Thirty Years after Najib: A dossier of reports on thePDPA and its legacy
(WAJ:1996年9月27日、アフガニスタン元大統領ナジブラは、カーブルを制圧したターリバーンによって弟とともに殺害された。その死から30年にあたり、アフガニスタン・アナリスツ・ネットワーク(AAN)は、彼が所属したアフガニスタン人民民主党(PDPA)の歴史と遺産を検討する報告集を編纂した。2018年の報告集を補い、党史、ソ連侵攻、主要人物の生涯、戦争犯罪の責任追及を取り上げている。
1965年に結成されたPDPAは、派閥抗争を経て1978年のクーデターで権力を掌握した。しかし、大量逮捕、拷問、強制失踪、殺害などの弾圧が抵抗を招き、1979年12月にはソ連軍が侵攻した。ソ連はアミーンを殺害してカルマルを擁立し、短期の政権交代作戦は約10年の占領と戦争へ転化した。西側によるムジャーヒディーン支援も加わり、近代化と統治をめぐる国内対立は冷戦に組み込まれた。ソ連撤退後も紛争は続き、国民が最大の犠牲者となった。
報告集は、1990年のナジブラによる祖国党への改組にも触れ、PDPA関係者を多面的に描く。ハザーラ人の平等を求めたケシュトマンド、詩人でもあったラーイェク、生涯を女性の権利にささげたパルリカの追悼記事を通じ、政治的責任と個人の業績が交錯する歴史を示す。
戦争犯罪では、普遍的管轄権に基づくオランダでの捜査・裁判を検討する。プーレ・チャルヒ刑務所元指揮官の有罪判決は、犯罪と武力紛争との関連が認められないとして控訴審で破棄された。AANはその法解釈などの問題を指摘し、国外での責任追及の可能性と、古い犯罪を立証・訴追する困難を明らかにする。
最後に、政治的圧力で公開を取り下げられた『国連マッピング報告書』を紹介する。同報告書は1978~2001年の犯罪を整理し、PDPAだけでなく、ムジャーヒディーン、ターリバーン、ソ連軍、米軍も対象とする。全体を通じ、改革の志向と弾圧、外国介入が絡む歴史を検証し、未解決の責任追及を問い直している。)
アフガニスタン・アナリスツ・ネットワーク(AAN)チーム
2026年9月24日
30年前の1996年9月27日、元大統領ナジブラ博士(ムハンマド・ナジーブッラー・アフマドザイ(Mohammad Najibullah Ahmadzai))は、アフガニスタンの首都カーブルで弟のシャープールとともに殺害された。4年前にムジャーヒディーンが同市を制圧して以来、ナジブラ氏は国連施設内に身を寄せていた。しかし、9月26日にターリバーンがカーブルを占領した。翌朝までに兄弟は捕らえられて殺害され、遺体は近くの交通信号機につるされた。この命日にあたり、われわれはナジブラ氏が所属したアフガニスタン人民民主党(PDPA)に関する新たな報告集を編んだ。同党は1978年のクーデターで権力を掌握した政党である。本報告集に収めた記事は、アフガニスタン史のこの激動期を形づくった人物や出来事を振り返るとともに、評価の分かれるPDPAとその統治の遺産を検討するものである。
本報告集は、2018年に公表した『テーマ別報告集第18集:PDPAとソ連の介入』に続くものである。前回は、1978年のクーデターとその余波、戦争犯罪と抵抗、ソ連の介入、PDPAの後継政党についてのAANの報告をまとめた。今回は、それ以降に公表した関連報告を加え、内容を更新する。
この2つのAAN報告集は、アフガニスタンを根底から変え、そのクーデターが半世紀に及ぶ紛争をもたらした政党の歩みをたどる。前回の報告集では、PDPAが1978年にいかに権力を掌握したか、その後に大量逮捕、拷問、強制失踪、殺害などの弾圧がどのように行われたか、そして同党の政府がどのような抵抗を引き起こしたかを検討した。また、PDPAとソ連との関係も取り上げた。カーブルの政府に対する反乱が拡大するなか、ソ連軍は1979年12月に侵攻し、その後、占領と戦争が10年にわたって続いた。
