軍事拡大
・民主主義
・将来不安

などに発する要求が、スローガン化されより広いテーマの混在として掲げられている。これは従来の「学生中心の運動」から「SNS時代の分散型市民運動」への進化発展、つまり社会変革への芽吹きを予感させる。

この予感を現実のものに変えるには、日常の雑談の中で、現状への違和感や「もっとこうあればいい」といった希望を、ためらわず口にすること、この「対話の日常化」こそが、変革の土壌を耕す最も過激で、最も確実な行動となる。ここに「思想」と「哲学」が必要とされる。

 

「思考の補助線」としての思想と哲学 

変革を語る際、哲学が必要になる。しかしそれはなにも難しいことではない。哲学は、単なる知識ではなく、自分の違和感に「正当な名前」を与えるための道具だ。「個人の自己責任ではなく構造的な問題だ」と確信し、「私憤を公憤に」昇華させてくれる理論があれば、言葉は力を持ち、躊躇は確信した行動へと変わる。

支配的な空気(現状維持)を打破するのは、英雄の一喝ではなく、無数の市民による「別の可能性」への言及だ。職場で、あるいは食卓で変革の必要を語る。それに対し相手が「実は自分もそう思っていた」と応じる。この小さな共鳴の発生こそ、人民大衆が「客体(支配される側)」から「主体(変える側)」へと転換する瞬間。会話はすでに変革の一部なのだ。

しかし、行動なき解釈は、世界を既存の枠組みとして容認することに等しい。ためらいを捨てて語り合う思想を持つことは、われわれの間に横たわる「諦感」を崩す具体的な「行動」だ。「語り得ないこと」を「語り合えること」に変える哲学。それこそが、大衆が自らの足で歩き出すための武器となる。

こんな思想と行動を「気軽なペンライト」運動は示すことができる。

「気軽なペンライト」運動が広まれば、いっときの風向きで得られた政治屋さんの職も一日で吹っ飛ぶことだってある。それが積み重なれば社会変革も可能だ。

検索サイトで「We Want Our Future」と入力したり、SNSサイト(instgramやTikTok)で行動予定を調べて、近くの活動に参加してみたらどうだろうか。

本サイトでは全米で展開されている市民運動=50501運動など、アメリカ市民の反トランプ運動や世界中のガザ・ジェノサイド抗議行動をしばしば伝えてきた。日本でもそれらに連帯する運動があることを示す良い機会になること、間違いない。

【野口壽一】