第2集に収録した報告は、この歴史を改めて検討する。トーマス・ルッティヒがPDPA創設60周年に際して執筆した記事は、1965年の結党と党内の派閥闘争から、クーデター、政権担当期、さらに1990年にナジブラ氏が同党を祖国党(ヘズベ・ワタン)へと改組しようとした試みまで、論争に満ちた党の歴史をたどっている。ソ連侵攻40周年を記念した2本の報告は、それぞれ異なる視点から1979年12月を振り返る。一方は侵攻を冷戦史のより広い文脈に位置づけ、もう一方は、ソ連軍の到来をどう記憶しているか、それによって生活がどう変わったかをアフガニスタンの人々に尋ねている。これらの報告を併せて読むことで、政治権力、近代化、国の進路をめぐる闘争がいかに冷戦と絡み合い、ソ連撤退後も長く続く影響を及ぼしたかが明らかになる。
3本の追悼記事は、党内で重要な地位を占めると同時に、党員としての立場を超えた業績や献身によっても記憶される人物の生涯を通じて、PDPA時代を検討する。スルタン・アリー・ケシュトマンドは有力政治家であり、ハザーラ人の平等の拡大を訴えた人物である。スライマーン・ラーイェクはアフガニスタンで最も高く評価される詩人のひとりであり、ソラヤ・パルリカは生涯を女性の権利擁護にささげた活動家である。
前回の報告集で大きく取り上げた責任追及は、犯罪から数十年を経たいまも課題であり続ける。「戦争犯罪と責任追及」の項に収めた報告は、40年以上前の犯罪に関与したとされるPDPA時代の元当局者に対する、オランダでの捜査と訴追を追っている。そのなかには、戦争犯罪の有罪判決が控訴審で破棄された、プーレ・チャルヒ (Pul-e Charkhi)刑務所の元指揮官の事件も含まれる。AANの分析は、この裁判における論拠にいくつかの問題があることを明らかにした。PDPAの情報機関KhADの役割を誤解していたことや、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)とルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)が示した法解釈を考慮していなかったことなどである。アブドゥル・ラザク・アーリフは、オランダの検察当局が判決に対する上訴を行う前の2025年に死亡した。これらの報告は、容疑者がアフガニスタンを離れた場合に普遍的管轄権が開く可能性と、はるか以前の犯罪を訴追するうえでの法的困難の双方を示している。
PDPAが行った戦争犯罪と人道に対する犯罪は、本報告集の最後に掲げた文書に詳述されている。パトリシア・ゴスマンとバーネット・ルービンが執筆した『国連マッピング報告書』は、反政府勢力であった時期および政権を担当した時期のムジャーヒディーン諸党、第1次ターリバーン首長国、さらにソ連軍(1979~1989年)と米軍(2001年)が行った犯罪も扱っている。
PDPAとソ連の侵攻
改革と弾圧のはざまで――PDPA創設60周年
トーマス・ルッティヒ/2025年1月20日
左翼政党アフガニスタン人民民主党(PDPA)は、1978年のクーデターによって国の進路を後戻りできない形で変え、長期にわたる影響をもたらす一連の出来事の引き金を引いた。それ以前にソ連が同党にどこまで影響力を及ぼしていたのか、またモスクワが同党の政権獲得をどこまで望んでいたのかをめぐる議論は、今日まで続いている。
しかし明らかなのは、PDPAによる権力掌握と、それに続く1979年12月のソ連の軍事介入が、アフガニスタンの政治情勢だけでなく、一般のアフガニスタン人の生活にも地殻変動ともいうべき変化を引き起こしたことである。同党に抵抗するムジャーヒディーンへの西側の支援と相まって、PDPAは近代化と統治をめぐるアフガニスタン国内の対立を国際化した。その紛争は40年にわたり続き、冷戦という文脈における最後の「熱い戦争」となった。
AANのトーマス・ルッティヒが、過去のAAN報告を参照するとともに、あまり知られていない資料から得られた詳細を加えながら、同党の歴史を検討する。
「私たちの生活は変わった」――ソ連軍の到来を振り返るアフガニスタンの人々
AANチーム、S・レザ・カゼミ/2019年12月27日
40年前、ソ連軍はアフガニスタンに進入し、1979年12月27日、政権を握っていた共産主義政党アフガニスタン人民民主党(PDPA)のハルク派に属する当時の大統領ハフィズッラー・アミーンを殺害し、対立するパルチャム派のバブラク・カルマルを権力の座に就けた。
この行動は、比較的短期間の政権交代作戦となるはずだった。しかし、たちまち本格的な占領へと変わり、丸10年という長期に及んだ。そして、この国を複雑で破壊的な武力紛争へと引きずり込んだ。アフガニスタンは、いまだにその紛争から抜け出せていない。
AANは、さまざまな人々に当時の記憶を尋ね、ソ連の侵攻がどのような影響を及ぼし、その生活をどう変えたかについて話を聞いた。取材はAANチーム、取りまとめはレザ・カゼミが担当した。
世界史の転換点――40年前、ソ連はアフガニスタンに侵攻した
トーマス・ルッティヒ/2019年12月25日
いまから40年前の今日、1979年12月25日、ソ連軍はアフガニスタンに侵攻した。2日後の12月27日、ソ連軍はアミーンのハルク派政権を打倒し、アミーンを殺害した。この政権はソ連軍の派遣を要請しており、同軍は自分たちを救援するために来たのだと考えていた。
その結果として生じた10年以上に及ぶ占領は、当時の世界的な冷戦のなかで、ソ連が「熱い」戦争に直接関与した最後の事例となった。比較的短期間で限定的な政権交代作戦となるはずだったものが、結局は歴史を変えることになったのである。
この戦争は、ソ連そのものと東欧におけるその支配の崩壊、そして当時「歴史の終わり」と呼ばれたものへと至る、より大きな一連の出来事の一部となった。すなわち、冷戦の終結と自由民主主義の最終的勝利である。ただし、これはもはや成り立たなくなった幻想である。
アフガニスタンでは、ソ連の撤退によって武力紛争が終わることはなく、アフガニスタンの人々がこの戦争の最大の犠牲者となった。AANのトーマス・ルッティヒが、出来事の展開と、それらが位置づけられる歴史を振り返る。
生涯と遺産
スルタン・アリー・ケシュトマンド(1935~2026年)追悼――ソ連時代のアフガニスタン政治指導者、ハザーラ人の権利擁護者
トーマス・ルッティヒ/2026年3月21日
ソ連が支援したアフガニスタン人民民主党(PDPA)政権の時代の政治家で、スルタン・アリー・ケシュトマンドほど、テクノクラートとしての能力と、民族間の不平等をなくすという明確な志向を兼ね備えていた人物は少ない。
つつましいハザーラ人家庭に生まれた彼は、投獄、PDPA内部の粛清、ソ連の戦略転換をくぐり抜けて党の最高幹部へと上り詰め、この国で最も激動の時期のひとつであった10年間に、2度にわたって政府の長を務めた。
ある人々にとって、彼は機会の拡大と政治参加の可能性を象徴する存在であった。しかし批判者にとっては、ソ連が支援したPDPAの統治全体の記録と切り離せない人物であり、その失政と行き過ぎに加担した忠実な党官僚であり続ける。
AANのトーマス・ルッティヒが、ロフッラー・ソルーシュの協力を得て、民族政治、国家建設、冷戦の交点に位置するケシュトマンドの遺産と、アフガニスタンの政治的記憶のなかで評価が分かれるその位置を検討する。
AAN追悼記事――PDPA指導者にして詩人、スライマーン・ラーイェク
トーマス・ルッティヒ/2020年8月19日
1978年のクーデターでアフガニスタンの歴史を変えた左翼政党、アフガニスタン人民民主党(PDPA)の創設メンバーのうち、最後まで存命だった数少ないひとり、スライマーン・ラーイェクが7月末に死去した。1992年には、党の最末期ではあったものの、党の最高指導者にまでなった。
その死に至る事情は悲劇的であり、同時にアフガニスタンの状況を象徴していた。90歳のラーイェクは、2019年9月にカーブルで起きた自爆テロで負った傷がもとで亡くなったのである。
AAN共同代表のトーマス・ルッティヒが、高く評価された詩人としての人生と、評価の分かれる政治家としての人生という、彼の生涯の2つの側面を振り返る。
AAN追悼記事――揺るぎなく女性の権利のために闘ったソラヤ・パルリカ(1944~2019年)
トーマス・ルッティヒ/2020年1月15日
政治活動家であり、女性の権利擁護活動家でもあったソラヤ・パルリカが、75歳で死去した。
パルリカのドキュメンタリー映画を制作したアフガン・フィルム機構代表のサフラー・カリミは、彼女について次のように述べた。「アフガニスタンの女性たちの暮らしのために生涯をささげ、内戦とターリバーン政権の苦難の時代にも、決して祖国を離れなかった」。
この姿勢によって、彼女は、アフガニスタン人民民主党(PDPA)の指導的メンバーであったことを理由に彼女に反対していた多くの人々からさえ、敬意を得た。
AANのトーマス・ルッティヒが、その生涯を振り返る。
戦争犯罪と責任追及
1980年代のプーレ・チャルヒ刑務所指揮官が釈放――オランダ控訴裁判所が戦争犯罪の有罪判決を破棄
ケイト・クラーク/2024年8月19日
1980年代に悪名高いプーレ・チャルヒ刑務所を監督する高位の地位にあり、庇護を認められていたオランダで戦争犯罪の有罪判決を受けた人物について、控訴裁判所がその判決を破棄した。
弁護団は、アブドゥル・ラザク・アーリフによる犯罪、すなわち恣意的な自由の剝奪、残虐かつ非人道的な待遇、個人の尊厳に対する侵害は、当時の政府とムジャーヒディーンとの武力紛争に関連しておらず、したがって戦争犯罪とは見なせないため、この訴追は認められないと主張し、裁判所はこれを認めた。
検察当局は現在、控訴審判決の審査をオランダ最高裁判所に求めている。
上級分析官ケイト・クラークは、AANの他の同僚とともに、この事件と類似の事件を長年にわたり追ってきた。本稿では、今後、最高裁判所が検討する可能性のある控訴審判決の内容と法的論点を掘り下げる。
オランダで戦争犯罪裁判が開廷――プーレ・チャルヒ刑務所の元指揮官が法の裁きを受ける
ケイト・クラーク/2022年2月16日
1980年代にアフガニスタンで戦争犯罪を行った疑いのあるアフガニスタン人男性の裁判が、今日、オランダで始まる。
アブドゥル・ラザク・アーリフは、1983年から1990年までプーレ・チャルヒ刑務所で幹部職を務めたとされ、非人道的な待遇と自由の剝奪を幇助、または容認した罪に問われている。
2012年にアフガニスタン系オランダ人から寄せられた情報を端緒として7年間の捜査が行われ、アーリフは2019年11月にオランダで逮捕された。
AANのケイト・クラークが報告するように、この裁判は、戦争犯罪に問われたアフガニスタン人が法廷に立つ、まれな事例である。
オランダにおけるアフガニスタン戦争犯罪裁判――容疑者は誰か、どのような結果となったか
エフサン・カーネ/2020年3月25日
オランダ当局は、アフガニスタンで行われた戦争犯罪と拷問に関して、少なくとも6人のアフガニスタン人またはアフガニスタン系オランダ人を捜査してきた。
2人は有罪となり拘禁刑を言い渡され、1人は無罪となり、1人は捜査中に死亡した。別の1人は捜査を受けたが証拠不十分で釈放され、6人目は現在も捜査中である。
全員が、1978年から1992年までアフガニスタンを統治したアフガニスタン人民民主党(PDPA)に所属する軍当局者だった。
裁判は普遍的管轄権の原則に基づいて行われた。この原則によれば、最も重大な犯罪については、それが他国で行われたとされる場合であっても、各国の国内裁判所が裁くことができる。
AANのエフサン・カーネが、トーマス・ルッティヒとレイチェル・リードの協力を得て、この6人の身元、かけられた容疑、PDPA時代の背景を詳しく説明するとともに、これらの裁判が被害者にとって持つ意義を分析する。
国連マッピング報告書
2024年8月15日
2004年、1978年から2001年までにアフガニスタンで行われた戦争犯罪と人権侵害を体系的に整理した重要な報告書が、国連によって公表された。しかし、当時のハーミド・カルザイ大統領、一部の閣僚、国外の支援者、そして国連内部から加えられたとされる政治的圧力によって、ほどなく公開が取り下げられた。
パトリシア・ゴスマンとバーネット・ルービンが執筆し、のちに『国連マッピング報告書』として知られるようになったこの文書は、その後、あるウェブサイトで一般公開された。しかし現在、そのリンクが切れているため、AANはこの重要な報告書をここに掲載する。
編纂: ヌール・ハーン・ヒンマト、ケイト・クラーク
編集: ロクサンナ・シャプール
著者: AANチーム
※本稿は、関連する報告の紹介文をまとめた記事である。上記は添付PDFに収録された記事本文の全訳であり、紹介されている各報告の全文は含まない。